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御成り町で同窓会を終えて私は横須賀線の線路脇を通って雪の下に向かいました。線路脇の細道は昔ながらの砂利道です。日本中の道はアスファルトで覆ってしまいましたから日本の植生も変わってしまいました。路地裏に咲く「ドクダミ」や「ホタルブクロ」や「忘れ草」もアスファルトになったら生き残れません。線路脇の道を舗装しないのは多分地域の住人がこうした山野草を大切にしてきたからだと思います。とりわけ雪の下と駅を繋ぐ線路脇の細道は一人のお婆さんが手入れをしてきました。小さな仕舞屋にお住いで猫の額のお庭で育てられた立葵が次第に増えてお婆さんは増えた立葵を線路わきに植え替えられました。線路と細道との境は枕木を使った垣になっていましたから、隙間があって隙間をシャベルで掘って立葵の若芽を移植されたのでした。でも細道の通る街区は急速に開発が進んで、先ずは駐車場に次いでアパートに変貌してゆきました。
お婆さんの家も開発の標的とされたのでしょう。私が入院している中に更地になってしまいました。
鎌倉駅と雪の下を繋ぐ生活道路は大半が未舗装です。未舗装部分に立葵が自生しているのです。写真はU字溝とフェンスの隙間に自生して花を咲かせた野萱草(通称忘れ草)です、万葉集には”忘れ草垣もしみみに植えたれど醜(しこ)の醜草なほ恋”万葉集12「大意:忘れ草を垣に沢山たくさん植えたのに、この草ったら、ちっとも効き目が無くって・・・・・余計にあの人のことが恋しい。
この電信柱の奥の更地に住んでおられたお婆ちゃんが丹精したのが此処の立葵なのでしたが・・・・。
この細道を北に進むと寿福寺踏切に出て右折すれば川喜多映画記念館に出ます。今は原節子を特集しています。
立葵の咲いていた処は参議院銀選挙の選挙ポスターが掲示されていました。ポスターが良く見えるように立葵を伐採したのかもしれません。
肝心のお婆様が住んでおられた小さな家は既にありませんし庭を埋めていた立葵も疎らにしか生えていません。逆に今は線路側に自生していたカンナの方が優勢なようです。
上の写真の状態で落胆してしまいました其処で昔アップした写真と見比べてみました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48147775.html
下が以前の写真です。
これが5年程前の私が入院する前の写真で色とりどりの立葵が咲いて電車が通るたびに大きく揺れてそれは見事でした。
お婆さんの家の前から線路を観ると目の前を電車が通過して行きます。立葵は一斉に右に左に揺れます。乗客も立葵の花を車窓から愛でました。お婆様にとっては此処に枕木が垣代わりに立っていたので立葵の支柱を用意する必要もないし、乾燥土だったので移植するには好都合だったのでしょう。
お婆さんが居なくなってしまったので立葵は気力を失ってしまったのでしょうか?それとも野生と云っても立葵は人の面倒見が必要なのでしょうか?解りませんが見るからに貧弱になってしまいました。
叔母ささんのお庭は次の様でした。
ところで立葵ですが、古代は唐葵と呼ばれていました。三国志の蜀に自生する葵の意味で蜀葵と呼ばれていたのです。漢の正統の皇帝を自負した劉備玄徳の旗印だったのでした。根元近くから咲き出して徐々に上に上に咲いて行く様が理想の皇帝を意味していたのでしょう。
梅雨の入りで咲き始めて頂上の花が咲き出すと梅雨明けになります。立葵の花の咲き具合で梅雨明けを予測したものでした。
私の住む街には舞岡中学があります。その通学路は田畑の中で、たくさんの生徒が地下鉄駅から10分ほどの距離を歩いて行きます。青春の特徴は理想主義です。立葵の姿は青春に似合っていると思います。もうじき生徒達は夏休みです。楽しい筈の夏休みの直前には期末試験があって。その成績次第では夏休みの過ごし方も変わって来ます。地下鉄に乗っても新聞の折り込みチラシも予備校の案内が目立ちます。梅雨明けは野菜も美味しい季節です。
舞岡の畑の縁に自生している立葵の花、舞岡中学には向こうの山裾を回って京急電鉄の開発した住宅地の端にあります。中学生はこの細道を登って学校に向かいます。
