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石仏ウォーキング

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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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10月12日、日本文化研究会のセミナーで「馬頭観音の系譜」と題して、
馬頭観音像の変遷をたどりながら、日本人の死生観をレポート致しました。
私は滑舌が悪いので、聞き苦しい事も多かったと思います。
此処でその要点を改めて整理させていただきます。
ブログにしては重い内容ですが、お付き合い下さい。
 
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     東海道53次保土ヶ谷図。権太坂当たりの図と思われます。馬は大事な交通手段で、馬の健康
     慰霊に馬頭観音が祀られました。
 
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戸塚の「峠の馬頭観音、天明年間」、字の通り頭上に馬頭を被っているのでこの名があります。
       この馬頭観音は可愛くて、耳も兎のようですが。
 
 
世界中に様々な宗教があります。
日本で文部省に認知されている宗教法人は800余りですから・・・・、
世界中には1万程度の宗教がある事になるでしょう。
宗教とは何ぞや? 定義は幅広く「超越的なモノを信じ、死生観をもつ教え」と捉えておきましょう。
ある民族の、ある時代の文化を特徴づけるものは、宗教が一番色濃く、一番面白いものがあります。
例えば、日本人のお墓はどちらを向いているでしょうか?
多くが地形に応じて正面を向いています。
死者が墓参者に”良く来てくれた!”言わんばかりに出来ています。
どんな墓地を求めるかと言えば、西向きが好まれます。
それは西方浄土の考えが一般化しているからです。
アメリカの墓地は、墓標がみんな東向きに出来ています。
それは東の空からキリストが出現して救済してくれる・・・・、信じられているからです。
 
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  鎌倉光明寺のペットの合同墓。毎月一回納骨式が執り行われます。卒塔婆や骨壺にペットの名、
  没年などが書かれています。
 
日本では大事にしてきたペットが亡くなると、人間と同じようにお墓に祀ってあげます。
西洋を廻ってみて、ペットのお墓を見たことはありません。
墓標のレリーフにワンちゃんが刻まれている事が多々ありますが、
それは墓の主がワンちゃん好きであった記憶を残しているだけで・・・・・、犬のお墓ではありません。
 
道筋に馬頭観音を良く見かけます。
その大半が馬の死を鎮魂するお墓です。
馬頭観音とは仏教の6観音の一つですから・・・・、仏教国を辿ってみても「馬の墓」は見た記憶がありません。
中国でも韓国でもベトナムでも・・・・、”馬は死んでも墓まで建てて祀る事はしない”思われます。
ところが、日本だけが、多分世界中で日本民族だけが、
「馬が亡くなると人間と同じように埋葬し鎮魂した/している」事に驚かされます。
 
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遊行寺の「敵味方供養塔」、南無阿弥陀仏の名号の下には敵味方馬の供養塔である、書かれています。
 
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遊行寺の塔頭長生院の名馬「鬼鹿毛」の墓
 
藤沢の遊行寺に「敵味方供養塔」と呼ばれる墓標があります。
西向きに建てられた石塔の前面に「南無阿弥陀仏」と大書され、その下段に謂われが刻まれています。
「応永23年/1416年から翌年まで続いた戦乱では沢山の人も馬も亡くなりました。
そこでへ敵方も味方も馬も一緒に此処に祀りました。お墓の前を通り過ぎる方は10回お念仏を唱えてください」
遊行寺は敵も味方も隔てなく供養する・・・・、それは宗教人とし尊い事でしょう。
でも驚くのは人馬一体として殺された馬を憐れみ一緒に祀った事であります。
「敵味方供養塔」とは正しい表現ではなく「敵味方人馬供養塔」が正確な表現です。
 
馬は洋の東西を問わず、人間の営みに様々な場面に登場する貴重な家畜でした。
ですから、洋の東西に係らず、馬を大切にし、馬が亡くなれば悲しみに沈んだと思われます。
しかし、馬を人間と同じように葬り、祀るのは日本人だけだと思われます。
そんな葬祭風習が少なくとも室町時代までは遡る事が出来ます。
江戸時代には日本中に馬頭観音が祀られるようになります。(縄文文化圏に色濃い)
 
