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街道ウォーキング

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全国の歴史的な町並みや、史跡をウォーキングします。筆者は慶応大学日本文化研究会の会員で、多様な世代の仲間と共に、地方を歩き、地誌を学んでいます。
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宮ノ下の紅葉

箱根登山鉄道の宮ノ下駅で降りて、紫陽花坂を下ります。今日最初の目的地は富士屋ホテルです。
私が銀行員だった時代は富士屋ホテルは国際興業の旗艦ホテルでしたが、国際航業自体は軍需省に出入りして蓄財した小佐野賢治氏が一代で立ち上げた総合観光企業でありました。
小佐野賢治氏の手腕に依り各地の一流ホテルを傘下に収めましたが、しかし同社が佐川急便事件で地検の家宅捜査を受けた頃から風向きが変わり。巨大な有利子負債に世間の厳しい目が向けられました。米国投資ファンドサーベラスに買収され資産の切り売りが進められます。
帝国ホテル株を三井不動産に売却)、浜松町の遊休地(2013年日本生命保険に売却、800億)や八重洲富士屋ホテルを住友不動産に売却します。売却代金をを以って、サーベラスの保有株を買い戻してようやく禿鷹ファンドの呪縛から解き放されます。
宮ノ下富士屋ホテルは売却しなかった資産で、富士屋ホテルチェーンの看板であり続けています。ところで、宮下の富士屋ホテルですがこのホテルにも歴史があります。
話は横浜開港1858年(安政5年)に遡ります。幕府は修好条約に従って神奈川村を開港したのでしたが色々不都合でした。そこで横浜の高島に港を埋め立てます(高島港)。港が出来たら次に欲しいのは遊郭です。江戸時代の常識では栄えた港は必ず遊郭が在ったのでした。遊郭の手本として長崎の丸山が手本にされました。
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高島町にあった岩亀楼の写真(神風楼とプリントされているのは昭和に名が変わったもの。1階が見世で二階が遊女の個室です岩亀のあった辺りは今では銭湯が残って居たり岩亀稲荷が残っている程度で何もありません。地元の人に訊けばММ21が出来て三菱重工が転居してしまったので街の灯が消えたと言っておいででした。

そうして港崎遊郭(代表が「岩亀楼」が建設されました。岩亀楼は岩槻の資産家・山口粂蔵が建てたものでしたが経営は養子山口仙之助(明治11年慶応義塾卒)に継承されます。山口仙之助は岩亀楼の支配人も経験した苦労人でしたから外国人専門の遊郭のコンセプトは外国人専門のホテルコンセプトに継承されました箱根の塔ノ沢は谷の底でしたが、暫く登れば熊野神社で眺望も開けます。山口仙之助は塔ノ沢から宮ノ下まで人力車を通す道を開きます。
そして宮の下に外国人専門のホテルを開いたのでした。日本人専門の旅館「奈良屋」と共に箱根を代表する宿になって今日まで人気を博します。ですから富士屋ホテルは大きな唐破風を備えた玄関口、竜宮城を想わせる見世風の格子戸など遊郭を想わせるデザインです。
富士屋ホテルは紅葉に囲まれています。竜宮城が赤い壁であるのは女性の肌の色が一番綺麗に見えるからでしょう。富士屋ホテルは女性が輝いて見えるように工夫が為されているのです。
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宮ノ下セピア通りを登ると富士屋ホテルが見えてきます。

