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私の通った高校はJR大船駅を降りて西に坂を登った玉縄城跡にありました。歩きはじめる丘の上には大船観音で。その観音様が奈良法華寺の十一面観音のお顔の摸刻でその十一面観音が光明皇后の生き身を写したものである事は大学生になってから知りました。
ですから、私は朝晩光明皇后の眼差しの下を通学していた事になります。昨日7月25日は鎌倉学園VS慶応高校の試合が保土ヶ谷球場で挙行されましたし、テレビで中継されていました。本来なら鎌倉学園の応援に参じる処ですが、蓮の花を観に三溪園に行きました。梅雨明けの季節には蓮を観ておかないと良くないと確信しているのです。蓮と云えばベトナムの国花です。ベトナムで蓮を観ましたが日本の蓮に較べるとイマイチなのでした。何が違うんだろう?”思いながらベトナムの蓮を観ていて気づきました。日本の蓮は水面から見て高い位置にポツンと咲くのです。較べてベトナムの蓮は水面に近く。毎朝次々に咲きます。咲き終われば花弁は散って蓮台も水中に没しますし、葉っぱは枯れるモノもあります。日本の蓮は一年に一度初夏にしか咲く機会がありません。一年中蓄えたパワーを一気に開花に集中するのです。一年中試合をしているプロ野球がマンネリしているのに較べて。一年に一度の高校野球や社会人野球が感動させるようなものです。
日本で咲く蘭の花が熱帯のシンガポールやフロリダやハワイの乱の花より綺麗なのは「世界蘭博覧会」で日本の蘭が毎年最優秀賞を獲得するのも同じです。熱帯の蘭は一年中咲いています。一方日本の蘭は博覧会に向けて一度咲くのですから、日本の蘭が勝るのは自然です。
三溪園に蓮の花を観に行きました。お人形はベトナムの水芸を観に行った時に求めたお人形です。お人形さんも蓮を観たかろうと思って連れて行きました。勿論今話題の「ポケモン・ゴー」を捩った積りです。
此方は鎌倉光明寺記主庭園の蓮の花です。此方の蓮は中国産の蓮です。中世近世蓮と云えばこうした八重の蓮が珍重されたのでしょう。でも昭和26年千葉の検見川古墳から先史時代の蓮の種が丸木舟と共に発見され大賀博士が花を咲かせました。あの時は一重の大輪の花の美しさに驚きました。炭素化した種を分析した結果弥生時代初期と判断されました。
昭和28年千葉の検見川の遺跡で蓮の種が発見されましたその種を播いて大賀博士が弥生時代の蓮を咲かせました。日本中が大賀蓮に湧き立ちました。大賀蓮は瞬く間に埼玉の遺跡に、公園の池に三溪園の大池にも咲くようになりました。日本人が大賀蓮を観た時の興奮は第一にそのおおらかさ美しさであると同時に2千年以上も前の祖先が残してくれた種を花咲かせた僥倖だったでしょう。
これは高野山に残された胎蔵界曼荼羅図です。この中央にある正方形が中台八葉院で大賀蓮そのものの図案です。
これは高野山の根本中堂の内部です。胎蔵界曼荼羅図の中台八葉院を立体曼荼羅にしたように作られています。
これは羅漢仏です。金剛界曼荼羅は産まれた自分自身が如何にして仏になるか?即身成仏するかを観想させる絵図です。日本人は弘法大師の遍路生活をお手本にして大自然と感応する一体化する道を選択しました。まるで羅漢石仏のように・・・。
でも多くの日本人は大賀蓮は何処かで観たことが在ると思いました。それは弘法大師の残された曼荼羅の図だったのでした。私達は国宝の高野山に残された胎蔵界曼荼羅図を覚えています。胎蔵界とは母親の胎中の意味です。私達がオギャーっと産まれる前の世界観です。
同図は弘法大師が人々に密教を理解させるには言葉で説くよりも絵を見せる方が良いと思われて世界観を絵図にされたものでした。その中心には宇宙の中核大日如来を置きました。そしてその四方に如来を置きました。これを中台八葉院と呼びます。中央の台座には大日如来がお座りです。その周囲には主要な如来菩薩が囲っています。それは大日如来が人間の願に応じて様々な如来に転じ、時には如来になる前の菩薩の姿を示した図で、全体を観ればまるで蓮の花のような姿でした。4体の如来(宝幢−ほうどう、開敷華王−かいふけおう、無量寿−むりょうじゅ、天鼓雷音−てんくらいおん)と4体の菩薩(普賢菩薩、文殊師利菩薩、観自在菩薩、慈氏菩薩)、計8体が表しました。どの仏も大日如来の変化形で変化の原因は人間の願望です。
弘法大師は古代末期に密教を大成させた人です。朝廷は密教の力で綻びの目立ち始めた国家の安寧を図りました。仏教の力で国家の鎮護を祈ったのは、何といっても聖武天皇と光明皇后でした。
その証拠になる仏像は第一に法隆寺に残されている橘夫人念持仏です。橘夫人とは光明皇后の母で軽皇子(文武天王)の乳母も務めた賢母でした。葛城王を出生します。葛城王は臣下に下り橘諸兄の名を賜り野心の無い事を天下に表明します。ところが藤原不比等は橘夫人を見初め後妻に迎えて光明子を産みます。橘諸兄は藤原不比等の策謀に嵌って亡くなります。橘夫人は息子諸兄の死を聖徳太子にダブらせたのでしょう。法隆寺を大切にします。そんな母を観ていた光明皇后が母の菩提を弔って法隆寺に納めたのが橘夫人念持仏だったのでしょう。写真のように泥池から生え育った蓮台の上に阿弥陀三尊が衆生に微笑んでおられる美しい阿弥陀三尊像です。
この橘夫人念持仏を法隆寺に奉納したのは間違いなく光明皇后だったことでしょう。
この橘夫人念持仏は有名な玉虫の厨子と並列して法隆寺宝物張に記録されています。
法隆寺の釈迦三蔵の光背に記された願文には「聖徳太子上宮太子が彼岸に到達できるよう」と刻まれています。聖徳太子が建てたのが法隆寺です。法隆寺に納められた仏は何れも聖徳太子への共感が動機になったモノのように思います。それだけ聖徳太子のように優れた才分がありながら不幸な一生を終えた人が多かったのでしょう。光明皇后は自邸を法華寺に改め国家の安寧を祈り施薬院等の善行を重ねたと伝えられます。光明皇后への敬愛の想いが法華寺十一面観音を彫らせその後背に蓮の花を荘厳させたのでしょう。
これが法華寺の十一面観音像(国宝)矢張り日本人は木質の観音像に親しみを覚えます。
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