日本人の死生観が象徴的に見られれのが馬のお墓、馬頭観音です。
其処が、馬頭観音を見る面白い処です。
 
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   奥三河の鳳凰山から伊那谷に越える「細谷集落」に祀られている馬頭観音。
   細谷は棚田の続く寒村でしたが、山津波によって押し流されました。棚田の復活のために
   馬は苦役に労され、亡くなります。この馬頭観音は昭和3年、栗毛と刻まれています。
   馬を家族として愛した人の想いが伝わって来ます。
 
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    辻堂海浜公園の駐車場に繋がれた馬さん。馬の眼を見ているとその優しさに、
    長い人間と馬との共生の歴史が想われます。馬って可愛いなあ・・・・。
 
 
 
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外房の海の色は相模湾のそれとは違います。
群青色とも呼ぶのでしょう。
それは黒潮の色なのでしょう。
有名な青木繁は布良海岸に遊びます。
1904年、22歳で東京美術学校を卒業した年でした。
多くの学生は就職する中で、就職すれば「自分の絵が描けなくなる!」
”最大限に自分の能力を発揮したい!” 
そんな思いで、仲間の坂本繁二郎、森田恒友そして恋人の福田たねを同行させて、
4人の男女が一つ屋根の下で、2か月間共同生活いたします。
そんな中で名作「海の幸」が描かれました。
裸の漁師がマグロなど巨大な魚を背負って、磯から上がってくる光景でした。
 
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                                                 青木繁22歳の大作「海の幸」
 
その布良海岸の北側続きに千倉海岸があります。
海に面して道の駅「潮風王国」があります。
この日は夏休み前でしたから、気の毒な程静まり返っていました。
プールにも水が張られていませんでした。
 
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                                    潮風王国のある千倉海岸。この石が蛇紋岩です。
 
私と家内の目標は、高塚不動尊の奥ノ院にある風神・雷神を拝観する事です。
珍しいほど大きくて、迫力のある石像の「風神・雷神」がある・・・、というので出かけたのです。
千葉ですから・・・・、たいした山があるわけではなかろう・・・・、たかをくくっていたんですが・・・、
それが間違いで、大変な山奥にありました。
 
近代的な七浦小学校の脇の路地を入ると、突き当りが大聖院(高塚不動尊)です。
このお寺は初代伊八(武志伊八郎信由)24歳の作品、「波と龍」「麒麟」の欄間彫刻があります。
ですから、伊八ファンは良くご存じの事でしょう。
 
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      大聖院(高塚不動尊)裏山山頂に奥ノ院が祀られていています。
      其処の仁王門の位置に風神・雷神が祀られています。
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                                      大聖院は初代伊八の欄間彫刻で有名です。
 
 
この辺りは白浜フラワーラインと呼ばれる観光地です。
黒潮のお蔭でいち早く春の花が咲き誇るのです。
畑は・・・・、花が栽培されている筈なんですが・・・・、一面荒れ果てています。
高齢化などの影響で耕作放棄されているんでしょう。
そんな、畑を通って奥ノ院の登り口につきます。
高塚山(216m)の略頂上に高塚不動尊奥の院が祀られているのです。
 
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     お花畑は耕作放棄されていて・・・・・・・・・、一面の荒れ地に化していました。
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                       高塚山中腹から千倉の街を望む。手前が大聖院、その先が七浦小学校。
 
大聖院境内から急な石段を800m、35分ほど登る事になります。
”どうしようか?登ろうか、登るまいか?”
”でも、今登らなければ・・・・、一生登る事はあるまい・・・・”
今やら拝観しなければ…、一生拝観出来ないんです。
そう思うと、必ず登る事になります。
今までも、何回もこんな場面がありました。
 
スダジイや楠の照葉樹林の下闇を歩き続けます。
マムシでも潜んでいないか・・・、不気味な山道です。
殆ど人が歩いた形跡はありませんが、石段自体は整備されています。
でも、滑りやすいんので、慎重に歩を進めます。
途中に幾つかベンチが置かれています。
ベンチからは見渡せるよう木々が伐採されています。
梢の隙間から群青の太平洋が見渡せます。
途中に富士山講の記念碑が建っています。
 
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     高塚山を含んだ丘陵は照葉樹林です。群青色の海は黒潮だからでしょう。
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山頂が見えてきます。
最後の石段を登ると、思いのほか広い境内に出ます。
此処が高塚不動尊の奥ノ院です。
トタン板の門があります。
トタンも腐っていますし、棟も傾いています。
大風が吹いたら・・・・、倒れてしまいそうです。
この山門で高塚不動尊をはじめ、白浜一帯の自然を守っているのが風神・雷神なのです。
 
