仮想旅へ

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花ウォーキング

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ウォーキングしながら、路地裏で、里山でひっそりと咲く花を見つめます。花を愛でた先人の思いや息使いを文学に探します。
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先ずこの暑い盛りに私が無理を押して奈良行きを決行したのか?理解いただくために3年半前の脳梗塞発症直後の病院の集中う治療室での体験を話します。
集中治療室にはワイフと長女が駆けつけてくれていました。医師は幾つもの同意書にサインを求めています。私は大凡の状況は理解していました。脳に滞った血栓を溶かす注射を打とうとしている事。その注射は成功すれば回復が早くなる事・・・・・。私はベッドが冷たい事を感じながらワイフに眼で多少のリスクはあっても医師の提案に同意するよう促しました。
全身麻酔が為されて気道が塞がれるとワイフも娘も医師も消えてしまいました、約6時間を要して私は目覚めました。その間私は実に美しい夢の中に遊んでいたのでした。日本武尊が白鳥に乗って死んだように私は病院のある鎌倉を俯瞰しながら一路西に西に飛んで行ったのでした。そして奈良の寺寺を巡っていました。あれが「臨死体験」なら、美しい季節の奈良をもっと観ておきたい思ったのでした。春秋の奈良は何度も出かけました。少ないのは蓮が咲き、百日紅が散り、布袋葵の咲く奈良なのです。あの世での魂を益する為にはこの猛暑の中を花を求めて奈良行きしたいと思ったからでした。
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集中治療室にいた間、私は浅葱斑に乗って奈良を観て廻っていました。病室でその時の夢の記憶を絵に写したモノです。
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私の夢はズット春景色でした。夏の景色も観ておきたいと思って今回旅行に踏み切ったのでした。絵は百毫寺です。
当然のように息子もワイフも私の一人旅には反対でした。工程表を見せると幾つかの指摘を受けました。でも最終的には同意してくれました。
唐招提寺の蓮は大阪転勤時代に観に行ったことがあり、今も仏壇の写真楯に納まっています。でも喜光寺の蓮は観ていないのです。
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此方は近鉄奈良駅前の広場に設えられた行基菩薩像です。喜光寺は行基菩薩が先ず大仏を鋳造し、次いで建屋である大仏殿の建立に着手する直前に十分の一の規格で建立したお寺です。国家事業を達成した行基菩薩でしたが東大寺の官職には就けず、喜光寺に隠棲しました。お墓は生駒です。
8/2朝JR奈良駅に降り立ちました。三条通りを散策して西大寺に向いました。西大寺駅前に近鉄の運営するレンタサイクルがあるのです。レンタサイクルで喜光寺から唐招提寺更には大和郡山に向かうプランです。
でも自転車に乗って16キロを無事に走る自信はありません。そこで、西大寺駅から国道24号線に沿って南下する事にしました。リュックは肩に食い込むし陽射しは強いし、危険な予感がしました、正しくは近鉄に乗って隣の尼ヶ辻駅で下車して歩けば10分で着いたのでしたが、何を想ったのか真っ直ぐ歩き出していました。30分も歩くと喜光寺の山門が見えてきました。山門を潜るために7段ほどの石段を登らなければなりません。その途上で左脚が充分に上がっておらず躓いてしまいました。左に身体が傾き仰向けになってしまいました。左肩と左大腿に痛みが走ります。左肘を擦り剥いて血が出ています。
