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箱根「湯の坂道」は箱根駅伝の見せ場です。
22キロ余り、箱根湯本で襷を引き継いだ5区ランナーは、一気に上り道を駆け上がります。
最高地点は「芦之湯温泉」です。
温泉を超えれば、あとは芦ノ湖に面した元箱根の往路ゴールまで下り道、転がるように走り抜けます。
その途中、精進池の畔に石仏群が800年もの間佇んでおいでです。
箱根駅伝のコース(湯の坂道)から見た駒ヶ岳、手前は精進池。池の東岸に石仏群が祀られています。
小学校、4年生の夏でした。(昭和31年)
芦之湯の紀伊國屋旅館で2泊三日の林間学校がありました。
明治天皇が泊まられた老舗旅館でしたが、その頃は林間学校の生徒も受け入れていたのでした。
何しろ、大部屋が沢山ありましたから、小学生を詰め込むには適していたのでしょう。
大部屋や長い廊下は子供心に興奮しました。
夜になると、庭の池に沢山の源氏蛍が飛びました。
誰かが言います。
「あれは人魂なんだよ!此処は沢山の人の霊が集まる場所なんだよ・・・・」
翌朝、温泉から駒ヶ岳に登りました。
山頂で強い風にあおられて・・・、六つはぎの帽子を飛ばされました。
母には叱られました。
「帽子は高かったのだから・・・・」
その様子を見ていた兄が言ってくれました。
「夏休みの宿題に駒ヶ岳のジオラマを作ろう・・・!」
25万分の1の地図を買って、等高線にそってボール紙を切り取ります。
数十枚のボール紙を地図通りに積み上げれば駒ヶ岳の立体図ができました。
絵の具を塗って、透明ラッカーで保護すれば見違えるほどに綺麗になりました。
兄の指導を受けましたが・・・、夏休みの宿題では一番の評価を受けました。
芦之湯温泉紀伊国屋。現在ミュージアムとなっています。
右側の碑は明治天皇・皇后ご休息の記念碑です。
高校、大学と芦之湯温泉には思い出が詰まっています。
とりわけ大学の時、日本文化研究会の浅子教授に連れられて、箱根石仏群を見学しました。
その時の感動は今も鮮明です。
私の石仏への関心も、姿勢もこの時に教わったものでした。
銀行員になってしまった私でしたが・・・、今も感謝の気持ちが詰まっていますし、
時々、この箱根石仏群を見学に来ます。
(以下は以前に書いたブログ)
この石仏群は鎌倉長谷寺の開基「忍性」が、奈良元興寺で活躍していた石工集団「大蔵安」を招きました。
鎌倉から見れば箱根は都との境目、加えて芦之湯の一帯は荒涼とした湿原で、温泉が湧き出ていました。
近くには地獄谷(大涌谷の古名)もあるし・・・・・・、綺麗な池もありました。
池の周囲にはゴツゴツとした大岩が突き出ています。
溶岩が地中で冷えて出来た安山岩です。
岩の中でも精進池の北側、ピラミッドのような大岩が石工「大蔵安」を刺激しました。
芦之湯の地蔵石仏群(通称25菩薩)、三角錐の大岩の下部に阿弥陀如来が彫られていま す。他の菩薩は総て地蔵菩薩です。
駒ヶ岳の山頂から阿弥陀如来が24地蔵を従えた・・・「立体来迎図」でありましょう。
当時も都では阿弥陀来迎図が人気でした。
阿弥陀様が天上から、山頂から、雲にのって衆生を救済にやってくるのです。
阿弥陀如来は沢山の菩薩を従えています。(24菩薩)
その中には、誰も乗っていない蓮台(仏座)を捧げている菩薩や天女がいました。それは、いま現世を去ろうとしている人の魂を乗せる「席」でした。
でも、此処は地獄谷ですし、大蔵安は地蔵を信仰していました。
そこで、24菩薩は全て地蔵菩薩にしました。
阿弥陀如来を最大にして、西を向かせ、その背後に天女を一人置きました。
天女には蓮台を一つ持たせて、
「さあ!どうぞお乗りなさいな・・・!」
腰を屈めて蓮台を差し出させました。
地蔵尊の左上に天女が一体彫られています。これは魂を乗せる蓮台(仏座)です。
何時もは午後にこの石仏群を訪れます。
理由はこの石仏群が西向きに立っているからです。
でも、今日は躑躅見物の途上です。
まだ昼前ですから・・・・、主尊の阿弥陀様は日陰でも、裏の石仏群にはお日様が当たっています。
何時もは見落としてしまう地蔵尊を見つめられます。
東向きの地蔵尊には庇がかかっていた事が解ります。
今の国道1号線の位置に「湯の坂道」が通っていて、
拝観者は其処から少し降りてきて石仏群の前に出たのでしょう。
今の六道地蔵や臼杵の大仏のように、石仏は風雨に曝さない様に庇が囲っていたのでしょう。
地震が起きる度に、箱根石仏群は大丈夫だろうか?
