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鎌倉ウォーキング

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鎌倉の史跡や山を歩きながら、地誌を紐解き、自然と人為のマッチングをスケッチいたします。なお、筆者は小学校から高校まで鎌倉でお世話になりました。
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御成山の洋館

今年の秋薔薇は如何だったのでしょうか?鎌倉の薔薇と云えば文学館の前庭と華頂の宮邸庭の薔薇が有名です。
明治22年横須賀線が開通すると鎌倉は東京の別荘として脚光を浴びて当時の資産家が続々と進出して来ました。
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鎌倉文学館は前田候の別荘でした。同じようなロケーションに大谷家別荘(美術館として地域貢献しておいででしたが5年ほど前に閉館されました。大谷家別荘は御成り山の南端由比ヶ浜の眺望が開けたロケーションにあります。

明治23年には加賀藩主だった前田家が由比ヶ浜を見晴らす丘の中腹に聴涛山荘を建立しました(現在の鎌倉文学館)。華頂宮邸はずっと遅れて昭和3年ですから此方は昭和モダニズム建築を代表する建物です(国の登録有形文化財。
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鎌倉浄明寺の衣笠山の山懐にある華頂宮邸次の公開予定は来年年4月9日(土曜日)、10日(日曜日)だそうです。
今日案内する古我邸は華頂宮邸と同じ昭和モダニズム建築に属します。
今小路通り(御成通り)を歩いていると新しい看板が目につきました。珈琲「古我邸」と案内されています。
古我邸は気になっていたので何度もこのブログにかいて来ました。
源氏山の中腹に山小屋風の洋館が聳えているのです。アソコからは由比ヶ浜も見渡せるし前田邸にも勝る大谷邸にも匹敵する眺望の筈です。早速路地に入って古我邸に向かいます。道路面には大きな字で「私道」と書かれています。何しろこの辺りは鎌倉駅徒歩圏の閑静な住宅地です。古我邸が今まで開発されずに放置されてきたのも奇跡ですから何やら複雑な地権者の争いがあるのでしょう。
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これが御成町にある古我邸以前に比べてコロニアルの板張りが黒くなっていました(以前はこげ茶色でしたが)鎌倉三大洋館は何れも別荘で谷戸の中か山の中腹にあります。そして近代日本の初頭を飾る疑似洋風(和洋折衷)建築でした。

門壁にはランチもディナーも予約満席ですが珈琲(300円)は予約も不要なようです。私達は今しがた珈琲を戴いたばかりでしたが・・・、入ってみる事にしました。何時もの様に杖を突いてヨレヨレで坂を上って行くと建物からコンシェルジュが下りて来ました。
「ご予約は?」訊かれました。
「ありません」答えると
「この坂から上は御予約の方しか上れません」と敷地内に深入りする事を拒否されました。
古我さんがどんな方かは知りませんが不快感が残りました。こんな人では珈琲も苦いばかりでワインも酢入って居る事でしょう。私は「珈琲戴けますか?」用意していた言葉を喉に詰まらせて踵を返しました。
その二日後矢代亜紀さんが鎌倉散歩でこのお店を訪れ櫓に貯蔵したスパークリングワインを飲まれておいででした。既に年内は予約で満席と悦に入っておいででしたが・・・・・、何時まで開店人気が続くのか懸念されます。
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芙蓉や水引の花に誘われて坂を上って行くと、私達を目ざとく見つけたコンシェルジュに此処から追い返されてしまいました。

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我邸入口に在る指月庵は三菱の岩崎邸でした。そこの辺りのお屋敷は次々に再開発され小さく分譲されています。脚の便も良いし閑静な文教地区ですから人気も高いのです。
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これは御成町のお屋敷をミニ開発した物件。お金持ちは物件を維持する事も大変なのでしょう。このように物件を手放して戸建分譲する事が増えているようです、大谷家の様に(財)美術館に移したりこの近くの横山氏(漫画家)のように喫茶店(フタバ)に運用するなど知恵を絞らねばならないようです。
私達はこの後御成り小学校を経て図書館に行きました。偶然に図書館ロビーでは古我邸を鎌倉三大洋館の一つとして案内して居ました。
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鎌倉図書館ロビーでは古我邸ジオラマを置いてその説明をしていました