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向こうは喜光寺の山門(重文)山門の西側に蓮鉢を並べて紅白様々な一重の蓮が栽培されています。
空は紺碧雲一つありません。横を向けば蓮の台です。蓮の台の彼方には拝みたいと思っていた石仏群が祀られています。
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喜光寺の庫裏の玄関に貼られたポスター。
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此方は千体地蔵堂に祀られた行基菩薩像この像は唐招提寺のそれを数体摸刻したようで。此処喜光寺以外でも拝観した事があります。
喜光寺は東大寺の十分の一で行基菩薩が大仏を鋳造しその建屋大仏殿を着工する時に試作する積りで建てたお寺であると言い伝えられています。行基菩薩は大事業を為し遂げたにも拘らず東大寺の官職に就かずこの寺に籠って寂滅されたというのです。
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蓮花の向こうに石仏が並んでいます。龍之介のカンダタ(地獄に沈んでいた亡者)は屹度蜘蛛の糸を頼りに上ってこんな景色を観たかったのでしょう。
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同じく蓮花の向こうに石仏が並ぶ喜光寺の浄土。石仏は江戸時代以降のの作が大半でした。
この日は(8/2日)は行基菩薩の法要(縁日)で沢山の人が奉仕に上って来ていました。奉仕に上って来られた方は驚かれた事でしょう。境内に爺さんが仰向けの石亀の様にもがいているのですから。
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この日8/2は喜光寺では行基菩薩の縁日でした。庫裏の大広間は写経会場に設えられていました。入り口で会費(2千円)を払えば此処で墨を擦って半紙に下敷きのイロハ写経(下段)を終えれば上段の千体地蔵堂に奉納して下さるようです。
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”救急車を呼べ”指示する声が聞こえます。私は救急車を制して右手足を踏ん張って立ち上がりました。すると庫裏の法要会場に連れて行って下さいました。法要会場では冷たい麦茶を恵んで下さいました。「暫く涼んで行きなさい」云われて。
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左肘を擦り剥いてしまいました。喜光寺さんで消毒の応急処理をして下さいました。問題は肘と肩が痛くて再び左腕付随状態に陥った事でした。帰宅して接骨医に行くと全治1週間の通院を要す診断で安堵しました。
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左脚は向う脛に傷を負った上に大腿に痛みが残りました。
痛い想いと美しい蓮とお寺の優しさに接した喜光寺でした。転倒の責任は私のプランが状況を踏まえて居なかったからです。でも痛い思いをした分喜光寺産は忘れ難いお寺になりました。先日東博でタイ仏像展を見学しました。次の様に解説していました「タイの仏教は上部仏教と呼び釈迦の原点に戻ろうとする仏教です」
タイ仏教を私達は「南伝仏教で小乗仏教とも呼ぶ、日本の仏教は北伝仏教で大乗仏教と呼ぶ」教わりました小乗とは小さい乗り物(舟)の意味で大乗とは大きな乗り物(客船)の意味です。喜光寺でお世話戴いて、私は大乗仏教ではなくて大情仏教と思いました。勿論情が大きいの意味です。今回は友人のスケジュールが合わず一人旅を余儀なくされましたが、今まで通り友人の情けを頼りに出かける事にしましょう。


