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急中山道を追分宿から西に向かって佐久市に入って蓬田に着くと(中山道二十四番目の宿場)街道に面して八幡神社があります。その社殿は重要文化財です。境内には高良神社など幾つもの分社も勧請されています。その一つ弁天神社の脇に弩迫力の蛇が彫られていました。弁天様の神使が蛇ですから「何のことは無い」と最初観た時は思いました。私の生活圏には有名な銭荒井弁天を始め幾つも弁天様が祀られていますから蛇の石仏に喜んでいては前に進みません。江の島弁才天の洞窟等蛇だらけです。
此処二日間月待ち講の事を考えていたらあの蛇の石仏も巳待ち講のモニュメントに違いないと思いつきました。今度行ったら蛇の裏に回って確認してみる事にしました。
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石仏ウォーキング
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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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私は学生時代から略半世紀全国の石仏を行脚してきました。
石仏の祀られている位置は地形を見れば大凡見当がつきます。箱根でも信州の峠でも、真っ直ぐな道の脇には祀られていません曲がり角の先や大きな樹の下や大岩の陰に祀られて居たりします。それは人生に似ています。順調で真っ直ぐに歩んでいけば良い時はあんまり変化はありません。角を曲がると、転換期を越えると風向きが変わったりします。逆境の方が面白い事が多いようです。旅をしてもそうです。峠道を越えたり曲がりくねった道を越えると風景が一変して風向きが変わったりします。私の住む戸塚には駅伝で有名な権田坂があります、坂の屈折した処に「投げ入れ堂」があります。行倒れの旅人の遺骸を谷に投げ入れたので其処に慰霊のお堂を建てたのだそうです。箱根の地蔵石仏群も道のくねった処に、祀られています。
現代は交通安全の視点で道の曲がった箇所で注意が必要です。私は道の曲がった箇所に石仏が無いかキョロキョロします。お地蔵様があれば旅人の墓標であったり慰霊塔でしょうし。馬頭観音なら其処で疲れ切った運搬馬の心臓が破裂したのでしょう。そして如意輪観音ならご婦人が其処で一生を終えたり。麓の女性が此処まで登ってお祈りしたのでしょう。
如意輪観音は片膝を上げ、そこに肘をかけて指先を頬に当てている思惟の姿です足裏は両方を合わせており、輪王座と呼ばれる姿勢です。「チャングムの誓い」で女官が片膝を建ててる姿を観て日本風感覚で見れば”はしたない”のですが憂いを表現するには良い姿だと思いました。同時にそういえばあの格好は如意輪観音だと思いました。が如意輪観音の特徴です。どうすれば人々を救えるのかと悩んでいる姿だとされています。ほとんどが6本の手の六臂像で造られており、手には如意宝珠と法輪(輪宝)を持っています。
昨年の真夏に友人と大津の石山寺に上りました。石山寺を琵琶湖に源を発する瀬田川を見下ろす大岩の上に建てられたお寺で月見の名所であります。高校時代に紫式部が源氏物語の構想を練ったお寺と説明されました1004(寛弘元)年に式部は7日間も籠もったのでしたから石山寺を出るころには源氏物語の3帖辺りまでは出来上がっていたのコアも知れません。琵琶湖に映る月を見れば様々な思いが交錯した事でしょう。紫式部だけではなく藤原道綱のの「蜻蛉(かげろう)日記の作者」、和泉式部の「和泉式部日記」では、夫や恋人の愛情が薄れたため、このお寺に上ってご本尊の如意輪観音に救いを求めたのでしょう。才子の清少納言もしっかり者の菅原孝標女(たかすえのむすめ)「更級(さらしな)日記」も如意輪観音を拝みました。古代から中世近世も如意輪観音は女性の悲しさや憂いを聞いて如意の如く転じて来たのでしょう。
