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花ウォーキング

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ウォーキングしながら、路地裏で、里山でひっそりと咲く花を見つめます。花を愛でた先人の思いや息使いを文学に探します。
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鳳仙花の記憶

我家の庭は陽当りが悪いので総じて草花は遅咲きです。今年は仏花として千日草と遊び花として鳳仙花を撒きました。ベランダに置いた千日草が咲き出したのでお盆には間に合いましたがは鳳仙花は漸く盛りになりました。
中学生の頃顕微鏡で鳳仙花の茎の横断面を観察したモノでした。茎をスライスしてプレパラートに載せて横断面を観察します。勿論染料は鳳仙花の花を潰してその汁を使いました。


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此れが鳳仙花の茎の断面です。中央にある管が道管と呼び水分が通過します。周辺部にある管が師管と呼び栄養分が通過します道管と師管の間に形成層が在って。形成層の細胞分裂によって茎は太るのです。写真の青い部分は澱粉質が染まったモノです。

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此れは鳳仙花の原種吊舟草です。渓流に自生しています鎌倉中央公園の棚田には群生しています。今頃が見頃です。

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これが鳳仙花です。野山の渓流や池の淵に咲いている吊舟草の仲間です。筒状の花ですから寄ってくる虫も蜜蜂や大型の蝶では無くて小さいか吸い口の細く長い昆虫だけです。可愛い事と誰しもが想い出を宿しているので庭花として愛されています。

鳳仙花への想いは民俗や地方に依らずに少女の記憶に刻まれているようで。沖縄では「てぃんさぐ」と呼ばれ、「てぃんさぐの花」は誰にも愛される民謡です。ウィキぺェアによると「韓国では、爪にホウセンカの汁を塗り、初雪まで色が残っていたら恋が実ると言う伝承がある」そうです。ネイルアートなら未だしも鳳仙花の汁では選択や掃除をセッセ・セッセとしたら、じきに爪の色は消えてしまう事でしょう。女性が齢に依らずに爪を化粧したがるのは昔から変わらないようです。
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此れはベランダに置いたプランターで育てた千日草です。日持ちが良いので盆や彼岸の仏花には最適です。
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此方は庭に置いたプランターで育てている鳳仙花です。水欲しがりですが日陰でも酸性土でも育つので手のかからない田舎娘のような花です。我が庭でも朱・ピンク・紫と多彩なのも長所です。
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夕闇の鳳仙花、幾分花は萎んだようです。カマキリが隠れて蝶や虫を待ち伏せしていました。鳳仙花の花は筒状なので虫は筒の中に入り込んでしまいます。蟷螂にとっては格好の餌場なのでしょう。
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此れは玉川大学の教育博物館に展示している宮川春汀の子供風俗飯事図です。飯事遊びの道具は港北NTにある横浜歴史博物館にも展示されています。

私の生家は寺院でしたから近所の子供達の遊び場でした。本堂の須弥壇の裏には仏具と一緒に供え物の容器や膳が終われていました。仏前用の茶碗や膳は「御飯事遊びの格好の道具でした。私は総じてお寺の小坊主で悪餓鬼でしたが女の子と遊ぶ優しさも併せ持っていました。そこで須弥壇下の戸棚に仕舞われている仏具の容器を持ち出して縁側で御飯事遊びをしました。ご飯は百日紅の落花で赤飯と見做しました。汁モノには鳳仙花を浮かべました。時間が経つと汁に色が滲むのです。問題は主菜でした。葉蘭の葉っぱで鯖にしたり。熊笹を並べて鰯にしました。。暫し遊んでいる中に私の餓鬼の本性が出てきて空蝉や芋虫やバッタをお茶碗に隠して顰蹙をかったり女の子を泣かせたりしました。その幼馴染も今では良いお婆さんになって時折道で挨拶します。
最近実家に残した母様が亡くならたので、会う機会もメッキリ減ってしまいました。
でも鳳仙花で爪を染める事はしませんでした。
友禅染の下絵を描く染料に露草の花を使うと聞きました。露草の染料は洗えば綺麗に消えるので下絵描きには最適なのだそうです。でも露草の花は小さいので採集するのが大変です。鳳仙花なら直ぐに必要量を確保出来そうです。
鳳仙花の花言葉は「私に触れないで」だそうです。理由は直ぐに判ります。鳳仙花の種は苞に仕舞われています。苞が透き通って中の黒い種が透けて見える頃に少しでも触れると苞が弾けて種が遠くまで飛んで行くのです。我家の鳳仙花の種は未だ遠くに飛ぶほどに熟していませんが9月になれば遠くまで飛ばせる程に完熟するでしょう。幼馴染は触れもせず、すぐに泣き出してしまいました。
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此れが鳳仙花の種が仕舞われている苞です。何が触ると苞は手品のビックリ箱のように弾けて中の種が周囲に飛び散ります。





