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夕暮れになると魔物が街を徘徊しだすと言います。だから、日が暮れたら家に居るように言われました。朝陽が昇る頃、お地蔵様が街を見回るのだそうです。お地蔵さんは昨夜何か街に悪さが無かったかチェックされるのでしょう。だからお地蔵さんに遭いたかったら早起きして街に出れば良いのだそうです。
「朝起きは三文の得と言いますが」ただ「朝起きは彼岸の得」という事だったようです今昔物語には、そんな説話が幾つも載ってています。
私の親友I君の南軽井沢の山荘の近くに「発地地蔵尊」があります。昨年の今頃は泊めて貰って早朝にお詣りしました。寒露で濡れた草叢の向こうに背の高いお地蔵様が女街道を向いて佇んでおいでです。
発地地蔵尊から西に向かえば中軽井沢の駅です。
中軽井沢は新しい名前で中山道と呼ばれた時代は沓掛と呼ばれていました。碓氷峠を越えると軽井沢宿、沓掛宿、追分宿と三つの宿場が玖波が並んで居ました。長谷川伸さんは沓掛の宿で、一人の子連れので男が泊まっているのを見かけて「沓掛の時次郎」を想いつき、股旅者・無宿者を着想したのでした。
今日の話題南軽井沢発地に祀られている発地地蔵尊 中山道沓掛宿
浅間神社は浅間山だけではありません富士山を祀るのも浅間神社です。あえていえば山の神の最高神が浅間の神様です。沓掛辺りには山の神が多く祀られています。 沓掛宿の時次郎、沓掛とは宿場の中央に浅間神社があって、その神前に沓(草履」がかかっているからでしょう。碓氷峠を前にして浅間神社に旅の安全を祈願して、峠を越えてきた旅人は無事に峠越えをしたことを感謝して浅間神社を詣で、草履を履き替えたことでしょう。そうして神前には夥しい草履が懸けられました。
全国各地に沓掛の名は残っていて、草履が懸けられています。
中山道麻績から聖山に向かう冠着山山麓にある地智積寺の仁王門に架った草鞋これが沓掛の意味です。林檎畑の奥に千曲川が流れています。沓と靴は同じで足の甲を覆っている履物こうが出ている履物は草履です。
沓掛宿は正しくは「草履掛け宿」だったのでしょう。
草履は仁王様の前に懸けられています。ですから大きなサイズです。
歴史を留める沓掛の名を捨てて中軽井沢なんて今流(当時は)の名にしたのは残念です。
I君の山荘は中山道の脇街道で、女性が多く通ったことと、峠を下れば下仁田、打空っ風の上州であったので「木枯し文次郎」の舞台になりました。石仏も多いし、四季の移ろいが美しく、浅間山が見渡せる良い処です。
寒露で濡れた発地の休耕田田圃の向こうに旧街道が通っています、霧が晴れれば正面が浅間山です。畔を歩けば濡れてしまいますが雉や鴨が飛び出します。
発地の休耕田は花や蕎麦、ブルーベリーを栽培する人が増えています。見回りをする地蔵尊もお喜びでしょう。
発地地蔵尊から浅間山を望む向こうの山林の中に沓掛宿があります。西が追分で東が軽井沢宿です。赤い花は千日草仏花に使われます。
草履は仁王門のほか道祖神・延命地蔵尊、庚申塔の祠にに架っていることが多いのです。旅は街道を歩く旅だけでは無く「死への旅」も意識していると思われます。写真は地蔵信仰が発生した奈良の長岳寺門前です。
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石仏ウォーキング
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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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3年前の新嘗祭の季節に私は荷り文研の仲間と諏訪を旅行しました。私の親友М君は諏訪から蓼科山に向かう山麓の生まれでしたから、尖り石遺跡の縄文ビーナスを見学しました。その隣に展示されていたバルタン星人を思わす土偶も来年には国宝に指定されるそうですから、М君の故郷は国宝が2店になるようです。アダムとイブ、イザナギとイザナミカップルで国宝に指定されるのは楽しい事です。