立葵の花陰を通学する女学生。畑の紫蘇も紫に染まってもう梅干を漬けなくてはなりません。
立葵も忘れ草もどちらも一日花です。朝咲いていた花は夕べには散ってしまいます。その儚さは美しさの裏腹です。何処か七夕飾りを思わせます。
鎌倉大町の細道にあった立葵が貧弱になってしまったのは残念な事です。優しい花咲き婆さんの姿が見られなくなったことも寂しい事です。でもこの細道は商魂逞しい小町通りよりも遥かに美しい路地です。お婆様の志しを引き継いで立葵の世話をしてほしいモノです。
立葵の路地は小町通りに平行して走っています。小町通りの喫茶店では珈琲が700円するのに対し路地裏の民家の庭先喫茶店では木洩れ日を浴びながら半額で珈琲が飲めます。小町通りの繁栄がお婆さんをこの街から追い出してしまったのでした。
浴衣の可愛いお嬢さんを誘う人力車のお兄さん、お兄さんの背中は鎌倉聖 ミカエル教会です。昨日アップした浴衣のお嬢さんは足元がサンダルで興醒めでしたがこのお嬢様は屹度鎌倉育ちなのでしょう。草履で、足元も裾捌きも綺麗でした。叔父様も蕨もちでもご馳走したいと思いました。
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花ウォーキング
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ウォーキングしながら、路地裏で、里山でひっそりと咲く花を見つめます。花を愛でた先人の思いや息使いを文学に探します。
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6月2日は横浜市の開港記念日です。横浜の臨港部でパレードが挙行され夜には盛大に花火が催されます。朝同居している次男が”今晩は家で食べない”言って出かけました。”デートかな!”少し動揺してしまいます。それで今日は通常なら馬車道に出かけて竜舞や獅子舞を見物するのですが。縁切り寺の岩カラミの特別公開が始まったので北鎌倉の松ヶ丘に出かけました。特別公開の日程は次の通りです。
そんなわけで平日の11時の公開に併せて出かけたのでした。
朝10時北鎌倉駅は大混雑です。
北鎌倉山内の東慶寺この観音石仏の裏に松ヶ丘文庫のある小山があります。その岩場に今日の話題岩カラミが自生しているのです。観音様の前には紫陽花、背には山法師の花が咲いて石仏を荘厳しているようです。
縁切り寺は中学高校の友人の生家でありますからその昔も良く承知しています。昔は我が生家と変わらない寂しいお寺でした。強いて違いを上げれば私の生家は巨木の梅の木柿の木が茂っているのに対し駆け込み寺は貧疎な老梅が列を為して並んでいました。唯盛徳寺(我が生家)は同じ禅寺でも曹洞禅ですから鄙の匂いが強く匂い、駆け込み寺は臨済ぜんですから知的雰囲気の濃い歴史の重みを感じさせていました。当時は本堂の裏に巨大な岩カラミが自生している等全く知りませんでした。
明治時代初頭の廃仏毀釈に苦しんだ駆け込み寺でしたから本堂も売却(現在は三溪園内にあります)し、爪の先に灯を灯す姿勢で本堂を再建したのでしょう。大貧乏した井上禅定和尚は檀信徒をリードして本堂を再建し、境内の美化に心がけ、様々な教化活動や文化事業に専心された結果今日の様な東慶寺の高い評価を勝ち得たのでありましょう。向かいの谷戸の明月院が紫陽花寺として人気が上がるのに対し。駆け込み寺は早春の梅や水仙では先行しても梅雨に入れば人波は明月院に向けて流れてしまいます。40年ほど前にお檀家の方が本堂裏の一枚の大岩を見られて”この大岩は岩カラミに最適です”言われて岩の下に一本の岩カラミを植えられたそうです。元々駆け込み寺のお檀家はインテリが多いのですから。植物に詳しい方もおられたのでしょう。
神奈川県の岩カラミと云えば箱根の強羅公園にある白雲洞/益田鈍翁の茶室)が有名です。白雲洞自体が大岩に依りかかるように建っていますが其処に岩カラミがビッシリと這って花を咲かせます。近代の数寄茶の旗手がその美的センスで岩カラミを植えたのでしたから誰もが”流石”と頷く岩カラミと大岩と茶室との組み合わせです。
本堂の濡れ縁が回廊式に設えてありますのでこれを巡って一周すれば岩カラミの全体を観察できます。手前左に根っこが生えていて右に向けて蔓の幹が伸びています。その姿は山藤か葛のようです。そして花は鍔紫陽花です。