説明の要点は以下の通りで大凡私の疑問に答えてくれていました。
①古我邸の最初の所有者は三菱合資会社の専務理事「荘清次郎」氏で同社の技師「魏志桜井小太郎」に設計させたのでした。
桜井は大正12年に旧丸ビルを設計し翌13年には三菱銀行旧本店を設計した日本人トップの設計士でした。その忙しい盛りの大正14年に三菱の大番頭の鎌倉別荘を作ったのでした。
その後昭和14年どんな事情があったのか古我氏に売却し。
古我氏は一時浜口雄幸氏や近衛文麿氏に賃貸していたそうです。私が勤めた長銀は浜口巖根(雄幸氏の次男)が初代頭取でしたので。同氏もこの洋館で夏休みを過ごされたのでしょう。
建物の中央と左右に在る大きな張り出し窓が特徴で、西洋風の前庭と一体となって、英国にでも来たような雰囲気がありた。向かって右側にはハーフティンバーの妻面があり、左側は2階まで続く半六角形の出窓で左右が非対称で斬新な印象です。屋根は天然スレート葺きの木造2階建てで外壁は板張りのコロニアルです。この辺は御成小学校の講堂と同じです。
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         張り出し窓のある部屋の内部窓からは由比ヶ浜が眺められるようです。出典古我邸ホームページを借用)
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古我邸の玄関出典は前写真と同じ
鎌倉散策から家に戻ってパソコンを叩いてみて驚きました。
インターネットでは楽天トラベル始め大手が50%オフで販売しているのですhttp://www.pw-price.com/?kwd=%E9%8E%8C%E5%80%89+%E5%8F%A4+%E6%88%91+%E9%82%B8&minPrice=&maxPrice=。
という事は年内予約満杯というのは個人ではなくて大手トラベル会社が買い取ったという事でしょう。ランチ3000円ディナー7000円からと云ってもお客さんは半額券で入っているようですし。ネットで確認する限り味もサービスもイマイチのようです。
鎌倉の二階堂で住民の大反対を押し切って三菱地所はマンションを開発しました。次は御成町で開発しよう古我邸を舌舐めずりしてみているのかも知れません。
因みに図書館で訊いて見ました。
古我邸を文化財に指定する予定は在るのですか?」
図書館職員は調べてお答えになりました
「当面そんな予定は在りません」
鎌倉市は文化財に指定する事に臆病になっているのです。
一度文化財に指定すると所有者の開発、利用計画を束縛してしまいます。
数年前鎌倉山の山椒堂が壊され、ミノモンタさんの屋敷になりました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/26198102.html)同物件も鎌倉市の指定文化財でありましたので、保存運動が燃え盛りました。
羹に懲りて安易に文化財に指定しないのでしょう。
人も自治体も貧したくないものです。