旅では諏訪大社春宮の西側砥川を渡って田圃の中にドデンと祀られている巨大な石仏「万治の石仏」を巡りました。諏訪大社の禊の川原に巨大な自然石が転がっていて、その石を取り除こうとして、諦め、阿弥陀石仏にしたようなものです。
尖り石遺跡縄文ビーナスと仮面の男神セットで国宝に指定されます。
熊野に行けばこの程度の巨岩はゴロゴロ転がっていて、何れも神の依る磐座として注連縄が飾られているものです。何故諏訪ではに頭を作っ巨岩の上に載せて阿弥陀様に祀ったかというが疑問でした。
以来私達は諏訪文化圏に万治の石仏に似た石仏を求めて望月や佐久平を巡りました。
疑問は誰がどんな目的で自然石を石仏にチェンジしたかという事でした。
数日前家内が図書館から「万治石仏の謎」(宮島潤子角川出版)」を借りて来ました。
そうか、民俗学者はこう見るんだ思って読み終わりましたので紹介いたします。
佐久平の大日如来
望月の万治の石仏諏訪大社のそれと良く似たた意匠です。
万冶の石仏胴部は安山岩の自然石です
頭部は別途刻んだもので胴部に穴をあけてまるでこけしのように差し込んでいます。昔首が次第に伸びて来たそうです。原因は首を差し込んだ穴に氷が張って首を持ち上げたのだそうです。
宮島氏は万治にお石仏に着せられたの袈裟に注目します阿弥陀仏ですから袈裟(修行僧や行者が着る)は必要ないのです。そればかりか、袈裟というより袈裟を模った曼荼羅なのです。次いで願文には南無阿弥陀仏 万治三年(1660)十一月一日願主・明誉浄光 心誉廣春と刻まれています。江戸時代融通念仏が盛んでしたから南無阿弥陀仏の名号は皆の為に阿弥陀仏にお願いいたしました。「天下安泰・五穀豊穣願主の「明誉浄光 心誉廣春」 は融通念仏の指導者だったのでしょう。そして、その指導に従って石を刻んだのが高遠の石工であろうと推測しています。
高遠藩は小藩の上に圧迫され領民の次三男は石工になって出稼ぎする事が奨励されたのでした。
宮島氏は諏訪市唐沢山阿弥陀寺の名号を見たことを想い出します。阿弥陀寺は京都大原の古知谷(こちだに)や箱根塔ノ沢にある阿弥陀寺と同じく弾誓上人が開基なのです。万治の石仏は弾誓上人の系譜を汲む融通念仏僧が願主であったろう。推測します。
この推測はドンドン広がって行って、遊行聖「作仏聖」に飛びます。願誓上人は遊行埼各地で仏像を彫って庶民に預けたのでした。偶々少年時代に郡上八幡の神社の祠で円空は願誓上人像に親しみました。その系譜が円空木喰に発展するのでした。
願誓上人の前には行基菩薩がいて、その前には弘法大師がおられます。
日本に伝来した仏像は金銅仏塑像、乾漆像など多様で舌が平安時代以降木像のみになります。
それは密教が盛んになり。個人の祈りは全体の為国家の為と信じられ、祈りが融通すると信じられたのでした。密教寺院では天災がある度ごとに護摩を焚いて天災が無くなるように五穀が実るように祈ったのでした。その為には命の通って居る大木(神木)を刻んで仏ににしたのでした。泥や金属には神は依らないと思ったのでしょう。弘法大師が出現して神と仏が裏表であることが常識になりました。
宮島氏はこうした作仏聖の系譜の中に万治の石仏を置いて見せました。
私はこの推測に異論はないのですが…一つ気になる事があります。それは直感に似たものなのですが。万治の石仏の表情がキリシタンのT頭デウスに似ている事です。
これがT頭デウス像(出典関東地方の隠れキリシタン元禄3年栃木県河内郡吉田村)
