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昨日は奥三河の古刹瀧山寺が古代に創設され、頼朝の庇護を受け運慶親子によって三基の仏像が奉納され
鬼の面や仁王像も彫られた(寺伝)と云った事を書きました。そして近世には徳川の天下になります。3代将軍徳川家光は日光に駿府(静岡)に東照宮を造営し徳川一族発祥の三河にも瀧山東照宮を造営します。(鳳来寺山にも重文の東照宮がありますが・・・。
これは鳳来寺山の東照宮鬱蒼とした杉木立の中に鮮やかな色彩の本殿が眩しく輝いていました。
幕府が実権を握って自信もついてきた頃で諸大名は幕府の権威に従順になっていましたので瀧山寺にも鳳来寺山にも豪華絢爛な東照宮を造営できたのでしょう。本堂の少し右奥(東北)側に瀧山寺東照宮が控えていました。三代将軍家光公は比叡山天海僧正の命によって亮盛上人を瀧山寺入山を認めます。寛永十八年(1641年
正保三年(1646年)には、家康公誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮の建設が始まります。天海僧正は上野の寛永寺を始め川越喜多院等を創建した実力者でした。その愛弟子が瀧山寺に入ったのでしたから寺の再建が進捗したのでした。
東照宮脇に並んだ石灯籠住職の著述によると或る日”家紋の拓本を取らせてほしい”という人が来たので認めた処朱泥で拓本を取られたので家紋が朱色に染まってしまったそうです。昔の朱は水銀が混じっていたので洗う程度では色が抜けないのです。左側が本堂で本堂の裏は日吉神社で現在修復中でした。錆びたトタン板で覆っているようですから予算が無いのでしょう。
東照宮の西側は本堂です。巨大な天水桶が置かれていますがこれは屹度八丁味噌の樽だったのでしょう。でも、水は抜けてしまっていました。本堂も東照宮も明日書く予定の仁王門もどれも重要文化財です給水栓が頼りです。
これは瀧山東照宮拝殿向背の軒回り屋根の下の垂木懸魚梁の装飾更に斗の組物等が豪華絢爛として眼を奪われます。でも上段の鳳来寺山東照宮が金色なのに比べると落ち着いた感じがします。
拝殿正面のアップです。幾重もある梁の表面に葵の紋そして宝相華模様蛙股の間には干支が刻まれています。この装飾も家光の御機嫌を損ねないように各地の大名が忠誠を示そうと尽力した成果だったのでしょう。
昨日書いた運慶の仏像http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49177975.htmlもこの時に彩色されたので運慶仏の重厚さを損ねてしまったものと想像します。仏像のお身体を肌色に塗ったのがそもそもの間違いで金箔を貼って置けば今頃は国宝だった事でしょう。手前のの梁の彩色は聖観音や梵天の配色と共通しているように思います。
拝殿中央の蛙股。お股の中央に刻まれた彫刻は[白鷺と澤瀉/おもだか]毛利家や酒井家などが家紋に採用した。 瀧山寺は古代中そして近世と何れの時代にも時の権力者の庇護を受けました。その結果お寺には何層もの文化が折り重なっています。重なった文化や歴史の厚みと現代も鬼追い火祭り神事が継続していること等民俗文化財も多く魅力が尽きません。そして現代は民主主義の時代、ですから強大な権力者に代わって大衆の期待に答えなくてはなりません。大衆の期待とは五穀豊穣。福徳円満そして、厄除け健康です。私もリハビリ達成を祈願して貧者の一投を賽銭箱に宝物館に支払って意気揚々と古刹を後にしました。
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街道ウォーキング
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全国の歴史的な町並みや、史跡をウォーキングします。筆者は慶応大学日本文化研究会の会員で、多様な世代の仲間と共に、地方を歩き、地誌を学んでいます。
