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昔から「父の恩は山よりも高く、母の愛は海よりも深し」と言われます。
新聞やテレビの家庭相談を観ていると母親の子育ての悩み相談が目につきます。
多くの原因は「携帯電話」「スマートフォン」に係るものです。子供達がコミュニケーション・ンツールに振り回されてしまって、子供同士、家族間で断絶し孤独化してしまう、危うさが垣間見られます。
我が子に「勉強しなさい」心配になり小言を言いたくなるのは母親の常です。
中江藤樹の母もそうでしたし、弘法大師のお母様でさえ、息子が天下第一の高僧と呼ばれるようになっても、高野山に会いに出かけます。流石に高野山に登れないと判ると麓の九度山に逗留しされます。弘法大師は月に九度は野山を下り麓の慈尊院に行かれることになりました。
鎌倉時代には阿仏尼が居ます。有名な十六夜日記の著者です。
極楽寺橋の民家が展示している十六夜日記「東下りの場面」お人形小母さんが息子さんの作品を展示しているのです。書は十六夜日記です。
同上裁判の模様 『十六夜日記』(いざよいにっき)は一〇月16日に書き始めた事からこの名が付いています。
でも十六夜は満月の翌日で、いざよう(展望する)の意味です。
母親の息子(藤原為相)に所領を相続させたい一心で京から鎌倉に下ります。その間の紀行文が十六夜日記でした。阿仏尼は鎌倉の外れ極楽寺裏の月影谷に住みました。
月影谷は極楽寺の開基忍性の墓にも近い深い谷間です。
そんな地形と、月が出れば樹木の陰が地面に映る(月影が見える)との意味なのでしょう。月影は勢至菩薩の慈悲、母親の愛情を思わせます。
阿仏尼は鎌倉での住まいを次のように詠っています。
「あづまにてすむ所は月かげのやつとぞいふなる。浦近き山もとにて風いとあらし。」
鎌倉では京都の生活と違って相談相手も居ないし、山蔭で海鳴りの音と嵐の音が激しくて寂寥だったことでしょう。
阿仏尼の頑張りで所領は安堵され、藤原為相は播磨の所領を相続いたします。
藤原為相は定家以来の和歌の家でしたから、鎌倉にも和歌文化が定着します。ママゴン阿仏尼は財産(土地」と稼業(和歌)両面で倅の役に立ったのでした。
今も月影谷は寂寥感あふれる場所で、月影地蔵尊が祀られています。
鎌倉の極楽寺坂、坂の峠に極楽寺橋があって右側に導き地蔵尊左が極楽寺になります。真っ直ぐ行けば稲村ケ崎小学校、学校の端を左折して住宅地の奥に月影地蔵尊が祀られています。地蔵尊の裏山は極楽寺の墓地が拡がっています。
これが月影地蔵尊です。沢山の石仏が囲んでいます。石仏にはびっしり苔(梅の木苔)がついて蒸しています。
月影には如意輪観音が目立ちます。白い模様は梅の木苔です。
月影地蔵は木彫です。何時も綺麗にお掃除が行き届いています。千羽鶴は稲村ケ崎小学校の生徒さんの作です。
月影地蔵には悲しい説話が残されています。此方はダメな親と立派な娘の話です。
露(つゆ)という名の親孝行な娘がいました。母親は北条業時(なりとき)に仕えていましたが、心掛けが悪く、あるとき高価な磁器を割ってしまいました
。 露がその疑いをかぶったため、業時は露を呼んで「母が割ったのだろう」と尋ねました。
しかし、露は「自分です」と言って譲らなかったので、業時は仕方なくふたりに暇を出しました。 母親は慌てて罪を白状しましたが追放され、露も人に預けられてしまいました。
業時は露に高価な梅小紋の小袖をあたえましたが、母親が持って姿を消してしまいます。 露は母親と別れた悲しみから病に倒れて、幼くして亡くなりました。
人々は露を哀れんで、露が生まれた月影ヶ谷にお堂を建てました。 墓には梅の木苔がびっしりとつき、人々は「梅小紋の小袖を着たかったのだろう」と言い伝えて来ました。
梅花模様の小袖(説話とは無関係です)
母親は子を想い、子は母を想うそれが道理です。月と地球のように引力が均衡していれば安定して美しい均衡が保たれます、一方が強くなりすぎてまた一方に我欲が挟まれば偏愛になり執着になってしまいます。均衡させることが重要なようです。
