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大樹寺の受付のお坊さんの御配慮で、地元の人に岡崎駅まで自家用車に乗せて貰えることになりました。
その人が”是非伊賀八幡宮に参詣して帰りなさい”と云う事で御厚意に甘えて伊賀八幡宮に寄る事になりました。
先ずは伊賀八幡宮を説明します。第一印象では『伊賀の隠者の信じていた八幡宮を伊賀モノが家康に仕える事になったようになったので故郷の伊賀から三河に遷座した』と推測しますが。実は実際は逆で『八幡宮は家康を遡る事松平家4代松平親忠の創建(文明2年(1470年)で松平家の氏神であったものを、伊賀モノがその功績を評価されて氏神も守なくて伊賀八幡宮と呼ばれたのでした』。勿論伊賀忍者の住む一帯を伊賀町と呼びました。
「本能寺の変」 に際して家康は堺に居たのでしたが、明智光秀の追っ手を逃れて伊賀越えをして本拠地岡崎に脱出しました。窮地を助けられた家康はの伊賀忍者への信頼を強くしたのでしょう。岡崎城の西足助街道の要衝地に伊賀忍者を住まわせました。その結果八幡宮の名も伊賀八幡社と呼ばれるようになりました。天下人になった家康は伊賀八幡社の改築を行い。江戸城に於いても本丸の西側に伊賀モノを住まわせました。今も半蔵門の名になって伊賀忍者と家康の関係を伝えています。更に三代将軍家光は社殿を拡張し寛永13年1636年、祖父家康(東照大権現)を祭神に加えました。
蓮の季節が見頃なのですが今は一面枯れ蓮です。でも重文の石造太鼓橋は良く見えました。全体的に道教のお庭を感じます。社殿は蓬莱山のような位置にある事になります。
件の地元の人が説明してくださいます。随神門で神域を守っているのが(お寺の山門の仁王像の位置にいるのが)本多忠勝公であるとの事です。家康公及び徳川幕府の人使いの上手さを痛感します。
随神門で神域を警護するのは本多忠勝公です。三門の仁王像の位置にあります。三河武士の結束の強さや家康と臣下と強い繋がりを思わせます。
髄神門の本多忠勝公の背には東将大権現像が祀られていました。
岡崎駅から名鉄線で豊橋に、同駅で豊川稲荷門前の壷屋さんお御稲荷さんを求めて新幹線の中で食べ終わる頃には列車は熱海を過ぎていました。小田原駅で乗り換えて旅を終えました。
憧れの運慶仏を心行くまで堪能し。味噌煮込みうどんを食べて孫と楽しい時間を過して、大樹寺さん始め幾つもの御厚意を受けて良い旅でした。これで身体が快方に向かわない筈ありません。
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街道ウォーキング
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全国の歴史的な町並みや、史跡をウォーキングします。筆者は慶応大学日本文化研究会の会員で、多様な世代の仲間と共に、地方を歩き、地誌を学んでいます。
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今回岡崎に旅したきっかけは長男夫婦の娘が卒園するとい言うので「そのお別れ会」を観る事でした嫁さんのご両親と私達と息子夫婦と孫二人合計8人で食事をしました。「ところで午後は如何する?」息子に訊かれて岡崎に来たのだから大樹寺の「一光千体の阿弥陀様を拝んで帰るよ」答えました。ご当地は新美南吉(半田市)の記念館があってかねがね行きたいと思って居たのですが。時間を考えると新美南吉記念館は出直して行かずばならないようです。
息子に車で大樹寺迄送って貰いました。伝馬町から足助街道を豊田に向かって走って左折すれば大樹寺の巨大な山門が聳えて見えます。山門を見上げた時の第一印象は港区芝の増上寺山門を見上げた印象に似ています。
今回の旅は息子夫婦の長女の「卒園お別れ会」を観るのが目的でした。お遊戯やお歌をセキレイホールで観たのでした。
