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石仏ウォーキング

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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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石仏に観る乳母と姥

昨日は尾瀬から流れる片品川流域に特徴的な味噌舐め奪衣婆さんを紹介しました。もう少し奪衣婆を説明したいと思います。
日本の女性神は世界の女性神と同様に「聖母神」と夜叉のように怖ろしい「鬼子母神」がありました。仏教で説く鬼子母神はインドの夜叉で500人もの子戸をを持つ母親でありながら末娘を溺愛し、人間の子供をさらってその肉を末娘に食わせる鬼女でしたが、お釈迦様が子を失った母親の嘆きを聞いて、鬼女の末娘を隠してしまわれます。鬼女は「末娘を返せ」とお釈迦様に迫ります。
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           鎌倉上行寺(鎌倉 瘡守稲荷かさもりいなり)の鬼子母神像
お釈迦様は鬼女に説きます。「お前は500人も子供がいながら一人を失うと斯くも嘆き悲しむ。お前の為に子供を失った母達の嘆きの深さが解るか?」諭されて鬼女は心を改め子供を守る「鬼子母神」に変身します。
山に住む鬼女が鬼子母神にという聖母に変身したのはお釈迦様の与えた機縁を活かしたのでした。
私は、鬼女の儘で一生を終えるか聖母になるかは葉の裏表のようなものの様に思います。
【日本の聖女の系譜】
我国には仏教伝来前から聖母と鬼女両極端の母神が併存していました。というのは山の神【山姥】が里に降りるとき時に聖女になり時に鬼女になったのでした。
鬼女の代表は福島の「安達が原の鬼婆」でしょう。一方
聖母の代表は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。吉野の水分神社の神様も薬師寺の神宮皇后像もこうした聖母像です。
仏教が伝来し仏像を視ると日本人はこうした聖母像を相次いで彫りました。
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吉野水分神社の豊玉姫命、日本の聖母像の典型でした。孫が神武天皇で神を産んだ「安産の神」そして農耕に大切な水(雨)を司る農耕の神として信仰されました。

最初の母神は「伊邪那美/イザナミ」です。伊耶那岐/イザナギ)と結ばれ神々を産みます。同時に日本列島の「国産み」を行った大地母神でもあります。しかし伊邪那美/イザナミは火の神(カグツチ)を産んだとき陰部に火傷をしたのが発端で死んでしまいます。伊邪那美/イザナミは夫の伊耶那岐/イザナギに自分の遺体を視ない様に約束させますが、伊耶那岐/イザナギは妻が恋しいばかり黄泉の国に赴き妻の腐乱した遺体を見てしまい。黄泉から逃げ戻ります。伊邪那美/イザナミは怒り狂い夫を追いかけて捕まえます。そして宣言します。「これから私はお前の子供達を1000人/1日」殺すことにしよう」すると、伊耶那岐/イザナギはこう反論します.「私は1500戸の産屋を建てることにする」以来子供は1500人産まれても1000人は死んでしまうそれが神々が決めた事なんだといった諦観が出来たのでした。産屋とは- 喪屋,他屋 (月経小屋) などとともに穢れた者を社会的に隔離する小屋の一つで,出産時の女性を隔離するため の小屋。産屋には2種類あり,出産の場となるとともに産後しばらく家族とは別に生活 する 家の事です。産屋は出産にはお湯が欠かせないので竃と水が近くにある「川場」に建てられる事が多かったのでした。ですから片品川の畔「川場村」の語源は此処に「産屋」が在ったからではないのかしら?」思った次第です。温泉が湧出する川原は産屋に最適でしょう。そんな川場に多く奪衣婆が祀られているのですから産屋で繰り広げられる「死と再生」のドラマが三途の川の奪衣婆を「産屋の御産婆」に変えていったように推測するのです。
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「伊邪那美/イザナミ」です。伊耶那岐/イザナギの夫婦神は道祖神の祖形です。群馬県の中之条村の夫婦道祖神、これは夫婦の結縁型です。
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同じく群馬県中之条村の抱擁道祖神。健康な夫婦の交わりと疱瘡をはじめとした厄病を防ぐ神と信じられていました。でくの坊は疱瘡除けで前述上行寺の鬼子母神と同じ霊験があるのでしょう。


更に付言すれば奪衣婆が亡者の着物を剥いで素っ裸にする行為が怖ろしくなく有難い行為に思えてくるのです。「死んでからは地獄の責め苦に逢う事になる」思えば恐ろしいのですが1000人死んでも1500人は生まれ変わる「再生」に視点を置けば裸にされるのは嬉しい事に思えてきます。
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月夜野・矢瀬遺跡(つきよの・やぜいせき)右側の竪穴住居には縄文時代の生活振りが再現されていました。竈が在って産屋はもっと川沿いに小屋が在ったのでしょう。近世になるとこの辺りは養蚕業が盛んでしたので出産した母親の休養の意味でも産屋は重宝したものでしょう。