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富士屋ホテルは紅葉に囲まれています上層階は遊女の個室を想わせるデザインです。
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1階玄関は唐破風2階以上には朱色の欄干に個窓がついて如何にも遊郭の個室を想わせるデザインです。地上の竜宮城をデザインして外国人を誘致しようとしたのでしょう。
当初予定通り蕎麦屋さんに入りました。富士屋ホテルとシチュウパンで有名な渡辺ベーカリーの中間に箱根蕎麦の暖簾が懸っています。其処が箱根蕎麦の曾我蕎麦です。看板は自然薯蕎麦です。1階は駐車場です。1階を蕎麦屋に改装するより駐車場の方が稼ぎが良いのでしょう。2階に登れば眼の下がセピア通りで箱根駅伝が走ります。宮ノ下から小涌園までは急な登り坂である事に加えて曲がりくねっていますから見物の絶交ポイントです。店主にすると2階だけで営業する方が有益なのでしょう。箱根の自然薯では山薬が有名ですし小田急の箱根蕎麦も行けそうです。でも、コスパを考えれば曾我の屋が選択されました。
自然薯蕎麦は冷麺なので温かいカレー南蛮を注文しましたワイフは自然薯蕎麦を美味そうに食べています。
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これが曾我の屋のカレー南蛮向かいが自然薯蕎麦箱根の寄木細工のお盆に乗って出されまあした。南蛮と云っても矢鱈に茸が多いカレーでした。勿論美味しく体も温まりました。


次の目的地は益田鈍翁の開発した板橋別荘地にある老欅荘です再び登山鉄道宮ノ下駅に戻るには紫陽花坂を登らなければなりません。幸いなことに坂の右に手摺が付いています。手摺を握ってコンクリートに刻まれた馬蹄の跡を見詰めながら登ります。坂の途中には茶店が軒を連ねています。喫茶店の奈良屋さんは足湯を設備して居ました。外人さんが足湯を占拠して珈琲にケーキをエンジョイしています。足湯は「フットバス」。焼き芋は「ローストスィートポテト」と云うのを初めて知りました。
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喫茶店奈良屋さんはテラスに足湯を設備して此処で喫茶ケーキのサービスをして人気でした珈琲は370円とリーズナブルでした。
私達は宮ノ下駅で切符を求め電車が来るまで宮ノ下駅前の「森飯」に入って、甘酒(100円を飲むむ事にしました。止まり木のような椅子に座ると目の前の嵌め殺しのガラス窓です。窓の外はまだ青い楓です。親切なお姉さんが甘酒を運んで来て「お熱いので気をつけて底になると生姜が濃くなるのでお気を付けください」言ってくれました.青楓の梢を渡って来る小鳥がいます。何が飛んで来たかと思えばコゲラです。今が求愛の最中のようです。お隣の止まり木のペアもコゲラを見詰めて居ます。私達にもあんな季節がありました。
季節は人間にもコゲラにも平等に巡って来ます。人間の為だけにあるなんて思うのは驕りの他何物でもありません。箱根は何時来ても楽しい処です。今週末は湯本から小田原市街に紅葉は下りて来ることでしょう。
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宮の下駅前の食堂「森飯」の止まり木目の前は青楓でした梢にコゲラ(小さいキツツキ)が求愛中で追いかけっこして居ました。

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宮ノ下駅の眺め箱根のお月様の饅頭http://www.hakoneyumoto.com/shopping/31はこれから向かう板橋に工場があります。

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テレビで横浜三溪園の紅葉も見頃になった、報道していました。
私は今年は未だ紅葉を観ていません。
何処に行こうか?ワイフと相談の結果、箱根に行く事にしました。12月5日土曜日、東海道線で小田原に向かいます。
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JR改札口には巨大な小田原提灯がぶら下がっていました。最乗寺さんの雲水さんが「歳末助け合い」を兼ねた托鉢をしておいででした。
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箱根登山鉄道の案内図。左端に小田原が隠れています。大平台駅の前後にスイッチバックが在って急な傾斜をグングンとの登って行きます。傾斜角80度は世界2位だそうです。今日は宮の下まで行って紅葉刈とランチの予定です。
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箱根登山鉄道は一気に観光客が押し寄せ大混雑でした。写真は大平平駅でスイッチバックする為対向車待ちの間に写したもの。運転手と車掌が交代しました。この駅からの見晴らしは最高でした。
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大平台駅での待ち合わせは最高のビューです。左下の橋が箱根登山鉄道の早川渓谷を渡る鉄橋(出山鉄橋登録有形文化財)深さ43m・幅60mの峡谷を渡した日本最古の鉄橋です。