これが大樹寺の山門(愛知県文化財)です寛永18年(1641年)徳川家光が建立増上寺山門(国の重文)は元和8年(1622)建立ですから大樹寺の方が歴史もあります。山門前の道を東(に行った交差点が足助街道になります。バス停は足助街道交差点まで行かないとありません。岡崎を代表する史跡ですが足の便は悪いのです。 家康が桶狭間の戦いから逃げ帰って大樹寺に隠れます。すると織田方の野武士が寺を囲みました。大樹寺の祖洞和尚が山門のカンヌキを引き抜いて野武士を退散させました。家康はこのカンヌキを「貫木神かんぬきじん」として宝にしました。本堂左手に祀られていました。長さ3m(2間余り)の10センチ角の角材で刀傷が残っています。
これは山門の下から大樹寺小学校の校庭越しに大樹寺総門を見た処です。総門越に岡崎城(南に)の天守閣が見られます
私が大樹寺さんを詣でるのは二度目です。前回は桜も散ってしまう季節でした。前回は宝物館も無かったので国の重要文化財の襖絵は見学できませんでしたが、今回は本堂からグルット回って宝物館の襖絵も将軍の御成りの間(書院)や大名の控えの間(書院)も見学できました。加えて徳川家代々の位牌堂も拝観できました。松平8代徳川14代の等身の位牌が並んださまは壮観でしたし。家康公の木像や於大の方の木像(現代作家のモノ)も見学できました。
大樹寺本堂欣求浄土と懸った柱の左手に貫木神が祀られていました。
穏やかで端麗な像容で、流石に徳川家の菩提寺ですから、ご本尊も伝統に根差した阿弥陀様です。平安時代後・末期の定朝様式を示しています。後背に無数の(千体の)阿弥陀様が懸仏されていますので、一般に一光千体の阿弥陀様と呼ばれています。写真はパンフレットの写真をスキャンしました。
これが位牌堂に祀られている徳川家康像教科書にもこの像が載っていました。この右横に於大の方の肖像彫刻が置かれていました。写真はパンフレットをスキャンしたものです。
この部屋は将軍の御成りの間です。伝統的な書院造りであり、襖絵は大和絵の絵師冷泉為恭(れいぜいためちか」による作であります。この部屋の右手に大名の控えの間が連なっています。立派に用意しても一度も使われた事は無かったでしょう。
出来たのは安政4年(1857年)でした9年後の1867年には大政奉還する訳ですから 15代将軍徳川慶喜の時局の感覚を疑ってしまいます。これもパンフレットをスキャンしました。
此方は大樹寺の多宝塔右側塀の向こうは広い墓地です。大樹寺多宝塔は室町時代の遺風を伝える京都風(小倉山常寂光寺の多宝塔を髣髴させます。蛙股など細部の意匠も眼を見張るものがあります。(重要文化財、室町時代 天文四年 1535年建立、桧皮葺、高さ 約13m)私の直感では京都から移築したか京都の宮大工に発注したか、どちらかと思います。
大樹寺を辞して岡崎駅に戻ろうとすると大樹寺の受けつの方が私に向かってこられました。
そして「バスに乗ってお帰りでしょう。バス停まで距離があるので此方の方がお車に乗せて下さるそうですよ。」
見れば駐車場で叔父さんが私達に笑顔を向けていました。
御厚意に感謝して真っ白いマークエックスの助手席に腰掛けました。
叔父さんは話し好きで伊賀八幡宮は観たか?」訊きます。
私は前回来たときは桜が散る頃で、枯れ蓮の八幡宮は観たことが無いと答えました。
すると叔父さんは
「じゃあこれから伊賀八幡宮に行きましょう。そのあと岡崎駅までお送りしますよ」
私達は御厚意に甘える事にしました。
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私達が高校で教わった産業革命は蒸気機関の発明に始まりました。蒸気機関とはボイラーで発生させた蒸気の圧力でシリンダーの中のピストンを動かし、その運動で動力を得る往復動機関をいいます。蒸気機関の発明によって紡績機が作られ鉄道も船も動かしました。ですから,日本の産業革命もボイラーを沸かせるための石炭が重要でありました。でも石炭が充分に在った訳ではありません。充分にあるのは水力です。安曇野に産まれた臥雲辰致(お坊さん)は水力で動かす綿紡績機を発明します。同紡績機を初めて設置して綿紡績を始めたのが此処瀧山寺の青木川の堰堤だったのだそうです。堰堤に工場棟を建てて川に水車を張り出します。水車の回転運動で綿糸を紡ぐのでした。綿は壺に埋め込みます。壺の上部から糸を引き出します。引き出された糸は張力の加減で太くも細くも出来ます。壺は水力で回転します.その回転する音がガラガラ云ったので「ガラ紡績」と云ったのでした。瀧山寺下には「ガラ紡績発祥の地」。素材の綿は三河平野で栽培されていたのでした。
