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石仏ウォーキング

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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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6月16日(日)、午後になると雨も弱くなってきました。
木更津の市街に戻って、お寿司を戴き、かねから気になっていた「馬乗り馬頭観音」を巡りました。
千葉県には特異の馬頭観音像が祀られていて、特に東房総地方に秀作があるんです。
木曾でも同じような馬頭観音を見た事がありますが、このあたりだけに集中して祀られているのです。
 
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     これが儀軌に従った一般的な馬頭観音。三面八臂の憤怒相で、人間の欲望や邪悪な心を
     食い尽くす・・・と考えられました。馬が地面に根差した草を根こそぎ食い尽くす姿を見て、
     煩悩を消し去ってくれると期待したものと思います。(撮影:藤沢鎌倉古道近く新興住宅地)
 
木更津の鎌足には坂東30番「高蔵寺/高倉観音/開基藤原鎌足」があります。
巡礼の旅人は木更津に船に乗って、街道(現在の国道16号線)を歩いてきました。
高倉観音の道標に導かれて・・・・・、山中のお寺に向かいます。
その道標が馬頭観音でした。
 
家内が助手席に座って、”もう少し先よ” ”このあたりじゃない?”
リードしてくれます。
石仏はカーナビに載っていませんし・・・・・、雨の日の石仏巡りは難渋します。
でも、見つけた時の喜びはひとしおです。
加えて、濡れた石仏は一番綺麗ですし、写真に写した時も石の質感が良く出るんです。
 
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    木更津の矢那ダムの畔にある馬乗り馬頭観音像。馬頭観音は一般に三面八臂で描かれますが、
    この像は一面です。少し彫が浅いので一面しか刻まれなかったのです。
    でも、馬頭印を結んだ憤怒相をした観音は迫力あります。
    榎の樹下で滴が伝って・・・・、良い味が出ていました。寛政6年(1794)作。
 
 
全寮制の暁星国際学園の近くで、高校生三人組に訊きました。
高校生は良く承知していて・・・・・、”この道筋、ダムを背にしてありますよ” 教えてくれました。
 
形の良い榎の樹下に馬乗り馬頭観音は立っていました。
脇には「鎌足を考える会」の作った案内板が建っています。
道標を兼ねた馬頭観音ですが・・・・、基台にはお墓と同じような細工(線香たて、花入れ)がしてあります。
馬の供養塔を兼ねていたものでしょう。
 
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JR久留里線東清川駅の北に小櫃川が流れています。
椿橋を渡って、川の右岸、堤の上に馬頭観音が祀られています。
雨も上がってきました、でも道はぬかるんでいます。
 
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    小櫃川の堰堤で水面を見詰めている馬乗り馬頭観音像。右に中郷文化財保存会の作成した
    案内板が建っています。案内板には馬の供養塔であること、一帯で最大の馬頭観音であること
    を示しています。田の中にある小島はお墓です。
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        寛政8年(1796)の作、三面八臂の本来の形で刻まれています。正面のお顔だけに
        白い苔が生えています。凹凸に応じて苔の生える種類が異なっています。
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   眺めていると、雨蛙が上ってきました。馬頭観音は”何のようだ!” 言っているようです。
   冷えた体を石の温もりで温めに来たのかと思っていましたが・・・・、石に集まる小虫が目的のようです。
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      馬の鐙の陰に集まった虫たち。足長蜂は濡れた巣を修理しています。
      ダンゴ虫やヤスデが集まっています。雨蛙はこれを捕食しようとしているようです。
 
案内板には馬の供養塔である、されていますが・・・・、もう少し説明します。
 
農耕に肥料や穀物の運搬具として活躍した馬も寿命がきました。
農家は悲しみながら、弔います。
小櫃川の畔、馬頭観音の前に骸を運びます。
馬頭観音が農村の共同供養塔でありましたから・・・・。
運ばれた馬の魂は天空に上ります。
残された骸は・・・・・・、専門の人によって解体されます。
皮など有用な部位は利用されます。
無用な部位や血は川に流されました。
 
私達は更に北に上って、有吉地区で馬頭観音探しをしました。
やみくもに探しのではありません。
先人の加来利一氏の調査結果をコピーして、探します。(http://kaku-net.jp/indeuma.html)
その写真を持って・・・・、この辺りにある筈だ・・・・、道端を探して走ります。
道行く人に
「こんな馬頭観音なんですが・・・、この辺りなんです、知りませんか?」
尋ねまわりました。
 
そんな中で加来氏も見つけていなかった新馬頭観音に遭う事が出来ました。
畑に出ていた木村さんに尋ねたところ・・・・、
「そんな馬頭観音なら私の屋敷内にあるよ・・・! 観ていきんしゃい!」
そんな次第で・・・・屋敷内に入らせていただきました。
家の西、屋敷森に竹藪と葉蘭の藪がありました。
その葉蘭をかき分けて・・・・、葉陰に隠れている馬頭観音を見せて戴きました。
立派な馬乗り馬頭観音で・・・、奉納されたのは忠兵衛門さんです。
木村さんの祖先で・・・・、明治の作ということになるそうです。
 