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鎌倉ウォーキング
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鎌倉の史跡や山を歩きながら、地誌を紐解き、自然と人為のマッチングをスケッチいたします。なお、筆者は小学校から高校まで鎌倉でお世話になりました。
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鎌倉駅の駅舎ゃに燕の巣がなくなったことに落胆してて、私は段葛に面した三河屋さんに向かいました。三
河屋さんと言えば、漫画のサザエさんでも酒屋さんです。鎌倉の三河屋さんも明治33年創業の老舗酒屋さんで、現在の建物は昭和2年に建てられた昭和モダニズム建築です。段葛に面して、間口5間、奥行8間の二階建ての大規模な出桁造りの建物で、鎌倉全体の戦前商店建築を代表する建物でもあります。
奥行8間を前後に2分して並行に2つの棟をかけ、前方店舗部分を切妻、後方住居部分を寄棟とした、珍しい屋根のかけ方をしています。 店舗の入口は井桁つくりとよばれる、二階がせり出しています、その梁に燕が巣を作っているのです。
店舗内部は、太い根太を見せた重厚な根太天井、正面の長大な差鴨居、当初のものではないものの板貼りの床など、伝統的な商店の建築様式が用いられていまさう。重厚な落ち着きと老舗の格調を感じさせます。
燕は八幡宮の源平池で虫を捕獲して、いげたのしたのすにはこんでゆきます。段葛を歩く観光客の眼先を掠めて飛んでゆきます人々は驚いて燕の行き先を目で追って、三河屋さんに入ります。お隣は人気のソフトクリーム屋さんですから、何時も混雑しています。
八幡宮の参道でもある段葛左側に三河屋さんがあります。
長谷寺参道に立建つ對僊閣(たいせんかく)も昭和モダニズム建築です。井桁造りで、寺社建築の技で機能的な旅館を為しています。
昭和に入ると、鉄筋やコンクリートなど新しい建築素材が使われ始め、建築物も過度な装飾を裂け機能美や使いやすさを真剣に追求し始めます。我が国では従来の伝統的な建築手法と西洋の影響(アールヌーボー)を受けた機能性を追求した、和洋折衷の建築物が多く建てられます。女性の服装も着物にブーツと言ったモダンガールがもてはやされ、一方で竹久夢二や山田耕作等が活躍します。洋食が増え、カツレツなど創作洋食も多く開発されます。カルピス、サントリー角瓶等現在も人気の商品が売り出されました。
私がデイサービスで歌っている歌の大半が昭和初年の歌ですし、岩波文庫等もこのころ始まりました.私達は昭和モダニズム文化に浸かって育ってきたのでした。
そんなわけで私は三河屋さんの店先が大好きです。懐かしいものがゴロゴロ展示されているんです。ラーメン博物館より楽しいのです。
三河屋の店先
三河屋の店先右のガラス戸から住居部分になります。壁の向こうが大きな冷蔵倉庫になります。の
敷地の西北隅、主屋の後方に建つ蔵は、3間×8間2尺の平面規模をもつ平家で、庫室を3間1尺幅の2室と2間幅の1室の3室に分け、中央の庫室に中二階を設けているそうです。小屋組は、キングポストトラスで、一商店の蔵としては相当な規模の、しかもメンテナンスの行き届いた建物である。主屋の北側からこの蔵の南面へとトロッコのレールが東西に約30m敷かれており、現在も使用されています。訊けば建物は関東大震災でにも耐えたそうです。でも、残念なことに2013年、燕の姿は確認できませんでした。店中に福ものが並んでいるのですから、燕も大事にしておいて欲しいものです。
昭和の香りが濃いポスター
御用聞きスタイルで商売が繁盛していたのでしょう。
流鏑馬の的が飾られた棚、福ものが並んでいます。
