|
深夜ラジオ(NHKラジオ宅急便)で美川 憲一さんが楢山節孝(深沢七郎)の朗読をしていました。ご本人は三越劇場で誘われたそうですが,断りきれなくて始めた処三味線と尺八を伴奏楽器にして朗読すると会場からはすすり泣きが聞こえて新劇の様な雰囲気で満ちていたそうです。
私は改めて「楢」の森の意味を考えたり。思いを巡らしました。
一般に楢山節孝の舞台は信州の姥捨て山だと考えられています。戸倉上山田温泉から冠着山(姥捨て山)に登ると長楽寺があります。長楽寺から田毎の月を見下ろす位置に巌谷があります。巌谷がまるで風葬の洞の様に保存されていて脇には芭蕉を始め多くの句碑が立っています。
此れは広重の名所図の「田毎の月」です。棚田の遥か上に在るのが長楽寺です。お寺の背後に側の大岩がありますが、その洞は風葬による墓地だったと思われます。千曲川の河岸の断崖の洞は鳥葬や風葬の跡が多くあります。風葬の記憶が姥捨て伝説を生んだと確信しているのです。
長楽寺を過ぎて更に山を登ると古刹智識寺に出ます。この先を北に行けば石仏で著名な修那羅山安宮神社に出られますが、西に向かえば聖山を越えて大岡村に出ます。
戸倉温泉から聖山に登る途上に真言宗の行基開基の古刹智識寺があります。聖山は高野聖の修行地だったのでしょう。
大岡村は民俗学が好きな人にとっては道祖神等で格好な素材が多い処で、正面に北アルプスを眺められます。聖山の名は修験道の聖地だったからでしょうが、何を置いても北アルプスの純白で屹立している姿が聖を想わせるからだと確信しています。私は長銀時代に仲間6人でこの村の一山を共同購入しました。山を下れば松本にも上田にも安曇野にも行けた事と町営水道の水が美味かった事等動機は幾つもありました。ところが長銀が破綻した事からこの時の仲間とも離れ離れ、共同購入の組合組織も解体して2千坪の山林が分散所有に変わりました。今では固定資産税も無税になったので後悔の念も薄くなりました。
此れは聖山のある大岡村です。急な坂を下ると麓は信州新町です。犀川の岸辺に在る美しい村です。有島武夫美術館があります。
処で「楢」はどんな木だったか想い起す事から始めましょう。
楢とは「コナラ」の事で「団栗の木」と云えば思い当るでしょう。団栗は「クヌギ」にもなります。若しも楢山節孝の家族(老母・おりんと息子・辰平という親子嫁の玉、息子と娘が居る)が麓の戸倉に住んでいたのなら。楢山は冬の燃料になる薪を伐り出すと同時に飢饉になれば団栗の実で命を繋ぐ入会の山だったのでしょう。でもこの村には貧乏ゆえの厳しい因習があったのでした。
これが「コナラ」の実です。一般に団栗と呼ばれ飢饉食にもなります。クヌギよりも木肌が白いし扱い易い雑木です。
69歳の年齢になると口減らしの為に息子が背負って楢山に捨てて来なければならないのでした。老婆のおりんは息子が山に行こうとしないのを意気地なしと思っています。家長なのだからモットシッカリして欲しい思っていて正月前に村の人を呼んで「振る舞い酒」を酌み交わします。村人は夫々捨老経験があるので辰平にタブーを教えます。往路は「口をきいてはいけない」復路は楢山を振り返ってはいけない。七曲りの坂を越えれば正面に楢山様が見える。
今年の初秋に私は仲間と「越中八尾」に「風の盆」を観に行きました。八尾は立山の参詣道に在る宿場ですから立山の芦峅寺(あしくらじ)により立山博物館で立山曼荼羅を拝観しました。ロケーションは姥捨て山に酷似しています。立山の麓は美田が広がっています。楢山節孝のおりんと辰平親子の住まいは千曲川沿いの平野だったでしょう。後ろは冠着山(姨捨山)です。立山と似ています。立山曼荼羅では立山の山麓に芦峅寺があって、お寺の背後からは地獄が広がっています。雄山の山頂には洞があって阿弥陀如来が居られます。山頂が極楽なのです。雄山の洞と姥捨て山長楽寺の洞(一見して風葬による墓場)