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今日(1月26日)は旧友等との新年会を開催します。私は旅行会の万年幹事ですから”今年は何処に行くの?”期待に答えなくてはなりません。一応昨年の春の旅行会で吉野山の旅館で”来年は命なりけり小夜の中山に行こう”多数決をしていますから。今更何処に行こうか?迷う必要はありません。
其処で昨晩からパワーポイントで旅行プランを作成し始めました。実は旅行はプランすると時が一番楽しいのです。実際に旅に出てしまえば心配事やトラブルが多発して幹事としては楽しい事は少ないのです。前後が一番楽しい、といった意味では旅は男女の逢瀬に似ているのかもしれません。
目的地は「小夜の中山」と聞いてもピンと来ない人が多いのではないでしょうか薄暗い峠道なら日本中沢山あります。奥会津でも阿武隈山中でも薄暗い峠道は数多くあって。旅人は山賊や妖怪が出現しないか?命がけで通った事でしょう。日本中何処にでもありそうな「小夜の中山」でありますが、一番は静岡/遠江の峠道なのです。
場所は東名高速を下って静岡ICを越すと直に日本坂トンネルに入ります。同トンネルで越える山が宇津山でこの山の北に宇津の谷があって古代から東海道の難所で在ったのでした。
在原業平は奥様を都に残して東海道を下ります。富士山が未だ煙を吐いていた時代でした。浜名湖を越えると直に日作坂(にっさか」を登ります、更に進むと薄暗い峠道に入りました人は一人も通り過ぎません。心細い思いをしていると見知った旅の僧とすれ違いました。屹度僧も驚いた事でしょう。業平はこの友人(僧」に奥さんへの手紙を託しました其処が「蔦の細道」で以来枕詞にもなっています。宇津谷の西側です。
これは芦舟 の蔦の細道図屏風/国立博物館)業平は馬に乗って宇津谷に分け入ってゆきます。峠道で友人の僧に遇います。そこで都に置いてきた奥さんに手紙を託しました。
業平は旧友の僧(後ろ向き)に手紙を託しました。出典上記
この宇津ノ谷越えを「駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり」と、ツタやカエデが生い繁る峠の寂しさを歌ったことから、「蔦の細道」という地名が生まれた。この地名は、鎌倉時代の『東関紀行』や『十六夜日記』にも登場します。日本人なら誰しも知っている故事だったのでしょう。でも一番にこの故事に想いを託して通った人は西行法師だったろうと想像します。
この峠に続くの西の尾根道に「小夜の中山」があるのです。峠の頂上に頂上には久延寺(開基は奈良時代の行基だと伝え られますが詳細は不明です。、夜泣き石伝説です。)西行が此処で次の歌を残します。
年たけて また越ゆべしと おもひきや 命なりけり さやの中山.
西行が子泣き石伝説を聞いていたか解りません。
伝説はこの峠で妊婦が山賊に殺され汰ところが現場の石が夜な夜な泣くという噂が立ったこと。久延寺の僧が泣き声に気付いて赤子を拾って育てた事。更にはその子が立派に成長した事と伝説は広がって行きます。
街道は各地の情報がクロスする処ですから「有名な子泣き石伝説」は各地の伝説が混交しているのかもしれません。
童子説話の多い西行さんですから、この歌が万人の共感を呼んでこの説話に影響したのかも知れません。
でもこの歌が日本人のメンタルに深い影響を与えたのは間違いないでしょう。正に言霊(ことだま)を地(31文字」で行くような歌です。
私も友人も青春を一緒に過ごして以来半世紀、この齢で一緒に旅が出来るのは”命あっての悦び”であります。
一日目は小夜の中山の麓の掛川に宿泊します。
翌朝は真っ直ぐ加茂の菖蒲園に向かいます。日本人は菖蒲好きですから各地に花菖蒲の名所がありますがこの菖蒲は断トツの日本一です。遠江の園芸の伝統は素晴らしく、足利フラワーセンターの藤も遠江の技でしょうが、小堀遠州を産んだ素地は遠江に大きなお寺が普請された成果なのでしょう。加茂の菖蒲園にはその伝統の素晴らしさが五感に訴えてくれます。
二日目は遠江の古刹(油山寺(ゆさんじ)可睡斎/秋葉様の本山)法多山尊永寺を巡りながら、浜名湖畔の舘山寺に宿泊します。