気掛かりです。
昨年の3.11東日本大地震でも・・・・・、大丈夫でした。
大きな宝篋印塔(多田満仲の墓 永仁4年(1296年)の銘がある)は少しも傾いていません。
箱根の安山岩は黒いものの、硬いのでしょう。
加えて奈良の石工の腕が良かったのでした。
関東の石仏は大半が江戸時代以降です。
本格的な都の石工、それも鎌倉時代の石仏は貴重ですし、美しい、と思います。
とりわけ、四季色々と変わる箱根の景色の中にあると、様々な表情を見せてくれます。
多田満仲の墓(宝篋印塔) 精進池の池畔にあります。
北面のみ如来が彫られていて残りの面は梵字です。
精進池の池畔にある通称八百比丘尼の墓。宝篋印塔の上部が欠けています。向こうの山 が駒ヶ岳。阿弥陀如来は24の地蔵菩薩を従えて、山頂から衆生の魂を迎えに降りて来た ・・・、そんなロケーションで石仏群はデザインされています。
箱根地蔵石仏群の東面野全容。中央二尊の上部に庇を付けた遺構(庇穴)が見えます。
拝観者は道路から池の淵に向けて3メートルほど下って、この庇の前から拝んだと思います。
石仏群の背後に見える白い花は「藪てまり」でしょうか?所々躑躅も見られます。
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石仏ウォーキング
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街道に佇み、また結界を守護する石仏を行脚します。忘れられた石仏の気持ちになって、信仰を忘れた現代人に語りかける、そんな積りです。
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5月20日(日)、躑躅を見ようと箱根に出かけました。
小涌谷の三河屋旅館や蓬莱園の躑躅はもう盛りを超えてしまっていました。
花を追って、箱根山を上に上に追って行くと、芦之湯温泉辺りが花の盛りでした。
日本武尊も箱根を超えて、東征の旅をします。
箱根の温泉は奈良時代には使われていました。
戦国時代には負傷した兵士の湯治場にもなったでしょう。
江戸時代には湯治場として、避暑地として人気が盛り上がります。
箱根湯本から早川の渓谷に沿って芦之湯まで7つの温泉が繋がりました。
この湯治場を結ぶ道が「湯の坂道」と呼ばれ、現在の国道1号線になっています。
湯の坂道には沢山の石仏が祀られています。
何といっても芦之湯の背後「精進池」の池畔には地蔵石仏群があります。(鎌倉時代国の重文)
そして江戸時代には湯治客を出迎え、見送る位置に道祖神が祀られています。
屹度、湯治客が沢山来て欲しい、そして彼等の旅路の安全を見守ったことでしょう。
箱根地蔵石仏群
塔之沢温泉から湯の坂道を分岐して、仙石原に向かう道に入ります。
高台の上が強羅温泉です。
強羅は先ず箱根登山鉄道を開発して、強羅駅の周辺を別荘として開発しました。
東急グループの多摩田園都市と同じ開発手法です。
鉄道敷設投資を沿線の開発利益で回収します。
強羅温泉は箱根の主峰「神山」の山麓にあって、向かいが箱根外輪山を眺望します。
修験道の霊山「明神ヶ岳(大文字山)」「明星ヶ岳」が真正面です。
明治中頃の開発でした。
手前が宮城野温泉、高台の上が強羅温泉。高い山が神山、神山の横腹の噴火口が「大涌谷」
大正時代になると強羅の真下、早川の渓流沿いに宮城野温泉を開発します。
主として企業向けに「社員保養地」として分譲します。
屹度この辺は萩の花が自生していたのでしょう。
宮城野は萩の枕詞です。
でも、歴史のある箱根の温泉群の中にあっては、最も新しい温泉地です。