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東大寺戒壇院の百日紅

前々から東大寺の裏(北や東)には百日紅の木が多い事に気付いていました。そこで奈良旅行の二日目(8/3)には戒壇院の周囲を歩く事にしました。勿論百日紅の花を確認するのが目的です。8月3日は斑鳩のホテルに泊まって早朝に斑鳩から筒井、筒井から畝傍御陵前、畝傍から本薬師寺跡に布袋葵を観て、桜井を経てJR奈良駅に着いたのは午後2時市内循環バスに乗って東大寺で降りて参道を少し西に外れれば戒壇院です。この辺りは樹齢20年程の百日紅の若木が松や樟の樹間に植えられています。松や樟は脂や臭みがあるから鹿の食害に遭わないのでしょう。そして百日紅は樹皮が無いので食害に遭わないでしょう。華厳宗の本山を荘厳するのに最適なのが百日紅です。

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写真は東大寺参道から東側奈良県新公会堂を観る、常磐木の樹間に百日紅が目立ちます。この日の奈良の気温は35度越え人も鹿も樹陰を探していました。
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奈良公園や東大寺に意識して百日紅を植え始めたのは平成になってからでしょう。写真は浮見堂で背景は春日大社の杜です。
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此れは東大寺二月堂に上る坂道の大湯屋の庭に咲く百日紅、この樹は入江泰吉氏がお好きで良く写しておいででした。
重たいリュックは奈良駅前のコンビニから宅急便で家に送りました。身軽になったし、奈良公園から戒壇院を経て奈良博物館を廻るコースには適した装備になりました。
実はこの旅の初日に炎天下喜光寺の山門石段で転倒し、左腕や肘左大腿を痛めてしまったのでした。直ぐに奈良に迎えに行くというワイフを説得して当初予定の寺寺を巡り、私の想いを果たす為にはこの炎天下再度転倒する事は避けなくてはなりません。
百日紅が奈良に似合うのは第一に釈迦誕生の聖樹である事、そして第二に百日紅は唐の都長安に植えられていたと云う言い伝えでしょう。日本の都の中枢は「大極殿」ですが唐では「紫薇」と云ったそうです。紫薇とは百日紅の事で紫薇で天子が政治を執ったのでした。
長安をモデルに作った平城京ですから百日紅が最適の花木なのです。今からでも遅くは無いので平城宮跡の芝生の周囲に奈良の八重桜と百日紅を植えたら良いと思うのです。八重桜は伊勢大輔の歌のですし、百日紅は紫薇の意味です。百日紅は鹿の食害にも遇わないし秋の紅葉も綺麗です。
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此れは大仏殿の西側戒壇院との空間に咲き誇っていた百日紅の若木です。

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此れも同所に咲いていた薄紫の百日紅
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此方も上と同じ場所に咲いていたライラック色の百日紅です。
人も鹿も炎天下を避けて樹陰に佇んでいます。身軽にしているとは云え喉が渇きます。百日紅の花房が掻き氷に見えてきます。茶店に辿り着くと私の様子が鬼気迫って見えたのかもしれません。叔母さんが席を用意してくれて”此処まで運ぶから待っていろ”云ってくれました。掻き氷も食べて生き返ったので奈良博物館に向かいました。
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此れが東大寺境内の茶屋の掻き氷(300円)です。砂漠でオアシスの感覚で戴きました。
百日紅は旅行の初日唐招提寺でも観ましたし、戒壇院でも満喫しました。いよいよ一人旅もエンディングです。ワイフも自宅で心配しながらやきもきしていることでしょう。奈良博物館で「源信」の極楽絵地獄絵を見学する事にしましょう。現新の地獄絵は2年前京都博物館に行って見られず、昨年は大津横川の聖衆来迎寺の虫干しに出かけても拝観できませんでした。今次が三度目の正直です。日本人のメンタルを千年余り影響し続けてきた絵ですからジット見詰めたいものです。

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此方は新築した奈良国立博物館。炎天下庇の陰に涼を求める人が逃げ込んでいました。池の水を循環させる装置が無いので清涼感に欠けますし、蚊も湧きそうです。でも秋茜が飛んでいました。奈良の夏は今がピークで秋の気配が漂い始めているのでした。

