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石仏ウォーキング

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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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友人のT君は巨樹巡りが好みです。何時かは一緒に行くこともあるかもしれない、期待をかけて王仁塚の桜を経由して韮崎の武田神社に向かいました道路は甲斐駒が岳の北山麓を東に向かいます。フロントガラスの彼方に富士山が見えます。裏から視る富士山は細身に見えます。頂上がすっぽり綿帽子のような雲がかかっています。有名な傘雲では無くてキャップのようです。西を観れば塩川に沿って屏風のような七里岩が続いています。
此方側の川が釜無川の本流で、二つの川が合流するので此処を韮崎と云うのだそうです。
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これは塩川で右側の屏風のような岩が名勝の七里岩で塩川と釜無川の合流地点が武田氏発祥の地「韮崎」です。韮の葉先のような地形の意味だと推測します。
「釜無し川」なんて不思議な名だね?」ドライバーのМ君に声掛けします。
仁徳天皇の「民の竃は潤っているか?」の神話に擬えれば釜が無いのですから食い物に事欠いた貧乏のイメージです。もう少し先で笛吹川と合流し。冨士川に名を変えて富士山の東を駿河湾に向けて急流を流れ下ります。笛吹川と釜無川の合流地点が洪水の多発地帯でしたので「信玄堤」でガードしました。
信玄堤の辺りからは天井川(田圃より川が高い位置に在る)ですから川底が深い川の意味かも知れません。底無し川なら危険なので水遊びは慎まなくてはなりません。

韮崎の市街地が見えはじめたら、道を右折南に向います左折したら武田橋を越えて韮崎の市街です。河岸段丘の奥に鎮座しているのが武田氏発祥の郷の地で武田神社と願成寺(菩提寺)があります。
武田神社にも王仁の桜にもワイフと来た記憶があるのですが、武田神社門前の石仏(一石百観音)は見落としてきました。今回のツアーでは自分の眼で珍しい一石百観音を拝観する事です。
王仁塚の桜は青々と茂っていました。
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王仁塚の桜を東から見る。農道に罹ったので古墳が寸断されたのが判ります。高圧線の柱と云い昔は乱暴だったものです。桜の彼方が昔風に云えば「北巨摩郡で、午前中観た海岸寺も金津三代学校も在ります。
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王仁塚の桜を北側から視る。看板の写真の冠雪した山は八ヶ岳です。古墳の墳丘に野萱草の群落があって無数の蕾を用意していました七月旧の盆入りの頃には満開になる事でしょう。
友人は「沼田の一本桜」に似ているけど王仁の方が雄大だね云います。
名前からしても高麗からの帰化人が此処に住みついて古墳に眠っているのでしょう。河岸段丘の中段の田圃の中にポツンと古墳が在って。周辺を睥睨するように立っている墓標桜(立彼岸桜)です古墳の土盛りを観れば沢山の萱草が蕾をつけています。後2週間(7/20頃 もすれば夢のように美しい緋色の花が古墳を飾る事でしょう。王仁と書けば「鰐/シャチ」を想い出します。王仁族は安曇野を開発した安住族と同じ海神を祀った半島からの帰化人であったのでしょう。今年の秋は安曇野から糸魚川まで塩の道を石仏行脚する計画です。塩の道百観音が「おいでおいでしているような気がしています。
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武田神社門前の石鳥居、「鳥居の上に小石を乗せる」と良い人のお嫁さんになれる(居座れる)との俗信がありました。若い女性が三Kの嫁を祈願して小石を投げたのでしょう。出雲大社の大しめ縄にお金を挟むと金運に恵まれる俗信も在ります、今日のテーマの「一石百観音」鳥居の下写真の左に在ります。屹度あの辺りに神宮寺があって其処に在った石仏が巡り巡って現在地に戻っているのでしょう。
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これは武田氏の氏神武田八幡宮の楼門、石垣も含めて神社と云うより山城の風格です。左右の杉も見事です。