此方も葉山新善光寺の如意輪観音像
昨日は月待ち講は女性がメインであった事二十三夜講は勢至菩薩が主尊出会った事を書きましたが密教が盛んであった平安時代の前半に如意輪観音を主尊に祀ったお寺(石山寺や室生寺や観心寺)であった事から月待ち講も如意輪観音を主尊にすることが多かったようです。十五夜を過ぎれば十七夜(立待ち)月も十八夜(居待月)も十九夜(寝待夜)も主尊は如意輪観音様でした。月待ち講と云えばは二十三夜講が目立ちますが古代から近世まで女性の心に寄り添ってきたのは如意輪観音だと確信するモノです。
最後に有名な軽井沢追分にあるの堀辰夫の石仏を照会します。追分の石仏として有名ですが何のことは無いこれも如意輪観音です。今年の秋は何処に行こうかな?塩の道(千国街道)に沿って石仏行脚をしたいものだ…、カラ松の林を越えて街道を越えると如意輪観音が待って居そうな気がしてきます。
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二日続けて東慶寺の岩カラミ、岩タバコの花を紹介しました。今日は東慶寺の魅力の一つ石仏それも入口に祀られた二十三夜様を紹介します。
昨晩日本文化研究会のセミナーで親友のI君が江戸の暦を報告されました。
私は何れ「月待ち講」をレポートしようと思っていました。
「月待ち講」は民衆の視点から日本文化を考えるには最良の視点だと思っているのです。
東慶寺の門を潜って本堂と庫裏に行く分岐点の角に二十三夜塔が祀られています。石仏の背後にには紫陽花が先周囲の萩も秋を控えて育っています。
二十三夜様勢至菩薩のアップです。私はこの石仏を観る度にかぐや姫を想い出します。竹取物語はかぐや姫が月に上る場面で終わりますが。月に上るとは死ぬこと(月山がそうであるように)そしてかぐや姫の魂は人間界を去って天上界を往復する(輪廻する)と説明しているのだと思います。二十三夜講に集まった信者は自らをかぐや姫に移してまた一月お月様が見守って下さる地上で悲しみに耐えて生き抜いたのだと思います。
梅雨入りの季節この旧尼寺に上る楽しみの一つに二十三夜様を観る楽しみがあります。祀られている場所は石段を登りきって真っ直ぐ行けば本堂で右に折れれば庫裏その別れ道の角に立っておいでです。二十三夜様とは月待ち講の二十三日に行われる信者の集いです。此処は尼寺でしたから二十三夜には尼さんや山之内の信者 ご婦人)が「月の出」と共にこの二十三夜様の前に集まって本堂に上るのでしょう。この日の主尊は勢至菩薩です。勢至菩薩にお祈りして、それから庵主様を囲んで世間話やら人生相談をして。お月様が一番に花街焼いた時刻に解散したのでしょう。封建時代に生きた女だけの集まりが「女講」で男の集い「庚申講」に較べれば酒は出ないし女の愚痴や心配事悲しい身の上話が多かった事でしょう。そんな話をし終えて胸に詰まっていたものを吐き出したら解散です。丁度お月様もその晩一番に輝きを増したようです。お月様にお別れします次回の二十三夜講は来月の同じ下弦を過ぎた三日月の晩で集合時刻も集合場所も決まっています。時刻や場所を間違える心配は全くありません。
お月様と云えば先ず満月(望月)が一番でしょう。満月の晩の月待ち講は主尊が阿弥陀様ですから、本堂の須弥壇上にも境内にも墓地にも数体祀られています。
満月講が終われば翌日は十六夜(いざよい)講です更に翌日が十七夜(立待ち月)その翌日が十八夜(居待月)十夜(寝待夜)で何れも如意輪観音が主尊です。月待ち講の過半が観音様が主尊です、女性が観音様を拝むのは女性固有の心情をお月様が良く聞き届けてくれるからかも知れません。