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今年も蛍の飛びかう季節になりました私の住む倉田でも舞岡川の川岸で蛍狩りが楽しめますし、お隣の港南区の瀬上川では500頭を超える蛍が乱舞します。蛍と訊くと観に行きたくなります。
でも今年はこの足では行く事もかないません。家に居て想像するだけです。
私が今一番見たいのは、京都の貴船神社貴船川の蛍です。
泉泉式部が、貴船神社に参詣して恋の成就を祈ります、そして次の二首を作ります。
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
木船川 山もと影の夕ぐれに 玉ちる波は 蛍なりけり 古代の日本人は魂と体は時に分離し、時に一体化していると考えていました。和泉式部の恋心が強くて、体から離れて貴方の処に飛んでゆくようです。まるで蛍の様に…詠ったのでした。恋心だから可愛いく儚く美しい蛍なのでしょうが…、人の怨みともなれば、怨霊となり、雷や人魂にもなるのでしょう。魂と肉体が時により分離し一体化する・・・そんな考えは日本神道の根幹をなす信仰です。各地の御霊神社や天神社、神田明神はいずれも、現世に恨みを残して死んだ荒ぶる霊を鎮魂するたっめに祀ったものでした。 一方仏教では霊と肉体は一体していると考えました。肉体が死ねば霊も消えてなくなるる、仏教本来の教義からすれば霊が修行を経て悟りを得ればればて仏になれる。仏になれば霊は亡くならずに、天国に往ける考えました。でも日本人は特に修行を積まなくてもどんな人間でも死ねば仏になれると考えました。仏教が神道の考え方に限りなく習合したのでした。死んで仏になり、祖先の霊になり子孫の生活を守護します。ですから蛍の灯りも亡くなった父母を見るように慕ったのでした。
ご存知紫陽花の明月院、方丈庭園から流れ出す渓流が紫陽花の根元を潤し、小袋川に合流します。石段は鎌倉石が積まれています。
明月院の方丈庭園、向こうの建物が方丈で、近年庭園も併せて整備を進めて来ました。豊穣の丸窓から庭園の菖蒲と蛍を見る意匠です。禅寺とは思えない雅さです。
ですもう一つ私が見てみたいのは明月院の蛍です。
明月院では近年方丈庭園を整備して、菖蒲を生けました。菖蒲田には六国山から湧き出る渓流が流れています。菖蒲田を除く覘くと無数のカワニナ(小さなタニシのような巻貝)が確認できます。
蛍の成虫は何も食べませんが幼虫はカワニナを食べます。お寺に訊けば、方丈庭園には夕刻から蛍が舞うそうです。ホトトギスが啼き、菖蒲の花の間を蛍灯が舞う様は夢のような時間だそうです。。
方丈庭園の蛍は見れなくとも、明月院川の蛍なら鑑賞できそうです。
方丈庭園から民家の脇を流れるのが明月院川です。
明月院の方丈庭園から流れ出る明月院川、お屋敷の脇を流れて行きます。石垣も河底も石橋も鎌倉石です。今の季節は岩タバコが咲いています。
明月院川を渡る民家のアーチ橋鎌倉石を積み上げています。私が小学生のころは鎌倉市台にも鎌倉石の石切り場がありました。今の高取山の石切り場と同じようなものです。昭和30年代に石切りが禁止されました。いまでは鎌倉石は黄長なものです。
鎌倉石は水持ちが良いので岩タバコ等貴重な植物が自生しています。
鷺のように白い花が雪の下です、濃い緑の葉は不如帰です、鎌倉石の石垣は季節を写すキャンバスのようです。
川の両脇にはお屋敷が並んでいます。
どの屋敷も鎌倉石を積んで石垣を組んでいます。
川を跨ぐ石橋もアーチ状で趣があります。
石垣は鎌倉石ですから水持ちも良く、様々な植物を囲っています。
今は岩タバコが金平糖のような花を咲かせています。また、雪の下も鷺のような花をつけます。ホトトギスも伸びています。
鎌倉石のキャンバスは様々な野生種の花を咲かせています。
私は鎌倉石を見るたびに石垣鯛(石鯛)を思い起こさいます。
腰越港にでも行けば求められる旬の高級魚です。
ハマグリやウニを常食している、鯛ですから、美味しいに決まっています。
石垣鯛の名は鎌倉石で作られた石垣のような地味で目立たない皮膚をしているのでその名が付いているのでしょう。