一般にT頭デウスとは隠れキリシタンがマリア像を拝んでいましたがキリストをおがんだものです。デウスを大日と訳した事から大日如来の姿を模しました。その上で十字架上のキリストをイメージしたために見下ろして、伏し目がちで眼は大きく窪んだ額の下に刻まれました。万治の石仏がイースター島のモアイ像を想わせるのはキリスト教の影響かもしれないと思うのです。先日書いた北条石仏もT頭デウスのような造形です。
日本人は阿弥陀の教えの究極に「悪人正機の説」を教わりました。学校で親鸞聖人の教えを聞かされた時に、それはキリスト教と同じだと思いました。マグラダのマリアは娼婦であり、前半生は悪に塗れていました。悪そのもので汚れきっていたからこそ、キリストに認められ愛され救われたのでした、汚れきっている悪そのものだそこから救われたいと一心に祈ることから救済の道が開かれるのでした。
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昨晩は寒くて今朝は鼻水を垂らしながらブログを書きます。でも日中は27度まで暑くなるそうで、天候は不順です。
NHKの大河ドラマ軍師官兵衛のエンディングが近づいて、官兵衛と秀吉との間に距離が目立ってきました。官兵衛は心ならづも城井谷(きいだに)の主、宇都宮一族をだまし討ちしてしまいます。一昨年日文研の旅行では中津川を訪れ城や旧市街地を廻りましたし、宇佐神宮にも詣でました。いつも旅行が終わってから思うのですがもう少し調べて置いて寄ればよかった・・・・もう一生のうちで宇都宮一族の墓所にはゆく事も無かろう、と思うと残念です。
宇都宮一族の紺峡であった紀伊谷は宇佐八幡神社の山稜にあったのでした。NHKの画面を複写
宇都宮一族は天徳寺の墓所に眠っておいでです。(出典同上)
宇都宮一族の郎党が惨殺された合元寺は壁は、白く塗っても赤く変色してしまうので、赤壁にしてしまた、と言い伝えられています。中津城の大手門を真っ直ぐの位置に在ります。
宇都宮一族の紀伊谷は宇佐八幡の南側丘陵地であった様なので訪れておけばよかった想いながら画面を見詰めました。
信義を重んじ国侍を大事にする官兵衛と息子長政とのずれも目立ってきましたが、親子の間に位置していたのが長政の後見役の後藤又兵衛であります。
後藤又兵衛(塚本高史)は黒田長政の短慮を諌めますが…)
豊臣一族が滅亡すると、庶民の人気は家康やその家臣ではなくて、真田十勇士や豪傑後藤又兵衛に集中します。又兵衛は大坂夏の陣で討死しますが、庶民は英雄を死なせず、大和大宇陀に埋もれたことに言い伝えられたり後藤一族故郷播磨の北条に戻ったと言い伝えられます。
これが羅漢寺(加西市)の500羅漢像同じ規格の石柱にお顔を刻んだ様子はキリシタンの鎮魂を祈るように見受けられます。それはお顔が異形で南蛮人宣教師のようであることと、又兵衛の故郷であるからだと思うのです。
実は播磨の北条には石仏ファンにファイ人気の「北条500羅漢」があるんです。
加西市王子町には北条鉄道が通っています。
同地域は東急グループが進出していましたので、東急グループを担当していた筆者は時々実査に訪れ、500羅漢像を何度も詣でましたせました。狭い境内に500羅漢像が林立する様は異様でした。500羅漢は江戸時代天災があるとその霊を弔う為に造立されましたが、個個の00羅漢は目黒や喜多院(きたいん)の500羅漢(何れも江戸時代中期以降)の像とは比べようもない弩迫力です。梅原猛の「隠された十字架」を思わせる怨恨を閉じ込めるかのような呪力が感じられます。
箱根仙石原長安寺の500羅漢平和な、昭和の作です。11月後半には紅葉に埋もれます
北条500羅漢盆の万灯供養です。(出典:ウィキペディア)
流紋岩を石柱に刻み出して、その頭部に顔を刻み出しています。どの顔もおでこが出っ張って眼底が深く窪んで、まるでイースター島のモアイ像のようです。
一見した瞬間にこのお顔は日本人では無い、ポルトガル人宣教師の顔を想います。