私達人間は悪事を働かなくては生きられません。悲しいけれど避ける事は出来ません。
例えば、牛さんを愛して育てるのは善行ですがその牛さんを殺して食べねば生きられません。それは葉っぱの裏表の役割に似ています。葉っぱの表は炭酸同化作業をしています。でも裏側は呼吸作業をしています。裏表の作業があって初めて命のバランスが保たれているのです。
人間は悪行を働く事で命を永らえています。悪事を働く程逞しく生きてきたことになります。だから衣服は悪事で汚れて重くなっています。奪衣婆さんはその悪事で汚れて重くなった衣服を脱がせて産まれたままのスッポンポンの状態にしてくれるのです。そして若しかしたら1対1.5の確率で産まれ代われるのです。奪衣婆さんが尊いものに思えてきます。
大体本当の聖女なんて信じがたいし魅力に欠けます。一寸目は聖女のようですが命を子供を育てる為には手を血で悪で染めるくらいの度胸があって然るべきだし、その方が魅力があるものです。
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此方は群馬県長野原町雲林寺の慈母観音像雲林寺は今回のツアーでは行けませんでしたが次回はこのモダンアートのような慈母観音を拝観したいものです。(出典「石仏石神を旅する」JTBパブリッシングを複写)釘隠しのように丸い乳房とでくの坊のような乳児がアート感覚です。丹塗り(漆?)も印象的ですこの観音は浅間山の噴火で亡くなった人を弔うものと聞きます。
西欧社会でも聖女と鬼女が並んで残されています。
聖女のイメージを追求すると観音もマリ様のイメージに重なって来ます。その場合「隠れキリシタン」と呼ばれたりするのでしょう。聖女への憧れは世界的に不変なのでしょう。雲林寺の慈母観音がキュビズムやシュールなの印象を与えるのもアートの普遍性に根差しているからでしょう。
奪衣婆さんの垂乳根が愛しく尊いものに思われてくるのです。もう鎌倉長谷寺の奪衣婆さんのお乳が垂れていないなんて文句を言う事は慎みましょう。
垂乳根は乳母をイメージさせますし。時に出産前後の母体を守る産婆を髣髴させます。
姥は老いた女と書きます。娘は良い女と書きます。中国人がもう少し利口なら娘は女扁に若いと書いたことでしょう。姥は山姥だったり山女郎(鏡花の高野聖等に出てくる)してどれも人を食う鬼女です。一方乳母は金時山の金時娘(金太郎の母親)のように逞しい子供を育てる肝っ玉母さんです。屹度豊かな乳をしていて歳に応じて垂れ下がっていたことでしょう。そう思うと、歳なのに垂れていない乳は不自然に思うのです。噴水より滝の方が癒されるものです。姥より乳母が好きです。
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此方が鎌倉長谷寺の奪衣婆さん。お乳が垂れていないのが不満でした。勿論新作の石仏です。これは奪衣姥です。



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味噌舐め奪衣婆の尊さ

今回親友4人との石仏巡礼ですが、最初が隠れキリシタンのマリア観音像、次いで吾妻路の抱擁双体道祖神、最後はこれから案内する「味噌舐め奪衣婆です。考えてみれば何れの石仏もマイナーなもので。一般に言えば初老の爺さんが道行く人に「この辺に味噌舐め奪衣婆さんは居ませんか?」訊いて回っている光景は尋常とは思えません。もう病気に近いのかもしれません。
「お前は何故石仏を見て回るのか?」と訊かれれば、「人間に対する好奇心が強いのでそうさせるのです」答えるほかありません。道祖神も奪衣婆も基本となる信仰概要は一つですが、石仏造形になると地方によって変わっているのです。同じ道祖神奪衣婆でありながら、裸の胸に垂れ下がった垂乳根が異なるのです。
十王像の中核は閻魔大王で間違いないのですが一番人気は10人の裁判官に仕える位置に居る奪衣婆です。何処の十王像にあっても奪衣婆は地獄の入り口の能吏のようにして亡者を迎えてくれています。人間は死ぬと白い死に装束に着替えて手甲脚絆に履き替えて黄泉に向かって旅立ちます。そして三途の川に辿り着きます。川の淵に渡し船があります。船賃は6文です。船着き場に居る婆さんが奪衣婆です。6文を持っていなければ裸になって自力で川を渡らなくてはなりません。奪衣婆が着物を剥ぐと。ペアの懸衣翁が素早く衣服を柳の枝に懸けます。罪行が深いと枝が大きく反り返ります。地獄の審判の予備審査のようなものです。

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此方が松本牛伏寺の奪衣婆像。地獄の三途の川のた畔で亡者を待ち受け着物を剥いで着物の重さで生前の罪業を判断する怖い怖いお婆さんであることが基本です。
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此方は自由が丘に近い九品仏浄真寺の奪衣婆像です。
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これは地獄草子に描かれた奪衣婆像です。着物を剥いでペアの懸衣翁(老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の悪行現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされます。

