仮想旅へ

毎日の通勤路を憧れの街道歩きに転換してみたら? あなたを「LOHAS」な世界に誘ってくれます。

街道ウォーキング

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全国の歴史的な町並みや、史跡をウォーキングします。筆者は慶応大学日本文化研究会の会員で、多様な世代の仲間と共に、地方を歩き、地誌を学んでいます。
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上州の石仏を見ると抱擁道祖神にしても味噌舐奪衣婆にしても人間臭さが際立っていますこんな土地には往々にして素晴らしい民話や義民伝説が残っているものです。私達は沼田の義民「磔茂左衛門」を確かめるべく。利根川の月夜野橋を渡って西岸に在る茂左衛門地蔵尊千日堂に向かいました。本堂の右に集会室があって机とパイプ椅子が並んでいます。壁には歌留多状の絵と説明が貼られています。「磔茂左衛門」の伝説を絵本か紙芝居状にして説明したもののようです。沼田の小学生は屹度遠足になると此処千日堂に登って故郷の義民の話を聞いて。目の前の赤城山野利根川を視て故郷愛を育んでいるのでしょう。私達が本堂に入りアッチコッチを見回していると寺族の方が集会室でビデオを見るように奨めて下さいました。 先ずはビデオの要約を案内します
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利根川の西岸高台に磔茂左衛門の霊を祀った千日堂が本堂を背にした位置に利根川が流れていてその川岸に処刑場の碑が立っています。
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本堂の横に広い集会場があって磔茂左衛門のビデオを見ながら故郷の英雄の一生を説明して貰えます。

茂左衛門の処刑執行は留められましたが赦免状の届くのが遅く既に刑は執行されてしまいました。農民は磔茂左衛門の首を奪い返して千日堂を建てて茂左衛門の霊を慰めました。 【磔茂左衛門」の義民騒動 話は1662年沼田藩の藩主真田信利が沼田真田藩の独立に始まります。父真田信行(昌幸の子)が死ぬと上田真田藩は次男信利に沼田の自領を分家独立させます。真田信利は上田真田藩(10万石)に追いつけ追い越せを目標に新田の開発税率の改悪に精を出します。信利の悪政に対して農民の反発が強まっていました。
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新領主の真田信利は新田開発河川改修に熱心で厳しく検地を実施しました。
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一方で伊賀枡と呼ばれた大きな枡を使って年貢の取り立てを実施しました。伊賀とは忍者の事で「インチキ」の意味でしょう。
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茂左衛門の処刑執行は留められましたが赦免状の届くのが遅く既に刑は執行されてしまいました。農民は磔茂左衛門の首を奪い返して千日堂を建てて茂左衛門の霊を慰めました。
月夜野の杉木茂左衛門(すぎきもざえもん)は知恵者で真田信利の苛政を時の将軍徳川綱吉に直訴しようとします。 当時上野寛永寺の改築の為沼田では材木を切り出して上野に送っていました。その寛永寺改築の用材に将軍宛の直訴状を紛れ入れます。茂左衛門の目論見通り直訴状は上野寛永寺管主を経て綱吉の眼に触れます。しかし、直訴自体が御法度でしたので茂左衛門は磔の刑が執行されます。綱吉は「生類憐みの制」を執行した人物。茂左衛門の磔刑の執行を想い留めます。しかし処刑執行停止の命令が届くのが遅く、茂左衛門の首は利根川の川原に晒されてしまいました。沼田真田藩は改易されて、農民は圧政から解き放たれました。農民は茂左衛門を千日堂に祀って謝意を伝えます。沼田真田藩の騒動は利根川を下って近世には佐倉宗吾の伝説を生んだとも考えられます。
明治時代には磔茂左衛門は戯曲等に取り上げられ人気が沸騰し上州では萩原 朔太郎同様に知らぬ人もいない人物になりました。
沼田の街には「真田一族を大河ドラマに」幟旗が林立していました。
さぞかし、真田信行は評判悪かろう思って訊くとそれほどではありませんでした。「真田信行は悪人萩磔茂左衛門は善人」そんな単純な線引きは為されていないようです。悪いのは貧困であった事。真田信行の圧政は貧困の一面で磔茂左衛門の抵抗は致しかたなかった事とでも受け止められているのでしょう。
集会場の壁には二人の絵が貼られていました。一人は明治の毒婦と云われた「高橋お伝」もう一人は「戯曲にもなった「白小屋お駒」でした。二人とも絶世の美人で美人であることが災いを招き処刑された薄幸の人です。人は外部要因で時に義人として尊敬され時に天下の毒婦として軽蔑されるのです。
その構図は奪衣婆が地獄の刑の執行人として怖い存在(鬼婆)であると同時に地獄で再生の導きをしてくれる慈母(聖女)であるのと似ているようです。明日は高橋お伝と白小屋お駒の話を致します。上州は聖女い毒婦が共存している事でも楽しい土地だと思うのです。
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月夜野橋。お天気なら谷川岳が望めるそうです。黄色い橋脚は興醒めですが道幅が狭隘なので致仕方無いのでしょう。
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利根川の月夜の橋周辺に集まっている磔茂左衛門の史蹟