の二ノ鳥居の下を通過して300mも登れば武田神社の石鳥居の前に突き当ります。
駐車場は満員、屹度村人の寄り合いがあって夏祭りに向けて協議しているのでしょう。
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これは武田神社の本殿前にある拝殿で奥に本殿があります。此方は軍略会議でもしそうな耐火建築です。一方本殿は国の重文です。
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此方が武田神社の本殿で 桧皮葺き、三間社流造の本格神社建築です。写真出典山梨観光サイト http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/35/51/76/src_35517659.jpg?1415188975

駐車場の下の段に植え込みが在って中央に目指す一石百観音が祀られていました。案内によれば
もとは北方約五百mの隆岩山玉保寺にあったもので宝永六年(1709)の造立で。
明治十七年武田神社の信徒たちによって武田八幡神社神宮寺跡地へ移された、記載されていました。
考えてみれば江戸時代末期に高遠の石工守屋貞次が甲斐に入って海岸寺に百観音を彫りました。同じ頃には甲斐の人達は一石に百観音を刻みましたバラバラに百の観音を彫るより一石に彫った方がズット楽ですし、お参りする人も一度で済みます。合理的です。それを”安直だ”批判をするのは簡単ですが、空海の自他の教えによれば自は自分自身の心です。他は目にする観音石仏です。「自他合一」とか「即身成仏」自他何処にもある大日如来と云う名の真理を自分自身に感応する(悟る)には一石百観音もバラバラ百観音も大差ないのかもしれません。そう想うと竹宇駒ケ岳神社に在った巨岩も一石百観音に最適のような気がしてきました。
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これが一石百観音の全景です。
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一石百観音の最上部西国33観音から始まっているのは最古で最も権威が在るからでしょうか?

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此方は中段右の百観音
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此方は再び全景です。子供の時少女がお絵かき帳に飽きずにお人形を描いていました。大人が祈りながら石仏を刻むのは同じようなモノで、私は高遠石工の様な専門集団では無くて修験道の行者が彫りあげたモノと推測します。

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今回の山梨ツアーの初期の目的は一昨日アップしたように「海岸寺の守屋貞次の百観音石仏」を拝観する事でしたが、欲張りな私は”山梨に他にはないのか?”探している中に甲斐駒ケ岳神社の境内に夥しい石仏が祀られている事を確認しました。先人のアップした写真を観れば「摩利支天像」に秀作が多いようです
そこで根古屋神社の大欅を観て次には甲斐駒ケ岳神社に向いました。根古屋神社からカーナビに目的地名「駒ケ岳神社」目的地にセットしました、すると細道をくねくね行って別荘地の奥にある駒ケ岳神社(横手町)に着きました。本殿の裏山に登って先達の写した石仏を探したのですがみつかりません。
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此方が横手にある駒ケ岳神社観音様に注連縄が張られています。神仏習合です。石畳は花崗岩ですが石仏は安山岩です。何処かで彫られてこの神社に祀られたのでしょう。
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本殿横の不動明王
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横手の甲斐駒ケ岳神社を本殿裏から視る。本殿には千木が在るものの拝殿は切妻のシンプルな建物でした。