トヨタ自動織機もそうしたガラ紡績を得意にしたものでした。ガラ紡績の回転運動を自動車の4輪にすれば自動車が出来ますので、紡績と自動車は近い装置だったのでした。
岡崎の市内には今も綿糸機械の工場が目立ちます。青木川に沿って岡崎市内に入ると川の名は乙川と名を変えます。乙川は岡崎城の外堀のような役目を果たしています。
乙川の堰堤近くに郷土館(旧額田郡公会堂及物産陳列所)があります。此の建物は建物は、大正2年(1913)に額田郡公会堂・物産陳列所として当時の洋風建築を忠実に採り入れて建てられたもので、国の重要文化財になっています。3年前まではガラ紡績機も展示されていたそうですが。現在は耐震対策が施されていないので使用されていません。トヨタ自動車の産業機械博物館(http://www.tcmit.org/exhibition/textile/に行けば確認できるそうです。
これがガラ紡績機筒の中に綿が詰まっています。筒から糸が引っ張られています。水力で筒を回転させることによって綿糸が紡がれてきます。糸の張力を強くすると糸は細くなります。こうしてできた綿糸を布に致します写真の出典は楽天ですhttp://item.rakuten.co.jp/craftcafe/ns8177-iv/。
これがトヨタの自動織機です。
これは岡崎の市役所近くにあるかっての産業博物館です(国の重要文化財)大正2年(1913)竣工3年前まではさ産業や物産の展示館としてまた今頃はお雛様を展示してきたのでしたが。現在は耐震対策が不十分なので使用もされていないし内部の見学も出来ません。欄間風の漆喰等憎らしい程お洒落です。もうじきアールヌーボーの時代に入ります。外壁はコロニアル板葺です。屋根は三河の塩葺き瓦です。
これが旧額田郡公会堂建物です。此方も産業博物館と同じ大正2年(1913)竣工の国の重要文化財ですが現在は使われていません。耐震対策と言っても筋違をバタバタ張ったのでは味わいが消えてしまいます。悩ましいのですが対策して使用するようにしないと建物自体の寿命が短くなりそうです。「グラッときたら逃げろ」程度の指示で時々窓を開けるなどして少しは、使いたいものです。玄関ホール上の櫛の歯状の欄干などが眼を牽くゴチック風の味もあるコロニアル建築です。
夜は岡崎城の向かいにあるグランドホテルに泊まりました。
ワイフに背中を流して貰いぐっすり眠りました。明け方手足が痙攣しました。昨日たくさん歩いたこととお風呂で温まったお蔭でしょう。痙攣は手足に神経が通い出す前兆のように思いました。文化財を言巡りながら徐々にリハビリが進捗健康体は近いようです。
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瀧山寺の山中に石仏が目立ちました。私達は瀧山寺下のバス停から二停留所下りましたその途中道路山側に私に注がれる視線を感じました。其処は小さなお堂が在ってその前庭に石仏群が祀られているのです。其処はお寺の境内に続いていて、庫裏の裏に当ります。庫裏には洗濯物が干してあり子育て中の夫婦がお寺を守っているようです。お寺の名は弘願寺で浄土真宗大谷派と案内されていました。
土真宗大谷派弘願寺の山門を見上げる
土真宗大谷派弘願寺の法語と3月の法要案内
一昨日書いたように徳川家光の庇護によって瀧山寺本坊浄蓮院は栄えました。
でも過半の小坊は衰退を余儀なくされていたことでしょう。そんな小坊の一つが商人の信仰を集めて浄土真宗大谷派弘願寺に改宗・改名したのでしょう。
