仮想旅へ

毎日の通勤路を憧れの街道歩きに転換してみたら? あなたを「LOHAS」な世界に誘ってくれます。

石仏ウォーキング

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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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矢田地蔵尊への愛着

石仏ファンにとっては憧れの一つが「矢田型地蔵尊」と呼ばれる古代の香りと中世の息吹を宿す地蔵尊です。石仏の美しさは次の三位が揃った時に在ります。①には良い石材です。②には伝統の技です、③には篤く信仰する人が今も面倒を見ている事です。この三位が揃っているのが矢田寺の地蔵尊です。
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此れが矢田寺の案内【表紙】です。関西で紫陽花と云えば矢田寺三室戸寺です。
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此方が案内の裏側です。特別拝観で地蔵尊や十王象といった中世地蔵信仰の文化財が拝観できました。
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向かいの山が矢田丘陵で真っ直ぐ登れば矢田寺です。山麓を西【左】に行けば中山寺で更に西に法隆寺や竜田山が在ります。バス停から矢田寺本堂まで2キロ、更に石仏遍路を廻れば3キロです。
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出迎え地蔵」このように舟形向背の立像で印を結んでいるのが典型的な「矢田型地蔵石仏」です。時代が下ると右手に錫杖左手に宝珠を持ちます。
【矢田寺地蔵尊の石材】
矢田寺のある「矢田山」の石は「生駒石」です。生駒石は斑れい岩系(深成岩)の石材で大理石の何倍もの硬度をもつため、風化に強いのが長所ですが、堅いので加工が大変です。同時に鉄分を多く含むために風化していくと
表面に「さび」が生じ、独特の黒褐色となりませ。一見すると「黒っぽい御影石」の表情です。奈良の御屋敷や法隆寺の敷石等度々確認する事が出来ます。
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法隆寺中門の礎石これが生駒石です。勿論矢田寺の石段も石仏もこの堅い生駒石を素材にしています。
【伝統技術】
地蔵信仰が始まったのは平安時代の末期でした。源信が往生要集を著し平安時代の阿弥陀信仰から地獄の思想が普及すると人々は地獄で救済してくれる地蔵菩薩に信仰を移します。矢田寺は地蔵信仰の中核でした。「矢田寺縁起絵巻」が信仰の概要を留めています。私達が知っている地蔵尊は錫杖を持った比丘の姿ですが矢田地蔵尊は立ち姿の阿弥陀様を比丘にした姿です。お地蔵様なのに阿弥陀印を結んでいるのです。私の生活圏では箱根石仏群【重要文化財】が在ります。自然の巨石に舟形に掘り下げて地蔵菩薩や観音立像を浮き彫りしています。箱根石仏群の石工は鎌倉極楽寺の建立に際し、石工は大和国の「大蔵安氏」、導師として大和国西大寺の僧侶叡尊の弟子で、鎌倉極楽寺の住職であった「良観(=忍性)」の名が見られるます。大和の石工の技術が矢田寺石仏には顕著なのです。
そんな次第で矢田寺は私の憧れなのです。
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此れは元箱根精進池池畔の石仏群です【重文】。地蔵と阿弥陀と観音菩薩が混在して13体あります。西大寺から忍性上人が鎌倉の極楽寺に下った際に大蔵石工に彫らせた事になっています。
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これは矢田寺の絵馬です。絵馬は矢田寺縁起絵巻のクライマックスの場面です。「満米聖人」が地獄で生身の地蔵に会い,その姿を彫って矢田寺を開いた由縁と,あやまって母を殺した武者所康成がその死後,日ごろ信仰していた矢田寺の地蔵によって地獄から救い出される霊験譚を内容としています。釜湯から引き上げられているのが「武者所康成」です。
矢田寺の境内や裏山を紫陽花を愛でながら石仏を巡るのは私にとって至福の時間です。「 味噌舐め地蔵」には鎌倉時代後期と案内されていましたが。矢張り大半の地蔵尊は江戸時代の右手に錫杖左手の掌に宝珠を持っています。
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此方は本堂西側に居られる[味噌舐め地蔵尊」( 鎌倉時代)典型的な矢田型地蔵石仏です。
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味噌舐め地蔵の両脇には沢山の地蔵尊が並んでいます。味噌舐め地蔵や味噌舐め奪衣婆は群馬県で良くみますが、「お母さん伝来のお味噌が今年も出来ました!」そんな感謝の気持ちが形になったモノでしょう。赤いユダレ懸け同様に現代も信仰がいきている証です。
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此方は比較的新しい石仏群、背後の建物は南僧坊で本堂を挟んで北僧坊が対峙しています。
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石段がきついのですが、これもリハビリです。奥のお堂は御影堂です。石段が裏山に3キロ広がっていて「四国の遍路」が出来ます。
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本堂裏山は四国88寺の遍路道になっています。此方四国「45番岩屋寺」です。
石仏を視て紫陽花を愛でて来た道をバス停に戻ります。「行は良い良い、帰りは怖い」と聞きますから石段を踏み外さない様に慎重に下ります。向かい山脈が見渡せます。「あの山の名は?」想いながら下りました。
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この道が大和郡山と矢田寺を結ぶ県道先を右に曲がれば中山寺から慈光院更に西に法輪寺にでられます。