茶褐色で砂地のような表情をしています。大分杵築の城下カレイのようなものです。食感も美味しさも城下カレイです。
蛍も見たい石垣鯛も食いたい欲張りな私です。
屹度雨上がりの今朝は石垣の間からスカイブルーの清水蟹が顔を出していることでしょう。
今頃の季節私にとっては石垣鯛も鎌倉石も蛍も価値あるものです。
寝転びながら、石垣鯛のお刺身を食べて蛍と遊ぶ夢でも見る事にしましょう。
これが今が旬の石垣鯛(鎌倉石の石垣が名の由来だと思います。食べたいけどお高くて手が出ません。腰越辺りの魚屋までと遠ですれば求められるかもしれません(出典ウィキペディア)。 ブログランキングに参加しています。
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能登の紀行も1日目が終わり三分の一が終了したところです。
その間、鎌倉でも季節が進んでもう今週末はもみじの見頃を迎えます。
そこで、今日は鎌倉のもみじの名所の中から、建長寺を紹介します。
今年は夏暑かったものの、急激に冷え込んだせいでしょう、
もみじが例年以上に鮮やかに染まったのです。
TVで「もみじの名所」を中継しています。
その大半が京都の嵐山だったり、嵯峨野、東山辺りです。
やっぱり、もみじは京都だなあ・・・・! 痛感しながら旅立ちたい衝動を押さえます。
おなじ「いろはもみじ」でも京都の方が鎌倉より数段綺麗だと思います。
そして、心なしか京都の方が葉が大きい様な気がします。
京都のもみじは1000年の歴史をかけて作り上げた園芸種だからでしょうか?
建長寺仏殿は地蔵菩薩が本尊です、その西側にカエデが自生しています。
建長寺のカエデ、バックは法堂です。
日本人にとっては「もみじ/紅葉」と「かえで/楓」は略同じいみでしょう。
植物分類上はモミジもカエデも「かえで科」「かえで属」の植物です。
日常の表現や童謡等で「カエデ」とは言わずに「モミジ/紅葉」と呼んでいるようです。
「カエデ」は「蛙の手」が語源で、
5つ以上に深く切り込んだ葉っぱを指しているようです。
以降は分類学に従って「もみじ」とは呼ばずに「カエデ」と言います。
建長寺法堂、天上の雲龍図は小泉淳作氏(昨年死去)の作。
現在第一回小泉淳作展を実施中です。
世界中にカエデの仲間は数多くあります。
カナダにはメープルシロップを採取するカエデが国旗になっています。
でも紅葉するわけでは無く・・・・黄色く染まります。
中国のカエデは・・・・、「モミジ葉フウ」で大木になりますが、
真っ赤には染まりません。
茶色・黄色そして部分的に紅葉します。
真っ赤に染まるのは日本のカエデの特長です。
日本は紅葉するカエデの宝庫なんです。
向こうの大木が「モミジ葉フウ」です。中国人はこの大樹を楓という字を充てました。
一方日本人は真っ赤に染まるイロハモミジを楓という字に充てました。
だから・・・・、「モミジ/紅葉」と「カエデ/楓」がこんがらかるのです。
建長寺のカエデは所謂「イロハモミジ」ですが、
京都のそれに比べて葉っぱが小さいような気がします。
鎌倉では元々、半蔵坊近くから流れ出す渓流沿いに生えていましたから・・・…、
野生種なのでしょう。
一方京都の庭園のモミジは名木の種を育てたものでしょう。
嵐山や東福寺には野生種も目立ちます。
建長寺ではカエデが伽藍のポイントポイントに自生していて、
この時期目立っています。
とりわけ見事なのは仏殿の西側、厠の周囲に自生しているカエデです。
更に方丈の奥に塔頭が並んでいます。
塔頭の周囲にはカエデが目立ちます。
更に半増坊に向かう途中の竹林にもカエデが自生しています。
半蔵坊の石段はカエデに埋まっています。
進むと、竹林の間に、露地の石垣の上にもカエデが並んでいます。
今週末が見頃でしょうから、是非お出かけ下さい。
塔頭にはカエデが目立ちます。塔頭は管主さんらが引退され後のお住いでもあります。
カエデを意識して植えられたものでしょう。
龍宝院石垣上のカエデ