浄土真宗大谷派の信仰が境内に御堂と石仏群を祀らせたようです。石仏を彫るには最高の素材白御影が青木川の川原に転がっています。石工がコツコツと石仏群を彫りあげて行ったと思われます。先ず6観音像を彫りあげて次には6地蔵象を彫りました。12基の石仏を並べると皆が褒め上げました。そこでその中間の空き地に十王像を祀る事にしました。先ず中央に閻魔大王を彫って次に奪衣婆を彫り順次9基の王像を彫り11基をひな壇に据えました。住職が獄門首と浄玻璃という鏡も作るようにアドバイスしました。そして一揃い完成すると最後に地蔵立像を据えました。住職は閻魔大王は黄泉の世界の姿で現世ではお地蔵さんの姿で人を導くとお話しされました。商人は納得して生業に励みました。お堂がありました。お堂の前庭に6地蔵尊がと6観音像が並んでいます。そそて二組そして十王像が祀られていました。お堂はの広い境内に接していましたから。
大沼街道に一番近い位置に六観音像が並んでいます。塀の向こうは弘願寺の庫裏でこの六観音に並行して六地蔵が並んでいます。
六観音に続いて六地蔵が並んでいます。塀の向こうには弘願寺を守る住職家族の洗濯物が干してありました。お地蔵さんのお顔を塞いだ梅の木苔が環境の良さを示していました。
六観音と六地蔵の真ん中にひな壇が築かれ十王像が並んでいました。前列左から獄門首奪衣婆そして浄玻璃(生前の行為を記録して映すDVD)が並んでいます。閻魔大王の背後の立像は閻魔さんの本来の姿の地蔵立像です。
昔は天台宗瀧山寺の6坊の一つだったのでしょう。現に坊も昔はと呼ばれていたそうですから。本坊が時の権力者の庇護を受けて栄えていた江戸時代中期に小さな坊は一向信徒の信心を集め浄土真宗に改宗した事は容易に想像できます。徳川家光の庇護で瀧山寺本坊は繁栄し、小坊の一つが商人の信仰を得て大谷派に転宗したのでしょう。
私は10王像に惹かれて境内を観て回りました。そしてお堂を蔀戸の間から覗くと立派な阿弥陀三尊が祀られていましたのみが瀧山寺本坊として残っています。
十王像が揃っていると壮観です。屹度江戸時代十王信仰地蔵信仰そして阿弥陀浄土を信じた商人たちがこのお寺を守ってきたのでしょう。そんな信仰が弘願寺の法語にも記されているようです。
これは人頭杖というか獄門首と云おうか…。どちらも童子の表情です。此処で親は子供に正直な生き方を教えたのでしょう。
岡崎と云えば三河商人であり三河武士です。背筋を正して生業に勤しむ姿は工夫を凝らしからくり人形や豊田佐吉の自動織機を開発しました.弘願寺の向かいは青木川で川沿いにガラ紡績の工場が並んでいました。ガラ紡績とは綿を紡ぐに際して水車を動力にした工場の事でした。江戸時代此処に近い足助では鈴木正三と云う経済学者を産んだ土地柄であり豊田佐吉もこの地の人でありました。日本近代化の原動力になった勤勉さや工夫や努力を惜しまない気風はこんな小坊の石仏に確認する事が出来ます。
これがお堂の内部立派な阿弥陀三尊と地蔵立像が祀られていました。天蓋は雲を模したものでしょうか。清浄な空間でありました。
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瀧山寺を後にバス停に戻ると、バスは出たばかりで次のバスには1時間も待たずばなりませんでした。そこで私達は青木川に沿って街道を下る事にしました。バス停を二つ下れば仁王門前になります。来る時に車窓から確認した風景です。足助街道にどことなく似た風景です。足助街道には化粧地蔵尊や馬頭観音が多く見られましたから。此処大沼街道でも石仏に会えるかもしれません。横断歩道の信号機スイッチにミミズクがデザインされていました。そうこの街道をズット行けば、仏法僧(木の葉ミミズク)で有名な鳳来寺山に行けるのです。そう此処は岡崎と鳳来寺(新城)の中間にあるのです。
大沼街道を岡崎に向かう家並みは街道の雰囲気を今に伝える庇の長い建物が続いていまあした。左の家々の背中側に青木川が流れています。
横断歩道の押しボタン式信号機です「木の葉警部」と名付けられていました。下り坂なのでスピードを出す車が多いようです。
暫く歩くと前方に朱塗りの仁王門が見えてきました。仁王門前には此処より東瀧山寺神領の石柱が立っています。此処から瀧山寺まではバス停で二つ1キロはあるでしょう大変に大きなお寺だったのです仁王門前には石灯籠が立っていました。石灯篭には秋葉山(火伏の神様)の文字が刻まれています。近代的な消火栓とご当地の火伏の神様が重要文化財を守っているのです。