旧家には屋敷神様が祀られているもんです。
多くの場合お稲荷様やお弁天様になります。
私の生家は両方が祀ってありました。
木村家の場合、馬頭観音が屋敷守だったのでしょう。
という事は、まだまだこのあたりの旧家を見て回れば・・・・、
もっと多くの馬頭観音を見つける事が出来そうです。
 
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                     木村家の馬乗り馬頭観音像。古式に彫られていました。
 
もう一基馬乗り馬頭観音を紹介します。
有吉寺(この近くにも一基祀られていました)から農道を北に400m程行った処にありました。
「石の仏様なら平野さんと宮崎さんの生垣の境にあるよ・・・・」
畑で働いていたお婆様に教えられました。
そこで、写真におさめていた所・・・・、先刻自転車に乗っていた叔父さんがやってきて・・・、私達にこう言うんです。
これが馬頭観音というのか? 知らなかった。
でも、こんな話は聞いたことがある。
このあたりの家主が馬に乗ってこの辺りまでやってきたところ、突然に馬が暴れたんで落馬してしまった。
ところが打ち所が悪くてそのまま死んでしまった。
この場所の祟りを畏れて・・・…、観音を祀ったのだ・・・・と。
 
私は藤原実方を思い出しました。
実方が笠島道祖神の前を乗馬したままで通り過ぎようとしたところ、
道祖神の怒りに触れて馬が暴れて、
実方は馬の下敷きになって亡くなった・・・、というのです。(宮城県名取市)
良く似た話は各地にあるものです。
 
形は同じ馬乗り馬頭観音でも、祀る人の目的は三様でありました。
其処の処がまた面白い所です。
人間の信仰は複雑で、一言で言い表せるものではありません。
 
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    屋敷の垣の間に祀られている馬乗り馬頭観音像。天保6年(1835)作。
 
 
多くの仏様は蓮の花に乗っておいでです。
これを蓮華座と呼びます。
花祭りのお釈迦様は白象に乗っておいでです。
これを鳥獣座とよびます。
乗った動物が仏様の特長を如実に表しているものです。
文殊菩薩は獅子座にのっておいでです。
大威徳明王は牛に乗っておいでです。
鵞鳥(がちょう)に乗ったのは梵天、
孔雀に乗った孔雀明王、
狐に乗った荼吉尼天
猪に乗った摩利支天・・・・・、
でも、不思議な事に馬に乗った仏様はありませんでした。
もっとも古くから人間の乗り物として活用されていた馬ですから・・・・、
仏様を乗せた馬があっても良さそうなものです。
 
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                                猪に乗った摩利支天像(鎌倉材木座の五所神社)
 
 
江戸時代、そんな素朴な疑問を抱いたのが・・・、この辺り東房総の人達だったのでしょう。
でも石仏で、馬座の観音像を掘り出すのは大変です。
削る石の量が多くなります。
だから・・・・、他の地方では、馬乗りの石仏は敬遠されたのでしょう。
でも、東房総では、馬に乗せた石仏を祀りたい・・・・、
馬に乗った仏なら・・・・、馬頭観音に決まってるじゃないか・・・・!
素直な感覚で馬乗り馬頭観音が一般化したのでしょう。
 
 
加来利一氏の調査を一覧すると馬乗り馬頭観音は49基に及びます。
最も古いのが元禄17年(1704)東国吉になります。
質量ともピークは18世紀後半、寛政年間のようで明治まで続きます。
石工の名前は今のところ全く解っていないようです。
でも、木更津の石屋さんやお寺を巡れば石工の名や人柄は未だ解ると思われます。
房総には波の伊八が出現しました。
欄間木彫職人は名を遺しましたが・・・・、
石工は地味で名を表しませんでした。
でも、几帳面で頑固な石工の事です、大福帳のような記録を残していたかもしれません。
 
今回も鎌足の会や中郷文化財保存会が案内板を出していました。
郷土愛のある人達が「馬乗り馬頭観音」の全容を発表してくれそうな・・・、期待を持っています。
此処東房総には既に49基が発見されていますが、もっと増える事でしょう。
また、千葉県全体では240基程度ある・・・、確認されていますが・・・、
これも人々の関心が増せばもっと増える事でしょう。
 
わたしも今後とも・・・・、
房総への墓参りの帰りに波乗り馬頭観音を探して、巡ることに致しましょう。
 
 
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ブログを始めて今日で2000回になりました。
私自身、長く続けたもんだ! 驚きです。
でも、書きたいことは尽きません。
自然や文化遺産は・・・・、様々な表情を見せてくれますから、それを書き綴れば・・・・、当面止める気になりません。
毎朝、今日は何を書こうか? 
思うと、書きたい話が幾つか脳裏に浮かびます。
 
此処数日の長雨で紫陽花は生き生きとして、大輪の花を咲かせています。
我が家の紫陽花も生き返ったようで、仲良しのデンデンムシを集めています。
植物も虫も、梅雨時には雨が欲しいのでしょう。
 
もう一つ、梅雨時こそ美しいものに石仏があります。
関東の石仏は安山岩が多いので、雨に濡れると黒く光ります。
雨に濡れてこそ、美しく輝くのです。
とりわけ、紫陽花に囲まれた石仏は・・・・、嬉しそうで、美しさも輝きます。
美女を撮影するときレフ板を使って柔らかい光を集めます、
紫陽花はレフ板みたいなもんだな・・・・、思います。
 
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   我が家の門に咲いた紫陽花。デンデンムシが集まってきます。この葉っぱが美味しいのでしょうか?  
 