正統院の門前から見た龍宝院のカエデ
半増坊に行く途中、竹林の中のカエデ
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昨晩、日本TVで「秘密のケンミンショー」を見ました。
山形の「芋煮」を紹介していました。
刈り入れが終わった頃、隣近所で河原に出て、芋煮会を楽しんでいました。
芋煮は「農家の”結”」の表われと思っていました。
ところが地元識者の解説では、北前船での荷運び(最上川など)に際して、風待ちの時にもてなした農家料理だったのだそうです。
勉強になりました。
ケンミンショーで山形の芋煮が紹介されました。ミノ氏の渋面はノリを悪くしていました。
キャスターは久本雅美さんとミノモンタ氏、
久本さんは笑顔と話術で番組を引っ張っていました。
ミノ氏は”心此処に在らず”と云った表情で・・・・・・、
番組の華やいだ気分に乗っていませんでした。
早く降板させて、心身ともに回復したところで検討した方が良いのに・・・・・、
他人事ですが思いました。
私は森永卓郎氏が最適だと思います。
同氏の識見で番組の奥行が深まると思います。
2007年春の山椒洞建物、春霞で霞んでいなければ上方に富士山が見えます。
取り壊し中の山椒洞、眼下に江の島が眺められました。
7年前の2007年の事でした。
ミノ氏はTBSの”あさズバTV”のキャスターとして華々しく活躍していました。
ある朝、不二家問題を俎上にして、
「こんな会社は早く撤退してほしいもんです」 叫んでいました。
消費期限切れの原料を使っていた問題が報道されていたのです。
私は傲慢なミノ氏の言葉に違和感を覚えました。
不二家には固定したファンも居ます。
社員も沢山います。
そんな会社の幕引きを一塊のキャスターが軽々に口にすべきではありません。
其処まで言うのなら自分自身で確認したのか・・・・・、
マスコミ人ならば・・・・・取材して、レビューしたのか?
疑問に思いました。
世論を背景にして、大衆を扇動しているとしか思えませんでした。
扇動する事が自分自身の価値をアップする・・・・、思っているのでしょう。
ところが、不二家は2007年を底にして奇跡的と思える回復を示しました。
2013年3月期は売上899億、営業利益16億(前期比54%増)を達成しました。
ミノ氏に”死ね”罵倒されながらも、社員が歯を食いしばって頑張った成果でしょう。
でも、不二家の社員は今次のミノ氏の不祥事に関して、
”ミノ、死ね”とは言わない事でしょう。
”反省して、復活できるものなら・・・、してみろ!” 思っている事でしょう。
それにしても、企業の嘘つきは後を絶ちません。
日本人のモラルが低下している、証左なのでしょう。
素材の偽りは、ホテルからデパートに飛火しました。
「いい加減にしてくれ、恥ずかしい」 思います。
週刊誌はミノ氏への追及を止めません。私にはどちらも同じ穴のムジナに見えます。
バカ息子をコネで日本TVに入社させた事もマスコミ人なら憚れる事でしょう。
そして、今次の問題はバカ息子の刑事事件ではありません。
ミノ氏は大きな思い違いをしているようです。
他人の過ちは事大に厳しく非難しておきながら、自分の過ちは問題にしない・・・・、
そんな姿勢がマスコミ人として不適格である・・・、として糾弾されているのです。
他人を過大に非難したのですから・・・・、自分自身に対してはより一層厳格に対処してこそ、世間を納得させることができるのです。
TVキャスターとしては失敗だったから・・・・TBS「あさズバTV」は降板したのだが、
日テレのバラエティーのキャスターなら許されると思っているのでしょう。
そんな都合の良い使い分けは大衆には通じません。
バカ息子がバカ親爺を衆目に曝してしまったのです。
山椒洞の母屋の在った後に建てられた建物。
不二家事件を口汚くののしっていた頃、ミノ氏は鎌倉山の山椒洞を購入しました。
山椒洞は鎌倉山のお蕎麦屋さん「檑亭」の懐石料理のお店でした。