それにしても。箱根登山鉄道を計画したのは明治21年、三井物産の創立者である益田 孝氏(一般に雅号鈍翁で呼ばれます)既に小田原早川口で別荘開拓を終えていた益田鈍翁はスイスアルプスの観光開発に刺激され強羅の開発に着手します。強羅は大涌谷も近い温泉地でしたし。台地で見晴らすも開けている観光開発の目玉でした。問題は天下の剣と歌われた峡谷の深さと高さでした。アルプスは氷河が削った渓谷ですから。幾ら谷が深くても尾根道はなだらかでした。早川の渓谷を渡すために巨大なトラス構造の橋にする必要がありました。
幾つもの英知と情熱と努力の成果として箱根登山鉄道だったのでした。
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出川鉄橋の写真、台風による出水にも関東大震災にもこのトラスを積み上げた橋は壊れませんでした。写真出典:ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%A9%8B%E6%A2%81_(%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%99%BB%E5%B1%B1%E9%89%84%E9%81%93%E9%89%84%E9%81%93%E7%B7%9A)

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箱根登山鉄道は急峻な渓谷を上下する事に加えて直径30メートルの急なカーブを曲がります。乗る私達は楽しくても工事をして又メンテをする人も大変です。線路脇には紫陽花が植えられていますので初夏の紫陽花電車も人気です。写真では車両は空いていますがこれは午後1時頃の下りの車両です。登りの車両は混雑が続いていました。
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宮ノ下駅。駅舎も線路も花が絶えないのが箱根登山鉄道です。写真はベコニアですが秋海棠もまだ咲いていました。
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箱根登山鉄道宮ノ下駅の法面に植えられた紫陽花。もう枯れてしまいましたが瑞々しかった面影を残しています。
10時半箱根湯本で登山鉄道に乗り換えて、最初の目的地は。宮ノ下温泉です。大涌谷の噴火警戒レベルも1に下げられたので観光客もドット箱根に向かったのでしょう。登山鉄道は乗車率200%の混雑です。私は電車のドアを握って車窓から景色を眺めます。
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塔ノ沢駅のホームには銭荒井弁天が祀られています。

湯の道街道は渋滞して一向に動きそうな様子はありません。湯本は竹下通りの様な混雑です。箱根の人達の笑顔が見えるようです。何時もは車ですが今日は登山電車です。気色も違うし気持ちもゆとりがあります。塔ノ沢のホームには「銭荒井弁天」が祀られている事も知りました。外輪山の中腹にはお堂の甍が見渡せます。位置からして阿弥陀寺のお堂でしょう。
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大平台駅からの眺め眼の下が大平台の温泉街その下に塔ノ沢の温泉が続いています。右上方には相模湾が望めます。
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箱根登山鉄道は紅葉と急峻な上下の坂道である事から変化が大きく楽しいものがあります車では観れない箱根を楽しめます。これは帰路の社内風景です。

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大平台のスイッチバック。困難だった強羅開発の知恵を留めています。紅葉も楽しめます。

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大平台駅からの眺望。向かいの山が箱根外輪山明星ヶ岳-明神ヶ岳-矢倉沢峠-林道-金時山と続きます。阿弥陀寺は右上に見える甍の辺りです。円空の先人である弾誓上人が開いたお寺で京都の古知谷(こちだに)阿弥陀寺の末寺で塔ノ沢で亡くなられた皇女和宮の葬儀が行われたお寺さんです。円空への関心から私は何度かこのお寺に登りました。大平台から見ると見事に紅葉しているようです。


箱根登山鉄道は先人が困難を克服して開いた鉄道です。四季を通じて季節を満喫できることに加えて歴史や美術に富んでいます。食べ物は美味しいし。翅登山鉄道自体も駅員保線区員全員が鉄路を大切にしています。
温泉もあって私の欲求を万遍無く満たしてくれます。今日のお昼は宮ノ下で自然薯の御蕎麦を予定しています。噴火危険レベルも1に下げられて観光客も戻ってきたようです。先ずは良かった良かったです。