東慶寺の本堂のご本尊は阿弥陀様です須弥壇の後ろは壁で遮られていますが若しも透明なら岩カラミが阿弥陀様を荘厳して居る事になります。正面の阿弥陀様の左の曲碌に坐っておられる方が開山の覚山尼でしょう。仏様や開山様の後ろに花をイメージしてみました。
鈍翁が建てた強羅公園にある近代茶室の白雲洞巨大な岩が軒先にあその大岩に岩カラミが這っています。。下の段の茶室との間にある大蛇の様な蔦が岩カラミの幹です。このお茶室は面白くて北(明神ヶ岳の方角)に下って行くと温泉の湯船が設えられています。
客人は白雲洞に上ったら温泉で汗を流してからお茶室にあがり接待を受ける仕組みなのでしょう。”ああいい風呂だった”といいながら茶室の縁側に出ると目の前に岩カラミの花が白い雲のように咲いているのを見上げたのでしょう。今も着物を召されたご婦人がお点前して下さいます。(御抹茶500円干菓子付)
益田鈍翁は三井財閥の番頭で、三井物産の実質創業者で居られました。
『人の三井組織の三菱』の評は総じて三井Gの誉め言葉ですが、益田鈍翁が良き伝統の始まりと云えましょう。鈍翁さんがスイスを見聞され始めたのが箱根登山鉄道であり強羅のリゾート開発でした。強羅を開発して白雲洞を建ててその庭に岩カラミを植えられたのでした。箱根登山鉄道の保線区職員は昭和48年線路沿線に紫陽花を植え始めました。
保線区職員にすれば紫陽花を植える事で雑草を排除出来るし綺麗でお客さんに喜ばれる一石二鳥の効果が期待されたのでしょう。こうしたアイディアも鈍翁さんの岩カラミを観た事から出た自然な発想だったのでしょう。箱根登山鉄道は我国最初のDIY店ビーバートザン(登山)を始めます。人の三井が登山鉄道にも生きているのです。
去年は6月に強羅から仙石原に遊びました。6月後半にでも紫陽花を観に登山鉄道に乗りに行きましょう。
岩カラミを観て帰宅しました。庭にはワイフが挿し木した鍔紫陽花が夏の日差しを浴びていました。
先日お隣の御主人が庭木を剪定されて早咲きの鍔紫陽花の小枝が切り捨てられたのでした。ワイフがこれを戴き発根処理をした上でプランターに挿し木したのです。鍔紫陽花はワイフからもらった生きるチャンスを活かそうと必死のようです。期待通り根を出したら地面に下ろしてあげて我が庭にも鍔紫陽花が自生する事になるでしょう。
これは我が庭でワイフが挿し木で活かそうとしている鍔紫陽花の花です。
私が入院した折には友人などから菊や沈丁花を戴きました。私は顔を横にして花瓶の花を観ていまあした。ある時花瓶の中で発根し始めた事に気付きました。そこでワイフに頼んで植木鉢に植えて貰いました。幸い今年も背丈を伸ばして花をつける準備をしています。
友人にも激励されましたがお見舞いの植物にもお手本を見せられた想いがしたのでした。
ワイフはあの時の体験を良しとしてお隣の鍔紫陽花を咲かせるようトライしているようです。
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我家の台所の窓からはお隣との境に[卯の花]が咲いています。初夏の花と云えば白い卯の花です。4月は卯の花月と呼びました。古代から日本人は行く春を惜しみ来る夏をこの白い花に感じて来ました。卯の花の花陰で啼いていたのは時鳥でしたが、お百姓も花陰に隠れて「我田引水」に励んでいたのでしょう。田植えを終えれば次はお隣の田圃との水合戦です。水を引かなければ稲は育ちません。米造りの辛さが浸みこんだ卯の花です。加え白と緑のコントラストは爽やかで”夏が来た”を最も感じさせてくれます。
卯の花を観るともっともっと白い花が観たくなります。卯の花は灌木ですが雄大に白い花を咲かせる木があります。白雲木に「なんじゃもんじゃ」の木です。どちらも柏の木のように大きな葉っぱをつけて大木になります。
5月初め深大寺のなんじゃもんじゃを観に出かけました。