堀辰雄の樹下に次の一節があります。(信濃路大和路)
「右手を頬に当てて、頭をかしげている姿がちょっと面白い。一種の思惟像とでもいう様式だろうか、そんな難しい言葉でその姿を言い表すのは少しおかしい。
もう少し、何といったらいいのか、無心な姿だ。それを拝しながら過ぎ去る村人だって、彼らの日常生活の中でどうかしてそんな姿勢をしていたこともあるかも知れない。親しいなにげなさなのだ・・・。」
 
この石仏は信濃追分の泉洞寺の境内にある、同氏の文章で有名な如意輪観音だ。
でも、堀辰夫が樹下とした、大きな欅の大木は切り倒されて今は無い。
戦後、貧したお寺が売ってしまったのだそうだ。
お蔭で、陽がさして、苔は落剝してしまい・・・・、
今の如意輪観音であれば文学者の創意を刺激しなかったかもしれません。
 
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                   堀辰雄が紹介した信濃追分泉洞寺の如意輪観音。堀辰雄は右手で頬杖を
                   と書いていますが、実際は写真のように左手です。こんな間違いも愛嬌でしょう。
 
如意輪観音に惹かれた堀辰雄は大和に行っても石仏を探します。
でも、同じように優しく惹きつけてくれる石仏は見出せませんでした。
 
「数年前信濃の山の辺の村で見つけたあんなような味わいのあるものは一つも見いだせなかった。私は時々あの笹むらの中で小さな頭を傾けていた観音像を好んで思い出していた。」
信濃や相模は如意輪観音が多いのですが、大和は滅多に見ません。
大和の石質は如意輪観音の優しさには不向きな面もあります。
石仏にも地方地方で好みがあるのでしょう。
 
私は紫陽花の花に囲まれた如意輪観音を探して、鎌倉から葉山を巡ります。
如意輪観音の思惟する姿は、お釈迦様が菩薩であられた時代に・・・・、
どうやって人を導こうか・・・・、思い悩んでいたお姿であると言われます。
もう、位は如来の域に達せられたお釈迦様ですが、あえて菩薩の位に留まられて、
煩悩に焼かれる人間を・・・救う為には・・・、どのようにして仏陀への道を教え弘めるか、
思惟する姿が・・・・、半跏思惟の不思議な姿で居られた・・・・、そう伝えられています。
 
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                                        葉山新善光寺の如意輪観音像
 
 
私達が見る過半の如意輪観音像は江戸時代に作られた、墓標仏です。
成人の女性が亡くなると・・・、その墓標に好んで如意輪観音をたてました。
屹度、美しく優しかった故人の面影を留める姿が・・・・、如意輪観音だったのでしょう。
その人に花を奉げます。
紫陽花の花を奉げたい・・・、思ったのでしょう。
何故なら・・・・、江戸時代の死亡率は梅雨の季節が高かったからです。
伝染病が多く、特に食中毒で死ぬ人が多かった時代です。
その時の悲しみや愁いを留める花は・・・・、紫陽花なんでしょう。
加えて、墓地に紫陽花を植えておけば、雑草が繁茂しない・・・、そんな実利もあります。
 
シーボルトもお滝さんの面影を紫陽花に見つけて、オランダに持ち帰りました。
名は「お滝」としました。
 
紫陽花は石仏を、とりわけ如意輪観音を引き立てる花です。
梅雨が明ければ・・・・、酷暑の季節を迎えます。
それまで、しばらくの間は紫陽花と如意輪観音のセットを観に、あっちこっちにお出かけです。
 
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                                            新善光寺の観音像
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                              極楽寺門前の古道具屋さんのまえの如意輪観音。
 
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    鎌倉鎖大師の如意輪観音。典型的な墓標仏で舟形光背の左右に戒名と没年が刻まれています。
 
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                       長谷観音の聖観音は名物の紫陽花に顔も隠れています。
 
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                                  此方は三浦の妙音寺、七福神前の紫陽花
 
 
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     鎌倉光照寺の如意輪観音。苔と雨が美しさを引き立てています。 
     梅雨は石仏が一番美しい季節です。
 
 
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梅雨に入って三日目、「梅雨の中休み」ならぬ「梅雨のずる休み」「梅雨の意地悪」のようなお天気が続きます。
我が家の紫陽花も色付き始めて・・・・、萎れ始めています。
今日は安曇野穂高町の彩色道祖神の話をいたします。
 