もうじき立春です。立春を過ぎて88日目はお茶摘みの季節ですから。薫風のなか茶畑を眺めながらの旅になる事でしょう。
3日目は舘山寺を出て奥浜名湖を巡ります奥浜名湖は旅行会で既に来たことがありますから湖畔で名物の鰻を賞味しながら時計に逆回りで新居関を観ます。途中幽霊飴で有名な本興寺(以前次に書きましたhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45137761.htmlを巡ります。この伝説は祖母によく聞かされましたが。先の小夜の中山の夜泣き石の影響でありましょう。
夕方に浜松駅でレンタカーは返却して解散します。小田原新横浜各自都合の良い駅で降りてお帰り下さい。
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正月明けに”デーサービスのお花も少なかろう”思って、庭に咲いた椿を伐って持参しました。何時も介護士職員が上手に花瓶に活けてくれます。我家の椿は真紅で巨大輪なのです、アクセントに白椿も交えました。深緑の葉っぱに紅白の椿の花「イタリア国旗」と同じ組み合わせです。お客さん(患者さん)から”まあ綺麗!椿は冬の薔薇ね!”歓声が上がりました。私も嬉しくなります.すると、ブスッと”椿は縁起が悪いんだから”声が響きました。何時もの憎まれお婆さんです。
我家の椿は藪椿に紅白の絞りに巨大輪の紅白の椿の4種類です。今が最高で問題は毛虫の付く初夏です。
椿の花は散るに際して薔薇の様に花弁が散らないで花が一塊の儘ドサッと落花します。で処刑された武士の首が胴から落ちる光景を思わせます。そんな次第で椿は不吉な花とされてきたのです。椿さんからすれば『鳥さんが寄ってくれるように思い切って派手に咲いて、蜜を沢山溜め込んでいるので、花が首ごと落ちてしまうのです。人間が不吉に想うこと等考えもしませんでした』云う事でしょう。
玄関に活けた巨大輪の紅椿、活けても直に散ってしまいます。
朝庭に出て伐って玄関に活けた椿も夕方には散ってしまいます。これを理(ことわり)と受け止めるも不吉と受け止めるのも人次第です。
お婆さんには雀の舌を切った意地悪婆さんと”聞き耳頭巾”を貰った優しいお婆さんと二タイプがあるようです。頭巾を被ればチュンチュン啼いている雀の声が聴き分けられるのです。雀が名主の娘の病気の原因と処置方法を教えてくれたのでした。雀の舌を切ってしまったのもお婆さんですし。雀の言葉を聞き分けたのもお婆さんでした・・・・。
私はそんな話をしたいのを堪えて我が家の椿を見直しました。今日の椿は沢山の人に褒められて嬉しそうです。
1月12日、片瀬の常立寺に出かけました。今年の梅の様子を見ておこうと考えたのでした。先ず戸塚駅に出て大船駅からモノレールで江の島に出ます。江の島駅を降りて200mも歩けば梅の名所の常立寺です。
モノレールに乗るのは10年ぶりです。
モノレールの車窓からは大船観音が見えますお姿を眺めていると、観音様の躯体の中で缶蹴り遊びをした事修工事を竣工して開眼落慶供養式典で足がしびれて転倒した事そして高校時代は観音様の足元の坂道を西に通学しました。
大船観音は父の親友であった黙仙寺の境内地に住職(無我想禅師)が発起人になって昭和10年代に起工したものでした。無我想禅師は一生独身を通しましたので私を弟子として連れまわしておいででした。東急の五島慶太をスポンサーにしていましたから懸念は無かったのでしたが戦争に突入して工事は中断して居ました。戦後工事を再開し折しも秩父セメントが純白コンクリートを開発した事から昼間は白く夜は青白く蛍光する観音像に竣工されました。本来は黙仙寺の客仏ですが大船観音寺といった別法人になっています。
湘南モノレール深沢駅の西側はJRの工場でしたが現在は開発が進います。遠くに見えるのは村岡の御霊神社の森で此処が鎌倉権五郎景昌の館がありました。その右の建物が武田薬品の藤沢工場です。JRは工場を閉鎖して分乗し始めたようです。右側の建物は徳洲会鎌倉体操クラブ左奥に中外製薬があります。医療健康関連施設が深沢に集積しています。果たして此処に何が建つのでしょうか?貧乏な鎌倉市を救済するような高額納税施設が出来るとよいのでしょうが・・・。