それにしても東慶寺の二十三夜様は美しいお姿です。二十三夜様の名は二十三夜講の主尊であるという意味で正しくは勢至菩薩です。阿弥陀如来の左の脇侍です。右側には菩薩様の大スター観音菩薩ですから少しばかり影の薄い菩薩様です。二十三夜様が終われば次の月待ち講は二十六夜講(主尊は愛染明王)まで暫くありません。お月様は28日でひと回りですからまた新月から満月に向かいます。
月の満ち欠けの仕組み。月待ち講は満月以降に集中しています。満月が次第に欠けて三日月に変わる過程の方に女性は共感したのかもしれません。今日の話題23夜様は上図の左半分の見える下弦の月(弓張月)になります。
これは月齢カレンダーです。これは見慣れた七曜表仕立てに改めてありますが太陰暦仕立てなら毎月左上の角が1日(朔日)になり次第に満月(15日)に向かいますそして28日に新月になってお終いになります。画像の出典はhttp://star.gs/cgi-bin/getucal1.cgiで同様のサービスは幾つもあります月齢カレンダーで検索してみてください。
これは昨年筆者が使用した手作りの陰暦カレンダーです。
ところで主尊の勢至菩薩です。阿弥陀三尊は阿弥陀如来を中尊にしてその左右を固める脇侍であります右手の
観音菩薩は死者の霊を乗せる蓮台を持ち死者の喉の渇きを潤す水瓶もお持ちです、一方勢至菩薩は持物は無く唯一合掌しておいでです。阿弥陀三尊全体で見れば死者の魂を天上に迎えて魂の再生を祈る、輪廻を前提とした役割分担を説いていると考えます。私の敬愛する一遍上人流にすれば他力に委ね阿弥陀様に帰依する事によって自分の魂は永遠の安楽を得ると云えましょう。
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昨日は東慶寺駆け込み寺に今年も見事に咲き始めた岩カラミの花を報告しました。この季節鎌倉の岩場には岩タバコの花が咲きます東慶寺の山野草は実に綺麗で厭きる事はありません。建長寺の牡丹も文学館のバラも良いのですが櫓に五輪塔が祀られていて、石仏があってその周囲に雪の下や蛍袋やドクダミが咲いていると人間が細工した花よりも山野草の方が数段美しいと思うものです。
岩カラミに誘われて東慶寺に登ったのですが岩カラミの公開までの1時間先ずは開山の覚山尼さんのお墓参りをしました。本堂の前を通って墓地の入り口にも大きな岩場があります。多くの禅寺では六地蔵がおられる位置です。小さなおこけしのように可愛く美しいお地蔵様が祀られています。お地蔵さんの背中は大岩ですがその大岩の表面に一面岩タバコが自生しているのです。
大岩自体の地質が砂岩で保湿性が高いので苔むしています。その苔に根を張って岩タバコが生きているのです。この大岩に生きられるのは先ず第一に苔(銭苔山苔)で次いで可能なのが岩タバコなのでしょう。でもススキやタンポポなどは種に綿毛が付いていて飛んできます。この大岩を岩タバコの楽園に保存するには岩タバコへの無尽な愛情が必要なのです。お檀家や職人さんがピンセットを手にして大岩の表面に生えた岩タバコ以外の雑草を抜いているのです。お百姓が稲を収穫するのに田の草取りに精出すように岩タバコの美しい楽園を観る為には大変な労力を要しているのです。
東慶寺さんの墓地には岩タバコが何処にでも自生しています。一番に勢いのよいのが。歴代住職の墓地です。特に開山の覚山尼さんの墓地は見事です。
覚山尼さんのお墓は大岩を刳り貫いたカマクラ(櫓)で古風な五輪塔が墓標です。
岩屋の入り口に梁にも岩タバコが自生していてまるで櫓を飾るアーチのようです。