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検番のあった街館林

群馬県立館林美術館で船越桂氏の彫刻を鑑賞し館林駅前に戻りました。陽も大分傾きましたが、まだ夕暮れまで一時あるようですし、もう少し館林を満喫したいと思いました。観れば液横の露地に「歴史の道」の表示板が立っています。案内板には歴史の道のポイントが表示されています。インパクトのあった建物が「館林検番」です。私はワイフと共に石畳の細道を進みました。角に団子屋があります。草餅団子を求めて出かけます。小腹が空いたらお団子を食べる作戦です。天神様の前に出ます。細道は一段と細くなり。板塀のうえには熟柿がたわわに実っています。私達が通るとムクドリが一斉に飛び立ちました。今年は林檎は充分楽しんだのですが、柿はまだ食べ残した感があります。ムクドリさんも柿を一気に食べ尽くさないで楽しんだら良さそうなものです。
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これが歴史の道の案内板
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天神様脇の露地の上の熟柿ムクドリが群れていたのですがレンズを向けると一斉に飛び去ってしまいました。
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検番に近い外池商店(酒屋さん)しっかりした出桁作り(出し桁作り)の商家でした。

観光案内所で貰った地図を片手に露地を右左に折れて古民家を探しながら巡ります。屹度半世紀前はこの民家から芸子さんがいそいそと検番に向かった事でしょう。ワイフは木戸の小粋な意匠を観ながら嬉しそうです。
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これが旧二葉検番組合事務所唐破のデザインは極楽の楽しみを提供してくれそうです。
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これが玄関ガラス戸に顔を押しつけて覘いた上り框右に小部屋があってこれからお座敷に向かう芸子さんを確認して(お座敷を確認する)火打石をカチッと叩いて送った事でしょう。強面の女将さんと小股が切れてうなじの綺麗なお姉さんがいそいそと出かけていたことでしょう。
ところで館林に何で検番が在ったのか疑問です。
今でも検番が力を持っている町と云えば金沢に博多に大阪位でしょう。神奈川県では横浜にはもうありません。熱海や伊東にはあるでしょうが静岡県です。
湯本(箱根)には残っているだろう・・・・!検索すればありました『八津女』やつめ という置屋さんがフェイスブックを載せていました。https://th-th.facebook.com/hakone.yatsume9010/
館林の検番は館林がモスリン(綿糸や羊毛を毛糸を 平織りにした薄地の織物のこと、その ふんわりとした風合が特長で襦袢や肌着に好まれました)で栄えた時代が在ったからでした。
モスリン事務所は明治時代の疑似洋風建築で一度は訪れたかったのでしたが私の脚ではもう2キロ歩く事は不可能と判断し検番前から折り返して駅に向かいました。
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これが館林にあった旧上毛モスリン事務所建物明治43年に竣工した疑似洋風建築ですが尺貫法に基づいて建てられているそうです。竹久夢二の描く女性の襦袢や子供のリンズが館林の工場で折られていたと思うと嬉しくなります。モスリンは次に詳しいです。http://matome.naver.jp/odai/2142387386645205501/2142390919593793403
モスリンが人気で二葉検番が賑わった時代に想いを馳せて私達は駅に向かいました。駅前大通りの角に青竜神社が祀られていました。小さな神社ですが井戸は立派で龍の口から清水が吐き出されています。夏には此処で一服する人が多い事でしょう。案内を観ると館林宰相綱吉(5代将軍徳川綱吉)と桂昌院の案内が為されていました。そうです。桂昌院と云えば江戸のシンデレラガール「八百屋のお玉」の事です。
京都の北に今宮神社があります。桂昌院(お玉)はこの神社の近くで八百屋の娘として生まれ、なんと天下の将軍家光と結ばれた日本のシンデレラです。
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 桂昌院の図/京都善峯寺所蔵ウキペディア
家光には成人した3人の男子のうち、長男・家綱が次の4代将軍となり、三男・綱重は甲府藩主に4男・綱吉は館林藩主にそれぞれ封じられてしまいます。両藩はともに25万石を領し、甲府宰相・館林宰相と呼ばれて御三家にに次ぐ高い家格を持っていました元来4代将軍家綱は病弱であった事から両藩主は次の将軍の控えとして見らsれていました。実際その家綱が子をなさずに死ぬと、甲府綱重は早世していたので、5代将軍となったのは館林綱吉だった。そしてその綱吉も男子なく死ぬと、6代将軍となったのは綱重の子である甲府綱豊(家宣)だったのでした。その綱吉の生母が桂昌院だったわけで。シンデレラガールお玉は八百屋の娘から将軍の愛妾になり更に5代将軍の生母に駆け上がった訳で正に”玉の輿”に乗った大出世だったのでした。
そんな次第で京都の今宮神社は玉の輿に乗りたい良くボケ娘の参詣が止みません。
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これが青竜神社です。お玉(桂昌院)の夢に美しい娘が出てきて青竜に化した(青竜権現)その上其処から清水が湧き出した事からその場所(福寿院境内)に神社を建立して寄進した事に始まります。
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これは東武館林駅の東にある龍の井広場日本の銀杏の木の間に井戸があります。此処は(福寿院/廃寺)の境内だった場所で(福寿院には幾つも井戸が在ったのでしょう。私達はこの井戸から時計回りで元福寿院西端の青竜の井戸を廻って戻ってきたことになります。
今回は時間と体力の制限から草餅団子を駅のベンチで食べて帰路に就きました。館林は奥行きの深い街のようです今回は正田家の文化財は観ていません。車窓から日清製粉の工場や正田醤油の工場を眺めただけで、人気のうどんも未賞味でした又出直して来いと云う事でしょう。館林は体を鍛えて再訪したい街です。