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今年は大好物の栗南瓜を土手に植えた事は以前書きました。「土手で南瓜を育てる」https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/49823671.html
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今年初めて、我家の西側土手際に栗南瓜を栽培しました。黄色いのは南瓜の花です。南瓜は雌雄異花ですので人工授粉させなくては結実しません。
南瓜は苗床から土手に移植して絵筆で受粉もさせました。期待に違わず南瓜は4個の実を付けました。3個はフェンスにぶら下って、1個は庭に転がっています。私が朝食の食卓に坐っに眼を遣れば4個の南瓜を確認できます。毎朝新聞よりも南瓜の様子が気になります。ところが8/12日何気なく庭の南瓜に眼を遣ると座布団に座って居る筈の南瓜が見当たりません。「これは一大事!」ワイフに手伝って貰って庭に出て辺りを探しました。
「誰が、何が?南瓜をさらっていったのだろうか?」推理します。
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南瓜の一部はフェンスに絡まって実を付けました。フェンスに3個結実しました。此方は無事でした。
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土手際に1個結実しました。種苗箱を座布団に敷いて、収穫を楽しみにしていました。此れが8/12朝消えてしまったのです。オレンジ色の実は棗です。
先ず思い当るのが台湾リスです。庭にも出没して木の皮を齧っています。南瓜は棗の木の下ですから棗を食べに来て序に南瓜を齧ったのかもしれません。でも台湾リスが犯人なら食いカスが残る筈です。何の残滓も手掛かりも残っていないので「狸がシメシメとばかり抱えて去ったようにしか思えません。
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南瓜が消えてしまった犯人の第一候補は庭に出没する台湾リスです。
次に犯人として思い当たったのがハクビシンです。土手のすぐ下がお隣(農家)の小屋だったのですが空き家になって近所の人が「獣の棲家になっているので町内会長であったお前が小屋を撤去するように言いに行け」言うのです。私は近隣トラブルは敬遠していますので、無視して来ました。若しかしたら小屋に棲んでいる獣が南瓜を持ち去って小屋で食い尽くしたのかも知れません。
先ずハクビシンか猪か洗い熊だろうと踏んで対策しました。残った3個の南瓜を植木鉢に入れて金網で蓋をしました。次いで殺虫剤を辺りに播きました。殺虫剤はダンゴ虫やゴミ虫用ですから役に立つし、獣は殺虫剤の刺激臭で近づかないでしょう。
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消えてしまった南瓜の痕跡が無いか調べました。
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残った南瓜は鉢に入れて金網で蓋をしました。
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小さい南瓜は鉢を被せて隠しました。
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更に南瓜の周囲に紛体殺虫剤を撒きました。獣は殺虫剤の臭気を嫌うと判断したのです。
南瓜の収穫は彼岸です。南瓜の茎や葉が枯れて澱粉が南瓜の実に集中したら収穫です。
今朝も植木鉢の中に納まった南瓜を確認しました。大丈夫です。南瓜娘は一層太って来たようです。彼岸になったらどうやって料理しようか?楽しみです。天麩羅に鶏肉のそぼろ煮にホウトウに南瓜は最高です。