湘南モノレール西鎌倉駅から片瀬山住宅地(西武開発)を望む)粉の住宅地にはひ筆者の友人も多く住んでいます。車窓を眺めていると、あの屋根の下でどんな生活をしているのか気に懸ります。向こうの小山(龍口寺)をトンネルで越えれば終点の江の島駅です。
湘南モノレール終点の江の島駅は急な階段ですが、エレベーターもありません。こけないように細心の注意を払って階段を3階から1階に降ります。そんな私を七福神めぐりのポスターが眺めているようです。
駅の階段に貼られたポスターは七福神巡りの競争です。左は鎌倉江の島のポスター右は藤沢のポスター。七福神のスターである弁天様を見ると鎌倉は八幡宮の白幡神社ですが藤沢は江の島弁天です。
江の島駅から旧江の島道に沿って200mも北上すれば常立寺です。片瀬は海沿いですから暖かいのでしょう。既に蝋梅は満開で紅梅も咲き始めていました。紅梅の根元に石仏が並んでいます。
片瀬の常立寺手前の木は栴檀です。この実は真っ黒で大黒様の様な形をしています。その下の黄色い花は蝋梅です。
常立j寺の参道既には紅梅が咲き始めています。今週末は満開でしょう。このお寺の梅は「想いのまま」と呼ばれる豊後梅が人気です2月末からが見頃でしょう。梅の根元に石仏が並んでいます。その石仏に乙女椿の落花が供えられています。
1275年(建治元年)、元(モンゴル帝国)の使者杜世忠ら5 人が、日本に遣って来ます。執権北条時宗は使者の口上も聞かずに問答無用とばかり龍ノ口の刑場で打ち首になったのでした。人々は使者の無念を想い常立寺に埋めたのでした。
常立寺参道は両側とも紅梅が並んでいますが一段低く乙女椿が垣根状に自生しています椿の落花が無縁仏を慰めています。
何度も訪れていた常立寺でしたが今回初めて子安地蔵尊に気付きました。日本水仙が香っていました。
梅の木は背丈も高いのですが梅より低い位置に椿が自生しています。綺麗な桃色の乙女椿です。乙女椿が丸ごと散っていました。打つ首になった元の使者の首の様に・・・・。乙女椿は使者が元に残してきた娘さんの面影でしょうか?日本の独立を守ったとして北条時宗は英雄に祀られましたが。その短気な性格が鎌倉幕府滅亡の端緒になったように思います。外交は粘り強く私益ではなく国益を優先に考えて欲しいものです。
これは無縁仏ではありますがお名前は「妙徳童女」で宝暦5年8月に亡くなられたと刻まれています屹度7歳のお祝いを過ぎて可愛らしさに美しさが際立ってきた乙女盛りに逝ったのでしょう。
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松永記念館老欅荘の南が秋葉山量覚院です。明日(12月7日)は「火防 ( ひぶせ ) 祭」との事あちこちに貼られたポスターに案内されています。ポスターには山伏による「火渡り神事」も執り行われる様子、首都圏では「品川寺」や高尾山で盛大に執り行われていますから馴染みもありますが神奈川県では此処だけのような気がしますし。秋葉山の名がついたお寺であれば尚更です。明日の3時から始まるというので出直したい気にもなりますが、このままパスしては神罰を受けるかもしれない・・・、思いなおして秋葉山に登りました。お寺の入り口は板橋の資産家内野氏の邸宅が構えています。
板橋の旧街道に面した下田豆腐店に貼られた「火防祭」のポスター。
就き当りが秋葉山量覚院右のお屋敷が地元の資産家(内野醤油)の内野露地の脇には朱染めり白抜きの幟が立っていました。
火は古代人にとって神秘だった事でしょう。火は夜の闇を照らしてくれますし。寒い時には暖を提供してくれます。生では食べられないお米も火で煮るか蒸せば美味しく食べられます。火が無ければ人間は生きて行けません。でも火は気難しくて扱いを誤てば命取りになります。屹度焼畑時代に火の扱いを誤って命を落とした人が多かったのでしょう。日本人の母のイザナミは迦具土神/かぐつち)を産んだために陰部に火傷を負って死んでしまいます。この迦具土神は秋葉神です。一般に迦具土神は白狐の背に乗った烏天狗で表されます。勿論背中に大きな火焔を背負っています。我が生家の土間の竈の壁にも迦具土神の護符が貼られていました。