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船越桂さんの彫刻展を観に館林の館林美術館に行きました。
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館林と云えば文福茶釜駅前で狸さんが迎えてくださいます。
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館林はマンホールの蓋も文福茶釜です。

私は館林には縁が深いのです。先ずは分福茶釜で有名な茂林寺さんが親戚であった事。そして実兄の赴任地が館林税務署であった事から何日も官舎を拠点に近隣を廻りました。
印象は冬はとてつもなく寒い処だな記憶でした。朝目覚めると顔がこわばっている感じがしました。加えて夏は暑いし。。雷が良く落ちる過酷な自然を実感する群馬県館林でした。お嬢様の雰囲気の残る兄嫁が気の毒に思えました
多々良川の川沿いに白鳥の飛来地として有名な多々良沼があります。
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白鳥の飛来する事で有名な多々良沼館林美術館はその近くにあり、自然との調和を第一義に造られました。「人間と自然との理想の関係を文福茶釜に見つけてその理念を形にした美術館でした。写真出典ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E3%80%85%E8%89%AF%E6%B2%BC

その湿原に2000年竣工したのが群馬県立館林美術館でした。設計したのは南青山の第一工房(高橋一代表)。美術館のテーマは「自然と人間」でした。多々良沼一帯は調節池として保存されていたのでしたが、洪水対策と併せて一帯を自然公園都市公園として再開発するその目玉が群馬県立館林美術館だったのでしょう。
イメージとすればパリの西北にプロバンスがあり第一次世界大戦に懲りた芸術家が芸術活動の拠点を田園地帯に移したことをイメージして。美術館を建設、美術館の目玉にポンポンを指名したのでしょう。
同美術館の常設がプロバンスの。牧歌的な風景の中で鑑賞できる美術館、ポンポンのプロバンスでのアトリエを併設しました。
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ポンポンのオブジェが出迎えてくれる館林美術館
建物の中と外との調和は日本建築の永遠のテーマですから館林美術館は赤松やプラタナスの小路を辿るエントランスから良い美術品に接する準備をしているようです。森の小路には彫刻が点々と設置されています。しかし、群馬県がコレクションしたポンポンの作品はポンポンの死後に鋳造したものが大半でそうした行為を、ポンポンが遺言で禁じていた事から問題となってしまいました。死後鋳造の模造品とは解っていても常設展示場のポンポンは動物のフォルムが単純化されていて温もりがあります。熊谷守一を彫刻にしたような作品が並んでいます。
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右側の堰堤の西側が多々良川でその下流「南)に多々良沼がある立地です。一体が長良川遊水地と同じ雨水のダム機能を持たされていると思われます。夏には白い蓮が咲き冬にはシベリアから白鳥が飛来する美しい田園です。茶色の丸い建物が常設展示場です。橋の下に枯れ蓮が見えます
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館林美術館の西側は田圃で刈り入れも終わり藁が積んでありました。白鳥は田圃の落穂を餌にしていることでしょう。
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館林と云えば文福茶釜に次いで有名なのが躑躅です。健気に?狂い咲きか戻り咲きか?咲いていました。