【沼田天桂の奪衣婆像】
沼田の天桂寺は沼田真田3万石の菩提寺です。境内の其処此処に6文銭の家紋が目立ちます。6文銭の旗頭は「死を覚悟して戦う姿勢を示しています。窮鼠猫を噛む喩えに在る通り死を覚悟して挑んでくる真田の兵はおそれられたのでしょう。
真田家墓地の入り口近くに奪衣婆と懸衣翁のペアが祀られていました。お驚く程の量のお味噌が口にベッタと付いています。
これが味噌舐め奪衣婆【味噌舐め婆】です。何故沼田地方だけに味噌舐めの習俗が残されているのか?不思議です。
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子安観音像の授乳の様子を見せて戴きました。罰当たりをお許しください。それにしてもご立派な垂乳根でいらっしゃいました。
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此方は沼田市材木町天桂寺(沼田真田家の菩提寺)の奪衣婆 左)懸衣翁(右)のペア像。この地方だけに固有の味噌舐めをしています。私達は参拝者に味噌を付ける意味やご利益を聞いたのですが誰も知りませんでした。既に信仰は薄くなっているようです。
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私達は奪衣婆さんの垂乳根を拝みたいと思って赤いゆだれ掛け(腹巻?)をめくったのですが硬く着せられていてめくれませんでした。私と同じように垂乳根を拝みたいと思う人が多いのでわざときつくゆだれ掛けを巻いて居られるようです。

私達は味噌舐め奪衣婆の脇で参拝者を待ちうけました。味噌を口に付けるのは何時か?どんなご利益があるのか?天桂寺以外にも同じような石仏は無いか?そんな質問を用意したのですが。誰も答えてくれませんでした。今は信仰も関心も薄れてしまっているようです。今日はこの後川場町の博物館にも行くし桂昌寺や吉祥寺にも行くのでそちらで訊く事にしよう。想って立ち去る事にしました。
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川場村桂昌寺墓地の奪衣婆像干し柿のような垂乳根が良いんです。
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桂昌寺(川場村)本堂前の庭の奪衣婆懸衣翁のペア黒松がまるで懸衣樹のように見えます。この寺には歌人江口きちさんの墓がありますので近々このブログで紹介します。
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此方は川場村吉祥寺庭園の奪衣婆像咲いて居るのはコマクサ(園芸用本来は高山植物のスターです)

味噌舐め脱衣婆は尾瀬沼から流れ出す片品川の河岸段丘に目立ちます。
私は車の中で今まで拝観してきた味噌舐め石仏を想いだし。味噌舐め奪衣婆の信仰を考え続けました。全国各地で観たのは「味噌舐め地蔵」でした。奈良松尾の矢田寺では有名な味噌舐め地蔵尊が祀られています。子供の食欲が減退し胃腸病にかかると矢田のお地蔵様に回復を祈ります。祈願の効果があって健康になったらお礼にお地蔵様のお口にお味噌を奉げるのです。先月吉野の蔵王権現金峯山寺の門前の歯痛地蔵尊でも似た信仰が記されていました。歯に始まり胃腸まで消化系の病気の快癒御礼に地蔵尊の口に味噌を塗るのは良く見かけました。でも奪衣婆は此処片品川流域でしか見たことはありません。
吉祥寺の奪衣婆像に説明が書かれていました。
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吉祥寺の奪衣婆像に書かれた味噌舐め供養の案内。