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送り火と夕顔と

8/16日は盆の末日です。13日に焚いた「迎え火」の燃え跡も濡れた儘です。例年「送り火」になると夏の暑さも峠を越して、秋の気配を嬉しく思うものです。ところが今年は8月になっても強い日差しが出ずに。枝豆も痩せ細っています。屹度野菜も果物も糖度が上がらないで居るのでしょう。
今年の夕顔は上手に育ちました。近くに南瓜と隼人瓜を植えたので夕顔さんには気の毒だったのでしたが。瓜にも南瓜にも負けずに雄々しく育って妖艶かつ清楚な花を律儀に毎夕二つずつ咲いてくれています。義母も誉めてくれそうです。”
私のように綺麗な花ね!”云いながら鼻を近づけて”でも香りが無いのね!”言いそうです。
暗くなってから咲く花は総じて芳香が強いモノですが、夕顔と烏瓜だけは香りがしません。
年に一度、ご先祖様や故人の霊が帰ってくると言われているのが「お盆」です。
その霊が迷わないようにするための目印として焚くのが「迎え火」と「送り火」です。
昨年京都で大文字焼きを観ながら想いました。
何故「送り火」だけを焚いて「迎え火」は焚かないのだろうか?
でも、すぐに気付きました。「迎え火」は各家が自宅で盆提灯を灯し迎え火を炊きます。先祖の霊は山頂においでですから見下ろせば自宅が解ります。そこで山頂に護摩を焚かなくても迷わずに自宅に戻れるのでしょう。でも自宅で寛いで又山頂に戻るときには少し状況が異なります。京都は三方が山ですから自分はどの山に帰れば良いのか迷ってしまうかもしれません。そこで「大」「妙法」「舟形」「鳥居形」「左大文字」と違う字形に護摩を焚き間違いなく戻って貰うのでしょう。そう想うと京都の町屋では各戸が「迎え火」は焚いても「送り火」を焚く必要はない事になります。
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京都で五山の送り火(8/16)は焚いても迎え火(8/13)は各家毎に焚くのは霊がどの山に帰るか、迷わない為です。
もう一つ疑問に思っていることがあります。ご先祖の霊の乗り物です。我家では送りも迎えも胡瓜の馬と茄子の牛を用意します。私はズット男の霊は馬に乗って女性の霊は牛に乗るモノと思っていました。ですから「迎え火」も「送り火」も牛馬はセットで用意するのです。
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我家の迎え火おがらを焚いて盆提灯に鬼火を飾って馬(胡瓜)と牛(茄子)は並べて仏壇の方角に並べます。これが関東風の風習です。
ところが昨夜(8/15)の深夜ラジオ(NHK)では「迎え火」は早く帰って貰う為に馬で、「送り火」はゆっくりして貰うので牛にするというのです。深夜ラジオの解説は誤りと云うか特殊で私が想ってきた来た事が関東地方の常識風習です。少なくとも鎌倉のお寺さんでは牛馬両方を送り火迎え火に用意します。屹度NHKにはクレームが集中している事でしょう。
「送り火」の役を終えた胡瓜は川に流しました。胡瓜が好物の河童さんにプレゼントしたのです。ところがそれを「勿体ないと」と考えた江戸っ子が福神漬けを始めた、と云うのです。私はその人は河村 瑞賢と思っていたのですが、ネットで確認すると酒悦の主人 野田清右衛門だったそうです。日本中に「ガバイ婆ちゃん/島田洋七著」が居たという事でしょう。ガバイ婆ちゃんの家の上流は先日大洪水になった田主丸で河童伝説の地です。若しかしたらガバイ婆ちゃんは河童のお裾分けにせしめていたのかも知れません。