これが秋葉様の護符です。天狗の顔の迦具土神が白い狐に乗って光背は燃え盛る火焔です。
この護符は目黒の蛸薬師のそれです。曹洞宗の寺院の土間には古い竈があってその脇には天狗様の火伏の神様が祀られているものです。竈は女性自身で天狗は男性二人の協力が大切なので夫婦和合が始まりと説きます。お神楽のオカメは竈でヒョットコは火を正しく起す(吹き竹)男を象徴していると言います。
量覚院境内奥に祀られている秋葉神社明治維新の神仏分離令にも逆らって、量覚院は秋葉神社と一体で住職が中心になって祀られてきたようです。
秋葉神社の下の段が量覚院です。庭は併設されているクレヨン保育園のグランドになっています。グランドを掃き清めて落ち葉はトラックの荷台に積んでもちさるようです。明日はこのグランドで護摩を焚いてその残り火の上を山伏たちが裸足で火渡りの荒行をするのです火渡りの行法は災厄を焼き尽くすとか煩悩を焼却するとか云われていますが。古代の呪術ではどの民族も熱心だったようでイザナが火傷で死んで体が腐って死んだ後沢山の命(主として五穀等の食糧)が産まれた様に火で死ぬと命が再生すると信じられたように思われます。写真の様に祭壇が設えられて此処に迦具土神を迎えて大根などのお供えをして四方を青竹で囲んで(結界を張ってあります。
いそいそと大根を吊るして祭壇に運ぶご住職大黒さん(奥様)は山盛りの煎餅と魔法日運を運んで寺男達にL休憩の案内をしておいででした。明日はよい火防祭になりそうです・
【火の重要性】
陰陽五行説に依れば次のように解釈されています。原初の絶対的な存在は天と地陰と陽であると考えます。この正逆二種が混沌とした状態から陰又は陽の気が立ち上り森羅万象を引き起こします。森羅万象は木火土金水の五気に還元されます五気は輪廻します。五つの気に輪廻をする事を五行と云いました五行には正の関係で影響し合う「相生」と負の関係で関係する「相剋」があります。
①木は擦ると火を生じます【木は火を生じる】②火は燃えた後に土に変じます【火は土を生じる】③土はその中に砂鉄や銅を生じます【土金を生じる】④金で水を管理します⑤水は木を育てます。これは順繰りの関係ですが逆繰りになる場面もあります。木は火によって燃やされて灰になって土を肥やすのですが土は物を腐らせてしまいます。人間に死を与えもします陰陽五行は順に巡れば命を育み逆に廻れば死や破滅をもたらします。
これは陰陽五行の相生概念図。五色が正の関係で回れば良いのですが【相生と云う】負の関係【相剋】で廻れば破滅や死を招くと考えますその典型が火です。扱いを間違えると大変です・・・・・。
特に火は正しく使えば闇を消し食べ物を増やし暖も取れるのですが扱いを誤てば死や破滅をもたらします。だからこそ火伏は大事で火伏の神である迦具土神は大事なのです。
量覚院の庫裏と秋葉神社の社務所を兼ねた建物の玄関大きな天狗の表が迎えていました。
社務所玄関には明日使う5色の招福魔除けの矢が用意されていました。
火祭りは正月明け(高尾山薬王院は3月8日)と思って居ましたが最近は消防署の期待を受けて防火運動に合わせて実施され火伏の字も何時の間にか火防と書いて無理に「ひぶせ」と読ませているようです。火伏の方が意味が良く解ると思うのですが・・・・・。
量覚院の境内はお祭りの準備で忙しくしておいででした。
住職さんは見事な大根を二本ブル下げて祭壇に供えておいでです。寺男たちは散り敷いた落ち葉を掻き集めてい舞明日。でも落ち葉には銀杏が混じっているので掃き難く作業は捗りません。大黒さんが魔法瓶に煎餅をお盆に山盛りにして運んできました。
ソロソロ休憩してくださいな・・・・。尊ア雰囲気です。
普段はクレヨン保育園の園児が走り回る境内で明日は怖い怖い山伏さんが火渡りの神事を実施するのです。