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   穂高本郷町の彩色道祖神(右側) 安曇野市道祖神マップ41番。安政5年(1858)高さ80㎝幅85㎝,
   白御影の天然石、黒く書かれているのは「安政5年牛年3月吉祥日 上手村中」。背後の山は常念岳
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    これが上記道祖神の昔の彩色です。 絵の具の違いが一目瞭然です。最近の彩色は最悪です。
 
 
北信濃から甲府関東にかけて双体の道祖神が祀られています。
でも、地域地域によってその様式は大いに異なります。
特徴を概括すれば次のようになります。
1、相模は二人の僧が並んでいます、村外れでその境を守り厄病が村に侵入しないようガードしています。
 一般に「賽の神」と呼ばれます。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46708298.html
2、上田地方では男神は衣冠束帯、女神は十二単姿の端正な神が並んで、手をつなぐなど愛睦まじい姿で描かれて います。道祖神と言えばこの上田スタイルを思います。新しい道祖神は殆どが上田スタイルを継承しています。
3、北関東(下野、上野)の男女神は手を握るだけでは飽き足らず、もう一歩も二歩も先の睦まじい姿をしています。
 男神が女神を押し倒して、恍惚の表情をしていたりしています。でも、春画のような卑猥な感じは全くありません。
4、甲府地方は丸い川原石や祠が目立ちます。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46633878.html
5、松本から大町にかけて「塩の道」には男神は衣冠束帯、女神が十二単で描かれています。
 お隣の上田地方が手をつないでいるだけですが、塩の道では多くが「祝言像」か「餅つき」像で描かれています。ど ちらも結婚を象徴する場面です。
 
私が最初に安曇野の道祖神巡りをしたのは大学に入って最初の冬休み、三九郎の火祭りの頃でした。
穂高神社も今のように立派ではありませんでした。
村の辻辻で面白い程簡単に道祖神を見つける事が出来ました。
多くの道祖神が彩色されていました。
訊けば、村の子供達が三九郎の火祭りにあわせて、クレヨンなどの学用品を使って丁寧に塗っているのだそうでした。道祖神の火祭りの主役は子供達で、上手にお化粧してあげれば神様は喜んで下さる・・・・。
神様は上手にお化粧してくれた子供をこれから一年間、無病息災でお勉強も進むよう守って下さる・・・、
そう信じられていました。
そんなら・・・、道祖神であっても字は「童祖神」でもあるんだな…、思いました。
 
以来数回大学の友人(日本文化研究会の仲間)とも安曇野を巡った記憶があります。
卒業して40年、「水鏡の安曇野で道祖神巡りをしようじゃないか!」というわけで今回の旅行になりました。
 
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本郷町消防第9分団詰所前の道祖神、天保4年(1833)高さ137㎝、幅100㎝、厚さ43㎝。
白御影石、背に天保4年巳年 貝梅中と刻まれています。
 
インターネットで調べると安曇野地方には600基もの道祖神があって、市ではナンバーを打って案内しています。
更に、穂高神社などでは道祖神マップ(100円)を売っています。
私達は道祖神マップを片手にして、廻ります。
 
千葉の中学生は観光バスで穂高神社までやってきて、ここで自転車を借りて・・・・、道祖神巡りをしています。
熱心に道祖神の前で両手を合わせています。
何かお祈りしているようです。
「何をお願いしていたの?」
訊けば・・・・、恥ずかしそうに話して貰えません。
「ガールフレンドが出来ますように・・・、ずっと仲良く出来ますように…お祈りしたのかな・・・?」
訊いてみましたが・・・、返事はありませんでした。
若しかしたら・・・図星だったのでしょう。
でも、お祈り姿は合掌であって・・・・、お仏壇に向かうようです。
柏手を打つのが正しいのでしょうが・・・、道祖神様も苦笑いしながら・・・・、
「純情なんだから・・・まあ良いか・・・」
言われている事でしょう。
 
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                                熱心に道祖神にお祈りする千葉の中学生
 
でも、気になる事があります。
私の記憶ではクレヨンなど子供の学用品で色塗りされていたのでしたが・・・・、
油性塗料(ラッカー等)で分厚く色塗りされています。
これでは、お化粧ではありません。
神様もラッカーで色塗りされたのでは、お肌が傷む・・・、お怒りではないでしょうか?
ラッカーは美しくありません。
広告看板に使うもんです。
子供達がラッカーで色塗りしたのでしょうか?
それとも、観光協会の人でしょうか?
 
そもそも、何で此処穂高地方の双体道祖神だけが彩色されたのか?
其処が疑問で、大事な事です。
(以下は筆者の推論が中心です、一般的に云われている事でも、調査された事ではありません)
 
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     穂高の矢原地区の道祖神、元治元年(1864)90㎝×80㎝×42㎝ 
     背に元治元年甲子4年足日、矢原村仲間中と刻まれています。パステルで丁寧に彩色されています。
     白い御影石ですから彩色する事によって像がハッキリと浮き立って見えます。
 
