仮想旅へ

毎日の通勤路を憧れの街道歩きに転換してみたら? あなたを「LOHAS」な世界に誘ってくれます。

石仏ウォーキング

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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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行人坂の羅漢像

日本鰻が絶滅危惧種に指定されるニュースが流れました。
我が家の食卓ではとうに絶滅していますが・・・。
NHKでさえその原因が稚魚の乱獲、そして河川が汚れてきている事と解説していました。
彼等には「環境汚染・種の絶滅」が刷り込まれているようです。
鰻はイワナや鮎とは違います。少し汚れたような河川を好んで生息しています、ウナギは水清くしては育たないのです。沢山の虫やミミズが生息するような環境を好んでいます。
現に私の住んでいると横浜の柏尾川は清流ではありませんが鰻が今も掴まります。泥水が好みのようです。
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柏尾川では今でも鰻がとれます。
私は今まで食べた鰻を想い出します。
一番に美味しかったのは母を案内した柳川です。
母も柳川風のうな重『せいろ蒸し] が好きだと言ってくれました。川舟で掘割を巡り元吉屋の小部屋で二人して「せいろ蒸しを戴きました。未だ行っていない鰻屋もあります。大磯の [國よし]です。相模川河口部の澱んだ水質が太った天然ウナギを育ててきたのでしょう。地元の名店は賞味しておきたいものです。 
暖簾を横目に見ながら何度も通過してしまいました。
「國よしの」鰻を味わってからあの世に旅立ちたいものです。
次に美味しかったには目黒川川沿いにあった「太鼓茶屋」でした。
目黒の行人深坂を下って目黒川にかかる太鼓橋の袂にこ古風な茶屋がありました。私は大手町から渋谷に行く途中何度も目黒で途中下車して太鼓茶屋の暖簾を潜りました。財布次第では「豚き」で我慢しました。とんきは今では駅前が有名ですが、太鼓橋が発祥地でした。
数寄屋風にお建物をむべの蔓が囲んでいました。「むべ」は花も良いし、秋には美しい実もぶら下がりました。
太鼓茶屋の前が大円寺さんでしたから、500羅漢を拝観するのが習慣でした。
昨年の今頃、目黒に馬頭観音を拝観しようと出かけました、その折に、太鼓茶屋はどうしているだろうか?気になって山手通りを越えて、目黒川を渡って 行人坂を上ってみました。目黒雅叙園が立派になっているのには驚きましたが、太鼓茶屋は跡形も無くなり、味気ないオフィスビルが林立していました。安藤広重もこの変わりようを見たら憮然とすることでしょう。
でも目黒川の桜を観たら平成の行人坂も良いもんだ言われるかもしれません。東急線の都心乗り入れで目黒も様変わりしそうな気配です。
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重の江戸名所百景「行人坂」右側に富士見茶屋と書かれた辺りに太鼓茶屋がありました。
目黒川で採れた鵜を着を食べさせたのでしょう太鼓茶屋の名物は鰻でした。
太鼓茶屋は無くなっても大円寺は今も参拝客が絶えません。
500羅漢を始め庚申塔に地蔵尊があって、まるで民俗信仰の博物館のようです
行人坂というのはこの辺りに湯殿山の行人の姿が良く見かけられたのでその名がついたと言われます
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新装なった目黒雅叙園大円寺明王院の敷地が再利用されています建物の北側に明王院があります。
明和2年(1772年)大円寺の辺りから出火します、江戸三大大火の一つ明和の大火(めいわのたいか)でし熊谷無宿の真秀という坊主が放火犯という事で火付け盗賊改め「長谷川平蔵」によって捕縛され、小塚原で火刑に処されます。これで一件落着とはゆかず、その後も江戸市中各所から出火します。時の老中松平定信の屋敷も湯島の聖堂も東本願寺も神田明神も神田日本橋から千住まで焼き尽くしました。
この火事による死者数は4000人を超え、その追悼のために大円寺明王院に500羅漢が建立されました。
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明王院の北側法地に整然と並んだ500羅漢像明和の大火の追悼のために建立されました。
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520基羅は北側の法地に並んでいます。縦60線と横50㎝ほどの長方形の石です。この羅漢像中に隠れキリシタンと呼ばれる像が2基あるといわれます。筆者はお寺に確認してみました。1基はキリスト像でもう1基はマリア像との事です。上から何段目右から何列目確認の上家内と一緒に探します。
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この羅漢像が隠れキリシタンキリスト像と言われます。右手に持たれた錫杖の先端がクルスに見えるというのがその理由ですそう思えば、羅漢像を飾ったどくだみの花も十字架です。
もう一つ明王院には八百屋お七の恋人吉三の墓があります。そう思って羅漢像を見ていると、それを思わせる像が見つかりました。羅漢さんが”私の心に仏があります”とばかにハートを押し開いている姿です、川越喜多院出にも同じ意匠の羅漢像がありますから、何らかの影響を受けているのかも知れません。
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最下段中央がマリア像と呼ばれています。確かに生まれたばかりのキリストを抱いている様にも見えます。子安観音のイメージですピンクの花はカタバミで手前は露草です。どちらも梅雨の季節が見頃です。
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羅漢像のハートには仏陀が居ると主張する羅漢像、八百屋お七の恋意を思い起こさせます
参拝客はこの羅漢像を観る度に八百屋お七の悲恋を思い浮かべたことでしょう。
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 水子地蔵像も多くドクダミや方波見の花かでに佇んでいます。
 