艶やかな深緑の葉っぱに金平糖の様な星形の花が垂れ下がっています。覚山尼と云えば第8代執権・北条時宗 の正室で9代執権北条貞時の母です。貞時の承認を得て松ヶ丘に東慶寺を建立し、夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、これが東慶寺が縁切り寺になった事由と言い伝えられています。そんな訳で男性にとっては煙たい良妻賢母の鏡です。天照大神の妹月夜見を思わす人です。金平糖のような岩タバコの花はお似合いです。
これは東慶寺歴代住職墓地にある大岩を埋め尽くす岩タバコの群生です。
これが東慶寺歴代住職の墓標です。右の比較的新しい卵塔が先年亡くなられて現在の美しい東慶寺を築かれた井禅定師のお墓で正面が佐藤禅忠師の墓
先年学生時代の友人Y君が夭逝されました。
在る秋の日の午後です。当時はベトナム反戦運動が盛んで授業は突然に休講になってしまいました。
日本文化研究会の部室に集まったメンバーにY君も居ました。
”午後は如何する?”誰からともなく聞かれます。
こんな時私はメンバーを募って麻雀荘に行ったものでしたが。この日はY君は私には冷ややかで”東慶寺に水月観音様を拝観に行こう!”提案しました。屹度好きなタイプの女性の期待に応じたのでしょう。
女性達も水月観音は大好きで部室の書庫には東慶寺の仏様綴った写真本も置かれていました。
そんな次第で大挙して日吉から北鎌倉に出かけました。東慶寺の櫓を覆っていた岩タバコは既に枯れて茶色の葉をだらしなく岩の上から垂らしていました。
Y君は岩タバコの枯葉をとって丸めて”これは煙草だから美味いんだよ”言いながらライターで火をつけました。ところがY君は蒸せって直ぐに捨ててしまいました「どんな味だった?」
訊けば”藁を吸って居るような味気なさで唯煙たいだけだ!」云っていました。
それはその筈岩タバコが本当に煙草の味がしたら大変で『東慶寺の岩タバコ』が名物になって女性からの縁切りプレゼントになっていたかもしれません。
岩タバコの名前はこの艶やかで大きな葉っぱに依っています。星形の花が美しく可愛いいのです。
阿弥陀様の背も大きな岩屋で岩タバコが群生しています。仏像の光としても供花としても岩タバコは似合いすぎています。
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JA幸手でランチをとっていよいよ午後は憧れのマリア地蔵尊詣でです。
権現堂堤に居た幸手市観光員に道を確認しました。でも聞いたことが無いといの事でした。
勿論戴いた観光マップにも案内板にも掲示されていません。唯一の頼りは図書館で借りた「爽やか埼玉散歩」だけです。JAの職員さんはご存知でした。先ずはJA職員さんの指示に従って権現堂堤に登って再び桜が散った花茣蓙の道を東に進みました。
堤防上の道は何時しか一般道になっています。バスの停留所もありますが今年の3月末で廃止されたそうです。幸手でも此処まで来ると過疎が進んでいるのでしょう。
これが権現堤からマリア地蔵への道を示したマップ(出典/爽やか埼玉の散歩道)です。
権現堤の上から遠方を望めば北東の方角に筑波山が見えました。北側が日光連山でその山中から流れ出すのが渡良瀬川です。足尾鉱山は1610年(慶長15年に)発見されました、幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄えます。銅山の開発そして鋳銭を鋳造する技術(寛永通宝)はオランダ人に依存しました。隠れキリシタンの遺跡は多くが鉱山に近い街で発見されています。幸手にマリア地蔵が発見されたのも足尾の鉱山が在った為でしょう。
明治政府も足尾鉱山に依存しました.鉱山は古川財閥に払い下げられます。