相模でも神様やお地蔵さんが化粧される事があります。
藤沢の「化粧地蔵尊」、南足柄の「白粉地蔵尊」です。
後者は足柄峠の道に祀られていて、お祈りする人は小麦粉でお地蔵さんのお顔を白く塗ります。
白く塗る事によって、霊験がアップすると考えます。
ジャワ等南の国のお祭りでは、顔を原色で塗って踊ります。
化粧する事で、神が乗り移って来るのでしょう。
化粧すると、神は目覚めて・・・・、信者を加護してくれる・・・、そう思うのでしょう。
化粧とお祭りには密接な考えがあったと思います。
だから・・・・、神様に使える白粉は天然ものでなくてはなりません。
石油で溶かした塗料は・・・、相応しくありません。
 
昔は男女の会う機会は少なかったことでしょう。
滅多に会えない、男女が言葉を交わせない社会にあって・・・・、チャンスはお祭りでした。
かねてから気にかかっていた異性に声をかけられるチャンスでありました。
道祖神の火祭りもそんなチャンスであったことでしょう。
 
道祖神の火祭りの準備をし、その火で餅を焼いて食べる・・・、主役はどの地方でも子供でした。
でも、穂高地方の準主役は未婚の女性でした。
子供達が色塗りした後未婚の女性が道祖神にお参りします。
自分の化粧道具を使って、唇に紅をさしました。
「素敵な男性に縁をくださいな・・・」
お願いしました。
だから・・・・、この地方の道祖神は、結婚の祝言像であったり、餅つき像でありました。
女性にとって、素敵な男性と結ばれることは昔も今も人生の最大の問題であったのです。
 
道祖神のお化粧をオイルペイントでする事は、伊勢神宮の遷宮に際して白木の檜を使わないで鉄筋コンクリートでするようなものだと思われます。
毎年色褪せるので、毎年お化粧をする・・・、そんな繰り返しを毎年行う事に意義があるのです。
20年ごとに伊勢の神様のお住まいを造り替えるように・・・・。
 
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   安曇野地方で最も多い祝言像。こんな場面が未婚の女性にとって最大の願望であったことでしょう。
   勿論男性も同じです。オカメ顔でぽっちゃりした女性に「お一つどうぞ・・・、これから一緒ですね、
   よろしくお願いいたします」 なんていわれたい、願っていたことでしょう。
   こんな気持ちは現代の方が一層強くなっているかもしれません。何しろ嫁さん不足が深刻ですから。
   大王山葵田の堤防上に祀られていました。年代不詳。75㎝×85㎝×25㎝ 白御影石
 
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   穂高神社境内の餅つき道祖神。平成6年(1994)群馬県安中市の神を摸刻、石匠宮下和作。
   杵は男性を、臼は女性を象徴し、男女で餅つきをすることは・・・、子つくりに励むことを意味しました。
   良い縁が出来たら…、次は子孫に恵まれる事ですから・・・、道祖神にはこのお祈りも致しました。
 
 
 
 
新しい道祖神も目立ちます。
最も有名なのは「水色の時道祖神」でしょう。
NHKの連続テレビ小説「水色の時」(19754月〜10月)の放送のために製作されたので、
この名前がついているのです。
大王山葵田から西に万水川を渡って、田圃の中にあります。
新しい道祖神ですから・・・・、現代的な意匠で彫られています。
二基の道祖神の周囲は露草が植えられています。
それはそれでよいのですが・・・・、私のような者にとっては安曇野らしい・・・、伝統的で、かつ地域色の濃い道祖神にしてほしかった・・・・、思います。
素敵なカップル像ですが・・・、東京の等々力の近隣公園に置いてありそうな像です。
何故等々力かと言うと・・・・・、このあたりも等々力という地名なのです。
 
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                         水色の時道祖神、左上の山は常念岳です。
          握手像は安曇野でも多いのですが、祝言像の方が安曇野らしい・・・と筆者は思います。
 
新しい道祖神の極めつけは等々力ギャラリー前の道祖神です。
等々力家は穂高の本陣でした。
このギャラリーは等々力義人氏が経営するものです。(本陣の末裔で居られるかは未確認です)
その前に130㎝ほどの道祖神が立っていました。
接吻する神像ですが、裾の方を見ると、女神が太腿を露わにして、男神の一物が・・・・、和合像です。
大らかと言えば・・・大らかな像で・・・、浮世絵春画の伝統をつなぐものです。
若しかしたら・・・・、浮世絵春画の展示ギャライーであるので、こんな道祖神を建立したのかも知れません。
でも、安曇野道祖神には相応しくありません。
 
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                              等々力ギャラr−前の道祖神。平成14年1月建立
 
最初にも書いた通り、道祖神は各地方によって意匠は異なる事が魅力です。
現代のような情報化社会になると・・・、地域性は薄れてしまい、
これでもか…、これでもか…、という様に可愛くなったり、どぎつくなったりします。
より可愛い程、よりどぎつい程お客さんが呼べる・・・・、商業主義の弊害です。
道祖神は地域の先人が祈った宗教文化財です。
文化財を遺したハートを大切にして・・・・、自爆的な道祖神は避けてほしいものです。
 
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                   安曇野大池村の道祖神の拓本(穂高神社で道祖神展で撮影)
 