何時もは深大寺には調布駅からバスに乗って門前の蕎麦屋に出るのですが、この日は先ず深大植物園に行って深大寺には裏門から入りました。植物園と深大寺の間は武蔵野の面影を残す雑木林が広がっています。雑木林の中を縫うように遊歩道が延々と続いています。雑木林の下草の中二真黄色の花が咲いていました。金襴です。我が生家の裏山にも金襴がひっそり咲いていました。其処だけ金色に光っているのでまるでかぐや姫が舞い降りた様に見えたモノでした。久々に1尺もある金襴を観ただけでもうれしくなりました。
深大寺は裏門から入ると直ぐに本堂があります。本堂の横(西)に大きななんじゃもんじゃがあって5月初めに霞のように花を咲かせるのです。遠目で見ると奪衣婆が産着を被っているように見えます”何の花だろうあの巨木は?”驚きがそのまま「なんじゃもんじゃ」の名になったでしょう。でもちゃんとした名はあるのです。モクセイ科の「ヒトツバタゴ」と云うのです。
深大寺本堂の西側に咲く「なんじゃもんじゃ」の木皆空を見上げて写真をとっています。彼女もスマートフォンで撮って「この花なんだかわかる「なんじゃもんじゃ」っていうのよ今深大寺に居るの・・・」なんてボーイフレンドにメールするのかも知れません。彼女のハートは五月病かもしれません。ボーイフレンドもそれに気づかないと駄目ですよ・・・。
これは歌舞伎町にちかい正受院にある奪衣婆。頭上の真綿は胎児に着せる産着と云われています。次に書きましたhttp://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A5%AA%E8%A1%A3%E5%A9%86%E7%94%A3%E7%9D%80&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%83&fr=top_ga1_sa
深大寺本堂西側のなんじゃもんじゃの木
これは本堂の西側に並んでいる元三大師堂の前庭に祀られている元三大師の石像。こっちの石像こそ”なんじゃもんじゃ?”訊きたくなる不思議な造形です。これは大8代天台座主であった元三大師(がんざんだいし)が描いた災厄除けの護符です。
深大寺に来たらこの白鳳仏を拝まなくてはなりません。新薬師寺の香薬師を失った現代。日本の少年時代のモニュメントはこの釈迦如来だけです。この清々しさは初夏の白い花に通じます。この日は午前中に参拝したので良く見えました、午後になるとガラスが反射してしまいます。
深大寺の「なんじゃもんじゃ」は門前のお蕎麦屋さんの多くで咲いていました。深大寺さんのお陰で先祖代々蕎麦を打って食べて来られた、感謝の気持ちがなんじゃもんじゃ」の実生苗を競って店先に植えたのかもしれません。アッチの蕎麦屋にもコッチの蕎麦屋にも「なんじゃもんじゃ」が咲いていました。笊蕎麦の好きな人はなんじゃもんじゃの白い花が好きなのかもしれません。白い花弁を観ていると神主さんが持つ由布を想い出しました。
さて我が家に戻ったらもう一つ見たりない白い花が在る事に気付きました。そこで、北鎌倉の浄智寺に「白雲木」を観に出かけました。
ワイフは”先週建長寺のボタンを観に行ったときに寄れば良かったのに、もう散っていますよ!”余り気乗りがしないようです。
私は「白雲木は咲いているときも良いけれど花が散って地面を真っ白に覆ったところが良いんだよ」思いついたら止まらないのが私の性格です。
深大寺から戻った翌日北鎌倉の浄智寺に登りました。浄智寺の仏殿(曇華殿)の奥に白雲木の巨木があって隣の高野槇と高さを競っています。私の感覚では鎌倉で最大の白雲木です。この白雲木も実生の木を増やしているようで境内には子孫の木が少なく見ても4本はあります。
参道石段下の白雲木が陽当りが悪いので花も遅れていました。親の木はもう散っていましたが子供の木は未だ花を咲かせてカラスアゲハ蝶々が集まって来ていました。蝶々は華麗な姿をしているくせに性格が悪いようで縄張りを強く主張しています。「なんじゃもんじゃ」が霞なら白雲木は名前の通りに「白雲」です。
浄智寺の方丈庭園に咲いた白雲木浄智寺さんは昨年茅葺の屋根を葺き替えたようでお庭も綺麗に手入れされていました。右手前が白雲木の若木です。
これは浄智寺石段下の白雲木です。本命は散っていましたが日陰の若木は未だ咲いていました。
白雲木には熊蜂も寄って来ますが揚羽蝶も寄って来ます。激しく縄張りを争っていました。
浄智寺さんの白雲木が終われば次はお隣の東慶寺の山法師の花です。山法師も緑の葉っぱと白い花弁のコントラストが新鮮で清々しく美しい木です。