宮城野温泉も江戸時代に習って、夫婦道祖神を祀りました。
道祖神は3箇所、合計5基ありました。
箱根ビジターセンターで貰った石仏マップを片手に、
明神ヶ岳の登り口を道祖神を探して歩き回りました。
道祖神には「何時、誰が奉納したか」刻まれていることが多いのですが、此処の道祖神にはそれがありません。
歴史の深い箱根で「大正時代」は刻みたくなかったのでしょうか?
でも、道祖神の周囲の住人に聞けば直ぐにわかります。
勝俣家の庭先の夫婦道祖神は大正12年1月14日に勝俣末次郎氏が奉納したものだそうです。(上の道祖神)
そして、今も毎年小正月の1月14日に盛大に火祭りが催されるそうです。
大きな飾り小屋(オンベ)を建ててその周りに門松や達磨を集めて、燃やします。
住宅地の中で、道も狭いので火祭りといっても、大磯や湯河原の左義長のような勇壮な火祭りではありません。
道祖神の目の先、まるで眉を焦がすような位置で門松等を焼いてきました。
3基の道祖神のうち諏訪大社の参道に近い「向かいの道祖神」のお顔は欠けてしまっています。
お顔のあった辺は煤けています。
屹度火祭りの炎が道祖神のお顔を焦がしてしまったのでしょう。
石は火と氷に弱いのです。
焼けてしまって・・・、ボロボロとお顔が剥がれてしまったのでしょう。
廃仏毀釈等で壊されたのではありません。
しっかり祀った結果、壊れてしまったのですから・・・、自然な事です。
向いの道祖神。火祭りでお顔が壊れてしまったようです。
道祖神のある辻、向かいの山が神山で、高台が強羅温泉です。
宝珠院の門前の辻にも2基の夫婦道祖神が祀られています。
どちらも同じ頃(大正時代)に、同じ石工が刻んだものでしょう。
同じような意匠で(男女神共に神主の姿)、同じ彫技で彫られています。
何といっても、大きな楕円の石を深く彫って、神像の全身が浮き上がっています。
宝珠院前の「東の道祖神」
湯河原から伊豆半島にかけて道祖神は、地蔵のような比丘頭、袈裟を着て、一体です。
そして、箱根の麓小田原から足柄にかけての一帯には僧形の双体道祖神が目立ちます。
すぐ近くにありながら、時代と地域によって道祖神は随分変わっています。
・・・、だから道祖神は奥が深いのです。
文化はローカルで無ければ面白くありません。
全国何処に行っても同じデザインの店舗で、同じ サービスが提供される。
価格も同じ・・・、グローバル企業の戦略でしょうが・・・、
もう、私たちはそんな消費文化に飽きてきています。
箱根宮城野の夫婦道祖神は未だ80歳足らずです。
でも、まるで江戸時代から此処にあった様な顔をして、風景に馴染んでいます。
是非、お立ち寄りください。
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神奈川県で最初に秋色が深くなるのは箱根です。
そこで、家内を誘って箱根に出かけました。
大震災で行楽客も減ったのでしたが、流石にシルバーウィーク、賑わいも戻って来ていました。
箱根は交通の難所でした。
古代は箱根越えを避けて、北の足柄峠を越えて、都と相模は結ばれていました。
鎌倉時代になると、早川沿いの道が開発されます。
道は急峻でした。
最高地点に芦の湯があって、その先に精進ヶ池がありす。
池から急坂を下れば芦ノ湖です。
源頼朝は再三この道を通って、箱根権現(現箱根神社)三島大社等に詣でました。
この道沿いには温泉が点在していました。
そこで江戸時代遊山客が多く通り、「湯坂道」と呼ばれました。
今日の話題は箱根精進ヶ池畔の地蔵石仏群の話です。
江戸時代、湯元温泉の南側、須雲川沿いの道が整備されました。