13日ワイフと二人で迎え火を焚いていると、夕顔の葉に鉄漿蜻蛉(おはぐろ蜻蛉)が止りました。
「お母さんが待ちきれないでもう来たようだよ!」私が言うと、ワイフは
「昨日の夜には来ていたわよ昨日玲ちゃん(孫)が泊まった時に”この子が私の曾孫なのね!」言っていたわよ」言います。どうも我が家は女系の方が思い込みが承継されて居るようです。
16日「送り火」を焚こうと庭に出ると鉄漿蜻蛉ばかりか烏揚羽も居ました。今晩は父も連れ添ってお山に帰るようです。
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8/13に迎え火を焚きました。
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迎え火を焚いていると夕顔の葉から飛び立った鉄漿蜻蛉がワイフに寄り添って梅の枝先に止りました(写真左)

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此れは送り火に現われた烏揚羽です。土に含まれるミネラルを吸いに来たのでしょうが、私には母(鉄漿蜻蛉)が父と連れ立っているように見えました。
今年は夕顔の種を新しいモノにしたからでしょうか?去年よりも花が大きくて光沢も艶やかです。夕顔は日暮れに所謂逢魔ヶ時に咲くからでしょう。霊を直感させます。
平安時代もそんな印象が強かったのでしょう。源氏物語では夕顔(市井の女性)は六条御息所の生霊に憑依されて殺されてしまいます。
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これは松園さんの描いた六条御息所の生霊です。藤の花と女郎蜘蛛が描かれた着物が六条御息所の狂気を示しています。こんな妖艶な女性になら憑りつかれても良い思う殿方は多いモノです。
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これは烏瓜の花です。この花も妖艶で逢魔が時に咲き始めます。
私は毎朝夕顔の花を観に庭に出ます。
昨晩頑張り過ぎたからでしょう夕顔の花はクタッと萎れています。加えてシミも増えています。逢魔が時の誘因力には視る影もありません。屹度遊郭に遊んだ殿方も明け方花魁が隣に布団に寝ていると朝の夕顔を観たような気持ちになって、”もう廓遊びは止めよう”思った事でしょう。
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夕方を待って咲き出す夕顔昨日の夜咲いた花は萎れ明日の夕方咲く蕾は膨らんでいます。蕾を観れば反時計回り(左巻き)です。下の写真は翌朝視る影も無く萎れてシミが出来てしまった花ガラ。
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でもクタッと萎れた花の横に今晩咲く予定の蕾が膨らんでいます。可愛らしくてついつい”今晩遭おうね綺麗に咲くんだよ”話しかけてしまいます。遊郭なら「禿」(かむろ)の様なモノです。禿(かむろ)の頭を見れば左巻きです。阿弥陀様の螺髪は日本もタイも右巻きですから、夕顔はヤッパリ普通では無く天邪鬼なのでしょう。「夜に咲く花」何ていうのはソモソモ普通ではないのです。
でも普通ではないは華だからこそ惹かれるモノが在るのです。
夕顔と同じように逢魔が時に咲く花に烏瓜があります。私は梅の木の根元に植えています。
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此れが烏瓜の蔓です。これだけ体が出来れば今年は花が咲きそうです。

もう種を撒いて3年目なので体も充実してきました。今年は彼岸前には咲いてくれるでしょう。大船の首塚祭りには首塚の周囲に烏瓜が競うように咲いてくれます。今年は8/19日(土)と聞いています。以前次に書きました。https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46552122.html?__ysp=6Ii544Gu6aaW5aGa56Wt44KK
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8/16日送り火を焚きました。肝心なのは馬と牛を逆向きにして霊にお帰り戴く事です。