お寺を守っている風神・雷神といえば・・・・、江戸っ子は浅草浅草寺の雷門を思い出します。
大きな雷門と書かれた提灯がある・・・、浅草の名所である雷門で、お寺を守っているのが「風神・雷神」です。
風神・雷神は千手観音を守護する眷属です。
京都の三十三間堂には有名な風人雷神が祀られています。
でも、高塚不動尊のご本尊は不動明王です。
だから、この風神・雷神は別の意味なのでしょう。
 
高塚山はこのあたりで最も高い、空に聳えている山です。
村を強風や雷等・・・・、自然の猛威から守ってくれるよう建立されたものでしょう。
とりわけ、此処は漁村でしたから・・・・、強風が吹けば漁に出られません。
また、沖合で強風に煽られれば命を失います。
安全に漁が出来るように、豊漁であるように祈った・・・、その為の風神・雷神なのでしょう。
 
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          雷神像
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                                                          雷神像
 
 
基台の銘文には文政13年(1830)、長狭郷平塚村の三木甚右衛門他が寄進した・・・、刻まれています。
石はこの辺りに多い「蛇紋岩」です。
この巨大な石像を刻むのも大変ですが・・・・・、此処まで持ち上げるのも大変な事だったでしょう。
お堂はこじんまりしているものの・・・・、この風神・雷神はお堂の割に大きいのです。
もう二回り小さくても良かったものを・・・・、それも木造にしたら楽に祀られたでしょうに・・・・、思います。
だからこそ、珍しい風神・雷神に有難味を覚えます。
木造は腐ってしまいます。
石像なら・・・、腐ることも無いし・・・、歳を経れば年々風格も出てきます。
 
それにしても、少し滑稽というか…、愛嬌のあるお顔をした風神・雷神です。
風神は大きな風袋を背負っています。
雷神は小太鼓を付けた輪を背にして、バチを振りかざしています。
顔は・・・・、豆撒きの鬼と同じです。
”風神・雷神は元来鬼だったのかしら?”
思い起こします。
 
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                                 雷神のお顔、愛嬌のある節分会の鬼の顔です。
 
登りは大変でしたが・・・、下りは楽なものの細心の注意を払いながら・・・・・、進みます。
滑ったら大怪我になる事必定です。
爽やかな海風が吹き上がってきます。
”良く参拝してくれたな!”
人懐っこい風神さんが煽ってくれているような気がしました。
 
青木繁、福田たね達はこの高塚不動尊に上る事は無かったのでしょう。
もし来ていれば・・・・、伊八の欄間や風神・雷神を見たことでしょう。
そうしたら・・・・、何と想った事でしょう。
屹度、友人に手紙を書いた事でしょう。
「今日、近くの山に登って滑稽な風神・雷神を見た。石工の腕が未だ拙いんで節分の鬼のような顔をしていた。
でも、風神・雷神に祈る気持ちは良く表現されていた。
芸術の神髄は表現技法ではなく、製作者のスピリットにある。
私達は今、精神を研ぎ澄ます時なんだ!」
そうとでも言ったかもしれません。
 
福田たねは身籠ります。
理想は高く情熱に厚い青木繁でしたが・・・・現実が許してくれません。
今でこそ重文の作品ですが・・・・、誰も購入してくれませんでした。
こんな力作飾る場所もないし・・・・、芸術を理解する程民衆の眼は肥えていなかったのでした。
青木繁の作品は売れずに・・・・、
貧しく、肺結核に侵されて、1911年、28歳で亡くなります。
 
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                 高塚不動尊奥の院、この朽ちかけた門に風神・雷神が祀られています。
 
 
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上総富津の石窟寺院

石窟寺院と聞くと私は特別な感慨があります。
アジャンタ、エローラ、サンチー、敦煌等々、仏教遺跡は石窟寺院が多い事もあります。
石窟だから・・・・、よく保存されている事もあります。
何よりも、原始的な仏教の姿を留めている様に思うからです。
様々な人が石窟寺院に籠りました。
そして、自分の信仰を形あるものにしようと、大岩壁に如来や観音菩薩を刻みます。
その情熱が岩壁に磨崖仏として残されました。
原始仏教の姿を留めているのが、石窟寺院であり、磨崖仏であるように思います。
 