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舟木和夫さんは高校三年生で「赤い夕陽が校舎を包み楡の木陰に弾む声」と歌いました。学校に楡の木はピッタリです。
5年ほど前私は日文研の仲間と山形東根を旅行しました。東根小学校の校庭に在る日本一の大欅を観に行きました。欅は楡科の樹木で建材の名前です。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44247292.html
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これが山形県東根小学校にある大欅、子の大木は樹木番付東の正横綱にランクされています。
校庭では子供達が運動会を控えて練習に励んでいました。校庭の対角には相撲の土俵が在りました。
流石に大樹番付東の横綱の大樹です二本のお股の間から向こうが見えるのも愛嬌で樹勢益々盛んな風でありました。
子供達は「掌を太陽に」欅は梢を青空に広げているようでした。欅と子供達は共助の関係ですからこの環境なら欅は更に成長し続ける事でしょう。
先日の東戸塚小学校の評議員会で子供達の体育能力が向上しているとの報告がありました。子供の体力下降トレンドが逆転した事は好ましい事で多分朝食を取る子が増えたのが要因であろう、解説も為されました。
十分な朝食は体力も知力も向上させるようです。
私は評議員会で校庭を芝生にしたのも良かったがお相撲の土俵も描いてあげたらどうでしょうか?提案したのでしたが無視されてしまいました。
私は農業もさせられていたので足腰が強く相撲は代の得意でした。御成小学校ではクラス対抗相撲が盛んでわたしはクラスメートの視線を浴びながらにクラス代表で出て居ました。
御成小学校も運動会の練習に励んでいました。
徒競争は図書館前からスタートして欅の横がゴールです。
生徒は欅の木を目標に走って欅に迎えて貰います。ゴールすれば心臓が大きく鼓動しています。欅の幹に耳を当てれば欅の鼓動も聞こえます。ルネッサンス絵画では楡の樹下に女神とそのベビーが遊んでいます。
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藤代清次さんは楡の木を素材に影絵を製作されました。子供と楡は共生しているイメージなのです。同氏のアトリエのあった馬込の「珈琲楡の木http://speedm2998.exblog.jp/22406579/」は藤代清次さんのアトリエ居間の様な空間のようです。

私のクラス担任だった石井先生は生物に関心がおありで度々御成山に登って尾根伝いに源氏山から長谷大仏裏まで連れて行って下さいました。私の情操も観察眼も石井先生が鍛えて下さりました。
私とワイフが校庭で山を眺めて居ると声を掛けられました。
〝私は昭和28年の卒業生で楡の木を眺めたくてやって来ました”
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図書館前から御成り小学校校庭を観る。正面の建物が鎌倉市役所。市役所の背に在る山が源氏山その手前が御成り山尾根を左に(西)に歩けば大仏裏に出られます。今日の話題は源氏山の下に見える大欅です。
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今日の話題の大欅右の建物が鎌倉市役所幹上3m程の位置で大きな枝が伐り落されて断面が露出しています。欅の周囲には根を保護するために柵をして在りますがこれでは不十分で土を耕して木を保護する下草を植える必要があります。
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御成り小学校の玄関長押の上に架った校章は天皇家から下賜された経緯を示す五三の桐です。玄関横には青桐が植わっていてもう実をつけて居ました。
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玄関横の掲示板に張られた作品御成り山と欅の木に対する生徒さんの優しさが出ていていい作品でした。木の子は茸だけでは無くて
子供も木の子のようです。

挨拶します。校門には「校内に入るには許可を求めてください」案内が為されていたのでしたが、私は黙って入ってしまったのでした。
楡の木も昨今勢いが衰えて枝が折れたりしているんです。そこで3本ほど大きな枝を切り落としました。
見れば確かに太い枝が伐られています。傷跡は放置されています、傷跡から雑菌が入って腐らないか心配です。
東根小学校の欅は根回りを保護していますが御成小学校は根の周りは踏み固められています。欅の根が呼吸できないで居るのが元気がない原因でしょう。石井先生が居られたならば枝を伐ると同時に根回りの保護をされた事でしょう。根回り保護のチャンスは何度もありました。一つが御成中学校を移転させ跡地に鎌倉市役所を移転させた時です。欅の根周りを保護するチャンスでした。もう一つは昭和35年頃この校庭の地下から中世の屋敷跡が発掘された時です(今小路西遺)跡。その発掘跡を埋め戻す時がチャンスでした。
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御成小学校校庭発掘風景(今小路西遺):出典は鎌倉市https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/t_aug.html
校門の南には講堂が遺風を留めています。見上げれば破風は腐ってしまって既にレースの様です。大風が吹いたら欅の倒壊も心配ですが講堂の方がもっと心配です。
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これが御成小学校講堂小生もこの講堂で卒業式をして貰いました。寺院建築と近代的なコロニアル建築が合体した。昭和モダニズム建築で保護の運動が為されているのですが鎌倉市は貧乏所帯で荒れるに任せられています。貧乏老後を思わせる惨めな姿です。空気を入れ替え光を取り込む棟の上の櫓も破風も腐って来ています。保存問題は次のブログに詳しいく書かれています。http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/cat_112701.html
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講堂の破風も腐ってレースの様な状態です。鎌倉市民には愛着は在っても貧乏で如何とも為し難いのです。
お世話になった講堂も既にヨレヨレですし欅も寄る年波に打ち克てそうには見えません。私も左半身が麻痺した状態です。欅に講堂に見送られて御成小学校を後にしました。
背後から声を掛けられたような気がしました。
”でも。お前は未だ良いじゃないか奥さんと孫子に囲まれているじゃないか!”
半世紀ぶりに欅にエールを貰った気がしました。