相模湾を見下ろし、眼下に江の島、その遥か上方に富士山が眺められる、湘南最高の風光の位置にありました。
建物は昭和8年(1933年)に時の司法大臣岩田宙造が建てた別荘でした。
岩田氏の後は女優の田中絹代が居を構えていました。
それを檑亭が取得して、懐石料理店に供していたのでした。
鎌倉山の野紺菊、この先米屋の角を左折(海側)するとミノ邸です。
山椒洞には祖母の白寿のお祝いに、三回忌の精進落しに使いました。
我が生家のルーツは世田谷や杉並でしたから、お客さんをもてなすには山椒洞が最適だったのでした。
一見すると数寄屋風の建物ですが、中に入ると待合はシャンデリアが吊り下がってソファーのある洋室でした。
そしてお部屋は畳敷きで・・・・、和様が混在した様式でした。
これこそ、昭和モダニズムの建物なのでした。(鎌倉市の景観重要建築物)
それに、”檑亭・山椒洞”と言ったネーミングにも、
坊主としての父の思い入れがありました。
檑こ木(すりこ木)は精進料理の必須のお道具です。檑こ木は山椒で作りました。
お客さんも父も禅の僧侶です。
精進のおもてなしの料理は”すりこ木”と”すり鉢”を使って作ります。
ゴマの味噌和えも、味噌汁も、山芋もすり鉢に材料を入れて、すりこ木で擦って、混ぜて作っていました。
父はお客さんに
”すりこ木を駆使して作りました、お召し上がりください”
そんな思いで山椒洞にお招きしたのでした。
”すりこ木”を漢字に改めると「檑こ木」になります。
そして「檑こ木」は山椒の幹を使って作っていました。
山椒の木が手にも馴染みやすいし、その香が素材の味を引き立てるのです。
山椒は若芽は筍の煮つけに添えたりしますし、実は粉にして蒲焼に振り掛ける、
和の胡椒です。
石垣の上には有刺鉄線と監視カメラが備えられてガードしています。
鎌倉の人は山椒洞に特別な思い入れがありました。
その3000坪の敷地を買い上げて、建物は総て取り壊してしまいました。
巨大な石垣を構築して、その上には有刺鉄線と監視カメラを据え付けました。
多くの人が苦々しい思いで、ミノ氏の豪邸を見上げました。
でも、一つだけ山椒洞の思い出を留める樹木が残っています。
ミノ邸に隣接して巨大なハゼの樹が残っているのです。
山椒洞のお部屋からは真っ赤に染まった櫨が近景に見られました。
その櫨が約1m、ミノ邸から外れていたので、伐採されずに残りました。
色づき始めたハゼの大木、右側がミノ邸の庭園になります。右奥の建物がミノ邸です。
ハゼの根元には自然薯が色付いていました。
ムカゴも実って、これを食べれば大地を摂取するような気になれます。 ミノ氏の無分別を糾弾した週刊文春は”「山椒洞」の場所は呪われている”
馬鹿な記事を書いていました。
この辺りは古戦場であったし、田中絹代も晩年は不幸であった・・・・、
ミノ氏も此処に転居したとたんに奥様を失い、今またバカ息子の災難を浴びている・・・・・、
そんなマスコミらしからぬ記事でありました。
ミノ氏には、不二家のように不祥事から立ち直って、
事件前以上のパフォーマンスを示せるように、潔さが求められます。
ケンミンショーに老醜をさらすようでは、
再起は出来ず、鎌倉山の豪邸は近々手放すことになるでしょう。
日本の税制は甘いもんじゃないのです。
私には豪邸が鎌倉絵画館のようにして一般公開される時を楽しみにしています。
鎌倉文学館のように、絵画館があっても良さそうなものです。
鎌倉山で晩年を過ごした棟方志功、昨年亡くなった平山郁夫をはじめ文学者以上に絵描が鎌倉には沢山住んでいたのでしたから・・・・。
それに、風光明媚な鎌倉山の海側斜面に一つくらい公園があっても良さそうなものです。
何時の日にかまた山椒洞のお庭に立って、湘南の絶景を眺めたいものです。
【追記】2007年当時、山椒洞の行方を心配して次を書きました。
2010年、現状を次に書きました。
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