漸く、甲斐駒ケ岳には登山道は二本あって奥宮は駒ケ岳の山頂に一宮あるものの、前宮は二本の登山道入口に各々在って写真で視た石仏は尾白川渓谷にある「竹宇甲斐駒ケ岳神社」である事が判りました。そこでカーナビを再設定して竹宇甲斐駒ケ岳神社に向かいました。広い道迄戻って白州中学の角を只管甲斐駒ケ岳を目指しました。
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正面が甲斐駒ケ岳農道の先を左折してその先の杉林の中に「竹宇甲斐駒ケ岳神社」があります。
広い駐車場があって、尾白川の渓谷を遥か下に見下ろしながら500mも歩くと巨岩の中に神社が見えて来ました。神社の入り口に現皇太子さまの登山記念碑があるところを見るとと、此方が甲斐駒ケ岳の正面入り口で、先に詣でたた横手の駒ケ岳神社は下山口だったのでしょう。
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駐車場の隅、竹宇甲斐駒ケ岳神社の参道は同時に登山道になっていて入山するには届け出が必要になります。イメージ 5
駐車場から竹宇甲斐駒ケ岳神社に向かう登山道には黒雲母花崗岩の巨石が目立ちました。
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神社の入り口には御師の宿(宮司の自宅?)があって、現皇太子様が平成2年に登られた記念碑が立っていました。
この渓流の下に在るのがサントリーの白州工場です。渓谷も神社の境内も花崗岩の巨岩が累々としています。花崗岩は長石が主成分ですから、甲斐駒ヶ岳に降った雨は長石のフィルターに罹ってミネラルを多分に含んだ硬水になります。私は毎日道士渓谷に発する宮が瀬ダムの水を飲んでいますから、口当たりの柔らかい軟水です。水道水でも宮が瀬から綾瀬の浄水場に送られ活性炭で処理されますから琵琶湖の水の様な塩化水素の水道水固有の臭みはありません。お豆腐を食べるには硬水は合わず軟水に限ります。珈琲もお茶も軟水です。京都は酒に限らず豆腐も茶も珈琲も美味しいのは水の恵みです。
甲斐駒ケ岳神社は江戸時代末期の創設でしょう。修験道の創設は一般に欽明朝の仏教伝来の前で奈良の大峯山も越中の立山も狩猟神を大己貴命を祭ていたモノが、大物主或いは大国主命と同一視されることにより農耕神、穀神の性格を加えたものでしょう。甲斐駒ケ岳神社は先行した、富士山や木曾御岳山や金峰山、鳳風山等の修験の成果を甲斐駒ケ岳でも始めたモノでしょう。新しい山岳信仰でしたのでしょうから、既存の山岳信仰を継承しています。駒ケ岳神社の裏山(石坐)を観ているとそれが実感されます。既存の修験道の聖地が揃い踏みしているのです。役行者もおられれば摩利支天も目立ちます。
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「竹宇甲斐駒ケ岳神社」の本殿裏磐座には夥しい修験の聖地の神々と役行者や摩利支天帝釈天等が祀られていました。
狩猟を生業としていた人々が甲斐駒ケ岳の頂に奥宮を祀って、山麓の農耕従事者が麓の登山道に前宮を祀っていたと推測されます。
修験の神々は仏像を刺激剤として造像された事でしょう。普賢菩薩は象の背に乗っているのを観て摩利支天は猪の背に乗せてみましたし。神道の十拳剣(とつかのつるぎ)が其処ここに突き刺さっていました。私達は天叢雲剣は「三種の神器」の第一だと教わっています。甲斐駒ケ岳の頂に突き刺されている十拳剣を麓の前宮にも祀ったのは狩猟時代の精神が綿々と貫かれてきた証なのでしょう。
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十拳剣(神道のシンボル)と不動明王
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摩利支天像
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帝釈天像
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岩屋の上から渓谷を見下ろす不動明王像
登山道を真っ直ぐ進むと尾白川の渓谷を吊り橋が渡っていました。立山の麓の芦峅寺にも日光の二荒山にも渓谷が険しく橋が架かっています。橋の手前は現世で橋の向こうが来世です。立山では橋を渡る事は一度死ぬことを意味します。死んであの世の山で修行し(六根清浄し)で綺麗な心身になって橋を渡って戻る事を「生き返る」と信じます。立山では「布橋灌頂」と云って女性は特に憧れます。
甲斐駒ケ岳の修験は先行した各地の修験や地獄の思想を吸収して出来ているようです。
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駒ケ岳神社の先は吊り橋でこの橋を渡れば死後の世界です。橋の名は無く平成22年竣工のプレートが貼られていました。谷川は尾白川です。この先の登山記のブログは次がお奨めです。http://madoroming.info/2013/09/15/%E7%94%B2%E6%96%90%E9%A7%92%E3%82%B1%E5%B2%B3-%EF%BC%88%E6%97%A5%E5%B8%B0%E3%82%8A%E9%BB%92%E6%88%B8%E5%B0%BE%E6%A0%B9%EF%BC%89/