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愛鳥週間に入りました。我家の雀さんは今年も上手に子育て中で親子の姿が眼を楽しませてくれています。グミの実をムクドリが群れて食べに来ています。グミは数も少ないのでもう暫く眺めて居たいのですがムクドリは委細構わず啄んで行きます。もうじきカワセミも燕も幼鳥が目立つ季節です。裏山で雉も鳴く事でしょう。「雉の啼き声を聴くと安曇野の犀川の悲話を思い出します。
綺麗な川や湖には何故か悲しい民話が残されているものです。私の生活圏では箱根のお玉ヶ池にも悲話がのこされています。長野松本の犀川が梓川に名を変える辺りにに「米路橋」があります此処にも悲話が残されているのです。今では有名な伝説ですが1957年松谷みよ子さん採取して発表されて以来知られるものになったのでした。
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聖高原を降りると信州新町があります。岸辺には有島生馬記念館(鎌倉極楽寺から移転したもの信州新町美術館もあります。実に風光も明媚で文化の色濃い土地です
【お千代の悲話】
犀川に近い寒村に弥平と娘のお千代が慎ましく生活していました。ところがお千代は病気になってしまいました。寝床でお千代は弥平に言います。
「私小豆の入ったご飯が食べたい」
それはまだお母さんがいた頃親子三人で食べたご飯を想い出していたのでした。弥平は娘が愛おしくてなりません。そこで庄屋さんの蔵に忍び入り祝用に貯蔵して在った「小豆と糯米」を盗んで娘に食べさせました。するとお千代はみるみる健康を回復します。
お千代は手毬歌遊びをしましたその歌に「小豆のお飯美味しいな!」歌ってしまいます。貧乏なお百姓の子供達ばかりですから「小豆ご飯」なんて滅多な事では食べられません。お千代の手毬歌が発端になって弥平の泥棒が発覚してしまいました。ある年の事でした。村人が庄屋さんの家に集まって相談していました。昨年の秋に流されてしまった「橋を建て直そう」計画でした。橋を堅固に建てるために人柱を建てる事になりました。「誰を人柱にしようか?」其処まで話が進んだところで。村の衆は「弥平を人柱にすんべえ!」目配せしていました。誰しも人柱には立ちたくありません。それに盗人を働いた弥平であれば文句もあるまい思ったのでした。
お千代は何日も何日も泣き続けました。
「自分が手毬歌で歌ったばかりに大切なお父さんが人柱になって殺されてしまった!」
それからお千代は一言も口を利かなくなってしまいました。村人もお千代は唖(おし』になったと思いました。
それから何年もの年月が流れました。猟師がキジの鳴く声を聞いて鉄砲で撃ち落としました。キジの落ちたところに向かうとお千代がキジを抱いて立っていました。」
猟師が近寄ってお千代から雉を受け取ろうと両手を差し出すと
お千代は雉の遺体を見詰めながら呟きました。
「雉よ、おまえも鳴かなければ撃たれないですんだものを」
猟師は驚いて叫びました
「お千代!お前は唖と違うか?何時から口が効けるようになったんか?」
お千代は猟師に背を向けると山の中に消えてしまいました。
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我家の周囲でも雉の放鳥によって記事が目立つようになってきました。もうじき親子連れの雉の家族が目を楽しませてくれることでしょう。
【悲話の背景】
犀川の名は妙な名前です。犀なんて言う動物は馴染みはありませんでした。犀川とは大変な暴れ川で治水が困難征(さい)服困難の意味でしょう。犀川流域は古代から安曇氏という豪族が強い指導力で治水工事をした歴史があるようです。松本平には小泉小太郎の伝説も残されています
治水工事やお城を建てるに際して大地の神の加護を乞う為に人命をいけにえのようにして奉げたのでした。これは日本だけではなくシャーマニズムには共通する神事で東南アジアには多く確認できます。久米路橋再建に際して人柱を建てた事は中世的な感覚では特段異常ではないと思われます。でも時代が下って近代に近くなるに従って人柱の非人間性が糾弾されたのでしょう。
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もうじき燕も巣立って賑やかになります。
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私が幼いころはイチゴは貴重でした。畑の一角にイチゴの苗を植えてあり収穫するのを楽しみにしていましたが。それはカラスやムクドリも楽しみにしていたようでカラスに取られないように収穫するのが難儀でした。我家には畑が無いのでイチゴ競争こそ無いものの今は無花果の収穫を競っています。カラスは色盲と聞いているのですが無花果の熟するのは目ざとく、大半の収穫はカラスに先行されてしまい。私は呆然とカラスの食べ跡を眺めるだけです。琵琶のように無花果も袋懸けをしないと食べられそうにありません。でも私にはカラスと競う方が適当で楽しくもあります。ことしももうじきカラスと競おうかな?思いながらまだ固い無花果の花芽を見詰めています。
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久能山石垣イチゴは東名静岡ICから海岸通りを出て太平洋沿いにあります。久能山には日本平から入る人が多いのですがそれは裏参道で表参道は海からです。
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久能山東照宮の表参道に石垣イチゴのお店が集積しています。
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石垣イチゴ農家は売店も兼営しています。2パック1200円ですから目標は2パックを食べる事です。