帰り際に下田豆腐店に立ち寄り今晩の惣菜を飼ってきました。お鍋には油がたぎっていて次々にガンモドキや油揚げが揚がっていました。大黒柱には秋葉様の神棚が厳かに懸けられてありました。
これが秋葉山量覚院門前に近い下田豆腐店昔懐かしいお豆腐屋さんです。
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宮ノ下から紅葉を探しに板橋の松永記念館に向かいました。小田急板橋駅を降りると赤い幟が並んで立っています。幟には「秋葉山火防祭」と白抜きされています。明日(12月6日」は板橋町では秋葉山量覚院」で 火防 ( ひぶせ ) 祭」が執り行われるのです。昔は何処の家でも台所に秋葉山の狼の護符が貼られていました。火は闇(陰)から光を照らして陽に導いてくれます。生の食料を煮炊きして食べられる状態にしてくれます。火を通すことで食中毒から免れる事も出来る尊い神秘な手段です。でも使い方を誤れば火事になって財も命も一瞬にして失います。そこで火を司る神を秋葉山に祀ったのでした。秋葉原(あきはばら)は(秋葉神社の原っぱの意味ですから(あきばはら)正しいのです。江戸っ子の舌が短いので(あきはばら)と訛っているのです。
益田鈍翁は板橋丘陵の南東斜面を別荘地に開発しました。そして時の政財界人の別荘サロンンにしました。
東京から見れば最初に金沢八景(伊藤博文等が進出)次いで大磯、そして小田原板橋に避寒地として別荘が開発されたのでした。鈍翁の「掃雲台」こそ強羅公園に移築されてしまいましたが。板橋には素晴らしい別荘が今も遺されています。山形有朋の「古希庵」大倉喜八郎の「共寿亭/割烹山月」黒田長成の「清閑亭」等がそれで、数寄屋造りの建物を見学できます。強羅公園の益田鈍翁の茶室は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45075968.html。
松永記念館の園地池の周囲に茶室が在って回遊できるようになっています。遠くの丘陵が借景になっています。古希庵等はこの丘陵に点在しています。
紅葉の向こう「北」が香林寺で背中(南)が火伏の寺「秋葉山量覚院」になります。紅葉の下にある石橋と石灯籠が庭の中心でどちらも奈良の長岳寺から移設したものです。
上段写真の右端にある茶室葉雨庵(たにし庵)野崎廣太の茶室を移設したモノ後述する老欅共々国の登録有形文化財です。現在は入園無料です。小田原市は痩せ我慢で頑張っています。そんな努力が茶花は職員に庭の草花を活けさせ、障子が破れれは継ぎ接ぎさせているようです。こうして見ると継ぎ接ぎの障子が返って美しいと感じます。電力王松永耳庵も苦笑いで障子を観ておいででしょう。右は春日蟷螂。にじり口の草履を脱ぐ用の踏み石に置かれた関守石(せきもりいし)は早川の川原にある安山岩のようです。
池から老欅荘に向かうと正面に欅の大木が迫って来ま左端に見えまする大木です。
戦前は「電力王」と呼ばれた松永耳庵が出現したかと思いつつ欅の大木を見上げます。
松永安左衛門は飽く迄開戦に反対し、”テロリストに命を狙われている”と忠告されてやむをえず引退させられ抵抗”耳庵”と名乗り茶人として余生を過ごします。その頑固一徹なな姿勢がこの大木に乗り移ったのかように思えます。
私はリハビリが進んだとはいえ左脚は弱いのです。少しでもよろければお池に嵌ってしまいます。慎重に石段を登ります。さて今日のハイライト老欅荘の紅葉の色づき具合が気にかかります。
欅の葉はもう散ってしまい枯れ木です。紅葉も遅かったかもしれません。でも池から10メートルほど高い位置にある老欅荘は紅葉に囲まれていました。
老欅荘の築地越しに欅の大木を見下ろす。この築地は耳翁がデザインされたものだそうですが緩やかに曲がりくねった姿はたおやかで京都高尾の高山寺のそれを思わせます。この塩葺き瓦の上に散紅葉が重なります。
この歪んだ築地も耳庵のデザインだそうです。高山寺を髣髴させます。
【耳庵と戦争】
老欅荘を営んだ松永耳庵について説明します。松永安左衛門は長崎の孤島壱岐の生まれです。盟友の