今年もお盆には両親に寛いで貰いました。私達夫婦も子供達も曾孫達も守って下さることでしょう。
そう想うとポジティブに日々を過ごせます。東洋人の叡智でしょう。

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私は庭に金魚池の他に睡蓮鉢を2つ置いています。金魚とメダカを飼育(飼育と云うより放置)しています。睡蓮鉢は水を替えるのも面倒なので布袋葵を浮かべています。
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此れが布袋葵の花です。ホームセンターではウォーターヒヤシンスの名で商われています。水質浄化植物であり、水生動物の揺り籠にもなります。
花屋では布袋葵と云っても解らなければウォーターヒヤシンスと云えば直ぐに判ります何でこの水草を布袋葵と云ったのか?それは植物の葉っぱを観ればすぐわかります。この水草は水面上に浮かぶため葉っぱの付け根に浮き袋を持っていて浮き袋がまるで布袋尊のお腹の様に膨らんでいるのです。そして葉っぱ自体が葵の様な形をしているのです。布袋葵の生命力は物凄く一株から一夏に8つも子株を増やします。四方八方に子株を増やして行くのです。ですから我家の睡蓮鉢でさえ子株が収容できないくらいに増えます。そして晩秋にはその根っこに産み付けられたメダカや金魚が増えています。そればかりではありません。蜻蛉の幼虫(ヤゴ)も確認できます。
要するに布袋葵は水生動物のベッドか揺り籠のような役割を果たすのです。加えて真夏には涼やかな花が咲きます。水質汚染が深刻なベトナムや深圳(中国)に行くと河川や池の前面に布袋葵が自生しているのを確認出来ます。
私がカメラを向けると現地の人は「何でこんなつまらない花に感心しているのか?」怪訝です。
私は確信を持って布袋葵は汚染されたリン・窒素特に重金属等を除去する能力がありそうだ確信しています。大和郡山城のお濠の水質汚染に現在は花蝶貝を使っていますが、布袋葵の方がリン・窒素を吸収する能力がありそうだと思います。真珠を取りたい思惑は解らない訳ではありませんが、お濠を埋める布袋葵も観てみたいものです。
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奈良は溜池や御陵や金魚養殖で池アオコ防止ニーズが高いのです。郡山城のお濠では池蝶(イケチョウ)貝を飼育しています。アオコがリン・窒素と太陽光で繁殖する事を考えれば布袋葵の方が効果がありそうです。
「本薬師寺の発掘跡の窪地をどう活用するか?」重大問題であったと思います。誰でも思いつくのは平城宮跡や恭仁京跡の様に一面を芝生で覆って礎石だけを露地に晒す方法です。でも此処の行政は橿原市です。橿原考古学研究所の膝元です。知恵を絞った事でしょう。結果的には本薬師寺発掘跡はビオトープにしました。ビオトープとは(bio(命) + topos(場所)の意味です。昭和40年代初頭随分話題になりました。私の町内では小学校の「校内に小川を流して源氏蛍を育てるのだ」トライしました。日本中の水質が汚染してしまい生物多様性の危機迎えていると思ったのでした。ビオトープにして子供達に観察して貰うと同時に管理して貰おうと期待したのでしょう。でも万一子供がビオトープに落ちたらどうしよう?ビオトープの底は浅くして立てるようでなくてはなりません。そこで東京国立博物館法隆寺館前の様な浅い池にしてアオコ対策を兼ねて布袋葵を育てる事にしました。
布袋葵が育てばアオコは発生しないし沢山の昆虫が飼育されます。
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此れは法隆寺館の前庭です。浅い池を配しています。アオコ対策の為に水質浄化施設が何処かに隠れて居る筈です。