私は花を追いかけているうちにリハビリも進んで行けそうです。
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5月に入ってお隣の家のジャーマンアイリスが大輪の花を咲かせています。お隣は元々は農家で及川さんでしたから柏尾川を背負った位置にある家と云った意味だろうと思っていた処先代の御主人に伺ったところ”徳川家康を背負って洪水の柏尾川を渡ったので褒美に及川の名を戴いた”のだそうです名を戴いたのですから”わが家は家康公から指示された名主である”と云った自噴が感じられました。でも倉田は及川姓が多いので一般に屋号の「蓮田」で通っていました。家の前が蓮の自生する田圃だったのでした。蓮田の縁には黄色い杜若が群生していました。端午の胃節句になると我が家も蓮田家に杜若を貰いに行きました。勿論菖蒲湯に入れる為でした。杜若が何時しかジャーマンアイリスに変わってしまったのですから大変化です。
”5月になったのだから杜若を見に行こうよ”言ってワイフに付き添ってもらい金沢文庫称名寺に行きました。称名寺の浄土庭園は昔ながらの杜若が池の縁を囲う様に自生しているのです。2年前は称名寺の門前近くにある「若草病院」でリハビリしていました。あの時は称名寺さんを詣でたいと思っても適わずその手前にある龍華寺さんまで車椅子を押して貰いました。あの頃に較べれば歩いて称名寺さんを巡れるのですから大きな違いです。”大病を患った分杜若も生き生きとみられるように想えます。そんな次第で称名寺さんに登りました朱色の総門を潜ると山門まで暫くの間茶屋が並んだ参道があります。一番人気の文庫(ふみくら)茶屋の前のU字溝を保育園児が覘いています。
称名寺山門の仁王像此処の仁王像には説話が残されています。杉田妙法寺の杉田(磯子区)の妙法寺に、妙法坊という住職が居ました。ある日妙法坊は、金沢の称名寺に出かけ、称名寺のお坊さんと碁をさすことになりました。以前から称名寺の山門の立派な二対の仁王像をうらやましく思っていた妙法坊は「碁に勝ったら、私にあの仁王像をくれないか」と提案します。。称名寺のお坊さんは碁に自信があったしもし負けても持って行けないだろうと、と思ってそれを承知しましたが、油断が在ったのか負けてしまいました。すると妙法坊は、軽々と仁王像を背負い、一日で甲州の身延山へ持っていってしまったのです。その仁王像が今も身延山久遠寺にある「黒仁王」です。妙法坊は久遠寺では「日荷上人」という名前を戴きました。「日荷上人」のお墓は六浦の上行寺(じょうぎょうじ)の大栢の樹下にあります。この民話が事実ならこの仁王像はその後の作という事になります。
保育園児は口々に「緑亀だ!」言っています。
今年も亀の子が卵を割って産まれて、危険のある浄土池には行かずに当面はU字溝で生育して居るようなのです。でも緑亀と呼ばれて可愛いのはほんの半年でじきに巨大で毒々しいミシシッピアカミミガメになってしまいます。称名寺の近くには建長寺の末寺の泥亀寺があるようにこの辺りは在来種の石亀や泥亀が多く住んでいたのでしょうが、今ではペットだった緑亀が逃げ出してミシシッピアカミミガメが占拠してしまっているのです。テレビに猿沢の池の大掃除が映っていたことがあります。池の底に沈んでいるゴミを掃除する序に確認してみれば在来種の亀は駆逐されてしまってミシシッピアカミミガメばっかりでした。流石に外来種だからと云って殺処分は出来ないようでしたが、猿沢の池を在来種の石亀を呼び戻すのは諦めの模様でした。
4月に私は岩城の白水阿弥陀堂を観て来ました。白水阿弥陀堂は奥州藤原清衡の娘・徳姫が磐城に嫁に行き毛越寺の浄土庭園を磐城で再現したものでした。平泉を攻めた鎌倉幕府がその素晴らしさに感動して鎌倉の二階堂や金沢に浄土庭園と阿弥陀堂を建立しました。浄土のイメージを残しているのは称名寺が一番です。
このお寺は常時美しいのですが桜の季節そして彼岸花の季節そして杜若が咲きそろう季節が最も輝いて見えます。
これは花筏の称名寺です以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45068640.htm..