この道が東海道になりました。
湯坂道に比べれば、少しは歩き易い道だったのでしょう。
畑宿や甘酒茶屋などが旅人を迎えました。
今も林間に石畳が残っています。
現代人にとって、石畳道は中々歩き難い道です。
箱根旧道石畳の道
箱根湯元の正眼寺には巨大な地蔵像が祀られています。
今日お話する精進ヶ池の畔にも地蔵が多く祀られています。
箱根には地蔵信仰が盛んになる、そんな景色があります。
箱根湯元の正眼寺には大小様々な地蔵菩薩が祀られています。これは明和年間(1700年半ば)の作です。
鎌倉時代、都の歌人飛鳥井雅有は紀行文「春の深山路」を書きます。(1280年)
その中で箱根をこう書いています。
「この山には地獄とかやもありて、死人常に人に行きあひて・・・」
旅人にとって、箱根山はこの世の果てで、地獄もある、と思われていたのでしょう。
湯坂道は両子山と駒ケ岳の間をすり抜ける道です。
強い風が吹き抜けるので木は育ちません。
藪が広がっています。
殺伐とした景色の中に精進ヶ池があります。
池の向こうに駒ケ岳が眺められます。
旅人は池の畔が三途の川、死人の魂は駒ヶ岳の頂に棲むものと考えたのでしょう。
餓鬼(成仏できない霊)は喉が渇きます。
精進ヶ池に水を飲みに下ってきます。
そして、山の頂に戻ります。
精進ヶ池、正面左に駒ケ岳、左に両子山が聳える。池畔の散策路に突き当りに地蔵石仏群が祀られて います。その上道路が国道1号線。相応の交通量ですがトンネルがあるので国道を忘れてゆっくり散策 できます。
池の畔に巨岩が露出していました。
巨岩はピラピッドのような形をしていました。
岩は西向きで、太陽は精進ヶ池の向こうに沈みました。
巨岩は夕陽で朱く染まりました。
巨岩は霊気、神気漲るものがありました。
三角錐の巨岩の西側の面に石仏が彫られています。岩に舟形を彫りくぼめてそこに 厚肉彫りで彫られています。山城当尾の石仏群に匹敵する秀作です。
奈良西大寺の叡尊の弟子に「良観」がいました。
良観は貧者や病者の救済事業を、治水土木事業を良く行いました。
奈良から鎌倉に下って極楽寺において救済事業を始めることに致しました。
名前を忍性に改めていました。
鎌倉下向に際して、奈良の石工集団「大蔵」から「大蔵安氏」を連れていました。
大蔵安氏は寄進者に石仏や五輪塔等を彫って差し上げていました。
社会事業にかかる資金は先進地奈良の石工の技によって捻出されていました。
下段中央が阿弥陀如来立像(96センチ)、左に地蔵菩薩像(90センチ)。地蔵菩薩像は大小25体あり ます。阿弥陀如来が25の地蔵を従える「聖衆来迎図」です。
忍性には、険しい箱根街道を整備する仕事がありました。
また、荒涼として地獄の様相であった精進ヶ池を怖くない場所にする事も大切と考えました。
幸いなことに精進ヶ池の畔に例の巨岩がありました。
このピラミッドを使って地蔵菩薩を彫ることにしました。
石工は先の大蔵安氏でした。
デザインは「阿弥陀聖衆来迎図」をヒントに、阿弥陀地蔵来迎図に決めました。
一般の阿弥陀来迎図は阿弥陀如来がお立ちになって、観音菩薩や勢至菩薩をはじめ沢山の菩薩を従えて、
死者の魂を迎えに天上から降りて来られる絵です。
箱根では、阿弥陀如来の他、菩薩像は総て地蔵菩薩にしました。
地蔵菩薩は25体,阿弥陀様を含めて26体を彫りました。
地蔵菩薩を祀る・・・、その資金は「地蔵講結縁衆」が拠出しました。
地蔵講とは地蔵信仰を共にする信者集団の組織のことでした。
数名のお金持ちの善意で地蔵を祀るのではなく、
沢山の人々が資金を供出しあって、奈良の石工による尊い地蔵を彫って貰ったのでした。