内には極楽往生を願う為に地獄の裁判官閻魔大王と世話係の奪衣婆に味噌を奉げたと書かれていましたが。態々口にベッタと味噌を塗る行為にはもっと素朴な生活感の強い願いが込められていたように思います諺にも「味噌を付ける」とか「手前味噌」とか、「かかあ(着物)質に入れても、味噌を煮ろ」 「五割の金を借りても、味噌 造れ」 「味噌買う家は、蔵立たぬ」などには、味噌には生き抜く事への執念が感じられますし。味噌を塗られた奪衣婆には強い呪術を感じます子供の頃捻挫をしても患部に味噌を塗られました。
私は極楽往生の祈願というより。産まれて来る子供(子孫)が喰う事に苦労しないように願いが込められている考えるのです。子供を抱いて乳を含ませている姿程「命」の大切さを感じる姿はありません。奪衣婆は垂乳根でなくては様になりません。垂れさがった乳は新しい命を育んだ証拠です、授乳が済んだら次は離乳食です。離乳食は味噌のようです。
私の祖母は大きな乳を誇っていました。お風呂から出ると胸をはだけてちゃぶ台に座りました。私が嫌な顔をすると垂れた乳を肩に懸ける動作をしてこのお乳のお蔭でお父さんが育ってお前が産まれたんだよ誇っていました。
更に沼田の話も良くしました。
私は4月に産まれたのでしたが。お寺の乳児ですから本堂の片隅に置かれていたのだそうです。
その頃沼田のお寺に嫁い伯母が里帰りしていたのだそうです。
叔母は学校の教師をして居ながら沼田のお寺に嫁いだものの何か事情があったのでしょう里帰りしていたのだそうです。そんな時じゃが芋を食べて食あたりになって死んでしまったのだそうです。死の床で「赤ちゃんを隅に置いてはいけないよ。鼠に齧られない様に部屋の真ん中に置きなさい」言っていたのだそうです。
だから「お前は叔母様の生まれ代わりだから叔母様が守ってくれるよ」再三言われたものでした。こうして奪衣婆巡りをしていると私の知らない伯母の無念が思いやられます。そしてやっぱり奪衣婆は新しく産まれて来る命の成長を祈願するものなのだと確信するのです
昔は胸を出して授乳する母親の姿を見る事が多々ありました。子供心にも母親の尊さ美しさを感じたものです。最近は哺乳瓶も良く出来てそんな光景は見られません。女性は母性よりも女であることを意識しているようです。
乳癌の多発は授乳をしなくなったのが原因かもしれません。
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八場三つ堂の奪衣婆像、小さな乳房では有難味がありません。

子安観音は聖女です。でも奪衣婆は怖い怖い悪女鬼女です。私は人間は誰もが善人で外部環境次第では悪人になると思っています。紅葉が梢を離れてヒラヒラ散って地上に落ちた時表なら善人で極楽往生できるのだと思います。でも地上に落ちた時風などの外部環境次第では裏向きになってしまいます。この時には悪人と評価され地獄に落ちるのだと思います。信仰とはこの外部の環境(偶然性)を心の内で必然性にチェンジする作業(修行)だと思います。作業(修行)が進むと命の秘密が理解できるのではないでしょうか?今回の石仏行脚は最初が抱擁道祖神で命が産まれます。最後が奪衣婆で命のエンディングになりました。これも偶然でしたが私が心の中で運命的なもの(必然性)が在るのだと思えば信仰になるのでしょう。



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5月28日の宿は上州月夜の温泉です。吾妻川に沿って山を下ります。この道は2年前にも伊藤君らと通りました。その時の狙いは抱擁道祖神巡りでした。その時はタブレット端末も無いのでパソコンからプリントアウトした地図や写真を片手に村の人に聞いて回りました。そして歩き疲れた体を川原湯温泉に浸かりました。その時は渓谷沿いの旧道を通りましたが今日はちがいます。八場ダムの堰堤を通る計画道路(新設)を通ります。
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これが八場ダム堰堤近くに作られた三つ堂の石仏パビリオンです。これは湖底に沈む運命ににあった石仏をこの場所に集めて展示したものだそうです。請け負った業者は東京ディズニーランドのパビリオンを請け負った業者でした。フェリーポートを用意してこの位置まで石仏を運んで石窟はスプラッシュマウンテンを作った要領で作ったのだそうです。ですから石窟に見えるところは実際は張子の岩や吹付コンクリートで塗料を凝灰岩風に塗って仕上げたものです。所々塗料が垂れて縦の筋が出来ていますし。中心に位置している馬頭観音には意図的な臙脂色の着色が為されています。石仏は人間が想いをこめて彫り、あとは自然が造形して出来上がる人為と自然の合作です。こんな人間のの驕りを証明するパビリオンに30億円もかけたのは怒りに震えます。今日はこの石仏パビリオンの「愚」を指摘します。
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これが石仏群の中心に位置している馬頭観音です。観音の衣文に点々と臙脂色が散っていて一見美しいのですが、実際は岩の色ではなく意図的に塗ったものです。受託業者はこの意匠が気に入ったのでしょう。この他にもう1体同じ意匠の着色がありました。
この観音に疑問を抱いて石窟の岩を叩いてみると鉱物質ではなく張子の音がしました。八場ダムは自然の景観を破壊し。村民の先祖や神仏を尊ぶ心も踏みにじっています。八場村が「八墓村」に聞こえたのはこのせいだったかも知れません。