此れは立山曼荼羅です。手前のお寺が芦峅寺でお寺の背後は地獄です。立山の山頂が雄山でその洞に阿弥陀如来立像が現われています。聖衆が天空から雲に乗って来迎してきています。
立山曼荼羅の絵を楢山節孝に当て嵌めてみれば、おりんは嬉々として楢山に捨てられる事になります。死ねば極楽に行ける事に加えて神になって愛する辰平家族を守護できるのです。
立山の修験道は熊野の行者が移って来て開いたものと云われています。次は有名な熊野曼荼羅です。良く京都の橋の上で熊野修験がこの曼荼羅を広げて通行人に説明し、お札を配っている洛中図が残されています。
此れは熊野曼荼羅図です。手前右が奪衣婆でその上は地獄図です。地獄の上に山があって上り口(左端)に鳥居があります。此処から虹のように登ってゆくに従って出世します。頂上を極めると後は下り坂で歳を取って行きます。そして最初の奪衣婆に戻ります。ライフサイクルが絵解きされているのです。
一般に楢山節孝は極貧である農村の人減らし対策と捉えられて貧困の厳しさに比して人情の濃さを訴えたヒューマンな説話として理解されています。でも立山曼荼羅の伝統を見るに付け、親子の情愛の濃さと共に、子孫の為に喜んで死路に着く潔さや意義ある死に様を観るのです。
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。 |
街道ウォーキング
[ リスト | 詳細 ]
全国の歴史的な町並みや、史跡をウォーキングします。筆者は慶応大学日本文化研究会の会員で、多様な世代の仲間と共に、地方を歩き、地誌を学んでいます。
|
8/3日奈良交通の深夜バスでY-CATに向かいます。
バスの出発時間迄時間があるので奈良博の喫茶室では閉館時刻迄粘りました。それでも、私がJR奈良駅に着いたのは午後6時深夜バスの出発時刻迄は4時間も時間を潰さなくてはなりません。
此れは新装の奈良博ミュージアムショップ、隣が喫茶lコーナーです。パネルの蓮の絵は折り紙です。
此れは奈良博の喫茶コーナー右側がミュージアムショップです。
私はJR奈良駅の南口は未知ですので何が在るのか散歩しました。大安寺迄は距離が在って到底歩けないようです。裏口とはいえ駅前ですから、映画館か気の効いた喫茶店が在るかもしれません。でも結論的に云えば何も無いのです。表口(北口)にはDVD店や漫画喫茶や銭湯が在るのに裏口には何もありません。京都駅の裏口は東寺があってその周囲は怪しげなお店が密集していました。悪の匂いがするのです。一方奈良駅裏口はまるで此処に奈良女子大が在るような清潔な文京地区なのです。
此れはJR奈良駅の南北を繋ぐ通路に面した奈良美味いモノプラザ。土産を買って食事をするには恰好な店です。JA奈良の運営のようです。
奈良野菜のショップが魅力です。一昨年は地蔵盆を京都で迎えましたが来年は地蔵信仰の発祥地元興寺出迎えたいものです。
私はこの「生卵ご飯」が食べたかったのでしたが朝だけのサービスで8/1の朝来た時は開店前で向かいのモスバーガーに入ってしまいました。生産者の顔を案内している処が進んでいます。
私は奈良旅行最後の食事を野菜カレーにしました。若奥様三人組が深刻そうでした。
私はJAのレストランで食事を終え、お土産を買い込み駅ビル二階の喫茶店で読書しました。でも4時間の空白は埋まりません。旧奈良駅駅舎は駅前広場に移築され観光案内所とスターバックスが喫茶店に使っています。
これが昭和モダニズムの旧奈良駅(土木遺産)大半が奈良市の別動隊が運営する「観光案内所」で右側がスターバックスが喫茶店運営しています。右側広場にはテラス席もあるし街路灯の上にはスタバの看板も出ています。
駅前広場にはスタバの看板やテラス席などJR西が便宜を図っています。JR西は公共機関ですから公正・公平でなくてはならないように思うのですが・・・・。