地蔵講の集まった人達の先祖が地蔵様の導きで成仏できるように、
そして自分達も現世でも幸いがあるように、旅人が安全に箱根を越えられるように、祈願しました。
(この段根拠は巨岩の脇に、「永仁元年(1293)癸酉八月十八日 一結衆等敬白 右志者為各□聖霊法界衆 生平等利益也」の記銘かある。)
江戸時代、芦の湯には沢山の文人が逗留しました。
芭蕉もその一人でした。
芭蕉は湯元の正眼寺に泊まって、芦の湯に逗留しました。
芦の湯には東光庵と言う「文人サロン」も出来ました。
文人達にとって精進ヶ池は宿から近く、格好な散歩コースにありました。
大蔵一派による巨大な五輪の塔が3基ありました。
何時しか、1基を虎御前の墓と言い、並んだ2基を曽我兄弟の墓と呼ぶようになりました。
江戸っ子にとって、箱根のヒーロー、ヒロインはこの三人をおいて他はありませんから。
彼らの墓は大磯の鴫立庵をはじめ、東海道の其処此処に出来上がりました。
芦の湯の文人サロン「東光庵」。現庵主は中曽根元首相です。
初秋の精進ヶ池はススキの穂が光っています。
散策路には嫁菜やホトトギス、吊り船草の花が咲いています。
私が最初にこの地蔵群を見学したのは昭和43年、故浅子勝次郎教授に連れられて来た時の事でした。
当時は散策路など整備されていなくて、国道1号線を行き交う車が神経を逆なでしていました。
浅子先生の穏やかな説明もそぞろに聞いていました。
今は国道の下にトンネルが2本出来ています。
静に季節に溶け込みながら石仏を巡る事が出来ます。
勿論、本格的な石仏ですから、他に匹敵するものも無い見事な出来栄えです。
嫁菜が咲いた散策路
散策路にある宝篋印塔、一般には八百比丘尼の墓と言われています。多分、江戸時代、芦の湯の 紀伊国屋旅館(?)など頭の良い人が言い出したものでしょう。 後ろが駒ケ岳。
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今朝(11月11日)は冷え込みました。
紅葉前線の動向が気になります。
実は一昨日、紅葉の気配を調べに箱根に出かけてみました。
今日の報告はその時のものです。
従ってこの寒さで、箱根のお山は紅葉の見頃が来ている事でしょう。
(箱根芦之湯東光庵薬師堂前の紅葉/11月9日)
箱根の温泉町は早川の渓谷に沿って点在しています。
麓の湯本温泉から、塔ノ沢温泉、堂ヶ島温泉、宮ノ下温泉、底倉温泉に木賀温泉、
最も奥で、高い位置にあるのが芦之湯温泉です。
これをあわせて「箱根七湯」と呼ばれ、江戸をはじめ関東一円から湯治客を集めていました。
湯本温泉では紅葉はまだまだ、宮ノ下辺りでは梢の先がちょっぴり、
そして小涌谷小脇園では5分の色づきでした。
この分なら、芦之湯では紅葉も盛り・・・期待されます。
(平成13年再建された東光庵、熊野堂境内にあります)
私は芦之湯には思い出があります。
小学校の夏休み林間学校で訪れたのでした。
古い大きな旅館(多分松坂屋)があって、此処を拠点に、
駒ケ岳や双子山に登りました。
夜は草原に出て、ファイヤを囲んで、満天の星座を仰ぎ見ました。
あの芦之湯にこれほど豊かな歴史資産があったとは思いもよりませんでした。
(東光庵入り口に立つお地蔵さん、”お越し下さり、お疲れさんでした”と迎えてくださっているようです)
箱根七湯で最も賑わったのが芦之湯だったのでした。
最も高く涼しかったから、硫黄の強い香りがして、湯治の効果が高かったから、箱根権現に最も近かったから・・・・、色々理由はあったものでしょう。
でも、その理由の一つに芦之湯の湯宿の主人の才気が上げられましょう。
(女性?の羅漢像、果たして誰を模したものか?