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貞次の石仏(海岸寺)

今回の山梨ツアーの主目的は貞次の石仏です。
5月に飯豊山と西会津虚空蔵寺に石仏行脚してして以来暫く石仏を拝んでいません、ネットで石仏の写真を観ていたら山梨の北杜にある海岸寺に貞次の石仏があることを確認しました。私達は高遠や伊那に貞次の石仏を観て廻りました。高遠は貞次の生地でありますから、伊那の作は総じて若い感じがします。貞次の生まれたのは享保年間で北信には小林一茶隣の甲斐には木喰上人が生まれ手います。貞次も一茶も木喰も寒村に生まれて江戸に向かい、晩年には故郷にUターンして文化の面で錦を飾っています。
私の学生時代に曽根原駿吉郎氏が 「貞治の石仏/講談社」を著し評判になりました。『江戸時代は総じて仏像は低調であると評されてきたものが、守屋貞次と云う人物が各地を行脚して石仏を彫って廻った』と照会したのでした。曽根原駿吉郎氏の元には各地から「私の村の石仏を観てくれ」、「我が家の墓地の石仏を観てくれ」要請が集中したのでしょう。越後国境の三国では同じ高遠石工の太郎兵衛が発見されました(以前次に書きましたhttps://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48736308.html?__ysp=5pu95qC55Y6f6ae%2F5ZCJ6YOOIOOAjOWkqumDjuWFteihm%2BOBruefs%2BS7j%2BOAjQ%3D%3D)
高遠生まれの守屋貞次(1765〜1832)は20歳になると、上諏訪の温泉寺の住職・願王和尚の元に行きます。諏訪で仏門に帰依し、石工としての彫技を磨き石仏を彫刻します。願王和尚は貞次の石仏に偈や讃を書き与えて彫らせます。和尚の布教の先々で貞次を推薦・紹介します。屹度甲斐海岸寺も温泉寺の住職願王和尚が貞次を紹介したのかもしれません。写真で視る限り駒ヶ根光前寺や高遠建福寺の貞次の石仏よりも彫技の冴えを感じます。
私が石仏同好の友人にお願いして同行して貰ったのも「海岸寺の貞次の石仏」の誘いを感じたからでした。
ドライバーは諏訪育ちの友人です。諏訪と云えば諏訪大社で守矢神長官家が神主を継いで来ています。守矢と云えば「物部守屋」に高遠の石工の「守屋貞次」です。友人に「高遠の守屋貞次は諏訪の守矢一族ですかね?」訊けば、
「そうかもしれないね。守矢と云えば諏訪では一目置かれた姓だからね。でも守矢は狩猟民でしたでしょうから、守屋とはイメージは少し違いますね」(守矢は縄文文化、守屋は弥生文化)」云います。
大紫センターから塩川を越えて川の西側谷戸の先に目指す守屋貞次の石仏がある海岸寺があります。
海が無いのに海岸寺なんて変わってるね?」友人が云います。今度は私が答える番です。
「実際に海が在る訳では無いモノの田畑の広がる甲府盆地を海に見立てて海を見下ろす位置にあるお寺の意味でしょう。今春一緒に行った海住仙寺と同じで麓の民にとっては。豊作を祈願し祖霊の居る寺の意味だったのでしょう」
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これが北杜市須玉町にある海岸寺鬱蒼と繁る杉の樹林に佇む如何にも山寺です。長い参道は飛騨の千光寺に似ている、と思ったら円空似の仏像が山門に置かれていました。
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上記山門内の仁王像のうち右側吽形像
海岸寺を下から登って境内を廻って拝観した順に貞次の石仏を紹介してゆきます。
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山門の先の石仏。背は淡竹の竹林で蛍袋が咲いていました。中央の聖観音は梅の樹苔に包って暑そうでした。
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此方は山門横におられた准胝観音准胝観音は真言密教の山岳寺院にに多く祀られている観音様で清浄観音とも呼べる観音様です。周囲は山百合が囲っていますので是非とも山百合が荘厳している場面を観たいものです。准胝観音は手が18本目が3つあるのが特徴です。
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本堂のある壇の下に祀られている石仏黄色いのは黴では無くて苔のようです。此処でも石仏の背は石積みで山百合が自生しています。
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此れは如意輪観音です。海岸寺百観音の中で一番美しいと思いました。如意輪観音は早逝した女性が往生できるように祈願したモノですから美しいのは当然です。(当時女性は穢れがあるので、往生出来ないと思われていました。若くして女性が亡くなるとその霊を慰撫する為に如意輪観音が祀られました。)
境内は山百合が沢山自生しています。我家の山百合は今朝咲き出したのですが、標高のある海岸寺の山百合は未だ蕾でしたが其処ここに紫色の「蛍袋」が咲いていました。本堂の前庭には紫陽花が咲いていて紫陽花越しに貞次の石仏を拝観して回りました。
何時の日にか山百合が咲き誇った頃に再訪したいお寺でした。
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此れは本堂のある壇に並んだ貞次の百観音。紫陽花が見頃でした。
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本堂横に並んだ百観音石仏
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此方は本堂横の千手観音。