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日本文化研究会での私のレポートは以上でした。
一言で言えば、
『日本には仏教伝来以前から馬に神性を認めたシャーマニズムがあって、
馬頭観音はその中で受容され、日本的な”死→供養→再生”と言った再生祈願の為に祀られたものです。』
 
その後の意見交換の席で「馬の死を供養するという形では針供養、筆供養も同じではないか?」
意見が出されました。
使い終えたお道具を神(仏)前で焚いて、塚に埋めるというのは形としては良く似ています。
そこで、道具供養を説明しようと思います。
 
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  建長寺の茶筅塚(左二つ)、花塚(右)、使い尽くした茶筅やお花を供養する事に依って、
  主の技量が進むことを期待します。
 
 
お稽古事が熱心に行われる鎌倉です。
各寺社でお道具供養が行われます。
建長寺には「茶筅塚」「花塚」「筆塚」が並んでいます。
茶道、華道、書画、のお道具を祀ったものです。
荏柄天神社には大きな筆塚があります。
毎年10月の第一日曜日筆塚祭が行われます。
修祓、お祓い、祝詞奏上、玉串奉奠等の神事が行われ、古筆が点火されお焚きあげされます。
北鎌倉・東慶寺の筆塚は前田青邨画伯が生前に作られたものです。
 
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                                                     北鎌倉東慶寺の筆塚
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    鎌倉荏柄天神社の筆塚、清水昆さんの願いにより横山隆一さんらが中心になって建立されました。
 
筆や茶筅、針等のお道具を粗末にする人は技量も拙い事が多い事でしょう。
役目を終えたお道具を丁寧に供養する事で、使った人の技量が進歩すると期待されます。
それは、すぐれた作品は作者の技量だけに依るものでは無いと考えられちゃのでしょう。
技芸の神様が道具に宿る事に依って優れた作品が出来ると考えました。
お道具がもう使えない程に傷んでしまうと、技芸の神様には新しいお道具に移ってもらわなくてはなりません。
その為の供養が行われて・・・・、無事に技芸の神様は新しいお道具に移ってもらうのでしょう。
お道具自体に命がある訳ではなく、技芸の神様の依代(よりしろ、宿る場所)であると考えられます。
技芸の神様が宿ったお道具を丁寧に焚きあげる事に依って、神様には新しいお道具に移って戴きます。
そうする事に依って、主人の技量はまた格段と進歩すると期待できます。
 
一方人形供養はまたニュアンスが少し違います。
人形は人間に降り懸って来る厄を身代わりになってうける「厄受け」です。
厄受けであるお人形が役目を終えるとき、感謝しながらお焚きあげします。
供養のお焚きあげを怠れば・・・・、祟りがある・・・、そう考えるものでしょう。
 
大町の本覚寺寺では10月の第一日曜日に人形供養が行われます。
集められたお人形は本堂で供養法要が営まれ、
境内中央に築かれた竈でお焚きあげされます。
役割を無事に終えたお人形は灰になります。
そうして、立派に成人になった主人の「厄受け」としての役割を無事に終えます。
若しも人形供養を怠れば・・・・、厄受けに溜まった厄災が一気に主人を襲って、
”祟り”が起きると考えました。
 