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   今日の話題は上総富津にある石窟寺院、やぐらの壁に石仏が刻まれています。
   手前の石柱には頂部に首なしの観音像が置かれていますが、その碑文に「行基菩薩が一夜で作った、
   札所33番岩屋観世音菩薩(正面)。
   側面には四国秩父の札所を写した、寛政9年/1797年8月4日建立、法印大龍」と刻まれています。
   江戸時代初期頃から石窟寺院が建立され、1797年に大龍和尚さんが整備した・・・・、そんな記録でしょう。
 
アジャンタ等の世界遺産でなくても、磨崖仏に己の信仰を刻んだ遺跡は数多くあります。
私の家の近くにも「大船定泉寺」も石窟寺院です。
「田谷の洞窟」として馴染まれてきました。
 
三浦半島には埋もれたような石窟が数多くあります。
多くが海に面した断崖にありました。
古代から、三浦の走水から船を出せば、房総の富津の港に着きました。
富津港には湊川と呼ばれる小河川があります。
河口から1キロ弱山に入った辺りが数馬という部落です。
 
数馬部落の湊川を見下ろす山腹に、「大悲山岩屋堂清巌寺」、通称「岩屋堂」と呼ばれた石窟寺院がありました。
このお寺は上総国札所33番の結願寺でありました。
ご詠歌に、「今朝までの親と頼みしおいづるを むいで納めるきよいわの寺」と崇められました。
ところが、近年になってご本尊の十一面観音を失った事から、今は寂れてしまった・・・、と言われています。
(房総の石仏100選對馬郁夫氏)
もう、トタン屋根は錆びて腐っていますし、お堂も荒れ放題です。
でも、石窟にはライトが設備されていました。
 
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    下の道が国道410号線(富津から久留里方面を結ぶ)川は湊川。この山は鷺の営巣地でした。
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   私達が鷺のコロニーに踏み込むと、無気味な鳴き声を立てて鷺が舞いあがりました。
   此処は凄いパワースポットです。霊に弱い人はお勧めできません。
 
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                                        荒れ果てはお堂の室内
 
湊川を見下ろす山腹に分け入ります。
竹藪が目立ちます。
花が咲いて、枯れた竹もあれば、今年育った青竹もあります。
私と家内が山腹の竹藪に踏み入れると、一斉に”ギャー・ギャー”と鷺が泣き叫びます。
数羽が空に舞いだします。
気持ちいいものではありません。
私は鳥葬を思い出しました。
何故なら・・・・、この石窟は・・・・・、何処から見てもお墓なんですから・・・・。
 
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  中世は櫓(お墓)として活用されていたと思われます。岩壁が崩れて砂になり、
  地面には無数の蟻地獄が棲んでいました。
 
最初は縄文時代人の横穴式住居跡だったのでしょう。
この石窟からは石棒(男性のシンボルの形をした石)などの神具が見つかりました。
中世にはやぐらとして、お墓に利用されたのでしょう。
そして、何時か、誰かが 石窟寺院にした・・・・・、と思われます。
 
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                             此処が秩父札所入口、仁王像が立っていました。
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    秩父札所の観音群。泥質砂岩が水を含んで、凍って、ふやけて・・・・・、風化しています。
 
案内板にはこの石窟を彫ったのは、行基菩薩である・・・、書かれていますが、それは信仰の世界の事で、
史実とすれば、古代のものでは無く、近世のものでしょう。
何故なら・・・・、石窟の壁に彫られている夥しい数の石仏は・・・・、秩父札所の観音群だからです。
そして、上段の石窟には四国八十八箇所の仏が刻まれています。
江戸時代に入って、札所巡りが盛んになります。
そんな時代背景があって、千葉の富津に有名な札所を巡ったと同じご利益のある石窟寺院を建立したのでしょう。
整備したのは寛政9年(1797)、大龍という和尚さんでした。
 
 
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                                               此方も秩父33観音群です。
 
岩は泥質砂岩です。
近くの鋸山の岩(房州石と呼ばれる凝灰質砂岩)より遥かに柔らかい岩です、
だから、風化が進んでいます。
薄明かりの中で見れば、これは十一面観音、馬頭観音等々判りますが、
ディーテールはもうわかりません。
彫り易かったが・・・・、壊れやすい石でもあったのでした。
石仏も風化して砂や土に戻るのが運命でしょうが・・・・、哀れにも見えます。
 