民営化されると銅の産出量は再び盛り上がります。探鉱技術の進歩によって新しい鉱脈が発見され、精錬技術の進歩が足尾銅山の復活を支えたのでした。しかし精錬の為に足をの山は伐採され山の保水力はゼロになってしまいました。精錬の過程で排出された亜硫酸ガスが大気を汚染し山を枯らしましたし。渡良瀬川に流出した鉱毒は下流域を汚染しました。権現堤は江戸(東京)の街を郊外から守ったものの、堤の北の村を街を地獄に落したのでした。佐野生まれの田中正造は明治天皇に直訴致しましたこれが日本の公害事件の原点でした。
権現堤の南を守る為に北は地獄を観たのは悲劇でした。
私達は権現堤の南(幸手側)から再度堤に登って東に向かいました。
権現堤の上は桜の花茣蓙で桜吹雪でした。柔らかな土の道は人にも桜にも優しいものでした。
権現堤の上から北東を眺めると遠くに筑波山が見渡せます。筑波山は位置を教えてくれます。此処にも祠が祀られていました。荒神か屋敷神のようでした。
権現堤の土の道は何時の間にか一般道に変わりました。でも道の左右に桜並木は続いていました。所々にバスの停留所が在るのでしたが今年でバスは廃止されたようです。
桜堤の上から観ると小さな祠が見えました心細くなって通る人に訊くとマリア地蔵はこの下の祠に祀られているとの事、勇んで堤を降りました。
もう25分は歩いた筈だ、この辺りに目指すマリア地蔵が在る筈私達は通行人を探して尋ねました。すると桜の樹幹を指さしてあの祠にマリア地蔵が祀られているとの事。私達は堤を降りて祠に出ました。この辺りは道路の新設工事中です。権現堤の南北を繋ぐ道路を新設工事中なのです。祠は道路工事にかかることから移転新築されたようです。新築住宅にありがちなアルミの扉を開くとパッと何かが飛び出しました。何かと見やれば2センチほどの赤ガエルです。赤ガエルは怯えたように私を見て更に危険があればコンクリートの裂け目に身を隠そうと身構えています。
これがマリア地蔵と教えられた祠です。アルミの扉を開くと無数の赤ガエルが飛んで隠れました。
祠を棲家にしている赤ガエル君脅かしてごめんね・・・。
新築の祠の扉には覘き穴が開いていました中には阿弥陀石仏がおわしました。
祠の外には庚申塔が祠の中には阿弥陀如来が祀られていました。地元の人にとっては阿弥陀如来もマリア地蔵も区別する人ようもないどちらも尊い存在なのでしょう。此処まで来てマリア地蔵は諦めて帰路に着こうか迷います。
ワイフはドンドン私を置いて道を行きました。そして大きな農家に入って尋ねました。気の良さそうな叔父さんが道まで出て来られて教えてくださいます。私は叔父さんとワイフの後に従いました。
お百姓の叔父さんは阿親切にマリア地蔵の見渡せる位置まで出て案内してくださいまあした。
田圃の辻に祀られていた庚申塔。右に紫木蓮左に海棠が咲き始めていました。叔父さんが態々見渡せる位置まで出て案内して下さったのはこの庚申塔をマリア地蔵と見誤らせない親切心だったのでした。改めて見れば見事な庚申塔です邪鬼が青面金剛を担いでいる格好は兜跋毘沙門天(北上市成島罰毘沙門天を思わせます。(北上市の毘沙門天像は地母神の肩に乗っておいでですが此方は邪鬼の肩に乗っていますが・・・・。)
庚申塔の角を西に折れると畦道は土筆で覆われていました。私はお地蔵さんの頭の様な土筆を踏まないように歩きました。マリア地蔵は権現堂の白山神社裏にある公共墓地の北西の角に祀られていました幸手市教育委員会の建てた案内板に簡略な説明がありました。
”マリア地蔵は権現堂集落農業センターの敷地内で発見されたものです。江戸末期の文政3年(1820年)子胎延命(したいえんめい)地蔵大菩薩の文字が刻まれており、赤ん坊を右手に抱いている立像です。
「イメス智言」の文字や、錫杖(しゃくじょう)上部に刻まれた十字架、仮託(かたく)信仰の象徴である魚と蛇の彫刻等から、隠れキリシタンの信仰対象であったと考えられます。昭和58年3月24日に市指定有形民俗文化財となっています”