そんなイチゴでしたから偶に本堂のご本尊に石垣イチゴがあがると堂内が甘い香りに包まれて、仏様のお下がりを戴くのが楽しみでした。
イチゴと言えば久能山の石垣イチゴが在るだけで今のように栃木の栃乙女とか女蜂とか「嵯峨豊の香」とか「岐阜の濃姫」とか多種多様というか「多産地・多種類」です。先月旅行で食べた飛鳥ルビーも美味しかった。飛鳥ルビーは甘さと香りが優れて女峰であると感じました。
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石垣の上にビニールハウスで覆っています。山頂が久能山東照宮の東門
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石垣ビニールハウス栽培の久能山イチゴ給水パイプがはいかん配管されています。
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石垣の熱が促成栽培を促し石垣なので泥の撥ね返しが無いので生活感があります。石垣の石の隙間には雑草が花を咲かせていました。

今年の春はイチゴを充分に味わっていないのでワイフと連れ立って久能山にイチゴ狩りに出かけました。台風一過の13日でしたのでお天気は爽快胃腸も元気いちご狩りには最高のコンディションです。売店には2パック1200円で朝どりイチゴが並んでいます。よし2パック分食べれば本手か、思いながらビニールハウスに入りました。私の記憶では久能山の石垣イチゴは石垣の隙間にイチゴの苗を植えたものでビニールハウスの囲いなんてありませんでした。潮風がイチゴを強くするし石垣が温かいのでイチゴの早逝栽培が可能だったと記憶しています。今は石垣をビニールハウスで囲った上に塩ビの配管をして自動給水も行っているようです。
私は足が悪いのでイチゴ屋さんが気づかいして二人だけを一棟のビニールハウスを割り当ててくれました。ハウス内はもう初夏の暑さですし、蜜蜂が飛び交っていました。
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蜜蜂が活躍しています。
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練乳を与えられましたがイチゴは甘いし香り立っていますので練乳は不要でした。味に自信があれば練乳は不要です。栃乙女も群馬の女峰も練乳は使いません。