私は観光案内所で荷物一時預かり(1個700円)を見つけ。荷物を総て宅急便で自宅に送ろうと思いましたすると職員は「宅急便なら向かいのセブンイレブンが扱っています」と指差します。何のことは無いJR奈良駅前は駅ビルをコアにしてコの字形にJR西日本のテナントビルが囲んでいるのです。JRグループは鉄道業から貸しビル業、更には小売り流通業に傾斜しているのです。セブンイレブンの隣はローソンです。ローソンは煌々とネオン看板が灯っています。ところがセブンイレブンのネオンは店内にあって、目立ちません。店内に在る看板に惹かれてセブンイレブンの宅急便を使う事にしました。実はセブンイレブンはヤマト運輸の扱いだけで、ローソンは日本郵便と佐川急便も扱っているのです。当然ローソンの方が価格競争が有効に働いて安いのです。小さなリュックの縦横厚みを布巻尺で測ります。観るだけで縄延して巨大な荷物になってしまいます。小さなリュックの料金が1400円になってしまいました。
ネオンの看板の件を尋ねるとこのビルのオーナーはJR西日本でセブンイレブンの出店条件はビル内だというのだそうです。ビルの外観に手を咥える事は許可されていないので電飾看板はガラス戸腰と云う事でしょう。
一方JR奈良駅の旧駅舎を観るとスターバックスの看板が輝いています。
JR奈良駅の旧建物は御影石積みで昭和9年(1934)に建てられた近代化遺産で、長く古都奈良の玄関口として親しまれてきましたが関西本線と桜井線の高架プランに際して市民の保存運動が盛り上がって現在地に移転保存されたものです。室内だけではなくテラス席も用意されているし街灯にはスターバックスのお姐さんの看板が出ています。要するにJR西日本はスターバックスには三顧の礼でテナントになって貰いセブンイレブンはテナントにしてやったという事でしょう。そんなにスターバックスに魅力があるというのでしょうか?
私は観光案内所に常設された図書を閲覧し観光ビデオを繰り返し眺めました。後から後からスターバックスにはお客さんが来て絶えません。この日は熱かったので珈琲スターバックスラテが売れ筋のようです。
外国人は決まって珈琲ラテを注文しています。抹茶クリームも美味しいのに思います。。私は駅ビル1階のスーパーに行ってカット西瓜を買ってベンチで戴きました。ベンチの前がバス停4番で長距離バスが出発します。一番頻発するバスは関西空港行きでした。関空を夕方飛び立って上海や北京に今日中に着くのでしょう。関空行きバスはJRと関空の2社が競合していました。次に多いのが東京駅、TDL行でした。此方はJR関東と奈良交通2社が競合していました。お月様が傘を挿しています。明日は奈良の天気も崩れるのでしょう。奈良駅前はスーパーホテルと云う名のビジネスホテルが席捲しています。皆JR西日本のビルのテナントのようです。もうじき10時です。観光案内所は9時で閉店と聞いていましたが。未だ旧JR奈良駅ビルは煌々とライトが点いています。スタバは10時まで稼いでいるのでしょう。スタバは所得税ゼロ(ライセンス料で利益は総て米本社に吸い上げられる)だというのに、スタバでなくて地域に根差した良いテナントはいないのか?思って駅前を見渡しました。東に柿の葉寿司田中が居ました。「たなか」ならスイーツも抹茶も出せそうです。JR西日本の経営が中国人観光客から地元住人地元企業に向けられように願うものです。
家について一眠りしたらワイフが付き添って病院行きです。幸いに骨折の懸念は無いとの事でした。骨折して居たら、」こんなに眠れる筈無いそうです。
|
|
友人のT君は樹木が好きです。
昨年の春に福島の三春に瀧桜を田村郡小野の諏訪神社に夫婦大杉(翁杉と姥杉)を観ました。
今回のツアーでも同君の期待で、根古屋神社の大欅を観に行く事にしました。
津金三代学校をで腹も満ちたし、雨も上がりました。ご機嫌に塩川に沿って韮崎方向に下ります。
道路は増富ラジウム街道に出増す。増富ラジウム街道は半世紀も前学生時代に通りました。