渓谷を渡る巨大な橋が目を奪います。堰堤には谷底に住んでいた住人が移転してきています。新設住宅と言ってもどれも震災の復興住宅のような味気ない建物です。川原湯温泉で温泉宿を営んでいた人は未だ移転を済ませていないようです。吾妻川の川原の露天風呂には若山牧水や芭蕉の愛した面影が残っていて今でもお客が付いているのでしょう。巨大橋の橋脚に予定水位が記されています。私達はその標の位置まで青い水が湛えられている景色を想像します。荘川沿いの御母衣ダムの景色がダブって見えてきます。御母衣ダムの上州版がもうじき実現するのでしょう。2年前の石仏行脚中々見つけられなくては大変でした。不動尊堂も湖底に沈まないように堰堤の高さに移転しています。
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これが2007年当時の三つ堂石仏群写真はこの移転問題を批判した市民ネットのブログから拝借(http://s35.gunmablog.net/e179490.html)
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中央が八場大橋中央の谷底に吾妻川(利根川の支流)が流れていて、向かいの谷底に川原湯温泉があります。堰堤の周囲南北に周遊道路が新設されています。新築の住宅はダム湖に沈む村の人が移転して来たものです。手前のお墓群も同様に湖底に沈む運命に在ったものでした。
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「道の駅」八場に立ち寄りました。観光客向けに用意された施設で農産物売場に山菜蕎麦等の飲食店、足湯施設などがあります。第一には景色が良いのです。でも複雑な事情が良く解ります。施設中央に観光案内所があります。でも壁には沢山のポスターや現在(湖に沈む前)の写真が貼られ鄙びた温泉の風情をPRしています。村民の心情は「故郷を捨てたくない」ことなのです。一時の大金を手にするより日本武尊の上代に遡る歴史を選択したいのでしょう。しかし行政はお金で村民の横面を張り倒して墓を掘り起し神仏を堰堤脇に新設したパビリオンに移転展示観光客を呼ぼうとしているのです。私達のような石仏愛好者は石仏が素朴で美しいから行脚するのではありません。人為(石仏)と自然の調和が織りなす光景こそ「真実の癒し安らぎがある」事を感づいているので苦労を押して「石仏巡礼」をするのです。石仏パビリオンは「石仏巡礼」の対極にある愚挙です。
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「道の駅八場」の足湯橋は八場大橋対岸の大岩の踊り場に不動堂が新築移転されています。
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吾妻川渓谷(湖の底に沈む)には鄙びた温泉情緒が残っていて今も人気があるようです
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現在の三つ堂石仏群石窟は岩場にコンクリートを吹き付け張子を造作して着色したものです。私達は態々上州の山奥にまでいいって騙しを拝観する積りはありません「バカにしないで下さい」このパビリオンが八場村の八墓にならない事を望みますが。先に掲載した旧三つ堂石仏群に比べて不自然さが際立っています。こんな庇のような石窟は自然界にはあり得ません。
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三つ堂には石仏群の他に墓標も多く移転しています。此処は両墓制が残っていて三つ堂は参り墓の墓標を集めているのです。
両墓制とは遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制習俗です。埋墓には遺体を土葬して木製の卒塔婆を建てますが遺体も卒塔婆と同じペースで腐食して土に還元します。一方参り墓は火葬が普及してくると出現した墓制で火葬して遺骨を寺院などの墓に埋めました。吾妻地方は典型的な山村ですから近時まで埋め墓(住居に近い)と参り墓(お寺の境内)の二つがありました。お堂の手前の先端の丸い卵塔は僧の墓角柱や祠や石仏は一般人の墓で一番立派な宝篋印塔は庄屋など支配階級の墓でしょう。