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旅行ブログ

下曽我の幸福な石仏

私の曽我梅林ウォーキングの楽しみの一つに「石仏巡り」があります。曽我兄弟の生誕地である曽我の谷間の底には酒匂川が流れ。梅林の中を走る通称「大井街道」には相模様式の石仏が多く観られるのです。
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此れは梅林の脇に祀られていた道祖神です此れは字塔ですが、相模様式の双体道祖神の発祥地なのです。
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此れは瑞雲寺下の近隣児童公園内に祀られていた石仏、手前は滑り台で右に庚申塔左に双体道祖神が祀られています。多分この辺り一帯に祀られていた石神を近隣公園に移して祀っているのでしょう。道祖神は「童祖神」とも云われ子供の守護神ですから・・・・。
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此れが上記の双体道祖神のアップです。箱根の北は黄泉の国ですから地蔵信仰が盛んでした。六地蔵を彫るに際して二体ずつ刻んで道祖神にしたような形です。仏教がいち早く浸透した相模国でしたから、地蔵尊の双体道祖神が生まれ、神道が根強かった安曇野や吾妻渓谷には神像の「祝言型道祖神」や「睦み合う道祖神が祀られたのでした。
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此方は上掲写真の庚申塔、一般に庚申塔のシンボルとして三猿を刻みますがこれは手を合わせた二匹の猿です。寛文二年に地域の農夫が組織した庚申講が建立し、「こうして熱心に庚申信仰を守っているので功徳を下さい!」と刻んでいます。
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瑞雲寺入口の三叉路に建っている六面石塔。常夜灯風の灯籠で六面には六地蔵が彫られています。
石仏の魅力の一つは石が自然の素材である事と。彫られた後も石仏(人工物)を自然が造化をし続けていることがあります。造化が進めば石仏は砂や土に還ってしまいます。折角の石仏も土に還ってしまう事は人間も同じ宿命です。その変化を無常と呼びましたが。無常の一瞬の美しさを観る事が石仏鑑賞の醍醐味です。
此処曽我に即して言えば、曽我の石は40万年も昔に地底の溶岩が冷えて圧迫されて出来た堅い安山岩です。一般に小松石と呼ばれ、江戸城も小田原城も鎌倉の頼朝の墓も小松石で出来ています。小松石は東の名石と云われ、表面が黒い石も在れば白や赤や緑の石もあります。総じて堅いので石仏を彫るのは大変ですが、風化もしないし、細部の彫刻も出来るので石仏に適しています。
相模に良い石仏が多いのは湯河原石工と呼ばれる石工が居た事もありますが、何よりも素材の石に恵まれていたからです。湯河原石工は鎌倉の「石長」等大手墓苑会社に成長しています。
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此れは瑞雲寺の井駐車場の脇に祀られている左地蔵尊、右聖観音。逆光で白っぽく写っていますが実際は鮮やかな黄色です。ロウソク苔が覆っているのです。
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この読売新聞記事(3月7日)は真鶴石『一般には(湯河原石と呼びます。)が優秀な安山岩である事から「石メダル」の販促をしていることを奉じた記事です。墓石としても、石仏としても秀でています。
瑞雲寺の境内には素晴らしい石仏が幾つも並んでいます。一番に惹かれるのは駐車場脇の石仏です。惹かれる理由は白い小松石を素材に彫られたお地蔵様がまるでタイの雲水の様な黄色い袈裟を着ておいでなのです。
袈裟と云うのは「ロウソクゴケ」という名の地衣類です。同じ地衣類の「梅の樹苔」は一般に環境の「指標生物」と呼ばれている様に。空気が綺麗でなければ生育しません。ロウソクゴケが元気だという事は此処の空気や水が綺麗で人間の健康にも良い事を示しています。
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上掲左の地蔵尊、黄色いロウソクゴケの他にも多彩な地衣類が共生しています。割れているのは地震で倒れて自身の重みで壊れてしまったのでしょう。
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瑞雲寺境内の六角灯篭には6観音を刻んだモノもありました。此方を向いているのは馬頭観音です。
石仏が美しい為には次の3つの条件が大事です。
第一に石工の技が伝統を踏まえて居て冴えて居る事です。
第二には素材になる石が硬質で美しい事です。
第三に自然と調和していて、風景の一部になっている事です。
加えて言えば生きている人が大切に祀っている事も大事です。五木の子守歌(※1)に在る様にお墓の遺族でなくても通り係の人が野の花を供えているだけでも美しさが引き立ちます。
※1五木の子守歌は『おどんが打死(うっちん)だば道端(みちばた)いけろ通る人ごち 花あぎゅう 花はなんの花つんつん椿』と歌っています。「私が死んだも誰も悲しまないので、道端に埋めて欲しい、そうすれば通行人が椿の花を供えてくれるかも知れない・・・」

