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憧れの恵日寺を詣でて、次の目的地は喜多方の立木観音です。私の2年後輩にS君が居て会津高校の出身でした。私が勝常寺の薬師如来を拝んだ時の感動を口にすると「立木観音こそ会津男子の誇りだと云いました。
程無く私は桐の咲く季節に立木観音を詣でました。バス停のすぐ前が立木観音で狭い境内に巨大な立木観音に接しました。見上げた時の印象は長谷観音に似ていました。長谷観音さんも清水寺の観音さんも新しくて金ピカでしたが会津の立木観音は黒光りがして28部衆を従えた圧倒感は、一番だった記憶がありました。
監視員に訊きました。
此処の観音さんは生木に観音さんを彫られたのですか?ならば観音さんを彫られたので樹は枯れてしまったのでしょうね?それとも枯れ木に観音さんを彫ったのですか?」監視員は当然のように「枯れ木に観音さんを彫られたのです。」答えられました。
私は左脚が悪いので左脚を擦りました。黒漆が黒光りしていました。
でも録音テープの解説は違っていました。寺の歴史によれば、本尊「十一面千手観音菩薩」は、大同三年(808年)に弘法大師(空海)が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。本尊の身丈は8m50cmあり、一木彫で根の付いている仏像としては日本最大級の大きさです。また、本尊の左右に安置される脇侍の二十八部衆、風神・雷神30体の仏像は、身の丈2m弱の大きさで、すべて揃っており、密教様式を忠実に表現しており全国的にも大変珍しく貴重な仏像です。30体の眷属が揃っているのは京都三十間堂とこの立木観音堂だけとも言われています。
何だ弘法大師が生木に霊感を受けて観音を彫ったのか!生木にすれば迷惑な事でお蔭で枯れてしまったのではないか!思いましたが監視員に再度質問する事も躊躇われました。
新築された三重塔その東が公園になりました。
公園に移築された会津民家の「五十嵐家住宅/重文)
公園から北を望む白い花は山ウドの花、向こうの果樹は名物の柿の木です。
公園から北を望む冠雪しているのは朝日連峰その飯豊山の東脇の大峠を越えて今晩はマタギの家に泊まる予定です。田圃は雪解け水を溜めて田起しに忙しそうでした。
境内には三重塔も新築され境内の西側には公園が整備されて会津スタイルの民家も移築整備されていました。
本堂裏には大きな桐の木が生えていて、花も咲かせていました。桐の花の彼方は田起しの最中で既に水も張られて水鏡状態です。来週には田植えも終えて居る事でしょう。
会津を実感する美しくも懐かしい風景です。
本堂の西側に大きな桐が生えていて花を咲かせ始めていました。
桐の花を拾って匂い菫に刺してみました。晩春には紫の花が目立ち始めます。この旅では山藤の花も多く視ました。
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街道ウォーキング
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全国の歴史的な町並みや、史跡をウォーキングします。筆者は慶応大学日本文化研究会の会員で、多様な世代の仲間と共に、地方を歩き、地誌を学んでいます。
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岩波新書に「日本の地名」があります。"地名に夫々、民俗学的な地政学的な歴史的な意味があると、説いています。北前船廻船の賑わった港町には天候を見定める地名(日和山)があったり、竹(武)の付く地名は南方から渡って北民が竹を編んで生活していたからだ、と説明しています。総じて彼等賤民であったと云いますから、私は(竹内)は賤民の種と云う事かも知れません。最近は地名を粗雑に扱っています。私達の先祖が考えに考えて愛着を持ってつけて、呼んできたものを行政面での合理性から町村合併をして適当な名をつけて良いとは思えません。民俗も歴史も地勢もイメージ出来ないような地名に地域愛は生まれません。