相当のパワースポットですから・・・・、気の弱い人、霊に憑依されやすい人が一人で行かれるのは、
お勧めしません。
 
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                              此方は上の段の石窟で、四国札所の仏が並んでいます。
 
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   四国札所の石窟から、下の段「秩父札所」への通路を見下ろす。
 
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           突き当りの庚申塔。相当数の客仏があります。
           客仏とは他所で祀られていた仏が、何らかの理由や経緯で此処に移されたものです。
 
 
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紫陽花の明月院の北、裏山を超すと今泉に出ます。
緑の濃い一帯で、鎌倉湖と呼ばれる溜池があります。
この今泉に江戸時代末期、磯田広吉が出現します。(1756年〜1828年)
これが大変な酒好きで・・・・、酒で身上を潰した会津の小原庄助さんのような一生を送ります。
でも、一点広吉には狂歌(川柳)を好み、その判者であり、「狂歌酒百首」を含めて3編の著作を発表しました。
 
昨今は某生命保険会社の頑張りで、サラリーマン川柳が好評です。
そんな影響でしょう、今泉では川柳愛好会が発足し、活発に創作活動に励んでいるようです。
判者の広吉(酔亀亭天広丸/あめのひろまる)はあの世から、
”良い傾向だが、イマイチだな!” 辛口の評を下している事でしょう。
天広丸のサインは徳利でした。
 
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   鎌倉今泉の白山神社、この参道に面して「天広丸」の狂歌碑があります。
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   これが「天広丸の狂歌碑です。
   文字は広丸の自筆だそうですから、達筆で相当の人物であったと思われます。
      くむ酒は これ風流の眼なり
              月を見るにも花を見るにも 「狂歌酒百首」  
 
六本木1丁目の善学寺には広丸の次の狂歌碑があります。
      心あらば 手向けてくれよ  酒と水
              銭のある人 銭のない人 (同)
酒好きこそ風流の極み、と確信している広丸はあの世に行っても風流に過ごしたい・・・、そう祈願したのでしょう。
金のある人は私の墓前に酒を供えてくださいな・・・・、お金のない人は無理しないでお水をちょうだいな・・・!
そんな狂歌です。
  (今泉の狂歌活動や善学寺は次に出ています。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/MYBLOG/write.html)
 
この狂歌は屹度沢山の酒好き、風流人の共感を得たに違いありません。
時空を超えて・・・・私の周囲には
”その通りだ・・・・!” 拍手しそうな友人が沢山います。
 
旧鎌倉道を北に向かった私の住む戸塚区倉田町でも酒好きが出現します。
倉田町の蔵田寺は戸塚の風流人が集まって、俳句などの文化活動を行っていました。
戸塚宿のリーダー伊勢屋(酒屋)の鈴木富永です。(今も鈴木家は戸塚で名家です)
その墓地に酒樽が残されています。
(この酒樽墓標は次に書きました。
 
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                                      倉田の蔵田寺にある酒樽墓標。
 
 
世の中には酒好きは沢山いて、あの世に行っても酒を飲みたいものでしょう。
でも、墓標まで酒樽にするのは・・・・、もう凡人の域を逸脱して狂人でありましょう。
だからこそ・・・・、狂歌なのでしょうが・・・・。
伊勢屋のような墓標は滅多にあるもんじゃない・・・、思っていました、
ところが、今泉より、倉田よりズット田舎に、とんでもないお墓がありました。
 
今までが前置きで、これからが今日の本題です。
 
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                                          南房総市山名にある智蔵寺
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   禅寺の風格がある智蔵寺本堂、欄間の波彫刻が初代伊八の作です。
   案内板には甲斐武田氏の末裔の寺であったことが記されていました。
 
 
場所は南房総市の山名で、字の通りの山中です。
智蔵寺(曹洞宗)には初代伊八の欄間彫刻がありますので、伊八ファンは良く承知のお寺ですが、
そうでもなければ、先ず参詣者が訪れない山寺です。
そのお寺さんの墓地の奥に酒樽墓石があります。
 
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                               溝口家の墓所にある「行人墓」、一見して異様です。
 
墓石を下から見て行きます。
基台には精巧な唐獅子が彫られています。
その上に酒樽が置かれています。
酒樽(こもかぶり)には無漏(むろ/もろさない)と書かれています。
酒飲みはコップ酒の受け皿に漏れたお酒も大切に飲むもんです。
そのことかといえば、煩悩から解放された境地を示すものでしょう。
お酒を飲んで世間の煩わしさや憂さから解放された境地・・・、とでもいうものでしょうか?
 