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お庭の石仏

私が最初に石仏を求めたのは地下鉄サリン事件の起きた1995年(平成7年)でした。
当時私は第一證券と云う総合証券会社に出向して。公開部長を拝命していました。当時はソフトバンクやユニクロ等が店頭に登録した時期で、公開市場には話題が多くても玉石混交で。期待通り株価が上がらないと、投資家は公開市場離れをしました。公開部は公開企業から引く受けた株式を投資家に嵌めこむのが仕事、一方株式部は投資家に喜んで貰うのが歓びですから、私は株式部と公開企業との間で双方から叱られて、苦労した時期でした。
そんな時の癒しで昼休みには向かいの三越に出かけました。三越の美術売場で新作の陶器や仏像を観て廻っていました。三越の美術売場には新作石仏も展示即売されていました。或る日当時の私でも手の届く作品が展示されました。作家名は四国今治で石仏彫刻をして40年の馬越正八氏でした。穏やかで丸顔の如来さんで「弥勒如来」と案内していました。一見して欲しくなりました。「身近に置いて一日中眺めて居たい」想いました。価格は17万円でした。今では到底手の届かない値段ですが、当時の私には少し我慢をすれば買える価格でした。
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これが私の求めた馬越氏の彫った弥勒如来です。この絵葉書は同氏のお庭で撮影したものでしょう。
今治は好きな町である上に我が生家にも縁が深い事も何かの縁だと思いました。
弥勒如来は和室の前庭竹林の中に据えました。そのうちに可愛がっていた兎が亡くなりました。また庭の主であった、巨大な蝦蟇ガエルが蝦蟇合戦で負傷して戻りました。バケツに入れて目の前に好物のミミズも置いたのでしたが、見向いてもくれず亡くなりました。その都度庭に穴を掘って埋葬しました。笛吹川の川原で拾ってきた石にラッカーで戒名を記しました。弥勒如来は彼等の墓標にしました。
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これが馬越氏の弥勒如来です。兎と蝦蟇蛙の墓標になっています。周囲の雑草は露草とシャガです。楕円形の石は墓誌の積りです。
退職してからも全国各地を石仏行脚しています。最近は新作石仏も良く見かけます。欲しいと思う事も多いのですが、お財布に余裕はありません。神様は私の事を良くご存知で、「時間と金」、どちらかは必ず不足にしておいでのようです。小人は”金も時間もあると不全を為す”とお思いなのでしょう。でも此処数年神様は更に心配されたのか、健康面でも自重を強いられました。でも、健康に自信が在った時代には気付かなかった発見も多くしました。
数日前ネットで新作石仏が出ていることを知りました。最初は福岡の作家で「田の神様」が出ていました。奈良正暦寺下の田の神様に似た素朴な像でした。3万円も出せば落せるだろう入札しておいたのでしたが落札できず結果的には5万円で落札された事を知りました。
今月に入って那須塩原の関正利氏の作品を見つけました。
塩原神社には高名な閻魔大王像も祀られています。好きな土地です。気に入ったので適当に入札しておきました。お地蔵様に3千円双体道祖神に5千円です。
現役時代に較べれば天と地の差がある価格です。塩原の関氏には気の毒な価格差です。
結果的には2点とも落札しました。一昨日玉ねぎの段ボールに入って届きました。ワイフは何を買ったのか怪訝そうです。次には何処に置くのか不安気です。
わたしは道祖神は門から入った場所に置きました。馬酔木の花陰に据えました。道祖神は賽の神ですから招福除厄の任を果たしやすい位置です。一方お地蔵様は柿の苗の足元に据えました。折から咲き出したナズナ(俗称ぺんぺん草)がお似合いです。
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門を入った処に据えた双体道祖神です。那須の石材で下半身は一体で上半身が男女の神像です。もうシャガが咲き出しました。
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雨に濡れると表情がハッキリするのが石仏の面白いところです。夫婦仲の良い事を「比翼連理」と云いますが道祖神では「比腕連脚」です。
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此方はお地蔵さんです。柿の苗を活けた植木鉢の上に据えました。白い花弁は頭上の白木蓮です。白い小花はナズナ(ぺんぺん草)です。
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紫陽花電車の楽しみ