七つもの温泉があるのですから、各々が個性を出して競い合います。
松阪賢全(松坂屋主人)、勝間田茂野(芦之湯主人)は熊野堂(箱根権現支社)の境内に東光庵を建築します。
此処を湯治客のサロンにしたのでした。
湯治客になるべく長く逗留してもらう、そのためには、碁や将棋、句会や茶会をする施設が期待されます。
江戸の文人墨客が集まりました。
彼等には境内に句碑や歌碑を残してもらいました。
賀茂真淵、蜀山人、安藤広重、本居宣長、などが逗留しています。
湘南の俳句道場として有名であった鴫立庵(大磯)とも庵主兼任してもらうなど、交流も盛んでありました。
(しばらくは花のうえなる 月夜哉 芭蕉、鴫立庵庵主の建立)
そんな芦之湯も次第に賑わいを失ってゆきます。
東光庵も次第に廃れ、明治15年朽ち果ててしまいました。
宮ノ下富士屋ホテルが、焼失、明治17年再建されたわけでしたから、湯治場としては時代に遅れたのでしょう。
忘れ去られていた芦之湯東光庵には盛んであった時代の歌碑や句碑、16羅漢像などが残されていました。
箱根町は東光庵跡を史跡に指定、礎石を探し出し整備に乗り出します。
平成13年120年ぶりに東光庵は再建されます。
庵主に中曽根康弘元首相に依頼します。
(中曽根元首相は東光庵の再建に、そしてその後の活動に貢献していられるようです。この句は日暮を吟じたもので、なるほど、思わせてくれます)
平成22年10月28日には「東光庵句会」を催します。
”東光庵屋根に秋草遊ばせて” 辰原清子さん(箱根町)
が東光庵主賞を受賞しました。
中曽根元首相も
”長命を畏れかしこみ朴の花”
と吟じました。 (詳細:あしがらネットラジオ)
(東光庵の大棟はススキが茫々で・・・・)
東光庵西側の岩場には16羅漢像が置かれています。
テンデンバラバラの姿が楽しげです。
どの、羅漢さんも寛いで、時間の経つのを楽しんでいるようです。
句を吟じよう、和歌の言の葉を選んでいる様にも見えます。
16羅漢とな名ばかりで、実は自分自身を写しているようにも見えます。
寛いでいるのは蜀山人で、座を正しているのは賀茂真淵かな・・・・なんて思いながら眺めます。
(東光庵室内、土間から見る。1室、囲炉裏が切ってあり、板の間、座布団でも敷いて文人達が囲炉裏の前で団欒した事でしょう。傍らで囲碁に興じたり・・・・しながら)
紅葉は今盛りになる所でした。
今日から3日間くらいが最高でしょう。
ですから、芦ノ湖畔は1週間後という事になるでしょうか・・・・。
楽しみです。
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私が元箱根の石仏群を初めて訪れたのは昭和42年の初冬でした。
大学に入学して、教養で浅子勝次郎教授(故人)の歴史をとりました。
同教授は高校で習う日本通史ではなく、地域や地勢の関連で歴史を捉えら、身近な視点を大切にされていました。鎌倉彫の消長(後藤家)、元箱根石仏群など、神奈川地方の素材を講義されました。
その度ごとに、私が現在属する日文研の学生を連れて、実査授業をしてくださいました。
深い感銘を受けました。
今も教えられた視点が私を動かしているように思います。