群馬県が何故ポンポンに着目したかと云えば、舘林は文福茶釜の茂林寺で茂林寺と云えば狸で狸と云えば腹太鼓でポンポンなんだそうです。安易な発想が狸に化かされたように死後模造品をコレクションしてしまったようです。
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ガラスをふんだんに使った美術館で温室の様な温かさでした。
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これがプロバンスのポンポンのアトリエを模して建てたアトリエこの日は室内を船越桂のアトリエにチェンジしてありました。手前の樹林は桂です此処に高砂百合が自生しているそうです。職員に木を確認したのでしたがそこまでは解らないと云う返事でした。
は美術館の建物の周囲は田圃です。田圃には点々と収穫を終えた藁が積み上げられていました。この田圃に散っている落穂も屹度白鳥の食べ物になっているのでしょう多々良川の堰堤に登れば北に日光の山脈が見渡せます。何れも冠雪して光り輝いて見えます。川面には真っ黒な水鳥が遊んでいます。アヒル程度の体型で黒い羽銀色の嘴屹度バンでしょう・期待の白鳥は多々良沼まで降りなければ観察できないようです。周囲の景色に調和した良い美術館です。次は蓮が咲いて桂が青葉の季節に来ましょう。
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アトリエから桂の樹林越に西を観る夕焼けを観たいものです。
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群馬県立館林美術館のエントランス玉石を敷いて池にした進入路は上野の法隆寺館(京都国立博物館や土門拳記念館を設計した丹下健三の弟子)を想わせます。
経緯は別にして群馬県立館林美術館素晴らしい美術館です、此処で船越桂氏の展覧会を見学しました明日は同氏の事を書きます。

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十六夜日記への想い

帯子さんの句集を読んでいたところ私はずっと阿仏尼の「十六夜日記」を想いだしていました。
そこで今日は阿仏尼を素材に書いてみます。
鎌倉の尼寺「英勝寺」を越して扇ガ谷の奥に進む道の崖に櫓が掘られています。櫓の中には七重石塔が積まれていて入り口には「阿仏尼」墓と案内されています。櫓は初夏になると真っ白い「卯の花」に飾られます。卯の小花が散ればそのあとには大輪の山百合が山風に揺れています。実に鎌倉らしいスポットです。
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これが阿仏尼の墓英勝寺の裏山道路切通し脇に在ります。崖には忍冬が生い茂っていますが、初夏には卯の花が次いで山百合が咲いて子供想いの阿仏尼を癒しています。この位置からは真東に淨光明寺があり、同寺には息子の冷泉為相が眠っています。