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    大王山葵田に近い堤防上の道祖神、女神の頭の上に蜂の巣が出来ています。
    男神が他の女性に脇目をすると、蜂が飛んで出て・・・一刺しするわよ・・・・、そんな情景が想われました。
 
 
 
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名峰蓼科山の西陵に降った雨は幾筋にも分かれて沢を下ります。
八丁地川、布施川、鹿曲川は望月の街で合流し、塩名田宿の先で千曲川に合流します。
塩名田には物資が集積し、市が開かれました。
同宿には、名物の川魚料理がありますし、橋の袂には駒止の岩があります。
馬も市で商いされる重要な物資の一つでした。
御牧ヶ原は奈良時代からの馬の産地でした。
 
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   紀貫之が「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」と歌いました。望月はマンホールの蓋も馬で    す。
 
望月は石仏の質量ともに優れたところで、私達は何度も見ています。
今回は望月から鹿曲川に沿って約8K上流にある「春日百番観音石仏群」を詣でることにしました。
前回は望月宿に近い「昭和百番観音」に上りました。
実は前回も春日百番に行きたかったのですが・・・・、カーナビにも出ていない事から・・・見つけられず、
“まあ、致し方ない”というわけで、昭和に出来た百番観音を拝観したのでした。
 
 
春日温泉から鹿曲川に沿って上ります。
川沿いに集落が点在しています。
次第に山峡に入って行きます。
入新町、岩下が最後で、その先は森になってしまいます。
川幅も狭くなりました。
山の斜面の中腹に石窟寺様式の小さな上屋がありました。
脇に大木があります。
樹は辛夷です、もう青々と茂っていますが・・・・、一番にこの山里に春の訪れを告げるのでしょう。
 
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     春日百番観音岩屋から向かいの岩下新田を見下ろす。向かいの集落が岩下です。河川は鹿曲川、5キロほ     ど下流が春日温泉です。源流を登ると蓼科仙境都市(別荘)があります。
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   岩下の集落は馬頭観音が目立ちます。馬頭観音等を確認する私の友人たち。遠くの山が蓼科山。右側の森の   手前に岩屋があって其処に懸崖造りの上屋があり、その背後に百体の観音石仏群が祀られています。
 
寛永6年(1629)飯塚勘右衛門は一帯を開発して「岩下新田」とします。
新田の最深部に岩屋があって、その裂け目から水が湧いていました。
その岩に霊感を覚えたのでしょう、
この岩屋に馬頭観音を祀り、新田の安全と穀物の豊穣、村民の平和等を祈願しました。
江戸末期から明治初年にかけて佐久の馬主達は馬の供養と安全、豊穣を祈って百体の観音像を寄進しました。
この頃は百番観音が一つのブームだったのでしょう。
 
昨日書いた湯の道の「道しるべ百番観音」も略同時期になります。
発願者は武田喜衛門、石工は矢張り高遠の石工「矢嶋楢蔵政永」と「小平菊弥」でした。
道しるべ百番( 中山暉雲)に比べればデフォルメされていない・・・、大人しい作風です。
また、石材が千曲川の東西で全く違います。
道しるべ観音が黒い安山岩なのに対し、春日百番は白い花崗岩です。
白く硬い花崗岩ですから・・・・・、衣文の裾等に彩色が為されています。
彩色が無ければ石仏自体にメリハリが無くなってしまうでしょうし・・・、有難味が薄らいでしまいます。
小さくても、霊験ある、威厳ある石仏が出来上がりました。
 
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                                         春日百番観音群、入口の十一面観音
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    巌谷の中腹に並べられた観音石仏群。 衣文に彩色されているのが目につきます。
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岩屋の露岩が棚のようになっています。
その岩を背にして石仏群は数体が寄り添うようにして並んでいます。
岩屋を巡る細道は雑草が生い茂っています。
湿潤な岩屋ですから・・・・、マムシが出そうで少し怖いようです。
閻魔さまもありますし、少し滑稽な奪衣婆も祀られています。
調べてみると112体の石仏があって、大半が観音様なのですが十王思想も色濃いのだそうです。
此処に並んだ石仏群がそのまま江戸末期の一帯の信仰を顕しているのでしょう。
 
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        衣文に彩色が施されています。
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これが奪衣婆です。 
 
懸崖造りの上屋は鉄骨で組まれています。
材木より長持ちするし・・・・、致し方ないのでしょう。
その鉄骨で組んだ梁の上に沢山(多分百)のご詠歌が書かれた額が懸けられています。
奉納したのは多分望月の人達でしょう。
もうかすんでしまっていますが・・・、明治37年の奉納とされています。
 
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                                上屋の梁に懸けられたご詠歌、百首あるのでしょう。
 
ご詠歌は字数は短歌と同じです、でも韻を踏んだり・・・、芸術性は薄く、
ストレートに祀られた観音菩薩の功徳やお寺の特徴霊験を表現しています。
詠う事に意義があって、その内容には文学性は薄いもので・・・・、讃美歌のような響きです。
ご詠歌は庶民がわかりやすく仏の存在や有難さを説いて、お覚えさせるものだったからです。
だから・・・・、江戸末期明治初頭の信仰を理解しようとすれば・・・、ご詠歌を素材に検討すれば良いのでしょう。
 