「今年の杜若は如何かな?」山門の脇から浄土庭園を覗き見すれば見事に咲いています。
山門から太鼓橋平橋を渡って本堂(ご本尊は阿弥陀如来)まで真っ直ぐ続いています。修復工事を終えて5年杜若の群落は昔日のように広がりました。
何といっても虹を渡って阿弥陀様の脚下に行くような太鼓橋です塗り直した当初は鮮やかだった朱色も何時の間にか目に馴染んできました。水面に虹が映っていました。消防訓練の時にはもう一つ虹がかかります・
称名寺が浄土庭園の修復工事をして太鼓橋や平橋を付け替えたのは5年程前でした。その時は重機が境内に入って土工事もされましたから、杜若も傷んでしまいました。杜若にすれば雌伏5年で又以前の状態に復したと云った事でしょう。その間称名寺では須弥壇の納戸などを見直したのでしょう。大威徳明王像(国宝/運慶作)等の新発見で脚光を浴びました”若しかしたら鎌倉とセットでユネスコの文化遺産に指定されるのでないか!”期待されたのでしたが肝心の鎌倉の遺産の過半が関東大震災後に再建されたモノばかりでしたから見送られてしまいました。
鎌倉単独では無理なようですから全国の浄土文化遺産をセットにして再申請したら良さそうに思います。浄土は極楽でありユートピアですから世界中の民族が各々浄土を持っています。西洋文化では空間的に断絶した天空の彼方に極楽(天国)が在ると思って教会の尖塔は高く高く空を突き刺しました。
ところが日本では浄土は現世の地続きにあると考えました。其処は年中花が咲き空気も水も清浄で美しい鳥が鳴いて飛ぶとイメージしました。”現世をユートピアにしたい極楽にして平和に暮らしたい”願いは世界民族共通でしょう。”現世でその夢を実現して皆共々平和になろう!”といった考えは大乗の教えで法華経の世界です。ユネスコも浄土庭園の指定に異論をはさむことは無いでしょう。
杜若が取り囲む称名寺浄土庭園をユネスコの委員に見せたいと思うものです。
今日も杜若の花陰にはミシシッピアカミミガメが集まって甲羅干しをしています。
浄土庭園はミシシッピアカミミガメの天下です。この写真は5年前庭園工事中のモノ未だ杜若は刀のような葉っぱを伸ばし始めたばかりです。
杜若の花陰でのんびりと行く春を惜しむようなミシシッピアカミミガメ
浄土庭園は外来種のミシシッピアカミミガメにとってであって、在来種の亀君にとっては地獄なのかもしれません出来れば石亀や泥亀に回復してほしいモノですが。少なくとも外来種と在来種が並んで甲良干ししている状態にしたいものです。屹度でミシシッピアカミミガメは獰猛で泥亀も石亀も自分お子供の緑亀も喰ってしまうのでしょう。ならばミシシッピアカミミガメの天敵は居ないのか気になります。そんなことを考えながら太鼓橋から池を観ていたら悠々とミシシッピアカミミガメを蹴散らかして泳いでゆくものがありました。直ぐに何者か解りました。すっぽんのお兄さんです。スッポンを見ていると池に沈んだ杜若の花弁に食いつきました。どうもスッポンは肉食では無いようで草食のようです。
これが浄土池に棲むスッポンのお兄さんです。事も在ろうに杜若の花弁を食べている草食男性でした。私はミシシッピアカミミガメのベビー緑亀を喰う肉食であって欲しいのですが。
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昨日は大好きな大根に因んで「大根の花」を書きました。
書き終えてブログにアップした途端に一つ疑問が生じました。大根は何故にあんなに苦いのだろう。そして十字架植物なんていう罪深い名を被せられたのか?