こうした『通行人にも拝まれる石仏』こそ幸福な石仏と云えます。
我家の庭の弥勒様は五弁の椿の樹下にあって、庭の主だった「蟇蛙」の墓標です。今朝観たら椿が散って弥勒様の膝にありました。
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此れは愛媛の御影石で彫られた作家モノの弥勒様です。庭の主だった蝦蟇蛙の墓標でもあります。五弁の椿は石仏の目の前に咲く庭木です。
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此れは蝦蟇合戦を戦い終えて無事帰還した庭の主の蝦蟇君です。
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此方は蝦蟇合戦で負傷したのでしょう、我が家の石段を登れないで居た処自動車に轢かれてデスマスクを晒した蝦蟇君。庭に埋めて地の神になって戴きました。






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11月14日15日は横浜農協は「収穫祭」を実施しました。数年前諏訪大社に登った折には「新嘗祭」が行われていました。収穫祭は本来が「今年の豊穣を感謝する祭事」です。盛大に感謝すれば神様もご機嫌で来年も豊穣にして下さるでしょう。最近は本来の意味が薄れて商業主義が前面に出てしまっています。横浜のレンガ倉庫では「オクトーバーフェア」が開催され、ビールの飲み比べが行われていますし。元町では巨大な南瓜を並べて「ハローウィン」に興じています。
ソロソロ奈良の正暦寺は紅葉の盛りです。正暦寺の谷戸は日本酒が最初に絞られた豊穣な土地です。有名な田の神様が祀られています。今年の盆に田の神様を詣でに出かけたのでしたが。転んでしまってお詣り出来ませんでした。今頃は収穫も終えて。南瓜や大根が供えられてご満悦でしょう。
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これは正暦寺の谷戸に祀られている「田の神様」です。今年も次に書きましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/folder/893303.html?m=lc&sv=%C5%C4%A4%CE%BF%C0%CD%CD&sk=0
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これは我家の田の神様栃木生まれです。
身近な処の田の神様としては「池袋水天宮」があります。中々味のある素晴らしい田の神様です。一体では無くて4体並んでいる処も良いのです。
池袋にはクリスマスになってから出かける事にして、都内に「田の神様」が他にないか調べたところありました「東横線都立大学駅」から近い「柿の木坂東光寺」に愛らしい田の神様が祀られていることを知りました。都立大学はワイフが娘時代を過ごした土地ですし、仲人さんの家が在ったのも柿の木坂でした。私達夫婦には縁の深い街です。ワイフは東横線電車の窓に顔を押しつけて「お友達の家がある!」言ってご機嫌です。”シメシメ今後ワイフのご機嫌を損ねたら柿の木坂に誘って好物のお寿司でも食べるとするか!”思いました。
東光寺は立派なお寺で山門には足利のマルに二の字の家紋が付いています。東光寺は吉良家の菩提寺なのです。