「栃木だ」「群馬だ」「飛鳥だ」「佐賀だ」「博多だ」各地のイチゴを食べて来ましたが、日本のイチゴが甘い事と香り立つ事では抜群です。カリフォルニアやハワイのイチゴは見た目は綺麗でも美味しくありません
私が学生時代荒井由美の「いちご白書をもう一度」が流行っていました。甘酸っぱい記憶は青春そのものでした。
銀行員時代カルフォルニアのパーム・スプリングスのホテルでデザートにイチゴを食べました。カリフォルニアのイチゴは日本人が戦前戦後に移民して「日本の美味しいイチゴを大陸でも栽培したい」、として始めたそうです。ただ水っぽいだけのイチゴを食べながら想いました。イチゴは種を移しただけでは出来ない・・・土から作らないと・・・・・思いました。砂の上で水だけやっても、美味しいイチゴは出来ないのでしょう。久能山イチゴは「章姫」とネーミングされていました。章姫とは天璋院章姫の事でしょう。日本人は甘さも酸っぱさも濃いものが好きです。岐阜の濃姫には章姫は負けそうです。久能山の石垣イチゴが日本一であり続けるのは大変なようです。

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美穂の松原/影向の松

霊木信仰の話をして以来霊木が頭から離れません。日本の霊木で即座に思うのは松の樹です。樹形の良い松の大木は影向の松(ようごう)と呼ばれ、能舞台の板鏡に描かれたり将軍の謁見の間の障壁画等にも欠かせません。
「影向/ようごう」とは影と日向と書きますので「神仏が仮の姿をとって現れること」です。神仏の降臨の意味で「権現」と同じ意味です。松の姿に神々しさを覚えて本来姿形の無い神仏が松の姿を借りて降臨した、確信してきたのでしょう。影向の松は全国各地の大名庭園や寺社で見かけます。高松の栗林公園も本郷の六義園も兼六園もランドマークは影向の松です。
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狩野探幽 「松鷹図」影向の松といえばこの絵を思い出します。
でも何といっても影向の松の代表は美保の松原の羽衣松でしょう。台風一過の13日ワイフに連れ添って貰って出かけて来ました。美保の松原は何度も来ているのですがどうも記憶が薄れていたので霊木として松原を見るのは初めてです。全国各地の海浜に美しい松原があります。松原は防砂林として燃料(枯れ松葉)として大切にされてきたものでしょう。同時に松が潮風に強いとか松ぼっくりが浮くので潮に運ばれた等の事情があったのでしょう。
ケルト人がヒマヤラ杉をクリスマスツリーにしたように日本人は松の樹を拝んできました。
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平安神宮も栗林公園も兼六園も庭園の中心は「影向の松」です。日本人は絵の中核に影向の松があると安心するのです。法隆寺の中核が五重塔であるように。法隆寺五重塔の屋根の反りは影向の松のよいにリズミカルです。

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美保の松原お決まりのアングル白砂青松の筈ですが此処は富士山の麓安山岩の砂で黒砂でした。もう2週間もしたら浜昼顔が咲き出すことでしょう。
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これが天の羽衣先代が枯れてしまったのでこの松が昭和22年二代目の羽衣松に指名されたそうです。これでも樹齢は680ねんだそうです。檜や杉に比べると松は寿命が短いようです。でもこの羽衣松は「西行戻り松」の様に海(東)に向いて居て影向の松の様に姿が良くありません。
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美保の松原二代目羽衣松と同世代の黒松が林立しています。
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この道が通称「神の道」と呼ばれる美穂神社と海を繋ぐ参道です。美保の松原と書きますが神社名は美穂で穀神であることを示しています。