そんな意味では、道具供養には二つのタイプがあって、
そのどちらもが馬頭観音や桜(稲)の命の変遷とは違う様に思えます。
でも、内容に違いはあっても道具まで供養するというのは・・・・、日本独特の風習でしょう。
 
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   鎌倉大町の本覚寺、結界が張られ人形供養のお焚きあげが行われます。
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     本覚寺では今秋も無事に人形供養が行われました。写真を見ると昔のお人形には人毛が、
     筆の穂には、動物の毛が使われています。こうした命に限ってみれば、命の再生かも知れません。
 
勿論私は素晴らしい風習だと思います。
そんな風習が世界に冠たる「メイド・イン・ジャパン」の品質の原点にあると確信します。
 
 
以上で「馬頭観音が教えてくれる事」のレポートを終了します。
また明日から、日記を兼ねたエッセイを続けます。
 
 
 
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路傍に祀られた馬頭観音の大半が馬の墓標塔です。
例えば伊那街道仏坂峠には数多くの馬頭観音が並んでいます。
この峠は三河の産物と伊那の産物とを運ぶ道でした。
馬が荷役に供されていました。
加えて、明治37年には山津波が発生して、棚田が押し流されてしまいます。
人々は離村せず、石を積み上げ棚田の復活に精を出します。
結果美しい「細谷千枚田」が復活しました。
その千枚田を見下ろす位置に30体近い馬頭観音が祀られています。
数体には馬の特徴、栗毛だとか、青毛だとか、刻まれています。
その脇には馬の没年が刻まれています。
愛馬は苦役に耐えて良く頑張ってくれた・・・・・、でも亡くなってしまった。
哀惜の想いが馬頭観音を建てさせたのでしょう。
でも、哀惜の想いだけではなさそうです。
 
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     伊那街道 細谷千枚田。 棚田を見下ろす位置に馬頭観音群が祀られています。
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        細谷千枚田の馬頭観音群
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                          細谷の馬頭観音
 
北海道新冠の牧場に行けば、沢山の競馬馬の墓標が建っています。
ハイセイコーは明和牧場に、テンポイントは吉田牧場に・・・・眠っています。
フランスに詳しい人に訊きましたが・・・・・・・、英仏は競馬の故郷ですが、名馬の墓は無いそうです。
日本だけが馬が亡くなると馬を供養します。
私は馬が亡くなると供養するのは、馬への哀惜の想いだけではなく、
もっとポジティブな思いが籠っていると考えます。
それは、また次の馬を求める・・・・、
その馬が亡くなった馬と同じように健康で従順で、良い馬に恵まれたい・・・・そう祈願するからでしょう。
「供養は再生への祈願」だと思います。
馬の魂も人間の魂と同じように「死→供養→再生」と輪廻すると考えられたからでしょう。
そんな死生観があるから・・・・、日本人だけが馬の供養を心を込めてするのだと考えます。
キリスト教などでは、馬は創造主が人間の為に作られたものだから・・・・・、
亡くなっても供養する気持ちが起きないのでしょう。
墓地で馬や犬のレリーフは良く見かけます。
死者が馬や犬が好きだったのでしょう。
 
 
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                     望月の春日百番観音。馬頭観音が主尊です。
 
 
蓼科山の西の山襞に春日温泉があります。
春には辛夷が咲いて、山桜が咲く美しい里山です。
寛永6年(1629)飯塚勘右エ門はこの一帯を開発して「岩下新田」とします。
もう少し東、佐久には有名な五郎兵衛米の五郎兵衛新田も出来ました。
岩下新田はその名前の通りに、新田の最深部(山側)に大きな岩屋があって、
岩屋の裂け目から水が湧いていました。
その岩が霊感を呼び覚まします。
この岩屋に馬頭観音を祀りました。
そして新田の開発成功と穀物の豊穣を祈願しました。
 
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  春日の岩下新田、手前の川の上流に馬頭観音が主尊に祀られた「春日百番観音」があります。
 
木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は桜のように美しいお姫様です。
天照大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと/稲の神様)と結ばれます。
この二人の神の合体によって稲の豊作が約束されるのです。
 
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   大和盆地の水源、長谷や室生は桜の名所です。
   水源は聖なるところで、命が産まれます。さくらに宿った命がお米に再生すると考えました。
 