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百日紅が咲き出して

「戸塚ウォーキング案内」に私の生家の盛徳寺が載っていました。名物に「百日紅」と「大銀杏」が添えられていました。お蔭でこのお盆にはお檀家に加えて百日紅を観に沢山の人が上る事でしょう。祖母の文に依れば祖母夫婦が新婚で無住だった寺に晋山したのは明治28年でした。倉田村の実力者小野省三氏が世田谷の大寺(実相院)のお嬢さんが田舎に嫁入りして里心が付いたら大変だと云われて、百日紅を記念樹に植えて帰られたのでした。ですから今年で樹齢122歳と云う事になります。
私が寺に居た時にも何度か樹勢が衰える事がありました。枝を下した後の傷跡から腐敗菌が新入して洞が出来たり山蚕(釣り糸の原料になる)が大量に発生して葉っぱを食い尽くしたりしました。その度毎に「お婆チャンの百日紅が枯れたら大変」と面倒見をしました。
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此れが筆者の生家である盛徳寺の百日紅右側の庫裏は茅葺屋根で本堂の後ろは淡竹の竹林で良いお寺でした。
ところで私が日本で一番美しい百日紅と云うと京都永観堂のそれと確信しています。永観堂は「見返り阿弥陀の伝説」を伝えるモノで、立ち姿の阿弥陀様が後ろを見返しておいでです。
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此方は禅林寺永観堂の本尊阿弥陀如来立像阿弥陀様が先導して行同念仏された折に永観さんが遅れたので阿弥陀様が見返りしたと言い伝えられます。伝説に従えば天平仏ですが彫法ではんだんすれば平安後期か鎌倉初期の仏像でしょう
伝説は永観が東大寺から阿弥陀様を背負って京に移って行同念仏していた時の事でした。阿弥陀様が先導し永観が従って本堂を念仏しながらぐるぐる回るのが行同念仏ですが何時しか阿弥陀様が先行され永観さんは遅れてしまったのでしょう。阿弥陀様は肩越しに後ろを見返しして「永観遅し」と云われたそうです。
残暑のキツイ京都で美しい阿弥陀様を拝してお寺を出て築地沿いにバス停に向かいました。永観堂を見返すと築地の上から紅白の百日紅が覘いて見えました。あの時の宿は鴨川新館(三条京阪)でしたが、先年廃業されてしまったそうです。
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これが盛徳寺再建の大黒様竹内ノブです。世田谷の桜小学校に「優秀」の賞状が展示されている頑張り屋さんでした。米寿の祝い会で撮影、此れは我家の仏壇です。
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これはは筆者が祖母の葬儀の時に発意して会葬者に寄稿を依頼して発刊した遺稿集です。
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これは昭和63年102歳で天寿を終えた祖母の葬儀の時の写真です。向こうの観音様は当時大阪に居た筆者が父の命で京都太秦の仏具屋に出向いて鋳造させた観音様です。東海道線の車窓からライトアップされた仏像が眺められます。
ところで百日紅が何故お寺で大事にされるか?それは先日東博の法隆寺館で拝観してきました。
釈迦が生まれた場所は王城内のルンビニー園でした。釈迦族の后摩耶夫人が赤い花を取ろうと右腕を差し上げた処脇の下から赤児が生まれ落ちたというのです。その奇跡を銅像にしたものが下の写真でした。
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此れは東博法隆寺館で展示されている、摩耶夫人の釈迦出産像(重文)。摩耶夫人は無憂樹を手折ろうとして右手を翳した処脇の下から釈迦を産み落とされたと伝えられます。日本では無憂樹は育たないので一番似た樹を百日紅と見做して寺院には必ずと云っていい程百日紅の銘木があります
釈迦の誕生日は寺院にとっては最重要日です。灌仏会と云って誕生仏を取り出して、甘茶をお掛けしてお祝いします。4月8日頃です。日本では丁度桜が開花するので「花祭り」と呼びます。だから盆に咲く百日紅より桜で充分なのかもしれません。
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此れは足柄の最乗寺の百日紅、祖母の夫竹内周三はこの寺の副住職だった大島禅師の媒酌で結婚しました。
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此れは横浜山手にある末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教)に咲く百日紅暑い国の教会ですから赤い百日紅がお気に入りなのでしょう。

今年も百日紅が咲き出しました。この花が咲き出せば直にお盆です。盆になれば私は棚経と云って家々の仏壇を廻って自宅に帰った亡者の冥福を祈りました。そのお布施を溜めこんで奈良に京都に寺寺を巡りました。あの頃は時間もお金もメンタルも最も自由で良い時でした。

明日からは奈良に一人旅です。前々から東大寺北側の戒壇院周囲に百日紅が多いのが気にかかっていました。会津八一は戒壇院の広目天の憂愁の眼を次の様に歌いました。
びるばくしゃ まゆねよせたる まなざしを 
まなこにみつつ あきののをゆく
                      会津八一
東大寺は華厳宗のお寺です。国宝の釈迦誕生仏も祀られています。
東大寺に一番に会うのは百日紅です。此処2年の間盆には京都に出かけ百日紅を追って来ました。今年は奈良の百日紅を追う事にしました。
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此れは鎌倉大町六道の辻に在る本興寺の百日紅です。お盆を前にお檀家が準備をしていました。お婆ちゃんが孫をおぶっていると天空から百日紅の花弁が竹トンボの様にクルクル回りながら散っていました。鎌倉には百日紅の銘木が長谷寺、極楽寺等多いのですが私はこのお寺が一番だと確信しています。