「日本の地名」にはタブーも扱われています。青の名は墓場であった事の名残りだそうです。往々にして差別につながるような地名ならまだしも「高麗」とか「日枝」とか高句麗や百済からの帰化人が開拓した歴史を留める名こそ大切にしたいものです。グローバル化は個個のそんな歴史や民俗を大切にする事にに始まるように思います。
高麗とは高句麗人が帰化して開拓した村の意味でしょう私の生活圏にも数多くあります。
江の島の小動神社も大磯の小動浜も高麗神社も高句麗人が異国の地で肩寄せ合って日本人が使わない、使えない荒れ地や湿地を開墾して美田にして村にしたのでしょう。
今年の桜は長く楽しめましたので今年最後の桜を観る積りで西武池袋線に乗って高麗(日高市)に出かけました。
高麗駅を降りると駅前広場に朱色の御柱が日本建っていました。ダイタラボッチでこの柱の天辺に神が降りたち村の安全と豊穣を守護するモノでしょう。
これはもののけ姫に登場したダイタラボッチ。森をけがす人間に怒って溶鉱炉を破壊します。
これは西武線高麗駅前広場に建っているダイダラボッチです。一見すると諏訪大社の御柱の様にも見えるし北米の原住民(アッパチ)のトーテンポールのようでもあります。
高麗駅前の観光案内高麗文化財の紹介が目立ちます。
高麗駅から巾着田に至る小路に立っていた庚申塔3面6脾の本格的な青面金剛でした。
高麗駅から東に10分程歩くと高麗川を跨ぐ「鹿台橋」がありました。高麗川が三方を丘陵で囲まれてここで大きく蛇行巾着の様な格好に流れているのです。屹度天智天皇の頃半島に平和裡に生活していた百済や高句麗の民が新生の唐の軍に追われて日本に亡命して来たのでしょう。天智帝はこれを受け入れて総じて地方の未開地に集住させたのでしょう。屹度巾着田一帯もその典型だったのかもしれません。倭人は岡の上に生活して採取生活をしていました。帰化人達は倭人と棲み分けすべく湿地の巾着に踏み込んだのでしょう。屹度湿地は蛇は棲んでいるは寄生虫(住血吸虫など)は多いので倭人は避けていたのでしょう。湿地から水を抜くために水路を築きました。高麗川が氾濫しない様に堤防を高く築きました。その努力が今は巾着の中は春は菜種や麦の畑に秋は一面彼岸花が咲くのです。
巾着田は春は菜の花秋は彼岸花で埋め尽くされます。堤防の右側が高麗川です。
あんまりお天気も良いし青草も美味しいのでお馬さんは上機嫌で愛撫しています。顔が長いので愛撫も長時間を要します。あんまり見詰めていると疑われるので正面の長命寺さんに向かいました。
正面は高麗の古民家(旧新井家住宅です。左の染井吉野の花陰に長命寺本堂があります。右の桜は山桜です。
新井家住宅の室内展示右の民族服は高句麗のそれでしょう。高松塚古墳の壁画釆女群像にも酷似しています。
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種やサンで「解散会も終えたので湖岸の道路(さざ波街道)を北上して米原に向かいました。途中彦根城脇を通ります。旅の初め4月5日は蕾でしたし。信楽の一本桜「畑の枝垂れ桜」は蕾でしたから彦根の桜はマダマダ思っていましたが4月7日は朝から暖かった所為でしょうか?彦根城が近ずくにつれ桜が目立ち始めました。
近江八幡から彦根に向かうと直に安土城跡の横を通ります。ビニールハウスはいちご狩りで畑は菜種の収穫を終えています。もうじき田起し田植えです。
これが彦根城の外濠越しに見た桜です。向かいの石垣の向こう側に内濠があります。国宝の天守閣が在るのも彦根城の魅力です。
彦根城の外濠越に天守閣を見上げる。
彦根城の内濠越しに天守閣を遠望する。
そこで彦根城の桜を観に寄ってみる事にしました。お濠の桜と云えば東京の竹橋や千鳥ヶ淵が想い出されます。3年前は大和郡山城の桜を観ました。郡山城の石垣にはお地蔵さんが積み上げられていると仄聞して。確認すべく探し回りました。私達は自分の眼で観れるもの掌でさ割れるモノしか信じないで生きています。ところがそれは近代以降でここ2百年間の体験です。でも2千年もの間人間は霊感を持っていて霊感に触れる事を信じて来ました。霊(魂)は眼には見えない掌で掴めないものの在ると信じて来ました。木に宿る霊は木霊(こだま)で草に宿る霊は草霊(くさだま」で石に宿る霊は石霊です。草霊は物の怪姫にもムーミン谷にも出て来ました。どちらも茸の松露かシメジのような姿をしていました。洋の東西の童話作家の描く草霊が似ているのは何かの偶然でしょうか?