山桜の花が散る頃、田植えをします。
それは、桜の花が散って・・・・、命が稲として再生すると信じられていたからです。
だから、さくらとは「さ/田の神」の「蔵/くら/無数に居る」場所という意味と云われています。
さくらの花の散る姿は、花の死を哀惜すると言うよりは、
稲の命の再生を祝福する・・・・そんな光景なのでしょう。
 
馬が亡くなっても・・・・、供養する事に依って・・・・、また新しい馬を賜りたい・・・・、
そんな祈願が馬頭観音を祀らせたものと思います。
それは、命が循環するとする「死生観」です。
 
三河の岡崎から中馬街道に入った瀬戸市品野町には綺麗に彩色された馬頭観音が祀られています。
多分この道は塩の道として糸魚川に繋がります。
途中には彩色道祖神で有名な安曇野があります。
彩色の風習が伝播したのかも知れません。
九州宮崎や鹿児島には彩色された田の神が祀られています。
田の神も道祖神も馬頭観音も毎年彩色するのは、神の力を毎年新しく覚醒して戴く為でしょう。
稲の生命力を毎年覚醒して戴くのと同じように・・・・。
それも大きな意味では穀物の死生観によるものです。
 
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                     瀬戸市品野町の彩色馬頭観音、九州の彩色「田の神」を髣髴させます。
 
明日は「道具の死生観」を説明します。
筆塚、茶筅塚、針塚など道具を葬るのは日本人に固有の風習だと思います。
 
 
 
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昨日まで説明した事は一般に謂われている事で、読者も異論は少ない事でしょう。
今日からの説明は私の推論が主でありあります。
また、馬頭観音を素材に日本文化を論じるとき、最も興味深い処です。
屹度読者の異議も出る事でしょうが、お付き合い下さい。
 
飛鳥時代、日本に仏教が伝わりました。
この時代の仏教は顕教と呼ばれ、言葉や仏像・絵などで教えられるものでした。
時代が下って社会や人心が混乱してくると、密教が台頭します。
個人の心や社会の混乱を救済するには、言葉では言い表せない・・・・・・。
体験が優先される、加持祈祷も重要になる・・・・・、密教が盛んになります。
密教隆盛の中で馬頭観音が信仰されます。
何で密教隆盛の中で、沢山ある仏像の中から馬頭観音が日本人のハートを掴んだか・・・、
それが興味の始まりです。
 
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                    三河の馬頭観音、日なたで眠っておいでのようです。供養塔でしょう。
 
【埴輪馬は聖なるものの乗り物】
その興味を紐解くのは仏教伝来以前にあります。
もともと、日本人は馬に対して特別に熱い思いを持っていたのでした。
 
弥生時代後期になると、古墳に馬の埴輪が埋められるようになります。
この馬が何故埋められたのでしょうか?
馬が農耕に使われたのは近世になってからです。
馬具を見ればわかります。
鞍や手綱があって、乗り物であることが解ります。
そして沢山の鈴が付いています。
岩手の「チャグチャグ馬っこ」と同じ意匠です。
鈴は魔除けです。
ですから、古墳の主は聖なる人であり、埴輪馬は聖なる主人の乗り物です。
馬は神様か巫者の乗り物です。
邪馬台国の卑弥呼が馬に乗っていて、崇められる光景を思い浮かべてください。
聖者を象徴させる道具が馬だったのでしょう。
神馬は少し大きな神社なら必ず祀られています。
 
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馬の埴輪には乗り物としての道具と聖なるものの乗り物であることを示す鈴が付いてます。
 
【絵馬は神仏への貢物】
馬は太古かた神様への貢物として使われました。
でも馬は大きいですし、高価です。
誰しも神にお願いするたびごとに馬を貢ぐことが出来ません。
そこで、絵に描いた馬(絵馬)を用意しました。
その習慣からでしょう、神様への願い事、御礼を「絵馬」と呼ぶようになりました。
湯島天神では菅原道真公の描かれた絵馬に願い事を書き、
御礼には「馬の絵馬」が使われています。
新造船の安全祈願も絵馬で、恵比寿様の願い事は恵比寿様の絵や鯛の描いた「絵馬」を奉納します。
 
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松本牛伏寺の絵馬
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東京湯島天神の絵馬。祈願は道真公、御礼は幣の乗った白馬が描かれています。
 
【馬は洋の東西聖者に関係しました】
聖徳太子は蘇我馬子が崇峻天皇を殺した危機の時代に登場します。
推古天皇(女帝)摂政として実務を執りました。
聖は女帝の推古天皇、俗(行政)は男性の聖徳太子が分業しました。
 