日本人は外国文化の受容については天才と思われます日本人の作る漢詩も素晴らしいモノがありましたし西洋の言葉を訳すにも天才でした。中華民国(Republic of China)とか中華人民共和国(People's Republic of China,)と云った国名は中国人が考えたのでなくて、日本人が先ず英語を作って次に漢字に訳したものでした。中国人が自国の国名を漢字名も英語名も日本人が付けたと知ったら怒り出すことでしょう。そんな文化を受容する天才ぶりを如何無く発揮したのは。古代の学者源 順(みなもと の したごう)でありました。源 順は「あずさい」のの大和言葉に「紫陽花」の漢字を充てたと云われています。、「あずさい」とは藍色の花のかたまりの意味だったそうです。紫陽花の漢字は白楽天の造語でライラックのような花だったそうです。
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これは諸兄の母橘橘三千代の念持仏と云われる法隆寺の阿弥陀三尊像諸兄の母橘三千代は藤原不比等と再婚し、光明皇后を産む。諸兄は好むと好まざると拘らず政争に巻き込まれ藤原氏の権勢に屈してしまいます。この念持物には橘三千代の悔悟の念が込められていると思うのです。その記事は以前次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/48772364.html写真出典平凡社(法隆寺)
源 順が光りを分解すると7色になるとは知らなかったでしょうが、「あずさい」の花が白に始まり赤から藍更には紫に代わる事に気付いて「紫陽花」の字を充てたのでしょう。誰もがこの字に共感したのでしょう。橘諸兄は万葉集に次の歌を残して居ます。
あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを いませわが背子 みつつ偲はむ
                橘諸兄 (巻二十 4448)
この歌の解釈は難しく単純な相聞歌(矢富巌氏万葉秀歌)と解釈(紫陽花の花が色とりどりに咲くようにあなたも長く元気で美しく居てください・・・』と解釈するモノと自分を裏切った肉親への憎悪の歌だとするものがあります。
大意:(私の肉親はまるで紫陽花が色変わりするように私を裏切った私はこの憎悪を永遠に忘れはしない・・・)そんな意味と解釈されます。橘諸兄は幼名を葛城王(葛木王)と云った用明天皇の子孫でしたが、臣籍に降下して橘宿禰 のち橘朝臣姓となります。政争を避けたにも拘らず藤原仲麻呂の政敵とされてしまいます。まるで在原業平を想わせる貴公子です。そんな史実がこの歌の解釈を180度変えているのでしょう。原因は紫陽花の花がまるで陽の光のように7色に変化する事にあります。人間の心が移り気なのが悪いのか無常なことが真実なのか解りかねます。それだけに紫陽花の花が好きな人が多いようです。
昨日6月30日に紫陽花を観に箱根登山鉄道に乗りに強羅にでかけました。
JRで小田原に行き同駅で小田急に湯元で箱根登山鉄道に乗り替えて強羅まで上ります。昨年は宮ノ下までで行きました。今年も紫陽花を観に出かけました。箱根登山鉄道は小田急の傘下にありますからバスも登山鉄道もケーブルカーも全部接続が良いのです。箱根は外国人観光客が多く、彼等は大半が「乗り物の通し切符を買っていました。
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これは箱根登山鉄道の改札口で配布していた団扇です。夜にはライトアップされるので夢のように綺麗だと思います。