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伊藤君がノートpcをやめてタブレットを購入しました。私達の石仏行脚には強い武器が出来た事になりました、先ずは、石仏データベースを開きます。http://image.search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C+%E4%B8%AD%E4%B9%8B%E6%9D%A1%E7%94%BA%E3%81%AE%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E&oq=&ei=UTF-8&xargs=5&b=201.たくさんの石仏の写真の中から目的の石仏を選択して後はタブレット端末の画面を確認しながら・・・。只管マップと実際の位置を確認しながら石仏を目指します。
今回の目標は「群馬県吾妻渓谷の双体道祖神」ですから探し当てるのが難儀です。馬頭観音や地蔵尊庚申塔なら祀られている場所は大抵が道路端です。村境の分岐点やお堂等に祀られていることが多いので車で近くまで行けます。
でも双体道祖神は尾根や峠に在ります。何といっても「塞の神」という程ですから村境の尾根に在ったりします。村外れ(塞)を忍耐強く探し回らなくてはなりません。車で村外れの峠道辺り迄行って後は手分けして探すほかありません。峠には猪や鹿対策のネットやフェンス高圧電線が張り巡らされています。鹿や猪は村の農作物や果樹を食い荒らす厄病のような存在なのです。昨今は鹿や猪が過疎になった村に逆襲しているような気配です。猪の囮に触れないように注意しながら道祖神を探します。
私達は群馬の道祖神でも特に有名な「長平の双体道祖神」を目標にします。村の作成した道祖神巡りでは1番になっています。
場所は赤岩集落から赤岩川を遡って花敷温泉を経て更にずっと奥です。赤岩集落は蚕農家が集積していることから「伝統的民家群の指定が為されているのです。
加えて幕末には此処の富豪の家に高野長英が潜伏していたことから話題になっているようです。
「赤岩集落」の名の謂れは直ぐに解りました。大きな赤い岩がある訳でもありません。
川底に転がっている石がどれも赤いのです。上流に鉄分を多く含んだ石や土が在るのでしょう。
それが流されて河底を赤くしているのです。まるで大怪我をした大蛇が抜けた跡の様に川底が朱色になってうねっています。
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此処が中条村六合(くに)赤岩の民家群各家が二階建てで二階が蚕の育成室でありました。蚕部屋の片隅に高野長英は潜んでいたのでしょう。
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群馬県中条町六合(くに)の道の駅に案内された道祖神案内。中条町の道祖神は抱擁道祖神である事が特長で村おこしに道祖神を活かそうとしています。番号をつけて案内していますがこれだけを一日で巡るのは困難です。1番がこれから案内する「長平道祖神」でその右13番が昨日案内した「荷付け場道祖神」です。道の駅で案内人を紹介してくれると助かるのですが一つ一つ探し当てるのは大変です。
ところで各道祖神にはスタンプも用意されているのですが、インクが乾いていて使えません。行く人はスタンプ台を用意した方が良いのです。
6合で(くに」と読みます。6つの部落が合併してできたので6合と書いて「くに」と呼んだのだそうです。古事記に「天地四方を合せて6合(くに)を為すと表現があって、国の大和言葉が「くに」であったのだそうです。流石に日本武尊の故事が色濃い地域で平成の町村合併後に使用する名前に太古の言葉を使うとは地名にも凝っています。
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各道祖神には道祖神をイラストしたスタンプを設置していますでもスタンプマット自体が乾いてしまっているので使えません、持参するのが賢明です
細い道は花敷き温泉に続き更に渓流に沿って昇ると「尻焼き温泉」に出ます此処は川床の温泉があって赤い岩の上に腰掛けて温泉に浸かっていると。お尻が猿のように赤く染まってしまうのでこんな妙な名がついているのかもしれません。林道を進むと突然に5戸程の集落に出ます「長平」の案内があります。一度行き過ぎてしまいましたが戻って探すと草叢に埋もれて「道祖神」の案内が立っていました。その登り道だけにマーガレットが群生して咲いて居ます。
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長平の道祖神には林道を折れて尾根に向けて細道を登って行きます。道端にはマーガレットが群生して咲いて居ました。この急な道を100m程登ると尾根に出て其処に道祖神が佇んでいます。赤いリボンは道の境を明示したもので。測量に使用したもののようです。道祖神巡りをし易いように道の整備を計画しているのかもしれません。
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これが長平の双体道祖神。尾根道にあります。男女の神様の表情も素晴らしいのですが台座にデザインされた(桔梗/朝顔)が意味深です。
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男神は烏帽子をかぶった正装で恥ずかしがる女神を扇子で隠しています。それでいて左手を女神の肩に回して強く抱いています。女神は両手を男神の膝の上に回して組んでいます。女神は伏し眼で心なしか何か呟いておいでの様に見えます。凝灰岩の表面に黄色い苔が生していい雰囲気です。この道祖神は造立年, 弘化3年(1846)と刻まれています。「蛮社の獄」は1839年ですからその直後にこの像が造立したことになります。高野長英「戊戌夢物語」(渡辺崋山(慎機論)等がモリソン号事件の幕府対応を批判して、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けたのでした。