海岸寺から根古屋神社に向かう道筋の築地の上から顔を出している立葵の花。
あの時は男女混成6人で野辺山でキャンプをして、私は”信州峠を越えて帰りたい”主張したのでした。ところが秩父道の石仏探しで時間を費やしてしまい。途中もう一泊する必要に迫られました。
突然に車窓に「増富ラジウム鉱泉」の看板が見えたので。其処のロッジにもう一泊したのでした。
イメージは鄙びた湯治場の一軒宿だったのでしたが部屋に通されると、壁は下品なピンク色の聚楽壁でした。
”趣味が最悪”私の評価は一気に低下・・・・。今になっては苦い思い出です。
暫し思い出話に興じながら増富鉱泉に向います。途中「獅子吼城址」を越えると「根古屋神社の大欅」の案内が出て来ました。塩川を越えて北側に出ると直ぐに巨大な欅が見えてきました。
本殿があって、神楽殿も備わっています。
大欅は1本と思っていた処鳥居の左右に在って対になっています。
西側の欅の前に案内板があります。
これは神社に向かって左側の大欅の南側面。幹の根元が腐って洞が出来てしまって、洞をコンクリートで固めて応急処置しています。
上掲欅の北面は腐っていません。樹皮は健康で瘤と魚の目のような姿の伐採枝跡が見られます。
根古屋神社を東側から視ると本殿の向こうに西の大欅(田の木)が見えます。明らかに本殿と神楽殿の陰にある事が生育の妨げになったと思われます。田の木が畑の木との競争に”アンフェアだ”クレームが出そうです。
『この根古屋の大欅は田木と畑木の対です。、共に樹齢800年ほどといわれるケヤキの巨木です。地元では、古くからこのケヤキの芽吹きでその年の作柄を占ってきました。春の芽吹きで田木の芽吹きが良い歳は稲作が豊作で、畑木の芽吹きが良い歳は畑作物が豊作になるというのです。今年は田木の方が芽吹きが良かったら苗代に樅を撒き、畑木の方が良く芽吹いたなら麦や蕎麦を撒いたのでしょう。 地域の人々にとって、大切な占いと信仰の対象だったのでしょう。
でも気の毒な事に両方とも地上15メートルほどの位置で幹は切断されてしまっています。屹度落雷の被害でもあったのでしょう。
向って右の畑木の方が樹勢も良いようです。田木は本殿の陰にありますから勢いが損なわれているようです。
これでは神様(天児屋根命/あめのこやねのみこと農業繁栄の神)は畑作をズット推奨し続けるようです。
昨今の米価からして、当然の判断でしょう。
神社に柏手して隣近所を見回りました。神社の周辺には石仏石神の類が多く遷座されているからです。
西隣りは神宮寺だったのでしょう。こじんまりしたお寺の境内に一体6像のお地蔵さんがおられました。
民家の壁には見事な鏝絵が輝いていました。
西隣りの神宮寺から大欅を観る。一石6体の地蔵尊が祀られていました。甲斐に多いタイプです。
須玉町江草の民家の鏝絵「松と紅葉に鷹が見事に細工されていました。今もこの地には優秀な左官職人が居るようです。
根古屋神社本殿に奉納された絵馬良く見れば昨年5月3日に宮司ご自身が絵筆をとって描かれたものです。屹度5月3日(憲法記念日)が例大祭で、この時に「田の木」「畑の木」の芽吹き状況を観て当年の農作の吉凶(稲にするか麦にするか?)を占ったのでしょう。古代の占と云うと「卜占(ぼくせん)」や「太占(ふとまに)/亀の甲羅や鹿の骨を焼いて占う,ですが植物の芽吹きを見て判断する方が理に適っているようです。
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。 |
|
海岸寺から坂を下って5キロ程の位置に津金三代学校があります。三代とは明治大正昭和の事で三代に渡って建てられた校舎が保存活用されているのです。
これは津金三代学校の中の明治の校舎(重文)現在民俗資料館と喫茶に活用されています。
津金学校明治校舎は典型的な明治初期の疑似洋風建築でバルコニー上部の唐破風は寺社建築の伝統技法です。大工さんが当時の山梨県令藤村紫朗に「こんな学校を建てろ」と指示されて、懸命に建てたのでしょう「夜明け前」の青山半蔵が新時代をイメージさせたような建物です。