聖徳太子は、馬屋の前で産まれたので「厩戸皇子」と呼ばれます。
この名はキリスト教の影響もあろう・・・、よく言われます。
キリストは馬屋の中で産まれました。
馬は聖者には縁が深いのです。
 
そんな想いが現代人にも残っているのでしょう。
平山郁夫氏は出世作「仏教伝来」には二頭の馬に三蔵法師を乗せました。
お盆で祖先の霊を迎えたり、送ったりするのは胡瓜で作った馬です。
 
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  飛鳥橘寺が聖徳太子(厩戸皇子)の誕生地です。キリスト生誕を思わせる故事です。
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      平山郁夫氏の仏教伝来。聖者は馬に乗って仏教を伝えた・・・・、描かれました。
 
日本人は仏教伝来前から馬にたいして「聖なるものの乗り物」として畏怖の念を抱いていました。
その畏怖の念は現代も変わっていません。
ですから・・・・、仏教が伝来して、仏教を受容する中で「馬の顔を冠した観音」は親しみやすかったのでしょう。
この感覚は、その後武士が支持した中世も、庶民が支持した近世も変わらないものだったのでしょう。
だから中世は軍神として馬頭観音が登場し、
近世は馬の守護仏等として信仰されたのでしょう。
馬頭観音を紐解くと、仏教伝来以前の信仰に辿り着きます。
 
明日は「馬と桜」の関係を説明します。
どちらも稲作には欠かせない要素です。
 
 
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昨日は「馬頭観音への興味の原点」を説明しました。
一言で言えば「世界中で日本人だけが、馬を人間と同じように葬っている」という事です。
だから、馬頭観音を調べれば、日本文化の特質が良く理解できる・・・、そんな視点でした。
それでは、馬頭観音とはどんなものなのか、説明いたします。
 
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                           江の島道腰越の馬頭観音、人参が供えられていました。
 
【馬頭観音の誕生】
釈迦は北インドで仏教を始めます。
釈迦の教え(原始仏教)は偶像を禁止します。
偶像などを作らず「自分と同じように修行し貴方もも仏になりなさい」そんな教えですから、
偶像自体が邪魔と思われたのでしょう。
唯一認められたのが釈迦の足跡を刻んだ「仏足石」でした。
釈迦と同じように修行して、釈迦の足跡を追って、仏になる・・・・、そんな生き方を示唆したものでした。
仏教が広まってインダス川流域からカシミール渓谷(ガンダーラ)にひろがります。
其処はギリシャ文化が浸透してきていました。
そこで、人間釈迦を像にしようとします。
「王子釈迦像」「修行をする釈迦」「山を下りる釈迦」等が刻まれます。
仏教はガンダーラから、チベット・ネパールに伝播します。
馬が草原を疾走する世界でした。
チベットにはヒンドゥー教が信じられていました。
ヒンドゥー教は「ヴィシュヌ神」が宇宙を司る最高神であります。
馬頭を冠した神であり、衆生の無知・煩悩・諸悪を排除する神でありました。
馬が雑草を根こそぎ食い尽くすように・・・・・、人間の煩悩や欲望を断ち切る事を教えました。
優しくしていては根の深い要望・煩悩は断ちきれません。
牙をむき怒髪天を衝く憤怒の姿をしていました。
ヴィシュヌ神が仏教に取り込まれ、馬頭観音が出現しました。
他の多くの菩薩や明王・天と呼ばれる眷属も西域から中国で形になったと思われます。
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    太宰府観世音寺の馬頭観音、日本最大5mを越える巨像、立像です。j平安時代中期
 
【日本に伝播した馬頭観音】
(平安時代)
日本で馬頭観音が盛んに造像されたのは貞観時代、密教が盛んになった時代でした。
社会の混乱・国家の綻びが目立ち始め、宇宙的な神秘的な力を持って混乱を治めようと始めた時代でした。
同時に中国文化の模倣を断ち、国風文化が培養される時代であります。
馬頭観音が各地で造像されます。
支持した層は国や貴族でした。
「国家の安泰や貴族の平安」が祈られました。
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       京都浄瑠璃寺の馬頭観音像、鎌倉時代善派の作品と言われています。馬頭と馬頭印を除けば
       不動明王と見間違います。
 