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此方は若い松です。門松を思わす姿です。若いものの新芽が伸びて花を付けようとしていました。
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羽衣と言えばこんな形を想い出します。これは「影向の桜」ともいえる姿形です。(写真は室生西光寺)
影向と聞くと川崎の影向寺を思い出します。慶応大学の西脇順三郎先生が再三白鳳の薬師仏を拝観に訪れたお寺でにも日吉キャンスにも近いのです。此処は「影向の銀杏」です。「影向の楠」「影向の杉」影向の栢」など神々しい霊木は色々ですが、やっぱり松が一番すわりが良いようです。
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此方は影向の銀杏(葛城一言神社)

影向の樹は何れも神仏の素材になる可能性が高いのですが桜(蔵王権現)も栢(給烏浜の観音堂の11面観音)楠(法隆寺百済観音像長谷寺11面観音像)松(広隆寺弥勒菩薩像)桂(天台寺聖観音像)銀杏(小栗観音堂の木喰仏)等々様々な樹種が神仏の素材に使われています。日本人は適材適所に詳しく古事記には既に「ヒノキは宮殿に、スギとクスノキは舟に、マキは棺に使え」と、それぞれの樹種の使い分けを解析しています。私の仲間が檜の露天風呂が好きなのは1500年の歴史を引き継いでいる訳で理に適っているのです。