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これは池袋水天宮の前の公園にある田の神様です。左手が山手線右は飲食店街です。
私の祖母は世田谷の弦巻に在る実相院の生まれです。
実相院は  弦巻3-29-6にあり鶴松山實相院、勝光院の末寺。曹洞宗です。一般に世田谷城と呼ばれているのは、境内がお城の様に木々が鬱蒼と茂り、森閑としている。町の中の寺とは思えない風情があるからです。檀家総代はお寺の裏手にある代官です。この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところです。
実相院は勝光院の末寺で。開基は、吉良左兵衛佐氏朝で開山は天永琳達大和尚、1616(元和2)年入寂。 豊臣秀吉軍による小田原攻後に、九代当主氏朝は一時下総国に下ったが、再びこの地に帰り閑居した。 その閑居した旧跡が、この実相院ですから、世田谷城と呼ばれるのは強ち間違いではありません。
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 これは実相院の先代住職の隠居宅跡に建てられた多宝塔です。この場所は大きな赤松がありましたし、歴代住職の開山堂には最適な場所です。

私達夫婦には縁の深い吉良家菩提寺に田の神様が呼び寄せたようなものです。”実相院に墓参りでもしろ”と云ったお告げかも知れません。
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これが東光寺の本堂です。
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東光寺の山門写真には映っていませんが足利家の家紋が付いていました。
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境内にある七福神背中の竹垣の向こうに背中合わせに田の神様が祀られていました。
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田の神様を家族風に祀った東光寺の庫裏の庭。田の神様の家族は「嬶/かかあ殿下」のようです。何故なら一番左の嬶の飯茶碗が最大で柄杓や体躯共に嬶が爺さんや夫を圧しています。
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此方の田の神様は夫婦のようです。夫唱婦随と云いますがこの田の神様は「婦唱夫随」です。嬶の方が大きいし、大食いのようです。
上の写真の田の神様を拝みながらワイフに言います
この家族は夫婦の立ち位置が逆転した。「婦唱夫随」だね!我家もこれからはsこんな風にしようね!」
云えばワイフは
「今頃気付いたの!」言わんばかりに憮然としていまあした。
計画通り。目黒通りに戻って寿司屋に入って九品仏への足を確認しました。寿司屋の主は私の脚を気配りしてバスは避けて自由が丘に回って浄真寺に詣でるようアドバイスしてくれました。
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東光寺本堂裏の心字池吉良家の菩提寺に相応しい大名庭園でした。
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お寿司でランチして次の目的地自由が丘に向かいました。