苦い辛いは大根の立場に立てば虫に食われないためでしょう。クレソンだってワサビだって辛いのは虫に食われないためでしょう。キャベツを食べる時虫が付いているキャベツは甘いと思って間違いありません。
これは鎌倉の貞宗寺の花大根です。この植物は所謂救荒植物(飢饉の時にも食べる植物)で軍師の諸葛孔明が栽培させたことから諸葛采とも呼ばれます。貞宗寺には見事な紫木蓮があって樹下に花大根が咲いていたのでしたが近年檀信徒会館鵜を新築されたのでこの夢のような空間は無くなってしまいました。
この花大根は鎌倉の浄智寺さんの境内(境内と云うよりお山です)雑草にも負けないし病虫害にも強いので救荒植物には最適です。中華料理では油炒めで食べます。
『一寸の虫にも五分の魂』と云いますが「一寸の虫にも甘い辛い」が解るのでしょう
東日本大震災の直後”除染の為に向日葵を植えようと云った運動が盛り上がりました。.
”チェルノブイリでは向日葵を植えた効果で放射能の除染が進んだそんなアナウンスをした報道機関が在ったのでした。
それが今では福島の現状はと云えば向日葵が話題にもなりません。僅かに除染に菜の花を栽培しようと云った運動が在るだけです。
インターネットで調べてみると水耕栽培なら放射能を向日葵は除染するものの土を汚染した放射能は土の金属と化合してしまうので除染できないのだそうです。
東電も政府も福島の純朴な農民の為に真剣に除染プロジェクトに取り組むのが贖罪と云うものでしょう。
東電は帰還できない人の農地を借り上げて除染植物を栽培して貰い、その収穫物を買い上げるのが誠意と云うもののような気がします。除染活動をしないのは不誠実極まりません。
東電は既に十字架に磔になったようなものですから除染プロジェクトを福島農民の許しを請う姿勢で取り組むべきであります。ところで十字架植物が総じて苦かったり辛かったりするのは地球を放射能で汚した罪悪を神に許しを請うチャンスが潜んでいるからではないのか?と思いました。
これは遊行寺の放生池の縁に自生しているクレソン(和蘭芥子)こんなものを食べる虫も居るんだ!驚いて観察しているとどうも次の写真の蛇の目蝶々の幼虫のようでした。
クレソンの花も十字架です。花に寄って来たのはもうボロ・ボロの蛇の目蝶々でした。
十字架植物の代表菜の花を栽培してバイオエネルギーにすれば除染と省エネを一石二鳥で行えるような期待を持ったのです。菜種油をバイオガソリンとして使えば大気汚染の原因にならないのか?疑問はありますが大丈夫だそうです。
福島県を菜の花で真黄色にして”幸せの黄色い菜種”にしてみれば如何なものでしょうか?
十字架は人間の欲望の為にキリストが原罪を背負われたと云った教義から若しかしたら、十字架植物が人間の罪を解いてくれるチャンスを隠し持っているかもしれない」と思ったでした。
そんな話は『風の谷のナウシカ』で読みました。人間が世界征服を目論んで放射能兵器(巨神兵』を操ります。世界は放射能で汚染されます(腐海の毒)。放射能(腐海の毒)を除去してくれる昆虫が(オーム)が出現します。ナウシカの勇気と愛情がオームに通じてオームは除染してくれて世界は清浄に戻ります。
十字架植物に除染する能力が潜んでいるかもしれない思ったのです。以上漫画的な発想で効果があると云った科学的な根拠やデータが在る訳ではないのですが・・・。
そんなことを真剣に実施する人が居るんですね次のNPОが実施して”菜種を育てて除染しよう”と云った運動を真面目に実行しているのです。(http://saigaijyouhou.com/blog-entry-5680.html)
これはワサビの花ですこれも十字架植物です。
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