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曼珠沙華は血の涙

彼岸の中日友人のI君の鎌倉彫の作品が展示されているので鎌倉芸術館に行った事は先日ブログアップしました。(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48929277.html)日文研の同期性が久々に9人も集まりました。前回は2年前A女が毎日新聞社の主催する書道展で入賞した時に上野の美術館に集まりました丁度不忍池に蓮が咲き出す季節でした。その前は4年も前で梅の咲き出す季節でした、東慶寺に集まって、浄明寺で昼食をとったのでした。その時笑顔を見せていたМ君はその翌年の冬に大分杵築の温泉で脳溢血で帰らぬ人になってしまわれました。
そんな訳でこれからは何時会ってもその機会が今生のお別れになるとも限りません、友人に会う機会を大切にして毎日を送ろうと思いました。I君の提案もあって昼食後鎌倉芸術館に近い常楽寺(元建長寺」に登りました。道すがらH君もその奥様もМ君も皆俳句の話題で盛り上がっていました。I君は先ず季語を探せば5字が埋まるので残りの10字を並べれば出来上がりなので、”季語を探すのが大事だ”言っているようです。H君が”穴惑い”をしっているか?言います。
奥さんが穴惑いとは『秋の彼岸を過ぎても,冬眠のための穴にこもら ないでいる蛇』を言うのよ。 説明されます。
私は我が庭に棲みついている巨大な青大将の事を想いうかべました。今日は暖かいのでテラスの上で日光浴をしているかもしれません。臆病なチコ(愛犬)は怯えていそうです。
私は毎日ワイフに導かれて無事にリハビリしています。穴惑いする蛇の気持ちが良く解ります。
これからは寒いので地中に隠れなくてはなりません。それは解っていても少ない時間でも「ひなたぼっこ」をして居たいものです。
恐妻に導かれて日々好日なり穴惑い
70歳の俺がそんなにモテるはずがない穴惑い(筆者川柳)
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のんびり道路で穴惑いしていると轢かれてしまいます。(慶応大学藤沢キャンバス前道路で)
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沼田川場村の吉祥寺の観音石仏の肩で暖を取る蜥蜴、穴に入る前が”穴惑い”なら穴から出てきた蛇は”穴歓喜”でしょうか?