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足助の石造文化

昨日まで足助の「町興し計画」を作成した東大都市工学部の報告書「足助歴史町造り報告」に従って足助の歴史資産や自然資産を報告してきました。今日は足助と云えば「馬頭観音」ですから、石造文化財をブログアップしたいと思います。
足助は岡崎から飯田に向かう塩の道(足助街道)に面しています。岡崎は家康の本拠地でアリ、足助と岡崎の間には徳川家の菩提寺「大樹寺」があり、譜代トップの松平家の本拠「松平庄」もあります。今NHKの「おんな城主 直虎」では。これから舞台になります。松平庄の山一つ東は新城で長篠の戦いの古戦場ですから。因みに足助は本多家の知行地でした。長篠の戦いでのヒーロー逆さ磔になった鳥居強右衛門は足助から新城の奥平家の家臣でした。
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此れは足助街道井田の辻に祀られていた地蔵尊、心なしか塗料が塗られていました。
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これは「お釜稲荷」と云う名で愛されている稲荷神社の祭壇に置かれた直径2mの大釜で領主の本だけが飢饉の際に釜出しに使用したモノだそうです。家康の重臣本多家は善政を敷いたのでしょう。
私はバスの窓から路傍を見詰めて足助街道を登ってゆきました。路傍には石仏が目立ちます。それも着色した地蔵尊が眼に付きます。私が運転して居たら停車して確認して写真を撮るのですが、イチイチバスを降りて居たら到底足助に着く事は出来ません。
岡崎の街で気付くのは矢鱈に石屋が多い事です。屹度家康が築城の為坂本の穴太衆を始め全国の優秀な石工を城下に集めたのでしょう。加えてこの辺りは美しく硬い白御影石を産出します。良い素材があって優秀な石工が居たら、石仏は良いモノが残されるに決まっています。とりわけ江戸時代になると築城需要は無くなります。自ずから庶民や古寺の再建の需要に応じて馬頭観音や地蔵尊や33観音を造仏したものと思われます。足助に入って先ず正暦年間に彫られた巨大な馬頭観音を詣でました。
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巴川の堰堤から落合橋を渡って巨大な椋の樹の脇を登れば三叉路に祠があって巨大な馬頭観音が鎮座しています。この像は儀軌通りの三面八臂です石は白御影で所々腕輪や持物に翡翠色に荘厳されています。石仏に着色するのは安曇野等に特徴的なのですが、「塩の道」は足助街道から飯田を経て塩尻その先の千国街道と続いて日本海の糸魚川迄繋がっているのですから、着色石仏は塩の道が伝えた文化なのかもしれません。足助の馬頭観音は見た目新しいので制作年月や石工の名前が刻まれているかもしれない今回も確認したのですが施主「段戸組」以外に文字は刻まれていませんでした段戸組とは何かなネットで調べてみると足助の先瀬戸や設楽に行く途中に段戸湖や段戸の地名があるので段戸集落の塩を運んだ人達の集まりだったのでしょう。立派な社は柱に昭和5年建立と書かれているので、昭和5年頃は馬の背に塩や紙や綿布や魚を積んで運んでいたのでしょう。
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この社や石仏の台座には昭和5年と刻まれています
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これは足助の抱き地蔵の脇に置かれた地蔵現代的なお化粧を施したのは地元の高校生でしょうか?
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此れは足助の蕎麦屋「塩の道」の店内に飾られていた恵比須(左)大黒(右」石仏に彩色する習慣は足助街道に盛んで安曇野に伝播したのでしょうか。
岡崎から足助は石工の多い街です。加えて昭和モダニズムの時代にも盛んに石仏が彫られ、祠が建てられて来ました。そして今も大切に祀られています。気持ちの良い田舎です。最後に山城屋の女将さんが嫁いで来たどんぐり村の巨大な馬頭観音を載せます。
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此れがどんぐり村に近い巨大な馬頭観音です。向こうに見えるのは市田柿ですから、渋いので未だ烏も食べません。