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北越雪譜の尊さ

民俗学の本を読んでいると再三「北越雪譜」が引用されています。著明な本なんだから一、度は眼を通しておきたい思って図書館から借りて来てもらいました。案の定強い感銘を受けました。この本を中学生の頃にでも読んでおけば私の一生も随分に違ったものになった事でしょう.
そんな次第で今日は「北越雪譜」の紹介をさせていただきます。
「北越雪譜」は江戸後期天保時代(1937年)に江戸で出版されたベストセラーです作者は現在の南魚沼郡塩沢で名産の縮の仲買商や質屋を営んでいた鈴木牧之です。初編は雪の成因や結晶のスケッチなどの科学的な分析が主であります。二巻以降は雪国の逸話が編纂されています。
印象に残るのは「雪中で熊に助られたマタギの話」や「雪の滝壺で鮭を採る男の最期」などでどれも厳しい自然の中で自然『神』を敬いながら、質実に生き抜こうとする雪国の人々の姿が深い敬愛の下に描かれています。今日的に見れば単に風土記的な興趣のみならず,科学的随筆とも称せられるもので、よくもこんな真面目で質実な本が出版されベストセラーになったというのは驚きであります。当時のベストセラーと言えば山東京伝の戯作本や滝沢馬琴の読本や十返舎 一九の滑稽本と思っていました。戯作本、読本、滑稽本が並べば後エロ本があれば現代の出版事情と変わりません。よくぞ『北越雪譜』のように地味で真面目な本が売れたものだと驚きです。その分、当時の江戸の庶民は質実でしかも科学的に社会や自然を視ようとする気風にも満ちていたのでしょう。
私が直ぐに好きになってしまった話は幾つもあるのですが、その中でも心に残った話を紹介します。
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【雪中に峠を越えた話】
屹度三国峠でしょうか、夕暮れに峠を越えようとする二人連れがいました。一人は塩沢縮を商う商人でしょうかもう一人は塩沢村の農夫の様でした。雪国の陽はつるべ落としと言います。明るいうちに峠を越えなければ最悪の事になります。二人は無口で道を急ぎます。ようやく峠に辿り着きました。後は一気に坂を下れば塩沢村に入れます。山脈の向こうには八海山の兜のような頂が見えます。残照に輝いて見えます。農夫は故郷の山脈が見えて安堵したのでしょう、急に腹を空かしたのを想い出しました。そこで隣の商人に言いました。「もう塩沢が見えてきたもう安心だ一服していこう」そうして担いだ風呂敷を開いてお握りを取り出しました。お握りは二個ありました。商人もお握りを見ると食べたくなりました。そこでお百姓に頼みました。
「そのお握りを私に譲ってほしい、懐には800文ある。このお金は塩沢縮を買い付ける為に持ってきたものでこれが私の全財産だ。」そう頼まれた瞬間に農夫の脳裏には家で自分の帰りを待つ奥さんの顔が浮かびました。
奥さんは雪の上に布を晒して塩沢縮を作り上げます。奥さんの苦労の結晶が塩沢縮であり、それが精々200文で到底800文には及びません。妻を楽にさせるにはこの際800文でお握りを譲ってしまおう、妻も喜ぶに違いあるまい。農夫は800文でお握りを手放してしまいました。それが間違いでした。峠道を下りだすと急に風が強くなりました。農夫は寒いと感じ始めました。一方商人は元気を回復足取りもしっかりしてきました。
農夫の妻は家で夫の帰りを心配していました。囲炉裏には火を焚き夫の好きな田舎汁も用意されて夫の帰りを待っていました。
時々風が戸を叩きました。「オッカア今戻ったぞ!」夫の顔が戸口に見えるような思いがしました。
ところが戸を開いたのは商人で肝心の夫は商人の背に負ぶされていたのでした。
商人は奥さんに言いました。
今朝二人で須川宿を発ったのでしたが陽の沈むのが早くて峠ではもう夕暮れに差しかかっていました。峠で一服してあとは下り道だからもう安心だと思ったのでしたが、農夫は私に握り飯を譲ってくれたもんだから、風に体温を奪われて凍死してしまわれた。それでもこうして家に戻れたのは私の耳元で囁いてくれたから
「此処を曲がってその先のお地蔵様の辻を右に折れれば突き当りが家だ」
私が死ななかったのはこの人の優しさのお蔭だ。心から感謝しています・・・。だからこうしておぶってきました。
奥さんは800文の銭を握りながら呟くのでした
「お前さん。お前さんの命は。800文じゃないんだよ私にとっては値千金だよ・・・・」そんなことも知らんかったの。
商人は奥さんと一緒に泣くだけでした。
翌朝塩沢村では慎ましやかな葬儀が営まれました。
新しい美味しそうなお握りがお仏前に供えられていました。
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北越雪譜のイメージ斉藤清氏の版画


私はこの話が心に浸みました。
そこで先ずワイフに話して聞かせました。
次いでデーサービスで話して聞かせました。
良い話は読むだけでは駄目で話して聞かせてじぶんとおなじ感動を聞き手に残して初めて読んだことになると思ったからです。こう想う様になったのは吉野花紀行で刈萱堂で石童丸物語を経験したからでした。
総じていえばお握りの価値を見誤ったとして農夫が責められていました。命あってこそお金の価値があるもので、命を失えばお金に価値は無いというのが大多数の意見でした。
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北越雪譜のイメージ斉藤清さんの版画北越は木喰上人も長逗留した信仰の篤い土地です。
私は商人の命が農夫の命と引き換えに残された事実とそれに気付いて感謝した商人の姿こそ尊いと思いました。今の子供に訊かせれば何と答える事でしょうか?屹度「お握りを山分けすれば良かったのに」言う事でしょう。現代っ子は民主教育が行き渡り公平公正が常識になっているのですから。私はもう古くなった常識を伝えていると確信するのですがすなわち「命は自分だけのものでは無く、隣人から引き継ぎ与えられるのなのだ」
また「熊に助られた猟師の話」など【山の神】をインスピレーションさせるいい話です。また「滝壺で鮭を獲るる男の話」は現代でもありそうな愛情が一寸したすれ違いで悲劇になってしまう話でした。どれもこれも素晴らしい民話です。今年も今頃は北越は雪が溶けて雪割草の群落が花開いて妖精が山の神を田の神に変身させていることでしょう。


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