此方がマリア地蔵の祀られている権現堂地区センター、手前左は無縁墓地マリア地蔵の北側に白山神社が祀られています。
マリア地蔵の隣は2基の如意輪観音(19夜像」が祀られていました。この権現堂地区センターは屹度農地区画整理事業で移転の必要に迫られた石仏や石神がこの場所に遷座したものでしょう。胃色々な神仏が仲良く並んでおいででした。
現代の日本人は”隠れキリシタン”が大好きなように思います。
全国各地で石仏を観て回るとマリア観音だマリア地蔵と呼ばれる石仏やキリストと呼ばれる大日如来を観る事がありますお地蔵様が右手に持つ錫杖の上部に十字架に似たデザインが在るのは隠れキリシタンで在るか否かに依らず起る事だと思います。
錫杖が十字になっていれば隠れキリシタンだと云うなら、お地蔵さんの多くはマリア地蔵になってしまいますし、弘法大師像の五鈷杵(または三鈷杵)がクルスにも見えるのは致し方ない事です。戦後育ちの私達は弾圧や強制が大嫌いです。
特に先の大戦の反省から信教の自由は基本的人権の一つと思うようになりました。
江戸幕府がキリスト教の禁教を発布してキリスト教徒の弾圧ばかりか、踏み絵と云った姑息極まりないツールを開発して潜伏していたキリスト教徒を発見して礫刑に処しました弾圧されても禁止されても信仰を捨てない姿の崇高さが隠れキリシタンにはアル期待します。無理しても故意に隠れキリシタンの秘仏と信じてきたきらいがありました。
も最近、長崎の教会群をユネスコの文化遺産に申請して以来隠れキリシタンについて科学的に客観的に観ようとする姿勢がハッキリしてきました。隠れキリシタンには次の概念が出来てきたように思います。
日本人のユネスコ文化遺産の申請がブームになった結果隠れキリシタンの遺産が脚光を浴びているのです。
長崎県が申請した文化財がどれもこれも明治維新後の教会建築であって、江戸時代を通じて守り通しじた強靱な信仰とは言い切れないようです。
客観性を無視して推薦を押し切れば期待に反して以下が目立ってしまいようにおもいます。
①。日本文化の特異性(民俗信仰と云う事でキリスト教の本質も理解せず無限に抱擁してしまう性格)
②日本人の異常性(キリスト教徒を棄教しなっことを理由に処刑を下残虐性が神風特攻隊を思い起こさせ、日本人は潜在異常性を持っていると思わせてしまう。
ところで問題の隠れキリシタンの議論ですが、私達は中学高校で次のように教わりました。
江戸幕府の非人間的な禁教令を出しても命を懸けて自身の信仰を守り通したキリスト教徒が居た。ところが昨今のオロショの民俗学的な研究の成果はそんな理解を越えて次のように解析し始めています。
1、潜伏キリシタン:江戸幕府の禁教令に従って、キリスト教を棄教したように見せかけて実は棄教は偽装に過ぎず潜伏してきたキリスト教信徒。
2:日本民族に土着化したキリスト教/明治6年(1873年)禁教令が解かれてもう潜伏している必要が無くなると、カソリック教団からもう潜伏している必要がs無いので新しく建築した教会に出てきて一緒にお祈りしましょう…呼びかけられても江戸時代以来からの秘教的な形態を捨ててローマカソリックの呼びかけに応じなかった民俗宗教化した日本型キリスト教徒。
キリスト教の理解は現代に生まれた私達にとっては「生まれ以来の悩み」でありました。藤村も漱石でさえもその狭間で悩みました。隠れキリシタンの遺跡を観て歩く事は奥が深く地獄と極楽を考える事でもあります。権現堂堤の北は地獄を観たのに南は極楽であった事も何か重要な真実を比喩的に示しているのかもしれません。
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