М君はそんな話題を聴いていたのかどうか?苦吟の最中のような表情でしたが一昨日メールで俳句を送って来てくれまあした。私がアルバムを作るので、その際に使って呉れれば幸いだ!そんな積もりでしょう。こんな句も在ったのですから。
「穴惑い六十路の恋や街の灯や」(М)
М君自身は句作に夢中でも私達の声は聞こえていたのでしょう。
六十路の恋とは何のことなのか厳しく訊いて見ないといけないようです。
「青春の恋セピアに色あせて穴惑い」なら特段問題は無いのですが・・・・・。もう不惑も過ぎて四半世紀経っています。。
「いつの日か仏の門へ萩散華」(М)
この句は鎌倉芸術館からバス通りを十五分も歩いて常楽寺の山門通りに入って直ぐ白萩の花がもう散り始めていたのでその花を吟じたのでしょう。
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バス通りから常楽寺の参道に折れた角に白萩が咲いて居ました。道路は真っ白に散華して居ました。向こうの茅葺屋根が常楽寺(元建長寺)山門です。
М君の作品には次もありました。
大姫や狂いて木槿咲き乱る」
М君は木槿(ムクゲ)の花を吟じて居ました。でも私は菫(スミレ)と解釈しました。大姫とは頼朝と政子の間に出来た姫の事です。
常楽寺の裏山の山中に二基の五輪塔が在ります、一基は「木曽塚」と呼ばれ木曽義仲 の長男・木曽義高の墓と伝えられます。
1183年(寿永2年 )3月、源頼朝と木曽義仲の武力衝突しましたが、義仲が子義高を鎌倉に人質として差し出す ことで和議が成立します。義高は、頼朝の娘大姫の許嫁という名目で鎌倉に送られますが二人は政略結婚と云えども真実愛し合います。
1184年(寿永3年)正月20日、義経らが木曽義仲を討ち取ると、頼朝は義高を誅殺するよう命を下します。これを知った大姫は、義高に女装させて逃がします。しかしすぐに事が露見し義高は捕縛され処刑されて果てます。(1184年(寿永3年)4月26日)。その義高の墓が常楽寺の裏山に祀られているのです。もう一基は泰時の 娘の墓と案内されていますが大姫の墓であるという説もあります。
М君はこの故事を吟じたものと思います。木槿(ムクゲ)を吟じています。確かに参道にも境内にも未だ木槿は咲いて居ましたが一番に目に着いたのは夏菫(なつすみれ)でした。
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常楽寺阿弥陀堂の参道石畳の縁は夏菫の花(トレニア)が縁取りしていました。筆者はМ君の句を夏の残りの木槿よりも今が盛んな夏菫と解釈しました。
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常楽寺の墓地竹藪の中でも逞しく咲いた彼岸花(曼珠沙華とも呼びます)
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左のドデンと重量感のある五輪塔が3代執権北条泰時の墓この奥の崖の中腹に木曾殿の墓が祀られています。


夏菫は味わい深く敷かれた石畳の縁に群れ咲いていました。恰も本堂の阿弥陀様の前に導くようでありました。阿弥陀堂と義高の墓の間に大姫の墓も祀られていてその周囲は彼岸花が咲いて居る筈です。
М君がこんなに吟じてくれたのなら木曽義高の墓まで登れば良かったのでしたが、其処まで思いつきませんでした。М君の事ですから夏菫ではなく曼珠沙華を吟じた事でしょう。私には曼珠沙華の雄蕊が簪の様に吹き出た姿は父親の薄情を怨み嘆いた大姫のまつ毛の様に見えるのです。М君の力量ならどんな風に吟じるか楽しみです。山口百恵さんが歌った曼珠沙華の様に吟じたかもしれません。長崎物語は「ジャがタラお春の悲愛の歌で女の怨念を赤い花なら曼珠沙華・・・・」と謡ったものでした。女の怨みは怖いもので血の涙は曼珠沙華にピッタリです。阿木耀子さんは流石に女を表現するのに長けておいでで曼珠沙華を素材に少女の百恵さんに歌わせたのでした。
曼珠沙華 姫の怨みか 血の涙
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曼珠沙華は路傍で咲いて居ます。このお地蔵様は旅路で衰弱死して投げ捨てられた霊を弔っているのでしょうか。手前は野萩です。
撮影寿福寺近くの墓地