大坂夏の陣に豊臣方に参じた武士は西国のキリシタン大名の配下が多かったと言い伝えられています。彼らは人心厚い又兵衛を慕ってていたと思われます。敗走した武士の中で又兵衛の故郷を頼ったものも居たことでしょうし。その子孫が造立したとも考えられます。
筆者愛用の頭侘袋漏血染めが緩いので汚れやすいと思い3枚も求めたのですが・・・。
播磨北条から丹波(細川領)にかけては慶長年間ンもキリシタンが多かったと推測されます。
播磨の潜伏キリシタンが先祖を宣教師のような異形なお顔で祀って先祖の冥福と子孫の繁栄を祈ったのであろうと思うのです。
こんな推測をすると笑われてしまうかもしれませんが。確かな事は以下です。
1、石仏は慶長年間の作であること。慶長19年(1614)の「大坂冬の陣」
2、石仏は異形のお顔であり南蛮人宣教師を思わせる事、T字デウスと呼ばれる磔刑のキリストを思わせる事
3、一帯は黒田官兵衛を慕った後藤又兵衛ーの縁故地であること。
この三点を繫げると、私は北条500羅漢は大坂の陣で死んだキリシタン武将の墓標であろうと推測するのです。
奈良大宇陀の又兵衛桜
江戸の伝通院には千姫の墓が祀られています。千姫の墓標がキリシタン文字であること。そしてそのことから潜伏キリシタンが伝通院の周囲に隠れ住んだとは、良く説明される事です。潜伏キリシタンが一人で潜伏するのは困難も多い事から。集まって共同体を作って潜伏したと考えるのが自然です。鎌倉の小袋谷にも潜伏キリシタンが多く住んでいたと、言い伝えられています。
北条500羅漢を後藤又兵衛とつないで考える事も的外れではないと思うのですが、如何でしょうか?
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アメリカのの大手旅行雑誌「TRAVEL+LEISURE」が発表した、訪れたい世界の都市ランキングで、京都が初めて世界一に選ばれました。7月17日は祇園祭の宵山、欧米観光客も古都風情を満喫していることでしょう、彼らにとっては山鉾巡業も異文化ですし、京料理も良し、なにしろ、街中に浴衣姿の京美人が溢れているんですから・・・・。桜の季節紅葉の季節の京都も良いのでしょうが、祇園祭の京都は日本人として、最もお勧めしたい京都です日本の文化と自然の恵みの極致でしょう。
ところで、7月14日はパリ祭でした。東京でパリ祭を謳歌しているのはシャンソン関係者とクラブくらいで・・・・商魂が見え見えです。
パリのシャンゼリゼ通りにはマロニエが匂って、その緑陰に憩いながらパリ祭を祝って見物していることでしょう。文化と商魂は分けておかないといけません。
横浜港南台駅前のマロニエ通り
でも、パリ祭は軍事パレードです。何しろフランス革命と共和国の成立をお祝いする行事です、祇園祭が京都町衆平和と災厄の除去を祇園の霊会に祈るのとは訳が違います。勿論山鉾巡航はユネスコの無形文化遺産です。
今年の私は祇園祭にもパリ祭にも行けません。でもマロニエの花には想いは馳せられます。
近くの港南台駅前のマロニエと通りは屹度今年も見事に花を咲かせたことでしょう。
そして、私の親友I君の軽井沢山荘のマロニエも咲いていることでしょう。
マロニエは栃ですから、日本人は縄文時代から慣れ親しんできた樹木です。
縄文人はその実を食料に、そして、椀や鉢も栃の材を活用して作りました。
I君の山荘の近くに「馬取いう集落があり、その観音堂の庭に100観音が祀られています。100基の石仏の頭上にマロニエの大樹が茂っています。
一昨年登った時には石仏の頭上にマロニエの花が散って来ました。
その100基の石仏を観てみている時気になることがあるんです。どの観音様もお顔が三角なのです。お結びのようなお顔をしておいでです。
これが馬取り観音堂の百観音像、マロニエの樹下にあります。観音像の間にはマロニエの実が落ちて栃の新芽が生えています。
観音像は不思議な事にお結びのようなお顔をされています。