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お米から誰がどのようにして何処で清酒を醸造したのか?何時も何時も気になります。
大神神社にもその山続きの正暦寺にも「清酒発祥の地」の記念碑が建っています。
どうも我国清酒の発祥地は灘でも伏見でも無く、奈良の山野辺であったようです。
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大神神社の酒祭りは清酒発祥の地だから・・・・・。巨大な杉玉も吊るされます。
古事記では素佐男尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)八塩折の酒(やしおおりのさけ)というを飲ませてから退治したと記されています。八度に亘って醸した酒と云ったアルコール濃度の高い酒の意味でしょうか。少なくとも大和朝廷成立期には既に清酒が醸造されていたのでしょう。
良く言われる事ですが、蒸したお米(所謂ご飯)を巫女が噛んで唾液を混ぜて壺に入れて暫く置けばお酒になるそうです。薩摩の芋焼酎はお芋を蒸して麦麹を混ぜて蒸留して作りますし。泡盛は医インディカ米を蒸して黒麹菌(アワモリコウジカビ)を混ぜて蒸留して作ります。清酒の製法は南方から伝来したのでしょう。一方鉄や銅を伝えたのは北方民族で。騎馬民族が武器としていた金属を祭具にして、自分達の趣向品だった酒を工夫して清酒を醸造したのでしょう。
お米やお芋の澱粉を糖に分解するのに人間の唾液を使ったのが最初の清酒で麹を使ったのが焼酎や泡盛だったのでしょう。未婚で美しい巫女さんが噛んで作った清酒なら飲み過ぎても悪酔いはしないでしょう。
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帯解駅の跨線橋から三輪方面(南)を見る。桜井線は未だ単線ですが駅舎だけは複線化しています。跨線橋は熱いし不自由な体で渡るのは難儀でした。
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帯解駅の案内図。正暦寺までは徒歩1時間と案内されていました。清酒発祥の地は正暦寺の参道沿いにあります。
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此れが帯解寺です。8月3日は戌の日だったようで安産を願う人で混雑していました。私は帯解寺で待てばタクシーを拾えるか正暦寺に向かう観光客に同乗させてもらう積りでした。
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帯解寺の本尊は安産祈願の地蔵尊ですが境内には水子地蔵尊が並んでいました。
ところで、本薬師寺跡の布袋葵の花を満喫して私は畝傍山に向けて歩き出しました。目指すは畝傍御陵駅で同駅から桜井駅に向かいJR桜井線に乗り換えて清酒の故郷に向かう事にしました。桜井駅で確認すると「帯解寺駅」にはタクシーは無いし。滅多にタクシーも来ないそうです。でも山村御殿円照寺(三島由紀夫の春の雪で著名)も近いので携帯で呼べば足は確保できるかもしれません。私の目標は正暦寺でも帯解寺でもありません。清酒の故郷にある田の神様とその景色をもう一度真夏に観てみたかったのです。
桜井線は未だ単線です。でも駅では擦れ違いの為複線化されています。上り車線から改札口に出るには跨線橋を渡らなくてはなりません。恨めしい程の強い太陽です。でもこの太陽のお蔭で米も粟も稔るのでしょう。
今日の昼の予定は正暦寺の入り口に出来たと云う「粟」と云う名の古代米レストランです。奈良の精華地区(五つ谷村)に農業の六次産業化を目指して出来たNPО法人「清澄の村」が運営するレストランです。そのシンボルマークが「田の神様」で。私の目的は田の神様が本物の神様であるのか?それとも人集めの為に新しく刻んだ田の神様なのか確認する事でした。
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これが清澄の里の田の神様です。良く出来た薩摩風の田の神様ですが石材が奈良のそれとは違鵜安山岩です。
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此れは池袋駅に近い公園に祀られた田の神様カルテットです。右の道を行けば盛り場で左端は線路です。腹が立つときはこの神様を観れば笑顔になれます。
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此れは我家の田の神様です。大黒様の積りで玄関に祀っています。田の神様に福運を呼んでもらいたい気持ちで、大谷から取り寄せました。
清澄の里の田の神様が何時の時代もモノか確認するのが目的です。農業の6次産業化も時代のニーズでしょうが、田の神様をユルキャラのように扱うのは少し気に障ります。
駅に居ると目の前の毎日新聞の配達所に軽トラが止りました。私は正暦寺入口の「粟」まで乗せて貰えないか頼みました。幸いに軽トラの叔父さんは快諾してくれました。
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三叉路の左が正暦寺で右が弘仁寺正面の山の麓が清澄の里です。
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田の神様が「粟」のシンボル(ユルキャラ?)です。
「粟」の駐車場で確認しました、開店まで30分待つ事。食事は予約者しか受けない事。メニューは5000円と3500円のコースだけで粟生(あわなり)や古代米お握りは出来ないというのです。
私は朝からズット歩き通しで腹も空いていましたが、私は古代米に奈良野菜ならJR奈良駅に在る農協レストランを知っています。そこで好意の軽トラオーナーに謝罪して駅まで再度送って貰いました。
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これが「粟」のメニューです。私は最下段の粟生(あわなり)小豆で充分だったのですが・・・・・。
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此れは「粟」のパンフレットに載っていた大和野菜の色々。観ていたらヤッパリ西瓜を食べたくなりました。
JRで奈良駅に着くと早速に農協レストランに直行しました。
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此れがJR奈良駅連絡通路に面して立地している農協直営の「奈良美味いモノプラザ」店内では野菜や名産物の販売をしていますが奥にバイキングを始め食事喫茶コーナーがあります。でも冷えた西瓜を食べさせるサービスはありません。私は西瓜を食べさせなければ「看板に偽りアリだ」アドバイスして隣のスーパーでカット西瓜を求めてスターバックスの横のベンチで戴きました。

今日のランチは奈良駅に在る「奈良美味いモノプラザ」の野菜バイキングです。でも残念なことに美味いモノプラザには西瓜がありませんでした。そこで止むを得ず、奈良駅のスーパーでカット西瓜を求めてスターバックスのある旧奈良駅駅舎のベンチに腰かけて西瓜を食べました。もう半世紀前も同じような事をしていました。変ったのは私の肉体だけのような気がしてきました。自然は年々歳々変わりませんが私の体は年々歳々衰えるばかりです。



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