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11月23日親友のI君が通っている鎌倉彫の刀華会の展示会を観に「鎌倉芸術館」に出かけました。I君の何処に才能があったのか学生時代も社会人になった頃も気づきませんでしたが、30代になって水墨画を始め40代になって鎌倉彫も始めたのでした。最近は鎌倉彫を中心に創作心を磨いているようで。同期の仲間9人でお祝い激励に集まりました。一昨年は矢張り同期のAさんが毎日書道展で受賞したので六本木に集まりましたし、毎年秋に作品発表する者が居れば「秋に同期会を開催する」が習慣になりそうです。
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I君の通っている教室は岩戸渓山先生ので刀華会は鎌倉彫の数ある教室の合同展になっていました。各教室がテーマをもって競っておいでですので、現在の鎌倉彫の動向を把握するに格好な展示会でありました。
I君の通っている岩戸教室は総じていえばモダンで洗練されていました。テーマは「繋ぐ」で生徒さんが正倉院模様風の意匠を刻んで波紋のように展示しておいででした。私は仏像の翻波式衣文を想いだしました。I君は個人で筆入れを出展して居ました。蓋には衣文ならぬ波が刻まれていましたが、モダンを感じさせました。「漣模様」は古代人に始まり現代人に通じる永遠のテーマのようです。私達は災害に遭遇する度に「絆」の大切さを痛感してきていますが、絆は漣を観て知る個人では極端に弱い人間の知恵を教える現象なのでしょう。
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翻波式衣文古代衣文を線刻しようとして男波と女波を交互に水文のように刻んだのでした。筆者はかって次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?fr=top_ga1_sa&p=%E7%BF%BB%E6%B3%A2%E5%BC%8F%E8%A1%A3%E6%96%87&ei=UTF-8&xargs=2&b=21写真は會津の勝常寺の薬師如来。

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これは岩手の天台寺観音像この衣文の意匠を翻波式とは呼びませんが(鉈彫り)鎌倉彫に繋がる漣の表現であると思います。
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漣の共感を福田平八郎画伯は日本画に表現されました。漣も大きくなれば高潮や津波になってしまいます

私の生家は鎌倉郡豊田村の盛徳寺でしたから鎌倉彫には馴染みが深くありました。
寺の仏具にも茶器にも鎌倉彫はふんだんに使われてていました。御成小学校のクラスメートには鎌倉彫職人の子も居ました。私は度々「友達(職人)家の子なら良いなあ」思ったものでした。好きな図工の仕事を一生出来る事が羨ましかったのでした。
友人Y君の家は小学校の門前を入った路地の奥の仕舞屋でした。私は学校帰りにY君の家に遊んでお父様のお仕事を見詰めて居ました。
私の姉も鎌倉彫を趣味にしていました。作品を私にくれたのでしたが。”作品は素材費(桂の板材)と塗り代で買った方がお安いのよ”言われたものでした。鎌倉彫の茶托は我が家の茶箪笥の奥深くに終われたままです。
仏具の鎌倉彫をお掃除するには手間がかかりました。
そして何よりも思い出すのが「浅子教授の鎌倉彫と後藤家」の講義でした。
浅子教授の授業は運慶に始まりました。運慶一門が鎌倉に下って仏像の製作に心血を注いでその後、鎌倉幕府は宋国から禅宗を招来し、鎌倉五山が創建されると運慶の仏像の技は禅宗建築の装飾彫刻に引き継がれます。近世に入ると五山の装飾彫刻は茶の湯のお道具に引き継がれ、江戸時代には民具を飾る彫刻になります。流石に明治維新の廃仏毀釈の時代には鎌倉彫は廃れますが。横須賀線が開通し鎌倉が東京に近く文化人が多く移り住んでくると鎌倉彫復活の環境が揃ってきました。丁度京都で清水焼や楽焼が復活したように鎌倉彫は鎌倉文化人の手で復活を遂げ現在があるのです・・・」そんな歴史を紐解く講義でした。運慶に始まる鎌倉の伝統が紆余曲折を経て後藤家を中核にに脈々と引き継がれている講義は心に響くものがありました。
私の同期の仲間がどれほど浅子教授の講義を傾聴していたかは測りかねますが皆熱心に作品を見ておりました。
鎌倉芸術館前のイタリアンレストランで会食して芸術館の南に佇む常楽寺に登りました。常楽寺は蘭渓道隆が建長寺に入る前に草鞋を抜いたお寺ですので元建長寺の名で親しまれている古刹です。お彼岸の中日とい言っても既に墓参客の姿はなく静まり返っていました柿の実がたわわになって小鳥やリスが木に群れ寄って来ています。お寺も柿の実は野生の食べ放題にしているようです。27日は十五夜ですし。10月5日は御十夜の入りですから生物に布施する季節なのです。
境内には無数の穴が開いています。穴は地中から蝉の幼虫が這いだした跡です。穴を見つけたH君は「 穴惑い」を言いだします。
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常楽寺阿弥陀堂の三和土には無数の穴が開いています。蝉の幼虫が這いだした穴です。
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阿弥陀堂の円柱に残された空蝉この夏此処で羽化した八日目の蝉が居たのでしょう。
「穴惑い」とは、冬眠する蛇が穴を探してうろうろする ようすを言う季語だそうです。
我が同期性もМ君の感化よろしきを得て俳句に親しんでいるようです。肝心のМ君はトレニアの花を見詰めて居ます石畳の縁を飾って阿弥陀様に導くように咲いて居ました。どうも苦吟の最中のようです。本堂の柱には空蝉が残されています。この空蝉が地中から抜け出した跡が本堂の三和土に無数に空いています。こんなに多くては蛇ならずともどの穴に入ろうか迷ってしまう事でしょう。私も就職する時に迷ってしまい肉親のアドバイスに従ってしまいました。でも結婚だけは自分の意志に素直に従いました。穴惑いの原因は穴が多いから、穴を沢山探さずに自分の足元の穴が幸せに導いてくれるようです。
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常楽寺阿弥陀堂の前の石畳の縁を飾る涼やかなトレニアの花
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常楽寺阿弥陀堂の内陣阿弥陀三尊は北条泰時がお母様の慰霊に奉納したものシンプルな須弥壇は宋風で装飾彫刻が鎌倉彫に発展してゆきます。