館音像の前にはマロニエ(栃)の実が転がっていました。 「馬取」は中山道の脇街道で本街道を避けた旅人が往来していました。木枯し紋次郎もそんな一人だったことでしょう。女性は多く馬に乗りました「馬子」は馬取りの峠の登り口で必ず馬を休ませていました、其処には泉があったので泉で馬は喉を潤し一気に峠を越えるのでした。旅人は馬が水を飲んでいる間は馬を下りてその近くに在った観音堂の石段に腰掛けて待つのでした。
ある日の事でした、若くて綺麗な三姉妹が石段に腰掛けました。そして、お弁当を広げました。膝の上に竹皮で包んだお弁当を広げると、お結びが三つ仲良く並んでいました。「さあ、お馬さんが水を飲んでいる間にお昼にしましょう!」言ったその時でした、泉の方から”美味そう!” 声がしたようでした・・・。
中山道の姫街道馬取り集落が舞台です山は浅間山日のあるうちに峠を越えてお隣の追分宿まで行かなければなりません。
馬取りの観音堂の石段に三姉妹が腰を下ろしてお弁当にしようとしました。泉には馬がのどを潤すと同時に餓鬼も集まって来ていました。餓鬼は喉が渇くので泉に集まって来ます。お腹が膨らんでいるのは水ばかり飲んでいるからです。
その時です。三姉妹の頭にコツンとぶつかったものがありました。そうです。頭上に実っていた栃の実が落ちてきたのでした。不意打ちを食ったお姉さんはお結びを落としてしまいました。お結びは石段を下りて、コロリン・コロリンと泉の淵まで転がって行きました。其処には餓鬼が群れていました。餓鬼は水ばかり飲んでいましたので腹が膨れて、歩くたびに腹が地面を擦っていました。目の前にお結びが転げてきたので大喜びです。競ってお結びを戴きました。
餓鬼達は三姉妹を見送りました。お結びを呉れた事への感謝の想いで、三姉妹の後を追いながら道中の安全を見守ったのでした。
百観音は一部始終を見守っていましたが、餓鬼達が馬子の後を追うのを見てにっこり笑いました。それから・・・。観音音様はお結び顔になったのでした。
浅間山の麓の泉に集まった餓鬼達、地獄の獄卒によって釜茹でされています
注意:これは筆者の創作童話であって、民話であったり一般的な話ではありません。でもお結びころりんや「餓鬼飯」うあ「お迎え団子」に符号するものです。
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日光は杉並木です、一方東海道は松並木です、家康は幕府創設後まもなく、五街道を整備させ、総じて、松を植えさせました。日光を杉並木にしたのは、杉の材木としての価値を重視したからでしょう。東海道を松にしたのは、冬の防風林として防雪林として松が役に立つから、そして何より松の落ち葉に火力があり薪を燃やす燃料として有効だったからでしょう。東海道の松並木も稀になってしまいました、静岡県浜名湖に近い御油宿と赤坂宿の間には御油の松並木「天然記念物」があります。私の生活圏では大磯辺りや三島にはまだまだ江戸時代を思わせる松並木が残されています。
私の住む戸塚の松並木は江戸っ子にも人気だったのでしょう。広重も松並木を描いてその樹間の向こうに富士山を置いています。
戸塚宿大坂の図
戸塚宿大坂の松並木は明治時代までは立派なもので,鎌倉にお住いだった鏑木清方も大阪で車を止めてスケッチしたと言い伝えられています。古い写真集には「「清方の松」が良く掲載されてています。でも、戦後の通過自動車の急増や排気ガス問題で大坂の松は次々に枯れてしまいました。枯れたら植えれば良いのですが、地建はそんな地味な事には関心を示さず、弱った松は松喰い虫が付くから…伐採してしまいました。ですから往時をしのばす景色はもう全く残されていません。
わずかに、歩道の脇に「お軽かる関平」の碑が寂しく建っています。碑の背後には背の丈ほどの痩せこけた松の苗が植えられています。