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学校に残された朝顔

7月も末になって、我家の朝顔も漸く咲き出しました。陽当りがイマイチの為か生育が悪くて総じて遅咲きなのです。薹に朝顔市は終わってしまったというのに・・・・・。
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7月も末になって漸く咲き出した我家の朝顔。気になるのは酸性雨です。雨が上がると露の跡が点々と残ります。雨が酸性で色素が溶けだしてしまうのです。
最初に購入した種は「大輪咲の和の朝顔」だったのですが、年々花は小さく遅咲きになってきた気がします。私も年々怠惰になっていますので、朝顔に小言も云えませんが・・・・。
戸塚小学校の先生のアドバイスに従って来年は新しい種を購入して手作りの腐葉土から市販の培養土に替えようか思ったりします。
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これは戸塚小学校で新入生が育てた朝顔。我家のより大輪で早咲きなのは陽当りの所為かと思いました、先生は種の問題だと指摘されました。
関東では、朝顔が咲き始めるのは7月初旬です。江戸子は顔市は入谷鬼子母に行って朝顔を買い求めます。鬼子母神と云えば「石榴」ですが何故朝顔なのか気にかかります。
江戸の植木屋さんは7月は6日〜8日は鬼子母神で朝顔を商って、9日10日は浅草寺で「ほうずき」を案内するのでしょう。どちらも江戸下町の風物詩です。我家の「ほうずき」は虫に食われて簀子状です。
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此方が我家の「ホオズキ(鬼灯、酸漿)」です。お盆を控えて提灯の役割を期待しているのですが、虫に食われて簀子状態です。犯人のダンゴ虫は鉢の縁にいます。この虫が舐めるようにして提灯の表面を食べ尽くしてしまったのです。未だ青い鬼灯が残っていますから消毒すればお盆本番には間に合うでしょう。
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鬼灯の手前に咲き出したのは鳳仙花です。一見して吊舟草のような花です。吊舟草はお盆に咲き出して秋口に渓流を飾る季節感あふれる山野草です。
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鬼灯の葉に付いていた空蝉、前日の夜晴れて成虫になったのでしょう。昨日の夕方は涼しくてもう日暮が啼き出していました。

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此方は町内の文化住宅の玄関に置かれた朝顔の植木鉢。新入生が小学校で育てて、夏休み前に持ち帰ったのでしょう。学校に残された朝顔君は「羨ましく思ったでしょうが、「県道に晒されて水も貰えず学校の方が良かった」思っていたでしょうが26日は雨模様なので生き返っていました。
私の町内の文化住宅には小学生が住んでいます。今年の新入生で学校で朝顔を育てていました。その朝顔も家に帰って満足そうです。でも陽当りが良すぎる事。面倒見がイマイチなので息絶え絶えに見えます。
”お水をくれないのなら学校に戻りたい”呟いていそうです。今年町内会の役員をお願いした処「転居を予定しているので、それまでなら」という事で役員になって戴きました。考えてみれば、朝顔はモノも言えないし、動く事もできないので気の毒です。でも毎朝語りかけ、観察して居れば何を言っているのか解る気がします。巫女(代表は卑弥呼)は植物の気持ちを人に伝える呪術者であり、イタコは亡者の言葉を子孫に伝える口寄せなのでしょう。古代の人は動植物の発するメッセージを理解し、人間の言葉に転換させられる翻訳者(民俗学では中語師)なのでしょう。

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これは立山博物館の中語を案内するポスター。姥尊(仏教では奪衣婆)の言葉を仲介するのが立山寺(岩峅寺、芦峅寺)修験者でした。