文殊堂の前に庚申塔が立っています。和尚の話では離れ山の分岐点にあった道標庚申塔を移したのだそうです。左鎌倉路右江の島路と刻まれています。道標のトップに蛙のような動物が掘られています。「これは何だと思う?」仲間に訊けば
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お茶の木に埋もれるように立っている更新道標。話題はこの道標の頂点に飾られている動物です。
「頭隠して尻を隠し忘れた殿様蛙とか
「穴を掘って悪口雑言を地中に吐き出している天邪鬼」等様々な意見が被露されました。
正解は「これは庚申塔で見ざる言わざる聞かざるの三匹の猿を一体に刻んだものだよ。三匹の猿を刻むより一匹の猿を刻んで頭を隠してしまえば済むでしょう」
М君は反応します。
横着な石工が居たもんだそんなに横着で洒落が効くんなら他にも鎌倉には一匹猿の庚申塔はあるのですか?訊かれました。
私は待っていました答えました。
「鎌倉市内には二階堂の五大堂の門前に1基ありますよ」
私は同期の仲間に囲まれて漣の様に轍を広げながら確実に一歩一歩健康を回復しています。
鎌倉彫の鑑賞はそんな思いを強くしてくれました。
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これは背黒セキレイをデザインした鎌倉彫の文箱。波の表現は仏像の伝統を継ぐもの一方背黒セキレイはし貝殻の細工で鎌倉彫の新境地を開拓する作品後藤俊太郎著「鎌倉彫」から転載。
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鎌倉彫の和装小物
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 腰越万福寺の格天井を飾る鎌倉彫今般刀華会では光則寺本堂の格天井を鎌倉彫で荘厳したと聞きます。何時か同寺に登って確認するのが楽しみです。
ところで鎌倉の文化人の手落ちがあります。鎌倉彫は桂の木が無くては始まらないし漆も欠かせません。ところが鎌倉には桂も漆も自生して居ないのです。もっぱら消費するばかりで肝心の植樹を怠っています。今僅かに残っているのは広町緑地の漆の林と鎌倉中央公園(山崎)の桂の林だけです。漆は紅葉が見事ですし桂は香りが好ましいのです。
鎌倉の緑地に桂と漆を植えて鎌倉彫の総てを鎌倉の土の上で完結させるようにしたら素晴らしいと思います。その為の資金や労力なら鎌倉を誇りに思う文化人は惜しまない事でしょう。鎌倉彫を鎌倉夫人の手慰みにしておくのは残念です。