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      上屋の奥に小さな祠があって、中にはご本尊の馬頭観音が祀られています。
      その位置は大きな岩の裂け目です。奈良室生寺の竜神を思わせる様な位置関係です。
 
 
上屋の奥に蔀戸があって、その奥に祠があって、その中に馬頭観音がご本尊として祀られています。
ご本尊の祀られた位置は丁度大岩の裂け目に当ります。
この次代になると、望月では馬頭観音は稲の豊作を祈る対象になっているのでしょう。
私の住む相模なら・・・・、この位置には竜神が祀られたり、弁才天やお稲荷様がご本尊になっているもんです。
 
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            入口の建つ「百番供養塔」の石柱。手前側面に発願者武田喜衛門の名が刻まれていました。
 
岩屋の入口に「百番供養塔」と刻まれた石塔がたっています。
百番観音の標識でありますが・・・・・、私は「供養」という言葉に注目します。
供養という事は、誰を供養したのか? 考えさせます。
間違いなく供養されたのは馬でしょう。
江戸時代初頭に新田が開発されます。
100年にの間に日本の人口は1000万人から3000万人に増えます。
人口爆発を支えたのが新田開発や農耕馬を使ったの生産革命だったのでした。
そんな農耕馬が寿命を終えた時・・・・、この供養塔の下に運んだのでしょう。
そして、馬の屍は鹿曲川の川原で解体され、葬られたのでしょう。
馬は、農家の家族であり、豊作を果たしてくれる労働力であり、豊穣を約束してくれる神様だったのでしょう。
そんな大切な馬も寿命には勝てません・・・。
亡くなればあつく葬ったものと思います。
だから…、供養塔なのでしょう。
 
馬と人間の関係、馬頭観音の重要性を理解させてくれる「春日百番観音群」です。
何れ、辛夷の咲く季節にじっくり百体の観音様を拝観したいものです。
 
【追記】筆者は百体観音石仏群は多く書きました。時代、場所によって随分趣も目的も違います。以下に書きました。
「北軽井沢の道標百」観音: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46621205.html
霊場「閼伽流山・百観音」:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46617011.html
「聖なる百観音像(房州日本寺)」: http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46476759.html
雪を溶かす石仏の温み(円覚寺百観音):http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46099895.html
石仏の運命(枯葉に埋もれた馬取百観音) : http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45721879.html
マロニエの樹下の「馬取百観音」:http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/45190440.html
コンビニ観音巡り(金沢文庫): http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/9562658.html
 
 
 
 
 
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昨日は中山道の姫街道「馬取」集落の百番観音を案内しました。
集落の誰しもが霊験のある札所を巡って祈りをしたい・・・・、
家族の健康や豊穣な収穫、そして極楽に往生したい・・・・、等々祈りを西国33番、坂東33番、秩父34番と
百番の札所を巡りたい・・・・、思いました。
そこで、集落の代表が札所を巡りました。
また、“札所を村に分祀して貰おう”考え始めます。
こうして村外れに、観音霊場を分祀して、観音様を百体並べて・・・・、お祈りし易く致しました。
観音様を彫ったのは旅の石工でありました。
高遠石工、湯河原石工、上野石工などが居ました。
 
こうした百番観音は各地に残っています。
 
百体の観音様を一か所に集めるのではなく・・・・・、街道の道沿いに祀ったらならば・・・・・、
お祈りするだけではなく、遠い道のりを歩く励みにもなるし、道案内にもなる・・・・、考えたのでしょう。
とりわけ、道が険しかったり迷う危険があれば尚更です。
 
東御市(とおみ)の新張から地蔵峠(1725m)を越えて嬬恋の鹿沢温泉に向かう道にも百体の観音様が祀られています。私達はこの観音様を巡りながら鹿沢温泉、池の平を廻る事にしました。
 
新張の辻に大きな如意輪観音様が建っていました。
眼も鼻も口も大きく少し異形の感じがするお顔です。
地上からの高さは約2.7m、見上げる高さです。
傍に案内板があって、明治2年(1869)に伊那の高遠の石工、 中山暉雲の手で彫られたそうです。
1番、100番が中山暉雲の作で、大半の石仏には石工の名が刻まれていません。
作風も随分違います。
 
矢張り案内によると江戸時代末期文久4年(1864)から明治6年(1873)の約10年間に作られたそうです。
以来、150年傷みも目立つようになってきました。
石仏は風化するもの、とりわけ水が浸みて凍れば風化の進行が早まります。
傷んだ観音様のお隣に新しい石仏が並んで祀られたりしています。
百番観音の考えに賛同する人が今も多いことの顕れでしょう。
 
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  東御市新張の辻にある1番観音、ポストの左に上って行く街道に百体の観音様が1町(110m)間隔で並んでいま   す。
 