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不忍池の地蓮の美しさ

日本の夏の花と云えば何を置いても蓮の花です。旧暦の7月16日は「藪入り」と云われていました。薮入りとは、かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中 など奉公人が実家(藪)へと帰ることのできた休日です。旧暦1月16日と旧暦7月16日が藪入りで本人もその両親も半年ぶりに会える藪入りを楽しみにしていました。特に夏の藪入りはお盆でもありますから先祖の墓参りをして、鎮守の村祭りもして、故郷の味を噛みしめたモノでしょう。
私の生家はお寺でしたので良く夏には本堂に「丁稚羊羹」が供えられました。
久々に戻った子供が土産に用意した水羊羹を嬉しくて食べ難いので、「先ずご先祖に」と云った気持ちで本堂に供えて行ったモノでしょう。あの頃生家に電気冷蔵庫が在ったならば丁稚羊羹はさぞかし美味しかった事でしょう。冷え冷えの水っぽい丁稚羊羹は屹度この上無い美味なものでしょう。
7月17日は海の日、ワイフを誘って上野の不忍の池に出かけました。勿論蓮の花を観るのが目的です。上野に不忍池を作ったのは天海僧正です。上野に寛永寺を創建し、江戸城の守りにしました。
京の都の比叡山に匹敵するのが東叡山寛永寺です。京都の忍ケ丘に匹敵する森を寛永寺の境内に造成し「忍丘」とし清水観音堂を建築しました。忍び丘の隣の池だから「不忍の池」です。
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此れは上野の忍ぶ丘に建つ清水堂広重の錦絵にあるように舞台があって舞台から不忍池を見下ろします。
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清水堂の舞台の下には竹生島を模した弁天堂が丸い松の幹越に見渡せます。江戸っ子は忍び丘の清水堂にお詣りして、その後は石段を下って不忍池の畔の茶屋に入って、恋にを忍ばずに愛し逢ったのかもしれません。”お詣りまでは忍んでもお詣りが終えたら自由よ”そんな感覚かもしれません、無縁坂のフレーズ「忍ぶ、不忍、無縁坂・・・・・」を想い起します。
そして忍ぶ丘から見下ろす位置に琵琶湖に模して池を掘って「不忍池」と名付けました。竹生島に模して弁天様を祀りました。
江戸時代から名所として繁栄し、今も都民の憩いの場になっています。
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不忍池は地蓮が咲き出した処です。地蓮とは古代から日本に自生して来た蓮です。大賀博士が千葉の検見川の古墳から出土した蓮の種を発芽生育させ原始蓮と名付けられました。原始蓮は地蓮とたいして変わりませんでした。
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これが不忍池の蓮です。大賀博士は古墳で見つけた蓮の種を播いて咲いた花を「原始蓮」と名付られました。でも一般には「大賀蓮」と呼ばれ行田や全国の古墳の濠に植えられています。でも。私達の身近に咲いている「地蓮/じはす」と同じに見えます。
午前10時過ぎ不忍池に着きました。期待の蓮は未だチラホラ、ピークに較べれば2分咲きと言ったところでしょうか。今咲き出したのは良く視る地蓮(じはす)で私達が蓮根として食べる濃いピンク色の蓮です。唐招提寺の蓮も鎌倉八幡宮の源平池の蓮も同じ種類です。 大賀一郎博士は「原始蓮」と名付けられました。私が観た限りでは行田の古代蓮と同じです。中国で開発された八重の蓮も牡丹のようで綺麗だと思うのですが、やはり一重の古代蓮が良いと思うのは、八重桜よりも一重の山桜や大島桜が良いと思うのに似ています。
私達は弁天堂を詣で健康を祈願して蓮を観て廻りました。この日(7/17日)は巳の日でしたから参拝者も多いのでしょう。今晩は夜7時から「灯篭流し」だそうです。主催者は寛永寺さんではなくて下谷仏教会だそうです。
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「今晩は灯篭流しをする」案内が弁天堂に掲示されていました。京都は大半の行事は旧暦で実施されますが東京は新暦で実施されます。7/17日が藪入りですから、一月早い灯篭流しなのでしょう。
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此方は弁天堂で求めたキーホルダーです。上の箸置きは二週間前東京都美術館に「バベルの塔」を観に来た時に求めたパンダさんです。