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漬物屋の甘酒

段葛の改修工事の現場を視ているすぐその傍には人力車が客待ちをしています。イケメン青年が車屋さんで〝ちょっと八幡様まで、宝戒寺の枝垂れ梅を廻って戻って下さいな!”なんて粋なお姉さんなら言ってみたくなるような寒さ知らずの格好です。車屋さんの傍には赤い毛氈を敷いた縁台が置かれています。縁台の横にはアルマイトのお鍋が置かれています。そうです、”縁台で甘酒を戴いて一休みしたら如何?”そんな呼びかけには極端に弱い私達夫婦ですから、早速に縁台に腰掛けて、古代米甘酒を注文しました。紙コップに小豆色の甘酒が運ばれてきました。

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段葛二の鳥居前に出店しているお漬物の秋本。秋本は相模の中央綾瀬藤沢遠藤に工場のある地域の漬物ブランドです。旬の味を活かした浅漬けが特長です。中央のアルマイトの鍋で甘酒(200円)を手前に那須や胡瓜の浅漬けを200円で販売しています。一軒はさんで隣がハトサブレーの豊島屋さんです。
そう此処はお漬物の秋本の店頭なのです。客引きも兼ねて路上に縁台・カラ傘を出して路上販売をしているのです。目の前にはお漬物が並んでいますし。その前にはお漬物の試食品が並んでいます。
私は杖を頼りに重い腰を上げて試食品を摘みに立ち上がりました。漬物好きは極まれりそんな姿でしょう。早速に綺麗な茄子紺色に漬かった子茄子をとりました。”これは止まりません、旬の菜の花漬け、隣の醤油の溜り漬けの大根”と目移りしてしまいます。売り子の娘さんも”お爺ちゃんは意地汚くて仕方ないわね”見て視ないふりしてくれました。お漬物も戴いたし次はお豆を戴こう・・・・、小町通りの雑踏の中を進みました。
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お漬物の秋本の全景。路上で甘酒と漬物を販売しています。筆者にとっては此処を素通りする事は困難です。
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秋本の店内漆塗りの小箱には試食のお漬物が入っています、お着物の奥様は天然酵母のパン屋さんでもすれ違いました。同じような行動をしていたようです。
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縁台で戴く甘酒は古代米だそうであずき色をしていました。

豊島やさんの喫茶店が出来ていました。美しい枯山水の庭には紅葉と白梅が植えられています。白梅は咲き出して通行人の眼に止まります。白梅に誘われるようにして、次々にお客さんが店内に誘い込まれてゆきます。
一方紅葉は既に葉を落として枯れ坊主ですが、紅葉の花だけが落ちないで梢の先に引っ付いて、竹トンボのような花弁をクルクル回しています。風車を思い起こさせます。
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秋本の横の通りを西に入ると八十路という名の喫茶店(ランチも営業)が出来ていました。露地を通ってお店に入る雰囲気は良いものです。流石に経営は豊島屋さんニーズを五感を研いでキャッチしておいでです右端が咲き出した白梅
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白梅の向かいにあるのは紅葉で竹トンボのような花が枯れても落花しないで風に回っていました。
私が入りたい素振りに見えたのでしょう、ワイフは「今甘酒を戴いたばかりでしょう」言いながらドンドン先に進んで行きます。”老いては婦に従え”私は付いて行かざるを得ません。
小町通りは段葛を歩けない分大混雑です。これでは若宮大路東側のお店は悲鳴を上げている事でしょう。神様の為さる工事だから不平は言うまい決めていても、公平に税金は納めているのだし、鎌倉市に泣きつきたい想いを我慢していることでしょう。小町通りにしゅってんしてい店は鎌倉の老舗相模の地域ブランド、グローバルなファストフード等入り乱れてどれも勝ち組です。
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これは鎌倉ブランドで勝ち組のかまくら権五郎の看板、お人形は西行法師が頼朝にあったエピソードかと思ったところ店員から良寛さんです、と訂正されました。改めて見詰めると子犬がいるし西行さんの様に思えます。良寛さんなら子供の手に手毬か凧があるでしょう。
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かまくら権五郎の桜餅(同社のホームページから転載)店内はもう春が一杯でした。


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