私は左半身が不随意ですのでこの急な坂道を登るのは危険です。意識して前傾して指先に力を込めて進みました。坂道で後にひっくりかえったら大変です富田君が私の後ろに回って腰を押してくれています。坂道を下って降りるときは一層危険です。富田君と両角君が綿足の前後を固めて転びそうなら支えようと身構えて進んでくれます。そんな尊い体験を経て願望の道祖神を巡るのでした。
道祖神の手前に都忘れが咲いて居ました更にその先にはそして海老根も咲きだして居ました。
長平の集落の人がマーガレットにあわせて育てているのでしょう。こんな不便なところに住んでいる人の心の優しさを想いました。
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尾根道には都忘れや海老根(写真)が咲いて居ました
【忍ぶ恋】
長平の道祖神は抱擁道祖神の中に在って一番に美しく文学的でもあります。像を見ていると平兼盛の歌を想いだしました。(拾遺集40番)
しのぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は
              ものや思ふと 人の問ふまで
「忍ぶ恋」こそ一番です。これは昔も今も変わらないと思います。昨今の若い人は「忍ぶ恋」の感動を知らないので、直ぐに欲望に身を任せてしまいがちです。忍ぶ恋に耐えられないので恋文を和歌に託しました。忍ぶからこそ愛は強く深まり熱く燃えたものでしょう。言の葉に愛情を託したから文学が深化しました。一方、忍ぶ恋は能に歌舞伎の本質にも通じました。
世阿弥は「秘してこそ花」と表現し近松門左衛門は虚実皮膜論として『ウソ(虚)とホント(実)の間に こそ、歌舞伎の醍醐味がある』と説きました。即物的に表現したのでは想像する余地も無いし美しくも無い、という事でしょう。
抱擁道祖神でも昨日案内した荷付場道祖神は直截的な愛の表現で少しエロ・グロの匂いがします。
エロでもグロでも愛の表現は開放的である方が良いというのが昨今の風潮でしょうが、「忍ぶ恋」を知らなければまだ子供の恋です。世阿弥も近松も知らないなんてをつまらないものであると評すべきでしょう。
車内で議論が湧きました。「朝顔と後朝/きりぎぬ」の関係です。
長平道祖神の台座の朝顔『桔梗』は女神が心も体も開いた事を暗示していると解釈したからです。
「後朝」とは、恋人が共に夜を 過ごした後の朝のことで、共寝していた男女がそれぞれの衣を着て 別れること。です。お別れの合図が朝顔が花開く事です。朝顔が花開けば別れければなりません。その時こそ愛おしさが最高潮に達する時でしょう。こんな解釈が初老の親爺4人が出した解答です。流石に絵島生島を生んだ高遠の石工の作品です。伝統を汲んで意味深というか花のある表現です。(この長平道祖神が高遠石工の作であるといった確証はありませんがこの辺りには高遠石工の作が多く残されています。(この件については次のブログにも報告されています。http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/ea23d2c15a185260e7eefce2c11dcf63)
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沼田川場村吉祥寺の双体道祖神手前の赤い花は珊瑚草こんなお地蔵様二体が道祖神の初期形態でした。(神奈川県足柄山付近)


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5月27日夜軽井沢の山菜を肴に酒が進みました。伊藤君がふるさと納税の御礼に取得した鳥取の清酒が口当たり良かったのでした。最期はシジミ汁を戴いて。話題は明日からの行程を協議します。私は「甲州街道を下り碓氷宿安中宿を見て回り、月夜野で宿をとる」案を提案、伊藤君は中之条町の道祖神を巡ろうと提案します。2年前一度吾妻渓谷に沿って道祖神を見て回ったのでしたが、その時の興味が持続していたのでしょう。
道祖神好きは両角君も富田君も同じです。新島穣の生家や安中教会案は道祖神の魅力には及ばず却下されてしまいました。そんな次第で、今日から吾妻街道沿いの石仏を案内します。
【高遠石工】
私の学生の頃でした。本屋の棚に曽根原駿吉郎氏の著作「貞次の石仏」を見つけて購入しました。同著は桜で有名な高遠に守屋貞次という石工の棟梁が出現し石工集団を組織して。高遠から全国を巡って石仏石神を彫像して回ったというのでした。
高遠の天竜川を挟んだ西向かいには駒ヶ根光前寺があります。光前寺の石仏群は善光寺詣でをした善男善女の口を介して全国に広まった事でしょう。善光寺さんの石仏を彫った高遠の石工に彫ってもらいたい需要は全国に在った事でしょう。
貞次の石仏は越後魚沼にもその手前の三国峠の東麓の月夜野水上に広がります。
曽根原駿吉郎氏の仕事も高遠石工に導かれて「太郎兵衛の石仏」に更に「木喰百道」に広がって行きます。
貞次の石仏を読んだ人から「我が村にも高遠石工の石仏がある。我家のお墓は高遠石工の作のようだ」報告が集中していたのでした。
曽根原駿吉郎氏は安曇野の穂高に住んでいました。同氏は安曇野の道祖神が好きだったので。同地に転居していたのでしょう。安曇野の道祖神は自ずから塩田平を経て上州に伝播しました。松本平には道祖神が多いのですが、それらは江戸中期以降に造立されていて、大半は高遠藩の石工の手によるものだそうです。財政的に厳しかった高遠藩では石工に旅稼ぎを奨励していて、彼らは近隣の松本平に足を運び各地で道祖神を彫ったそうです(参考文献:「道祖神」(参考文献:「道祖神」曽根原駿吉郎氏・降旗勝次編/鹿島出版会 昭和50年発行)
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曽根原駿吉郎氏著「太郎兵衛の石仏、雪国越後の魚沼で3千体の石仏を彫った高遠石工の業績を追った力作でした。貞冶の石仏・太郎兵衛の石仏の著作が読者の共感を呼び高遠石工の上州での業績を調査するきっかけになりました。
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越後六日町の太郎兵衛の石仏(墓標地蔵尊)出典:同著

前書で曽根原駿吉郎氏は道祖神の分布は松本平を起点として甲州、上州さらに駿州などにも伸びていて、これらのエリアが高遠の石工の行動範囲と重なると指摘しています。
江戸時代末期木喰上人は高遠石工の足跡を追う様に上州から越後に入ります。
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上州月夜野に参詣した溺霊供養堂にある貞冶の宝篋印塔。貞冶は守屋貞冶の意味ではなく貞冶年間(南北朝時代14世紀前半)の意味でした。でも17世紀に高遠の石工がこの地で活躍した事は間違いないようです。