藤原定家を父に藤原俊成を祖父に持つ藤原為家は後妻に佐渡の守平度繁(糊し偈)の娘「阿仏」を迎えました。
阿仏は邦子内親王(くにこないしんのう」に仕えた才女でありましたから、和歌の名門冷泉家の奥方には最適だったのでしょう。でも為家には既に先妻との間に為氏(ためうじ)を筆頭に3人の為守の息子が居ました。
阿仏と為家の縫たりには為相(ためすけ)為守(ためもり)の子宝に恵まれました。
為家は冷泉家伝来の所領「播磨の細川荘を阿仏との間に出来た子供「為相」に譲るという遺書を残して旅立ちました。
為家にすれば細川荘は和歌の名門冷泉家を継ぐべき人物に遺したい・・・。といった事が本意だったのでしょうが。現実は遺書の通りにはならず、長男の為氏が細川荘を占有し、家来らも誰一人として阿仏の味方をする者はいなかったのでした。
阿仏は息子が可愛い事と名門冷泉家を守る為には『息子為相の才能を磨く』と同時に『所領も確保しなければならない』と確信したのでした。
でも現実は先妻の息子為氏が細川の荘園を占有していて埒があきません。そこで阿仏は女だてらにというか母親だからでしょうか?鎌倉幕府にに訴え出る事を決意しします。
阿仏が京都を出たのが弘安2年(1279年10月16日十六夜の日でしたので日記文は一般に『十六夜日記』と呼ばれます。鎌倉に到着したのは弘安3年(1280」年。で日記は鎌倉滞在記や鶴岡八幡宮に奉じた長歌等が含まれています。
阿仏は単に自分の腹を痛めた息子が可愛いので訴訟といった手段に出たのではなくて定家を筆頭にする和歌の名門を絶やせないといった自覚が阿仏を強くしたのでした。其処には古代の女性の大人しさよりも逆境にも逆らって運命を切り開こうとする女の母親の強さを見る事が出来ます。
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10月16日京都を旅立った阿仏は在原業平や文屋康秀等の旧跡を偲びながら1か月を要して鎌倉に到着しました。
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阿仏は鎌倉では極楽寺裏の月影の谷に逗留します。鎌倉滞在記は此処で海鳴りを聞きながら山蔭に見え隠れする月を眺めながら不安と焦燥の日々を過ごします。鎌倉到着後数年で亡くなったのはこの精神的な負担も災いしたのでしょう。
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月掛地蔵尊小学生が面倒見をしています。
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極楽寺橋の袂にある人形工房「萩」のショーウィンドーには十六夜日記を和紙人形で表現した人形が展示されています。筆者は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48359629.html
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上の写真と同じ「十六夜日記人形」の鎌倉問注所での審議の場面『北条時宗に直訴する阿仏尼』自立する女性は阿仏尼と北条政子を敬愛する者でしょう。

鎌倉では腰越に接した稲村ケ崎の山中「月陰谷に隠棲します。その時の日記は以下の通りです。
「あずまにて住む処は月陰の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて風いと荒らし。山寺のかたわらなればのどかに凄くて、波の音松の風絶えず都のおとずれはいつしか覚束なき程にして。宇津の山似て行き逢いし山伏の便りにことづて申したる人の御もとより、確かなる便につけて、ありし御返事とおぼしくて」阿仏尼は鎌倉では稲村ケ崎に近い月陰の山間に隠棲してもの寂しい波の音や松の梢でなる風の音を聞きながら侘びしく過ごしましたでも山伏にお願いして様々な便りを都の人に送ったのでした。便りには息子の為相の成長への期待がつづられていたのでした。為相も近作の和歌を50首も作って母に送る良い子でした。
そして、4年間訴訟に専念したものの結審(勝訴)を見ずして弘安6年鎌倉で亡くなります。その結果先に案内した扇ガ谷の崖に櫓を掘って埋められたのでした。
裁判が結審したのは正応2年(1289年)の事でした。阿仏の主張を認めて細川荘は藤原為相が相続したのでした。為相は鎌倉に残り武士にも和歌を広めたのでした。阿仏の姿勢が倅を立派に育て和歌を日本中に武士にも広めた事は間違いないでしょう。阿仏尼を「女だてらにと批判する人も多いのですがむしろ。中世初頭に斯様に自立した女性が居たことは特筆に値する者と思うのです。
言うべきは言うハンカチを握りしめ   (七緒)
帯子さんがハンカチを握られた経緯は知りませんが母親は覚悟を決めれば昔も今も強いものでしょう。
幸いな事に私はワイフにハンカチを握って対峙された事は未だありませんが・・・・。
何時どんな事情でハンカチを握って談判されるか恐々としています。


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