外国人も紫陽花が好きなのかな?思いながら観察していると皆車窓に見える紫陽花に向けてスマートフォンのシャッターを切っていました。
シーボルトが紫陽花をオランダに持ち帰り「お瀧さん」の名をつけて西洋紫陽花の創始となった事を考えれば紫陽花の美しさは人類に共通する感覚のようです。
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車窓から眺められる紫陽花を写真にとる中国人観光客
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大平台駅で途中下車して紫陽花の中を摺り抜ける登山電車を撮影しました。此処は急な登り道を越える為にスイッチバックするのです。比較的線路の両脇が広くて其処を遊歩道が通っているので大勢のカメラマンが居ます。職員も”事故を起こしてはならじ”懸命に大声を発して注意を促します。カメラマンたちはもう夢中でカメラを構えています。
箱根登山鉄道の着想は三井の大番頭であった益田鈍翁が行います・三井物産の創業者でもあった鈍翁はスイスの登山鉄道を学び”日本でも…”と考えて小田急を抱き込んで箱根登山鉄道の開発に乗り出します麓の小田原板橋に別荘地を開発し早雲山の麓に強羅の別荘地を開発します自身も板橋と強羅に別荘を設営し茶室を作って文人や政財界人を招きます。
鈍翁の生き様は箱根登山鉄道に引き継がれその保線区員にして、線路脇に紫陽花を植えれば観光客にも喜ばれるし。土肩が堅固にもなるし下草刈も楽になる、一石三丁の効果が期待されるのが路肩に紫陽花を植樹する事だったのでした。
私も昭和30年代までは祖母に連れられて箱根の強羅に遊びに来たものでした。廉価な県民寮があって自炊客が寝泊まりしていました。当時は紫陽花よりも箱根空木や馬酔木の方が目立っていました。紫陽花が目立ち始めたのは昭和40年代からでした。私は長銀で電鉄を担当していましたので箱根伊豆のの観光地に勢力塗り分けには留意しました。東急(伊豆急が系列下」西武(修善寺鉄道が系列下」小田急(伊豆箱が系列下)の3社が競う中で、一番大人で大人の対応を示すのが小田急・伊豆箱根グループでした。
”紫陽花を植えよう”保線区員が動き出す企業文化は小田急・伊豆箱グループだから育まれていたのでしょう。
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登山鉄道は急な登り下りでは水を流して線路と車輪との摩擦を冷やしながら空浸みます。鉄道技術のハードと資金力では快適な登山電車は出来ません。地味な保線職員の創意工夫があってこそ快適な旅を満喫できるものです。

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30日は小雨が降っていました。滴と花が綺麗でした。
紫陽花の花陰には蜘蛛が巣を張っています。今日は雨ですから蜘蛛君も獲物はかからないしひもじい想いをしていることでしょう。
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前の蜘蛛の巣は草蜘蛛の巣です。もう雨で濡れてしまって彼等も梅雨明けを心待ちして居る事でしょう。
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箱根の紫陽花の楽しさは山アジサイや球紫陽花幾つもの種類を同時に楽しめる事です。



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