弁天堂を詣でて、弁天島を一回りしました。
此れから夏の盛りです、塩辛蜻蛉が飛んでいます。塩辛蜻蛉は雄の名で雌は麦藁蜻蛉と呼ばれます。色に着目したネーミングでしょう。初夏は塩辛蜻蛉ばかりが目立ちますが秋が近づくと麦藁蜻蛉が目立ちます。種の保存の為には雌が重要だからでしょう。塩辛蜻蛉は太陽に向かって飛ぶか風に逆らって一直線に飛びます。その習性が武士の心意気に共感されたのでしょう。屹度突然に鳥に狙われた時に、逃げ易くする警戒心や雌をゲットしたい欲望が為せる習性なのでしょう。
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右上が塩辛蜻蛉の雄です下左が雌ですが「塩辛蜻蛉」とは呼ばずに「麦藁蜻蛉」と呼びます。初夏は雄が目立ち盆過ぎには雌の麦藁蜻蛉も増えて来ます。
矢鱈雄蜻蛉ばっかりの不忍池を観ていて思いました。
”雄ばっかりでは寂しいな、雌が同数居れば平和なのに!”考えてみれば今私が育てている南瓜も雄花が多いのです。雌花が咲かなければ美味しい南瓜は収穫出来ません。盆になれば雌花も増えるのでしょう。私達は学校でメンデルの法則を学び性染色体上にある性決定遺伝子が雌雄を決定すると学びました。でも蜻蛉やカボチャは温度や日照時間といった環境が性を決定するのかもしれません。環境が性を決定しした方が適者保存の法則が有効に働くのでしょう。
「弁天堂の周囲に弁天様の石仏が祀られているだろう」期待して島を一周してみました。驚いた事に弁天石仏は一基もなくて代わりに生物等の「塚」が並んでいるのです。不忍池は弁天池と云うよりは「放生池」として観られて来たからでしょう。一番秀逸なのは「すっぽん塚」です。平たい石に薄くすっぽんがデザインされています。池之端にも上野広小路にもすっぽんの名店が幾つもありますから、料亭が協力して塚を建てて慰霊したモノでしょう。
「若しかしたら不忍池のスッポンを獲って料理したのかな?」思いましたが。
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これが弁天堂横の「スッポン塚」です。デザインの良いけど「感謝」の一言がストレートです。若しかしたら池之端の料亭は池に自生していたスッポンを料理していたのではないのかな?思ったきっかけでした。
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此方は「フグ塚」です。フグ供養碑と改まって記されているのは神田(築地)に上がったフグを料理していたから・・・でしょう。スッポン塚の「感謝」に較べるとお高く止って感じるのは、板前が直接殺生しては居なかったからかも知れません。
スッポンの近くには「フグ塚」もありました。フグのデザインは江戸っ子らしい洒落が効いていません。
「もうじき丑のひです。「鰻塚」は無いのかな?」思って探しましたがありません。鰻屋の名店は神田から日本橋です。運河やお濠で鰻が獲れたからでしょう。そう考えると矢張り不忍池にはスッポンが自生していてそれを捕獲して名物料理にしていたのかもしれません。池之端の料亭に登ってスッポンで精をつけて、恋の為すがままシッポリ濡れたのかも知れません。
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此方は「糸塚」「針塚」で無いのは何故かな?考えました。
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此方は扇塚です。日本舞踊のお師匠さんが建てたのでしょうか?
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此方は「六段塚」としるされています。八橋検校の慰霊碑の前に供えられていましたし。お琴の塚と考えて良いと思いました。
スッポン塚とフグ塚の間には道具塚(「糸塚」や「扇塚」や「お琴の塚」)が並んでいました。流石に芸事が盛んな上野です。そう想って弁天堂を見返すと落語や歌謡曲芸人の名入り提灯が並んでいました。
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弁天堂に並んだ名入り提灯料亭等地元商店以上に芸人の名が並んでいるのは弁天様だからです。




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