津金三代学校内の展示。この学校は音楽教育に熱心だったのか楽器の展示が目立っていました。壁には山梨県の疑似洋風建築の学校が幾つも案内されていました。パネルの一番左は甲府駅に近い藤村記念館(旧旧睦沢学校校舎/重文)です。
旧津金学校は、明治6年開校。現疑似洋風建物は明治8年に地元の大工によって建てられたもので、地域の学校でしたが地域の発展に伴って、大正期、昭和期(中学校)に渡って三世代の校舎が並んで建てられたものでしたが、昭和60年[ 1985 ] 須玉小学校との合併によりその長い学校の歴史に幕を閉じました。でも明治の校舎は博物館とカフェとして利用され、大正の校舎は農業の体験教室に、昭和の建物は温泉施設(ハーブ湯)や農産物の販売所を併設し、「美味しい学校」として活用されています。本来の学校として活用されていない事実は残念ですが、利用されない木造建築は急激に老朽化してしまいます。津金町の栄光を留めて、今なお利用されている事実に安堵するモノです。
大正校舎は農業体験教室に使われています。この日には大型バスで生徒が勉強に来ていました。靴の整理を観ても良く躾けられています。
此れは津金三代学校の昭和の校舎です。「美味しい学校」とされていて、左側にパン工房右側で給食が食べられるようになっています。
学校は昔懐かしい土のグランドです。グランドの周囲は染井吉野の大木が囲っています、聞けば4月8日「花祭り」の頃に満開になるそうです。大正校舎の前の一番の大木が最初に花を咲かせるそうです。桜も人間も同じで年寄り程早く眼を覚ますのかもしれません。神代桜に王仁桜、北杜市近辺の桜は何度も観て廻りましたが此処の津金三代学校の桜も観てみたいものです。
明治の校舎の展示を観ていて気づきました。
明治の教科書はカタカナで書かれていたのです。ところが大正の教科書になると横に書かれていて加えて英語も目立ちます。教科書を決めていたのは文部官僚でしょう。漢文優先の明治の官僚は平仮名では無くてカタカナを優先させた。大正デモクラシーの風潮下の文部官僚は唱歌を優先し、英米文化にも開かれた子女を教育しようと思ったのでしょう。
此れは明治の教科書
左は大正時代の理科の教科、書右は数学の教科書横書きです。
昨今政治が教育にアレコレ注文を付けお金の力で誘導しようとしています。
政治が教育に係るのは憲法にも逆らうモノのような気がします。教育は社会の価値観の上の親の人間的な心情に任せるべきです。子供を育てる責任も義務も親に在るのですから。
|
|
八王子の友人にお願いして車を出して貰いました。八王子は通勤に便利だし西に向かえば行楽地も多く、便利な街です。1時間足らずで山峡に入りました。辺りは一面の霧の中、友人はハンドルを握りながら好きな俳句の事で頭が一杯になったのか、「霧」と「靄/もや」と霞の違いを話しだしました。霧と云えば秋の季語で今見ている東山魁夷さんの絵の様な霧は「山霧」と呼びワイパーが払いのける雨を「霧雨」と呼ぶのでしょう。
「山霧の峯峰昇りゆく巳ノ刻哉」
内藤新宿を7つ発ち(午前4時)すれば此処談合坂に着くのは昼9つ(午の刻)です。弁当を開くか茶店で一服する時刻でしょう。
一服すのはもう暫く我慢して貰い、最初の目的地は「笛吹川フルーツ公園」です。名前からすると笛吹川の川原にもありそうな果樹公園ですが。実は大違いで笛吹川を見下ろす、塩山の山腹にある果樹公園なのです。”何時も盆地の底から見上げていた果樹公園に行ってみたい”しサクランボも葡萄も桃も食べられそうな期待があります。
天然搾りたてのジュース位はありそうです。
一宮ICを降りて石和温泉を横断して雁坂道(秩父への道)を西に進めば塩山に向かいます。