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此方は新築された奈良博物館の前庭です。水質浄化プラントを節約したのでアオコが発生しそうです。生物多様性は確認できるでしょうが蚊のような期待されない生物も生息しそうです。
私がビオトープの縁を歩くと無数の土蛙が足元から飛び出しました。土蛙が沢山いるという事は蛇も棲息している可能性が高いのです。何しろ向こうに見える三輪山は蛇の住む神山なのですから・・・・。蛇が出てきて驚いて畔から落下してビオトープに嵌ったら一大事です。慎重に歩きます。
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此れが本薬師寺発掘跡の窪地をビオトープにした池です。鴨の夫婦が北帰行せずにこの楽園に居残りました。畔に点々とオレンジ色の絵の具が付いているように見えるのはタニシの卵です。
足許から鴨の夫婦が飛び出しました。鴨は鶴のように一生連れ添うのか知りません。でも今はシベリアに戻っていなくてはいけません。今も本薬師寺跡に居るという事は余程此処が気に入ったのでしょう。飛んで行った先を観ると東塔跡の方に巣があるのかもしれません。礎石や芯礎なら巣作りに格好でしょう。観察していると肉食性のカイツブリや鷺にも恰好な環境です。
カイツブリはいないかな?思って、見回しましたがいません。カイツブリは潜水が得意、ビオトープでは底に頭をぶつけてしまいそうです。
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本薬師寺跡西側から東を観る右端が西塔跡で向こうの山脈が巻向山(三輪山はその右)になります。ソーメン工場も見えます。
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本薬師寺跡東側から西を望む、正面が畝傍山でもう少し左に香久山があります。遠くに二上山も見えます。振り返れば耳成山も仰げます。これで布袋葵は二分咲きで盛りには水面も見えないほど繁茂します。左端水面が見えているのは蜻蛉の産卵のスペースでしょう。
でも今年も布袋葵は見事に咲き出したようです。でも布袋葵の最も見事な盛りは子供達の主役の地蔵盆の頃です。秋の彼岸まで咲いてくれます。私の体験では気温が5度を下ると枯れてしまいます。ですから底冷えのする奈良盆地では冬越しをするには小学校の室内に移して来春最低気温が15度になったらこのビオトープに戻すのでしょう。
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布袋葵は未だ2分咲き地蔵盆の頃が見頃で秋の彼岸まで楽しめる事でしょう。コンクリートの壁についてるオレンジ色の物体はタニシの卵です。こんなに繁殖して居たら「カイツブリ」の天国でしょう。
子供達はビオトープに布袋葵を育てながら自然を学びます。布袋葵を育てるように見えて本当は布袋葵に育てられているのでしょう。物理学の作用反作用の法則と同じです自然に優しく接して面倒見すれば自然は子供を優しい心根に育ててくれます。生きている時に生物を苛めれば死後に等活地獄に落ちると源信は説きました。
蛇を殺したり鳥を無益に殺して喰らえば、同じ仕打ちを地獄で受けると云うのです。
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此れは源信の往生要集の等活地獄の絵生前生物にした惨い仕打ちは地獄で受けると絵解きされました。
人間が環境を汚染すれば希少生物が絶滅するだけでは無くて人間自体が絶滅するのでしょう。こうした考えや生き様こそ知恵と云うのでしょう。
私は一面に広がった布袋葵のブルーを観ながら本薬師寺発掘跡の窪地活用に知恵が詰まっていると痛感しました。
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東側から西塔跡を観る写真の左が金堂跡でどちらにも礎石が触れます。