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凝灰岩の宝篋印塔は大切な角を破損していました、押し当ててみたり雑草を毟って戻りました。








【童守神】
一般的に道祖神のルーツは古事記に遡ると言われています。伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神を産み、それが元で死んで黄泉の国へ逝かれたのを、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が会たさに後を追い醜い死体に驚き逃げ帰る。この時に追いかけてきた伊弉冉尊を防ぐため、黄泉比良坂(よもつひらさか)に大きな石を置いて道を塞いだ。この大石を塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)と言って、塞の神(道祖神)の事であるとします。一般に村境や峠、辻や橋のたもと等で、外部から村に悪疫・悪神が侵入するのを防ぐ役です。
また一方で、天孫降臨の際に出会った天宇受売命(あめのうずめのみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)はこれが縁となって結婚し、そして二人は一緒に道祖神になったと言われています。ですから道祖神の形態は男女の二神を形作る事が多いのです。(双体道祖神)高遠石工は安曇野では男女二神が連れ添って微笑ましい姿で刻まれています。千曲川沿い塩田平でも仲睦まじく二神は手を握ったり結びの盃を酌み交わしていますが、上州に至ると一変しします。手を握ったのでは物足りないと言わんばかりに抱き合ったり、横臥したりしています。塩田平から上州に至る道は中山道が表街道で裏街道が「吾妻街道」になります。吾妻の名は古事記の日本武尊が東征に進んだ道です。吾妻川が利根川本流に合流する東には日本武尊を祀った武尊神社(ほたか神社)があります。
安曇野では道祖神祭りの主役は子供です道祖神を綺麗に装い、三九郎焼きどんと焼きの火を付けます。ですから道祖神とは書かずに童守神と書くと思っています。こんな考えを強くしたのが江戸時代再三猛威を振るった疱瘡の流行でした。「遠くの村でコロリ(疱瘡)が流行り始めた」噂が流れて来ます。コロリは先ず子供に移ります。朝元気に庭で遊んでいた子供が夕方にはコロリと死んでしまうそんな恐ろしい病気がコロリの語源でした。コロリから子供を守ってくれるのが道祖神でした。
吾妻渓谷に入ると道祖神は疱瘡神の役割が色濃くなります。男女二神が睦んでいる姿が何故コロリに効果があると思ったのかその訳は解りません。コロリの厄病がこんなに仲睦まじいのでは子供を殺してもまたすぐに子供が産まれて来ると考えて厄病が避けて通ると思ったのでしょうか?
中之条町が日本武尊の通った道であった事ともう一つ重要な事は草津温泉の入り口に在った事でした。草津温泉は乾癬(皮膚病)に効果がありました。乾癬の症状も疱瘡の症状も赤い湿疹が出るので似ていたのでした。
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        埼玉の見沼の薬師堂に祀られた疱瘡神(円空作)
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上州中之条六合(くみ)の双体道祖神、道祖神の周囲に飾られたこけしのような木像は疱瘡神の意味でしょう。
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上州中之条六合(くみ)荷付場道祖神の双体道祖の近くに在る観音堂この辺りで「男はつらいよ最終回/ハイビスカスの花」の撮影が行われたそうです。渥美清さんも浅丘るり子さんも子の道祖神を拝んだことでしょう。
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モデルになった天宇受売命(あめのうずめのみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)も赤面してしまいそうな抱擁双体道祖神像。天宇受売命の太腿も立派だし、猿田彦命の一物も袴から飛び出しておいでです。


之条六合(くみ)荷付場道祖神の双体道祖のコピーが多く出現しています。
下の写真もそんな一体です。
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此方はロマンチック街道(吾妻街道国道145号線)岩島に在る個所有の道祖神前記の付場道祖神の双体道祖のコピーと思われます。
高遠石工は貧乏だったから石仏彫の為に出稼ぎせざるを得ませんでした。文化は貧乏な人が産んで育てて来ました。
私が高遠石工が名石仏も遺した事に畏敬の念を禁じ得ません。私の人生も第4コーナー何を残せるのか自問自答します。多くの人がそうしてきたことでしょう。その問の答えは「子を残した孫を残した」と思う事でしょう。小林一茶が俳句と子を残したように…、名も無い高遠の石工は特長のある人間臭すぎる道祖神を残しました。
今日子孫さえも残さない人が増えて来ました。折角開拓した農地だったのに草深くなり猪や鹿に取り返されて田の神は撤去し山の神が微笑んでいるようです。豊かになるのは誰も嫌いではありませんが何の為に豊かになりたいのか忘れてしまうととんでもないシッペ返しが待っているようです。


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