重厚壮大な山門ですから屹度頼朝時代に創建されたものでしょう。でも瀧山寺の解説では次のように案内されています。http://takisanji.net/jihou_keidai_sanmon.html
『文永四年(1267年)、飛騨権守藤原光延(飛騨の内匠)が建立したもので、三間一戸の壮大な楼門である。柿(こけら)ぶきの思い切り張り出した大屋根の勾配はゆるやかではないが反転があり、軸部はやや狭小であるが構造形式もよく整い、鎌倉時代の特色である雄建美がある。
門の両側に控える仁王像は運慶仏師の作だといわれており、正面に掲げられた「瀧山寺」の扁額は日本三蹟の一人である藤原行成の八代の孫、行純の子で世尊流の書家の作である。 また、三門の大屋根にある尾垂木が一カ所だけ逆さになっており、三門の完成後ある老婆が「内匠の建てしもこの違いがあるかな」とつぶやいたのを聞き、深く恥じて三門の階上よりノミをくわえて飛び降り、喉元を突いて自害した。その場所に一本の椿が生え、年々美しい花が咲いたが実を結ぶことはなかったと伝えられる。村人はこの椿を「内匠霊花」と呼び、ここに「飛騨権守藤原光延之塚」を築いた。現在三門の手前(西北)にあるのがそれである。』 この写真は北(上流)からみた瀧山寺山門常夜灯には秋葉山と刻まれていました。
南側から観た瀧山寺の山門三間の壮大な楼門です。左側に石碑が祀られていますがこれが逆さ垂木を恥じて楼門の欄干から投身自殺した守藤原光延の墓です。山門の両袖には仁王像(寺伝では運慶作)が置かれています。
飛騨権守藤原光延が建立したのではなく、江戸時代に修復再建したのでしょう。屹度飛騨権守藤原光延はようやく訪れた平和な時代に戦火で焼け朽ち果てた全国の寺社の再建に大忙しだった事でしょう。瀧山寺では昨日書いた瀧山寺東照宮の建築に併せて山門の修復も重なったのでしょう。その超多忙の所為か解りませんが尾垂木を逆さに付けてしまったのだそうです。垂木とは天上裏の板を支える横木(梁)の事です。天井板の上に瓦がが載ります。瓦が重い事と濡れ易いので早くに傷みます。唐招提寺でも修復に際し、垂木は継いだりして再利用するのが普通です。再利用と云う事は垂木の天地を逆にして使う事です。藤原光延が垂木の天地を逆さまにしてしまった。この事を素人の婆さんに指摘されたのを恥じて楼門の上から喉元に鑿を押しつけたまま落下して自殺したと言い伝えて来たのです。同じような場面は幸田露伴の五重塔でもあります。
江戸谷中の感応寺(かんのうじの五重塔の建築を請け負ったのが谷中の「のっそり十兵衛」といい匠でした。
竣工後嵐に襲われます。「のっそり十兵衛」は五重塔に登って天地神明に向かって凄みます。
「自分は命を懸けて五重塔を建てました、若しも五重塔が倒壊すれば自分は投身自殺して果てる覚悟である。」
十兵衛の気迫を感じてか五重塔は嵐を遣り過すことが出来ました。
昨日は港北ニュータウンの高層マンションの杭手抜き工事の全面建て替えが決定しました。手抜き工事や構造計算の誤魔化しなど昨今の日本の匠の体質は眼を覆うものがあります藤原光延やのっそり十兵衛の子孫とは思えません。
山門前には見事な白椿が咲いていました。この椿は守藤原光延の魂を慰めるかのように自生して来たものと云われていました。その川沿いには藪椿と水仙が咲き誇っていました。
瀧山寺山門の白玉椿、山紅葉が硬い芽を膨らませていました。周囲には桜の木も多く椿の次は桜、順番を待っているのです。
山門の周囲はフェンスで囲まれているので仁王像は遠くから眺めるほか術がありません。運慶の仁王像と云えば先年修復された東大寺南大門のに仁王像が有名ですのでツイツイ同像と比較してしまいます。矢張り素人の私の目では江戸時代の塗装が目についてしまいます。
仁王門の吽形の仁王像(寺伝では運慶作となっています。塗装着色が目についてしまって力感溢れる東大寺南大門の仁王像に較べると迫力が足りないように感じてしまいますが・・・。
これは瀧山寺山門に祀られている吽形の仁王像。丹塗りが目についてしまって運慶の作かどうか判断に難しいと思います。
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