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                          酒樽上の行人像、でも、茶碗に瓢箪を持って自酌しています。
 
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酒樽の上に半跏ふ坐した行人がいます。
行人の光背には月山・湯殿山・羽黒山と刻まれていますから、この行人は出羽三山のそれということになります。
三山の下の段には坂東・秩父・西国と併記されています。
ですから百観音と出羽三山の重層信仰の表われでありましょう。
行人は右手に茶碗を、左手の酒を入れた瓢箪を持って、自酌しています。
でも、いくら飲んでも酔っぱらうわけでは無く・・・・、正常な理性的な顔をしています。
酒は飲んでも、飲まれない・・・、そんな顔でしょうか?
 
三芳村村史によれば、この行人は「溝口八郎右衛門」で、大変な酒豪であったそうです。
没年は天保14年(1643年6月13日)90歳だったそうです。
 
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                               酒樽の背には辞世の狂歌が刻まれています。
 
また、酒樽に戻ります。
酒樽の背には辞世(狂歌)が刻まれています。 
  百の銭 90は此処で飲み別れ 六文を持って末の道中
6文銭は三途の川の渡り賃の意味でしょうから・・・・、差し引き4銭は酒代になるんでしょうか?
算術は別にしても・・・・酒豪の面目躍如たるものを感じます。
 
對馬郁夫氏の意見ではこの墓標の作者は武田石翁であろうということになっています。(房総の石仏百選)
石翁は現鋸南町に居た名工でした。
その作品は日本寺の羅漢群・観音群に遺されています。
 (この項は次に書きました
 
 
石翁の技量も凄味がありますが、酒豪「八郎右衛門」も大変なもんです。
こんな石仏を眺めていると痛感します。
江戸時代って面白かったんだなあ・・・・!
酒を飲んで身上を潰したら・・・・、現代では総スカンを食らう事でしょう。
身内からも、子孫からも、近所からも、侮蔑されることでしょう。
でも、天の広丸も鈴木富永の孫も、八郎右衛門も皆から認められていたように思います。
酒飲みで風流で・・・・、屹度義に厚く情にもろい人物だったことでしょう。
そんな価値観、人間観が失われて久しいように思います。
「人間性の解放」 この意味では江戸時代は今よりも進んでいたのかも知れません。
少なくとも酒飲みにとっては・・・・。
 
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     智蔵寺山門前の六地蔵、櫓に祀られていました。自然環境が良いので石仏も美しいのです。
     行人像も良い梅の木苔が付着しています。
 
 
 
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尊い「筆子塚」の伝統

筆子塚を見に、千葉県富津の真福寺に出かけました。
お寺の甍を目標に近づくと・・・・、子供達の遊び声が響いてきました。
♪もうーいいかーい・・・、まーだだよ!♪
かくれんぼ遊びの声です。
境内に入ると・・・・・、子供と保母さんが遊んでいます。
見ればほとんどの子供が裸足で遊んでいます。
保母さんも裸足ですから・・・・、保育園が裸足を推奨しているんでしょう。
 
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     裸足でかくれんぼ遊びに興じる子供達。保母さんも裸足です。
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                富津の真福寺の経営する旭保育園、幼稚園は七夕飾りが用意されていました。
 
保育園児に訊きました。
「裸足で足が痛くないの?」
「ううん! 痛くないよ、裸足は気持ちがいいんだ・・・・」元気な答えが返ってきました。
 
保母さんに写真を見せて、訊きました。
「この筆子塚を見学に来たんですが・・・・・、
墓地にある・・・・、書かれているんですが・・・・、ご存じありませんか?」
保母さんは園内に戻って訊いてくださいました。
すると、若いお坊さんが出てこられて・・・・・、墓地を案内してくださいます。
親切過ぎて・・・、反って恐縮してしまいます。
 
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                   此方が真福寺の本堂です。車は墓地業者屋参拝客のものです。
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     若住職(右)が墓地の奥、筆子塚まで案内してくださいました。
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                                  泰山木の芳香が辺り一面に漂っていました。
 