持統天皇も本薬師寺跡の保存も移転後の薬師寺も御満足な事でしょう。現在の薬師三尊像等はこの本薬師寺に祀られて天武天皇の病気回復を祈られたのか、それを西の京に移されたのか?それとも西の京の薬師寺建立に際し鋳造したのか?訊いてみたいモノです。
持統天皇は西の京に新築されたという事は藤原京から平城京への遷都を考えて居て元正天皇や聖武天皇は持統天皇のプランを実施したに過ぎないという事になえるでしょう。
何れにしても現在薬師寺は東塔を修復していることからその年代が判明すれば薬師寺の文化財のうち本薬師寺から移されたモノも判明する事でしょう。
もう少し長生きすればこの疑問も解かれそうです。

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本薬師寺の蓮の花

昨日は喜光寺の蓮を案内しました。喜光寺の蓮は蓮鉢に栽培している鑑賞用の蓮ですが。もう一題天然の食用の蓮を案内いたします。
奈良盆地は溜池が多い事から昔から食用の蓮が目立ちました。特に奈良盆地の鍋の底である大和郡山から筒井の辺りに多いのでした。
私の学生時代平山郁夫画伯は既に芸大の教授であり日展の無鑑査で居られました。
日展は三山(高山辰夫杉山寧と平山郁夫)のスターを擁し、三山の展示室は何時も満員でした。1961年(昭和36年)平山郁夫氏は「高燿る藤原京の大殿」とい表題の大作を発表されました。経塚に葺きだした緑青の様な緑色の中に金色に輝く藤原京が浮きだしたような俯瞰画面でした。
画面手前に横たわっているのは大和川で左が初瀬で右が斑鳩でしょう。手前の最も低い山が天の香久山、天の香久山も陰を画面右から左に蛇行しているのが飛鳥川でしょう。三つの山と二本の川がクロスする平地に藤原京を建立したのは天武天皇と持統天皇(あざなは鸕野讚良(うののさらら)の夫婦でした。
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此れが平山郁夫画伯の昭和36年日展で発表された「高燿る藤原京の大殿」と題した藤原京の復元図。私の原点の名作です。
私はこの絵をに強烈なインパクトを受け大学に入ると直ぐに友人を誘って明日香に民宿を取って休みの度に連れだって出かけました。その民宿にの女将さんには昨年挨拶に寄ると相変わらずお綺麗でお元気でした。そして肝心の民宿は今はお嫁さんに恵まれたので継続している、との事でした。
私の学生中はズット藤原京跡は発掘作業中でした。今では大極殿跡は平城京の大極殿跡の様に整備されまあした。そして藤原京の夫婦愛のシンボル「本薬師寺跡」も発掘作業を継続していました。発掘するのに予算は計上されても発掘後の予算はつかないものです。ですから往々にして発掘跡は水溜りになって放置されてしまいます。最悪なのは横浜金沢文庫称名寺です。講堂跡は大きな窪地の儘放置されました。結果雨が降れば池になり。蛙や蛇が生息する危険地帯になっています。行田の埼玉古墳群等は古墳の地下に博物館を作り窪地は大賀蓮を自生させて全体として市民公園の様相を呈しています。
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此れが本薬師寺中央の松の生えた島が西塔の跡で右向こうの樹林の中に金堂の礎石があります。発掘で生じた窪地をコンクリートで整備したジオトープにしました、ジオトープは小学生が布袋葵を丹精し生物の観察施設になっています。

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元薬師寺西塔礎石


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手前の蓮は食用の蓮で近くの農家が栽培しているようです。気になるのは西塔跡に自生していた黒松で松食い虫の食害で枯れ始めています。民家の向こうに見える山は畝傍山で畝傍山の松も点々と枯れ始めていました。
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この蓮田は澤瀉(オモダカ)が侵蝕してきていました。盆が開ければ白い花が咲き出すことでしょう。

そして肝心の藤原京跡のシンボル元薬師寺跡ですが、実に視る人のロマンを刺激するように残されています。
請け負った橿原考古学研究所の膝元ですから知恵と愛情が注がれているのです。
結論から云うと、田圃や蓮田は残し、発掘跡は池にして、伽藍は一見して解るように残したのです。
私達は薬師寺は訪れていますから金堂を中心にして北に講堂南に山門そして左右に三重塔が配置されているのを知っています。西塔の礎石を残して松の樹も残しました。金堂の位置には民家が建っています。でもその裏庭の礎石は誰もが確認できるようにしました。そして肝心の過半を占めた窪地はジオトープにしました。

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発掘で出来た窪地はビオトープにしました其処は小学生が布袋葵(ウォーターヒヤシンス)を育て鴨も北に変える事を忘れていました。ジオトープの壁にはタニシが卵を産み付けていました。
ジオトープには地元の小学生が布袋葵の花を育てさせました、多分ジオトープの底はコンクリートで固めて若しも子供が落ちてもアリ地獄状態にならないよう配慮されているのでしょう。
私が行くと沢山の蛙(土蛙)が足元から飛び出しました。未だ盆前だというのに秋茜も塩辛蜻蛉に混じって飛び出していました。

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