大坂の「お軽・関平の碑」この話は次に書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/47034113.htmlマンションの入口で身の細るような松です。
中心蔵は最大人気の歌舞伎の演目でした。
本筋の話のほかに様々な脇話(裏話)が創作されます。
元禄14年赤穂浪士は本懐を遂げ泉岳寺に戻ります。ところが早野勘平は腰元の「お軽」と逢引していたためお家の大事に居合わせる事は出来ませんでした。江戸っ子はこうした事件には必ずボケた輩が居た筈だと憶測していたのでしょう。二人はお軽の実家がある「山城の国」の山崎に落ちのびて、二人で生きて行こうと誓います。
二人が戸塚宿を過ぎて大坂に向かったところが見せ場です。
関平は主君塩冶判官へ申し訳けなさのあまり、ここで切腹すべく刀を抜こうとしますが、お軽は刀を取り上げ、「それその時のうろたえ者には誰がした」と自分にも責めはある、短気をおこさずともかくも自分の在所にまで一緒に落ちのびて欲しい嘆願します。(道行旅路の花聟(みちゆきたびじのはなむこ)其処を、かねてお軽に横恋慕していた鷺坂伴内に見つけられてしまいます。伴内はお軽かるを奪い去ろうとするものの勘平の武勇には適うべくもなく、伴内たちは散々にやっつけられてしまいます。
仮名手本中心蔵の道行き場面に戸塚大阪が選ばれたのは江戸時代初めから、大坂の松並木が美しく道行きのイメージにピッタリだったからでしょう。
大坂の約半里(2キロ)江戸寄りに名瀬があります。名瀬には「歌舞伎道祖神」と呼ばれる道祖神が祀られています・。
横浜新道戸塚料金所近所に近い小山の中段です。小山の上には高圧線の鉄塔が建っています。小さな石の祠の中に二体のカップル道祖神が並んでいます。石の祠がまるで額縁か舞台の緞帳のようです。だから歌舞伎道祖神の名が付いたのでしょう。でも拝観する人は仮名手本忠臣蔵の「お軽・関平」を思い起こします。
戸塚名瀬に祀られている「歌舞伎道祖神」石の祠が歌舞伎の舞台で二体の道祖神が「おか軽関平」を思わせます。盗難防止のため四方を固められてまるでお縄に架ったようでもあります。良く似た意匠の道祖神は矢部陸橋を下りた高松寺の墓地にもあります。
大坂の「お軽・関平」碑から半里ほど下ると鉄砲宿です。鉄砲宿にも道祖神が祀られています。
. 鉄砲宿の道祖神(影取町11付近)双体像(宝暦四) 鉄砲宿道祖神からまた半里ほど下って引地川を越えたメルシャン(ワイン)工場の向かいに有名な化粧地蔵尊が祀られています。地蔵尊と呼ばれていますが、道祖神であることに間違いありません。
藤沢本町(メルシャンワイン)向かいの化粧地蔵尊)カップル道祖神)
藤沢本町から半里南の南城目、茅ケ崎バイパス脇に祀られているカップル道祖神寛政9年(1797)折戸村氏子中と記されています。
筆者の住む倉田のカップル道祖神 戸塚東海道の道祖神は権田坂の投げ込み堂に始まります。
投げ込み堂は行きずりで亡くなった旅人の遺体を投げ込んだことからその名があると聞きます。そして、次が名瀬の「歌舞伎道祖神」次が「鉄砲宿区道祖神」次が「化粧地蔵尊」次が「茅ヶ崎の南城道祖神」で何れも半里(2キロ)間隔に祀られて居ます。松並木の整備は幕府の命令で近隣住民が行ったもの、人が任意で祀ったものです村人は旅人の安全と村に厄病が入り込まないよう「賽の神」として祈ったのでしょう。。
歌舞伎道祖神は寛政六寅正月吉日(1794)ですから。仮名手本中心蔵よりも100年も後に祀られたものです。道祖神を彫った石工にも祀った人にも脳裏には「歌舞伎の道行き場面があった事でしょう。文化は辺鄙な戸塚にも風景を背景に育っていたものと思われます。今頃は藪萱草に埋もれて居る事でしょう。
筆者も早く足を達者にして、彼岸花の咲く頃には道祖神巡りを再開したいものです。
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