益田貪翁は佐渡の相川の生まれでしたから二人は逆境で育ち反骨の武士であった事は共通していたのでしょう。慶応義塾に進学し福沢諭吉の眼に止まります。日銀に就職、福沢桃介と丸三商会を創業し、石炭の販売で成功します(1901年27歳)。1909年(35歳」で福博電気軌道(福岡の路面電車で後の西鉄の前身になる)。
同社は電力事業に重心を移し関西電力(1921年47歳)設立します。関西電力はし九州電灯鉄道を合併し東邦電力になります(1922年48歳)。東邦電力は本社を東京に移転1925年(51歳)で東京電力を設立します。何れの電力事業においても松永安左衛門はナンバー2で福沢が表に立ちました。松永安左衛門が表に立ったのは昭和3年(1928年54歳)の時でした東邦電力の社長に就任します。
このころから我国の世相は一変してきました。国は国家総動員法を通し、更に電力事業の重要性を鑑み国の管理下に置こうとします。こうした動きにリベラリストの松永安左衛門は真っ向反対します。「電力統制私見」を発表し、民間主導の電力会社再編を主張します。今見れば松永安左衛門の主張は正論なのですが思わぬ舌禍事件を引き起こします。講演会の席上で軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言しました(1937年)。これらの言動は「天皇の勅命をいただいているものへの最大な侮辱」と大問題になり松永は新聞に謝罪広告を掲載して引退させられてしまいます。益田鈍翁は松永の心中が良く解っていたのでしょう。自らの茶会に松永を誘いました。
伴う東邦電力の解散(194268歳)を期に松永は引退し、以後所沢の柳瀬荘で茶道三昧の日を過ごします。同時に益田鈍翁の誘いに従って小田原板橋に老欅荘の建設に着手します。(当初は15坪現在は45坪)。松永の評価は高く今年の秋NHKでは「経世済民の男/松永安左衛門」http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/write.htmlとしてドラマ放映して居ました。
戦後GHQによる占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、松永安左衛門は電気事業再編成審議会会長に選出された現在の様な民営に依る9電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を実現しました。
今泉下の松永安左衛門は云っておられるでしょう「原発事故あれは何だ?官僚の甘言に騙されて原発なんて玩具を作るから・・・・。矢張り官僚は人間の屑だ。政治は経世済民だと言っておいたのに官僚のミスリードで財界は「経世斉企業」に堕している。と
そう言えば今日は開戦の日です。
老欅荘の主室
ところで耳庵の名ですが。何故松永安左衛門が耳庵と名乗ったのか、其処にも反骨がうかがわれると思います。一般的には」論語に依った解釈でしょう。
論語には15歳を志学( しがく) 30歳を而立 じりつ 40歳を不惑( ふわく ) 50歳を知名( ちめい 60歳を耳順( じじゅん)と云います。呼ぶと言います。60代で引退に追い込まれた不本意であるが・・・・テロリストに狙われているというのならばそんな雑音にも耳を傾けて遣ろうじゃないか!そんな気持ちで耳庵と名乗ったのでしょう。屹度耳庵は庚申塔の猿の様な気持ちだったことでしょう。
庚申塔の三猿は眼を塞いだ猿耳を塞いだ猿そして口を閉じた猿の三匹ですがこのお猿さんは頭を地中に埋めてしまっています。こうすれば嫌なモノを観なくて済むし、聞かなくて済みます。時鳥は血を吐いても啼き続けると言います。正論を吐いても殺されるだけだと悟った時耳庵さんは土の中で”官僚の馬鹿野郎”軍閥の阿呆!日本をどうする気だ”叫びたかったのでしょう。(写真は鎌倉常楽寺)
明日はお隣の秋葉山量覚院を書きます。
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