石霊は今も生きています。横浜の中華街に行けば沢山の石霊が売られています。古代は勾玉だったし、中世には「夜泣き石」だったのでしょうが、今はブレスレッドや各種パワーストーンになっています。
桜の木が美しいのはお濠が一番でしょう。それは石垣と云う石霊が在る事水に桜(木霊)が映る事等々、霊が揃ってているからです。梶井基次郎が「桜の樹下には死体がある」と言ったのは桜の木には霊が集まるという事を言い換えたのでしょう。
米原発の新幹線は6時50分です、それまでにレンタカーの返却を済ませなくてはなりません。時計を観ながらもう一つ気懸りなモノがあります。彦根市の街並み整備事業です。国交省の社会資本整備補助金を活用して整備を略完了したと聞きます。私の学生時代の国交省の街並み整備事業と云えば馬籠や妻籠の歴史的保存事業整備資金だけでした。結果的には宿場町等の前面だけを整備してまるで映画のセットを整備するようなモノでした。結果的には使い難いし、生活者の意見を無視したモノでした。下水道事業やガス電気等の整備も出来ませんでした。そんな反省から平成22年に社会資本整備事業が施行され毎年1兆円程度が実施されています。私の生活圏では大磯の街並みも整備され電線の地下埋設も済んで見栄えも良くなりました。蒲鉾屋や著名な鰻屋の店先もスッキリしました。国交省自慢の彦根の社会資本整備事業を観たいと思っていたのでした。
彦根城と彦根駅との間の歴史的空間を面的に整備を終えたのでした。
車の窓から眺めて素通りしただけでしたが、ユックリ歩いてみたいと想いました。
これが彦根駅(前方)と彦根城(後方)の間を整備した通りです。反対車線は彦根城の駐車場に向かう車で動けません。もう1箇月もすれば綺麗な青葉若葉の欅並木でしょう。
兎角商店街からは嫌われ者の銀行も歴史的な空間に調和した外観にしています。お祭りや盆には女子行員の浴衣接客なども在るのでしょうか?
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4月6日和束町の茶畑民宿に泊まって、同町の観光課長にツアーの経路を検証して貰いました。『和束町から多羅尾峠(家康の伊賀越えで有名)信楽を経て種やが昨年オープンさせた「ラ・コリーナ」を観て帰るルート』です。「ラ・コリーナ」は昨年NHKテレビで放映していました。青森の縄文遺跡山内丸山遺跡を髣髴させる意匠です。以来観たいと強く思っていました。設計したのは「藤森照信」氏で同氏の作品は昨年「合歓の木美術館/宮城まり子氏主宰」で観ましたし、同氏の故郷茅野市にある尖り石縄文考古館物館や諏訪神社のの設計でも著名です。
これは昨年訪れた「合歓の木子供美術館」です。次にブログアップしました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B9%E7%B4%BF%A4%CE%CC%DA%C8%FE%BD%D1%B4%DB&sk=0
昨年上野の科学博物館で「ラスコー展」を観ましたが人間は洞窟生活に懐かしさ以上に深い安堵感を産むように出来ているようです。私達の祖先が竪穴住居で生活してきた事実は私達のDNAに「縄文の住まいが最高の安堵感を産む」と刻んでいるのでしょう。「藤森照信」氏は縄文の意匠を現代の建築デザインに活かしてこられました。屹度生まれ育った諏訪の血液が縄文をデザインさせているのでしょう。藤森氏は友人М君の後輩で同じ茅野生まれですし、諏訪青陵高校卒です。М君は諏訪青陵高校は経済界や官僚政治家は輩出していないがクリエイティブな世界では人物を排出しているのだそうです。云われてみれば新田次郎氏もМ君の先輩です。
ところで「種屋」とは近江八幡に本社を置く明治8年創業の和菓子屋さんです。近江は京文化と三重や尾張の文化が重なる処。東海道と中山道北陸道が通っていました。だからでしょうか?京都の劣らないほど有名な和菓子屋さんンが軒を連ねています。昭和60年代までは叶 匠壽庵さんが勢いがあって、高島屋でも虎屋と叶 匠壽庵が一番賑わう場所に出店していましたが、今では「種や」さんに入れ替わっています。総じて云えば京の和菓子よりも素材の美味しさで「能書きなし」でも美味しいような気がます。それに洋菓子にも進出して両者の良さを取り込んでいるような気がします。
私達は以前にも長命寺の上った折に此処に来たのでしたが、また来てお菓子と珈琲を戴いて旅行の反省会今後の旅行プランを練るのが目標でした。以前種やさんの売場であった建物と八幡山との空間(昔は田圃と河川があった)を開発して縄文テーマパークを想わせる建築群を整備したのです。