若いお坊さんは真福寺の副住職で、普段は旭保育園、幼稚園の運営に係っておいでなのでしょう。
泰山木の下を通ります、辺り一面芳香が漂っています。
高台に岩場があって、櫓状に掘ってあります。
そこが歴代住職とそのご家族の墓地なのでした。
中央にお地蔵様の祀られた祠があって、その左側に卵塔が並んでいます。
此方が歴代住職のお墓です。
卵塔の西端に目標の筆子塚がありました。
 
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   中央の祠の向こう側が歴代住職のお墓、手前側が寺族のお墓。
   目指す筆子塚は岩壁に近い左から三番目にありました。
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              筆子塚全容 お地蔵さんの左右に宥慶和尚の名が、
              台座に建立趣旨、年月日が刻まれていました。
 
日本の近代化を支えた要因の一つに、教育水準の高さ、
読み書きそろばんが出来る人が多かったことがあげられます。
教えられた場所は、お寺でした。
お寺の住職が近所の子供を集めて、教えていました。
江戸時代に入ると寺小屋が出現し、後半には急増します。
明治維新、政府は教育改革に着手します。
国造りの基本は教育にある・・・・、「米百俵」の考え方は日本中に共通していました。
尋常小学校は寺小屋の看板を差し替えて整備されました。
 
寺子屋が学校でした。
だから・・・・、教わる子供は「寺子」と呼ばれました。
教えられた教科は”読み書きそろばん” だったのでしょうが・・・・、
もっと奥深く躾や倫理など人格的な薫陶が為されたのでしょう。
寺子達は先生(住職)に感謝し、尊敬していたことでしょう。
そんな先生が亡くなると、報恩の気持ちで塚(墓)を建立しました。
その塚を「筆子塚」と呼びます。
何故か「寺子塚」とは呼びません。
 
筆子塚は多くのお寺に在ります。
千葉県の筆子塚は3845基を数えるそうです。
     (筆子塚資料集成/千葉県のデータが整備されているのは地誌の研究家川崎久雄氏の功績です)
 
若いお坊さんは説明してくださいました。
「真福寺は真義真言宗の中本寺(高野山と末寺の中間で地方の中核になるお寺)で、
学問寺でした。
そんな生い立ちもあって、江戸時代歴代住職は寺小屋も運営していました。
寺子さんが感謝して「筆子塚」をたてて下さったんですよ。」
 
筆子塚は良くある五輪塔などではなく、端正なお顔の地蔵菩薩でした。
高さ135㎝で、その光背には「カ」の種子、左右に「宥慶/ゆうけい」と刻まれています。
屹度寺子屋の先生のお名前でしょう。
台座には「為報師恩僧俗弟子等謹令刻」と書かれています。
寛文元年(1661)12月14日とあります。
ですから筆子塚としては最も古いものと思われます。
 
第18代住職の宥慶和尚さんが亡くなられました。
そこで、
”その訓育を受けた俗人達が謹んでその恩に報いんがためにこの石塔をたてました。寛文1年12月・・・”
そんな意味でしょう。
 
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お地蔵さんを選んだのは宥慶和尚のお姿がお地蔵さんに似ていたからでしょう。
生き地蔵さんのような宥慶和尚だったことでしょう。
 
お地蔵さんの目線の先、少し右側を見れば富津の海が開けています。
もうじき、海水浴客で賑わう事でしょう。
そして、真福寺の末裔たちは自分と同じように教育に勤しんでいます。
”子供達に裸足で居る事は・・・、体にも心にも良いもんだ・・・、”
宥慶和尚は自分の末裔が、教えている事を見て、聞いて、満足しておいででしょう。
 
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                      筆子塚(奥一番右端)は富津の海を見渡す高台にあります。
 
顔(つら)の皮は薄く、足の裏は鍛えて厚くすることが良いと聞きます。
大地を足の裏で感じて育った子は・・・、良い子に育つ事でしょう。
♪ 仰げば尊しわが師の恩・・・・♪
卒業式の歌を思い出しました。
 
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    右から二つ目が宥慶和尚の筆子塚、一番左が宥圑和尚の塚、この一角4基の塚は筆子塚と思われます。
    宥慶和尚の筆子塚は最古で、最も美しいし、ハッキリと塔を建てる目的が刻まれていました。
 
 
 
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