石和では雨も上がったのでしたが、フルーツ街道を登るにつれて雨が強くなり出しました。今日は金曜日加えて生憎の雨ですから観光客は私達だけです。フルーツ公園内に入ると街路樹にたわわに実がなっています。左に寄り過ぎると果実をタイヤで踏む事になってしまいます。友人は実を踏まないように上手にハンドルをさばいて行きます。
道に落ちた夥しい数の果樹、この実は何だろう?食えるかな?食いたいな!私の疑問です。
フルーツ公園の樹木や雑草を刈っている職員、多分農家のアルバイトでしょう。
駐車場に入ると、職人が「此処はこれから伐採するので反対側に止ってくれ注文します。職員が掃除用具を手にして道路掃除に出かけようとしています。落果を放置しておけば交通の妨げにもなるし、病虫害の蔓延を引き起こすと懸念されるので、掃除に出かけるようです。屹度飯井だの林檎の街路樹でも同じような作業をするのでしょう。
職員に訊いた処これは杏との事でした。杏なら食べなくてはならない。俄然意気軒昂になって、友人の手を借りて実を捥いで口に入れました。
笛吹川フルーツ公園の丘の頂上は甲府盆地が見渡せます。写真パネルで見晴を想像しました。
下の段はホテル(冨士屋ホテル/箱根宮の下の有名ホテルと同じ経営)です。
私達は職員に訊いてみました。これは何の実ですか?)梅でもないし李(すもも)でもないし・・・・。
すると嬉しい答えが返って来ました
「これは杏ですよ!」
私は生の杏子は食べた事も観た事もありませんでした。杏とは花を観るモノと思っていたのです。
私の手は街路樹の杏に伸びます。アスファルトの上に落ちてタイヤに踏まれるより私の胃袋に収まった方が杏の実は幸いに違いありません。
杏と云えば信濃の「美鈴飴」や友人の生家で製造している「杏ジャム」しか知りません。生にちかいものでは「荻野屋サンの峠の釜飯や崎陽軒の焼売弁当です。釜飯も焼売もデザート感覚で杏の甘煮が入っているのです。
杏の樹の滴に濡れながら友人の手助けを借りて杏を捥いで口に入れました。
完熟した梅の実よりは酸味が薄いモノのスモモよりは甘みが濃い絶妙な味です。
欲張りな私ですから杏を捥いでリュックに詰めて持ち帰りました。でも一晩経つと杏子は酸味が薄くなって公園で齧った時の美味さは薄れて居ました。食べた残りは杏ジャムにしましょうか?
身体が教えてくれます。この実はクエン酸やβカロテンが豊富で身体に良いからモットモット取り込むように命じます。
二つ三つ食べてみました。真っ黒い種が出てきます。
飛鳥の仏像の眼(杏仁形」です。この種の中味(所謂天神様)を粉に曳いてデザートにしたのが杏仁豆腐です。
生が美味しければ種まで美味しいし体に良いのが杏です。まるで杏仁製薬のCМのような説明です。
笛吹川フルーツ公園では街路樹の杏を食べただけでした、先刻通った道路わきの果樹農家の屋台の店先に入る事にしました。
果樹農家の臨時出店の店頭に用意された試食用のフルーツ早生の桃は未だ堅くて食べ頃は底に沈んでいるプラムでした。アレコレ買って振り返ればサクランボの温室があります。「写真を写したい」サクランボ温室の中に入れてくれました。
サクランボ温室で写真を撮らせて戴いて店先に坐って500円/1パックのサクランボを食べればサクランボ狩りをした気分です。この辺りのサクランボの入園料は2千円/30分の食べ放題です。
観れば桃畑の道路際に臨時の出店をして店先に椅子とテーブルを置いただけです。
私達はその椅子に腰かけてサクランボを食べ早生の桃を齧り完熟したプラムを食べました。
サクランボだけは代金を払い、桃もプラムもサービスしてくれました。明日からは「焼きトウモロコシ」を目玉商品にすべく準備中でした。夏休みに入れば向日葵が広がり焼きトウモロコシに完熟した晩生の桃(白鳳等)と魅力的な品揃えになりそうな塩山の果樹村です。そのうちにジビエも仲間入りする事でしょう。
朝食の食卓にこれだけフルーツが並んだだけで裕福な気分です
ブログランキングに参加しています。
応援クリックお願いします。 |