(鎌倉時代)
各地に地方豪族や武士が台頭します。
当時の戦いは武者が馬に乗って人馬一体になって戦われました。
馬頭観音は軍神として奉じられました。
 
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   千葉木更津の高倉観音道の馬頭観音。帝釈天のように馬乗りである所が特徴です。(帝釈天は像ですが)
 
(江戸時代)
室町時代には500万人程度であった人口は、江戸時代の農業革命によって3000万人に爆発します。
人口爆発を可能にしたのは牛馬を使った農業(農機具の開発・灌漑事業の盛行)にありました。
重要な役割を果たした馬でしたから・・・・・、様々な形で、様々な場面で奉じられました。
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                       鳳来寺に近い細谷部落の馬頭観音/伊那街道に近く馬の守護仏です。
 
①先ず第一は大切な馬の守護仏でありました。馬が亡くなれば馬を慰霊する仏として馬頭観音が選ばれました。
私達が路傍で見る馬頭観音の過半が「馬の守護仏」であります。どれも優しい表情をしています。
お地蔵さんのお馬さん版のような存在です。
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     藤沢の街中(八王子街道)に面した馬頭観音。村に厄病が入らないように「賽の神」でありました。
 
②次に目立つのは「賽の神」としての馬頭観音です。村境であって村に厄病などが来ないように番人の役割を果たします。ですから、三面六臂の畏怖する表情です。
 
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   長野東御から群馬鹿沢温泉までの街道(湯の道街道)の50番は馬頭観音です。湯地客を招く道標
   として明治2年(1869)から建立されました。
 
③次に目立つのは道標としての馬頭観音です。
江戸時代になると旅が盛んになります。
旅人が道に迷わないように、旅人の安全を祈願して道標が建てられました。
千葉の高倉観音の道標は見事な「馬乗り馬頭観音/上掲」です。
 
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                       中山道姫街道の発地にある馬頭観音の字塔。
 
④馬が亡くなると、「穢多非人」と呼ばれる士農工商の下に置かれた階層の人が解体し処分しました。
巨大な「馬頭観音」刻まれた字塔は死んだ馬の置き場でした。
字塔の下に置かれた馬の死骸を穢多が引き取り、解体して皮等有益な部分は利用しました。
 
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     奥三河細谷の馬頭観音、青とか栗毛とか・・・馬の特長が刻まれています。
     愛馬の墓標です。
 
⑤奥三河細谷の千枚田には30基余りの馬頭観音が祀られています。
山津波で棚田が流されてしまいました。
棚田復活のために馬が酷使されました。その馬の墓標です。
墓標には栗毛だった、青(灰色)だった・・・・、馬の特長が刻まれています。
また、北海道の開拓使村(屯田兵村)にも優れた馬頭観音が祀られています。
何れも、酷使された馬の慰霊を目的にした馬頭観音です。
 
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 横浜根岸競馬場、この右下のトレーニング場にかけて2基の墓標が祀られています。何れも馬頭観音です。
 目黒競馬場が焼けた時無くなった競馬馬の墓標は府中に移転しました。
 
⑥江戸周辺には馬頭観音が目立ちます。
目黒銀座には立派な馬頭観音が祀られています。
この辺りは馬の飼育が盛んであったうえに、、目黒競馬場もありましたから・・・・。
競馬馬の墓標としての馬頭観音も目立ちます。
 
中原街道、洗足池周辺にも馬頭観音が幾つもあります。
農夫は朝野菜を大八車に乗せて江戸市中に売ってまわります。
帰りには肥え(人糞)を集めて帰りました。
その大八車の動力は馬でした。
そんな馬が亡くなると街道沿いに墓標を立てました。
墓標であり、道標を兼ねています。
江戸時代の馬頭観音の目的は様々ですが、建立した階層は一般農民でありました。
 
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   中原街道洗足池妙福寺の馬頭観音像、基台に道標として「南/大師」北/碑文谷」等と刻まれています。
 
西域で仏教に組み込まれた馬頭観音が日本に伝播し、国風化の中で定着しました。
そして古代、中世、近世と劇的に変化してきます。
普通の文化は支持階級が没落してしまうと、その文化も消えてしまいます。
ところが、馬頭観音だけは、時代時代に支持階級は異なっても盛んになって行きます。
其処が不思議で、その理由が大切です。
明日以降は、何故馬頭観音が日本で定着して、変化して・・・・・、盛んに信じられたのか?
そんな事由を説明いたします。
其処が一番面白いところです。
 
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