これが「種や」の新築した「ラ・コリーナ/イタリア語で小高い丘)プロジェクト入り口向こうの小山が八幡山です。亀笹の茂った木道の様な道を進んで玄関に行きます。縄文集落に入るような昂揚感がします。
アンコールワット写真出典はHIS
ラ・コリーナの池の北岸がらプロジェクトを観る。池の周囲を塀やレストランが囲んでいます。
中央に巾着状の池を置きその周囲に縄文風の塀で囲んであります。正面から見るとまるでアンコールワットに来たような感慨を持ちます。背の低い建物が池を囲んでいます。一見すると竪穴住居を思わせます。壁は赤土で屋根は萱葺を想わせる意匠です。折から雨も降り出しましたで良く観察すれば、屋根は銅版葺きでその上に茅を乗せています。ですから降った雨は直ぐに流れて池に溜まります。雨垂れの落ちる位置に亀笹を植えていますので雨水は飛び跳ねません。
池の西岸から東を望む向かいの建物が種やの本社棟で展望台のような塔は事務所棟だそうです。あのマスクの様な場所は公開していないそうです。手前の小島は舟島だそうです。
池の南岸から北を望む八幡山の稜線が女性の体の様に柔らかい曲線に見えます。手前の島が鳳来島だそうです。どの島も石の上に門松のような松が生えています。岩も松も神様の依り代です。
屋根は銅板を葺いてその上に粘土を盛って高麗芝を張っていました棟にはまるで千木の様に松を植えていました。折から降り出した雨は勢いよく地面に落ちていました。
私達は喫茶室に入りました。珈琲とカステラのセットが700円ですが。カステラは2切れ載っています。そこで珈琲セット2つに珈琲二つと節約してオーダーしました。木肌が滑々して掌に快感です。念の為確認すれば帝ブルも椅子も床も林のオブジェも総て栗の材を使っているそうです。
これは喫茶室の室内材木は総て栗の木を素材にして壁は総て土壁でした。その感触が快適で心にも身体にも好循環なようです。
これが戴いたカステラ珈琲セット700円です。カステラは2切れ有ったので二人でシャーしました。
珈琲を戴いてカステラも食べて元気も回復しました。喫茶室から出ると池は蛙の大合唱です。溝を掘って雨水の排水をしているスタッフに蛙の種類を聴いてみました。この辺りは殿様蛙は滅多に見なくて殆どが雨蛙だそうです。云われてみれば種やサンのパンフレットに雨蛙が出ていました。屹度葦の茂った環境が雨蛙の生育に適しているのでしょう。
案の定、車に乗って安土城の横を通っていると雨は本降りになって来ました。
これは雨蛙です。出典は種やのパンフレットで同社は環境に順応した持続可能性の高い企業活動を標榜しています。雨蛙はその指標生物のようです。命も帰る、雨も帰る雨蛙なのでしょう。
これは出口の意匠です。「有難う」の洒落なのでしょうが、熊谷守一に似ているのが気になります。
雨が降り出したので雨水が流れる様に溝を掘っているスタッフ。今年入社したそうで”いい会社に入って良かったですね!”言ったところ笑ってくれました。
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信楽と云えば陶製の狸です。私達は陶製の信楽狸見たさに信楽狸の館に向かいました。
途中ゴルフ場の入り口に砂山が幾つもありました。バンカー用の砂を置いているモノと見過ごしましたが実際は信楽焼きの陶土だったようです。
信楽焼きは日本6大古窯の一つですから。古代からあったモノです。聖武天皇が紫香楽京を築造した際甍や巨大な梵鐘を作ったので、その伝統が大きな登り窯になって近世になって大狸の陶製人形にになったのでしょう。
狸は「他ぬき」でしょうから、招福になったのでしょう。大福帳を持っているのは商売繁盛の大きな陰嚢を持っているのは子孫繁栄を約束するのでしょう。飲食店の開店祝いや新築祝に狸は贈答用に使われています。女性は招き猫を男性は招福狸をチョイスしているようです。
信楽狸村の店頭の巨大狸観光客の撮影用の雛壇も用意されていました。
信楽狸村「信楽陶苑」の玄関の「女将さんたぬき」1階は陶器の売場で2階はレストランになっています。
アレコレ見飽きない店内の狸の色々。観ている中に2階でお料理が用意されています。
信楽狸の人気には昭和天皇も一役買っているようです。昭和26年に昭和天皇が信楽訪問された時です、沢山の人々が、日の丸の旗を持ってタヌキを沿道に並んで行幸を歓迎したのだそうです。子供の頃からタヌキの置物を集めていた昭和天皇は感激し歌を読まれました。
幼き時 集めしからに なつかしも 信楽焼きの狸をみれば
これが私達の食べたすき焼き御前1200円です。食べきれないボリュームでした。
私達が食べ終わって外に出ると大広間には大型バスで来た観光客で大賑わいでした。
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