観音様の呼び名は様々あるようです。
「地蔵峠道しるべ観音」とか「百番道しるべ観音」「湯の道道しるべ観音」等などです。
最初に道しるべを兼ねて観音様を祀ろう・・・・、考え付いたのは鹿沢温泉の楢原所右衛門だったそうです。
屹度高野山などの有名寺社の登り道に観音様がおられて、迎えてくれるようだ・・・・、
思ったのがヒントだったのでしょう。
 
鹿沢温泉に来て欲しい、そして湯治を終えて元気になって戻られて・・・、また来て欲しい・・・、
そんな思いが「湯治場への道しるべ」になる観音様だったのでしょう。
湯治道の峠が地蔵峠になります。
峠の観音様が80番になります。
そして、百番目を湯治場「紅葉館」の脇に建立しました。
千手観音で、舟形光背を背負って半肉浮彫された立像です。
高さは242㎝もあります。
大半散ってしまった山桜の樹下に立っておいででした。
 
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    百番目の千手観音像。左横に紅葉館が建っています。
 
観音様は33のタイプがあると言いますが、一番多いのが千手観音、次いで十一面観音、聖観音が目立ちます。
馬頭観音はその次に多いでしょうか?
でも、50番観音は馬頭観音の秀作です。
大きな岩の上で、片足を伸ばした半跏の姿をしています。
三面四臂(顔が3つ、腕が4手)憤怒相をしている古典的な姿です。
胸前の馬頭印を結んだ指に力が込められていて・・・、強い願いが窺がわれます。
峠越しの4里の難路ですから・・・、湯治客の無事を祈る為には・・・・、
馬頭観音こそ相応しい仏様という事でしょう。
 
直ぐ近くには巨大な「シナの樹」があります。
根元には二つの祠があって、いかにも神々しい樹です。
森の大樹百選(林野庁)にも数えられる樹だそうで、言い伝えが残っています。
弘法大師が此処で休息されました、
その時傍らに置いた杖に根が生えてこのシナの大樹になったのだそうです。
また、木曾義仲雨宿りのシナとも謂れれいるそうです。
樹齢は300年余りですから・・・、言い伝え通りとすればその何代目かという事でしょう。
良い石仏にはその置かれた場所、環境が大事です。
この馬頭観音は像自体も優れているのですが・・・、置かれた環境が最高です。
湯の道も此処まで来たら半分、馬頭観音様にお祈りして、休息してまた腰を上げて歩き出したのでしょう。
 
基壇の大岩に陰刻されています。
施主の名が刻まれています、
石工の名も刻まれているか・・・、探しました、匠の字はあるのですが・・・、判読できませんでした。
 
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    50番の馬頭観音像、右足を伸ばした半跏像である所がユニークです。基壇の大岩に50番の他願主の名等が    刻まれ、匠の字もあるんですが判読不能でした。
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   手前はレンゲ躑躅、湯の丸高原はレンゲ躑躅の群落があって天然記念物ですが、未だ咲いていませんでした。
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                                道路脇のシナの樹、此処が百番観音の50番目です。
 
 
1番観音の東御市新張が標高800m位でしょうから、峠まで標高差900mもある事になります。
標高が高まるにつれて景色は様々に変わります。
青草の茂みの中に埋もれそうな観音像もあれば、
落葉松の新芽を背にした観音像、背丈の低い笹の中にも観音像はありました。
自然の中に佇んでいる石仏は一番に美しい、思わせてくれます。
次はどんな観音様が、どんな風景の中に納まっているか・・・・、楽しみにしながら巡って行きます。
 
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20番の千手観音、10番毎に大きな石仏が置かれていました。この辺りは生活感のある風景です。
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22番の千手観音
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57番の十一面観音、背後は落葉松林で、新芽が鮮やかでした。
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地蔵峠も近い77番の聖観音、笹の中。
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地蔵峠を越えて嬬恋村に入った処の83番聖観音。
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96番聖観音
 
こんなアイディアもあって鹿沢温泉は賑わった湯治場だったそうです。
ところが大正7年火事で温泉街は壊滅してしまいました。
その後、温泉街は現在の新鹿沢温泉(嬬恋村)に移転してしまいます。
唯1軒の宿「紅葉館」が遺されます。
紅葉館には前述100番観音と「雪山讃歌」の碑が残されています。
京大山岳部の学生であった西堀栄三郎氏(南極越冬隊初代隊長)が冬場の雪でこの宿に足止めされて、
その退屈しのぎに作成したのだそうです。(昭和2年)
 
紅葉館の湯に浸りたい・・・・、I君の意見でしたが・・・、
あんまりに閑散としていて・・・・、人気も無いので・・・、
結局麓の湯楽里館(東御市振興公社経営)の湯に入りました。
蓼科、美ヶ原、八ヶ岳等の山並みを見渡す、立派な施設です。
料金は紅葉館も湯楽里館も同じ500円です。
これでは、紅葉館は苦しかろう・・・、思いを馳せました。
やっぱり、I君の言うとおり紅葉館に入って、
他にお客もいないのですから・・・
”雪よ岩よ われ等が宿り 俺たちゃ 街には 住めないからに・・・”
4人で唱和すれば良かった・・・、思うのでした。
 
 
 
 
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