(箱根石仏群は曾我兄弟、虎御前の五輪塔(墓標)から始まります。背後は双子山の稜線で、風が強いので灌木しか育ちません)
元箱根石仏群は、箱根駅伝の第5区、箱根の山登りを終えて、
芦の湯温泉を右に見て、芦ノ湖に下り始める、その辺りにあります。
灌木やススキの原の中に、石仏や墓標である五輪塔や宝篋印塔が点在しています。
ススキの原の向こうには精進池があって、そのはるか上に駒ヶ岳が仰ぎ見られます。
木枯らしが吹きすさび、鼻水をすすりながら、石仏を巡りました。
(案内板から・・・・、素晴らしいガイド棟が精進池を見下ろす位置に出来ました)
石仏は、駒ヶ岳から転び落ちた自然石に舟形の光背を刻んで、その中に浮かび上がっていました。
「教授は、何故こんな峠の、辺鄙な場所に石仏があるのか?
考えて見なさい。そして、その自然環境の中にあるからこそ、美しき輝く石仏の美しさ、を知って下さい!」
そんな、メッセージを伝えて下さいました。
でも、自然現象が襲い、トイレを探しながら、早々に退散しました。
昔日を思い起こしながら、久々に箱根石仏群を訪れました。
(精進池、右端が遊歩道、此処に沿って歩くと石仏、石塔が巡れます。どれも鎌倉時代の作で重文です。
正面が駒ケ岳)
箱根石仏群を案内する為に、先ず時代背景等を説明します。
平安時代後期になると全国各地に力のある武士団が割拠し始めます。
箱根の西側、伊豆から三島にかけては北条氏が力を持ちます。
其処から見れば、箱根は北から東にかけて横たわる峰々、
死者の魂は駒ヶ岳に昇ると考えられました。
その山懐には静で綺麗な湖がありました。
火山湖で魚も棲まない池で、その池畔は賽の河原を思わせました。
「此処は地上にある”地獄”だ」確信したことでしょう。
(磨崖仏(俗称六道地蔵)を正安2年(1300)作、発掘調査の結果室町時代には鞘堂の守られていたが野 火で焼かれてしまった。白毫や錫杖は平成の補作。昔は露座であったが今はお堂の中に)
北条の一族は「力こそ時代を切り開く」、いかにも武士らしい気風を持っていました。
蛭が小島に流されてきた源頼朝の力量も評価し、活用します。
奈良興福寺の仏師であった運慶も招いて、力強い不動明王像、阿弥陀如来像(願成就院)を彫像させます。
彼らには願望がありました。
『自分も祖先も死ねばあの箱根山に霊が昇ってゆく。
その途中に賽の河原があって、地獄がある。
其処には魂の行く先を導いてくれるお地蔵様が居てくださらなければならない。
お地蔵様の真ん中には阿弥陀様が居られて、地獄の責め苦が明けたら救済してくださる筈だ・・・・・。』
(八百比丘尼の墓と伝えられる宝篋印塔/部分欠損) 精進池の周囲にはゴロゴロ巨岩が転がっていました。
勿論、箱根山は火山です。
火成岩が長年地中で圧せられて出来たのが花崗岩、大変に堅く美しい石です。
花崗岩は美しい石仏を彫るには最高の石材です。
更に、風化し難いので美しさが長く続きます。
奈良時代末期、仏教が乱れると鑑真を招いて「律」を布教させます。
時代の変革期には人の精神を戒める「律」が重要視されるのでしょう。
幕府は、西大寺の忍性を鎌倉に呼んで、「律」を指導させます。
忍性は極楽寺を創建、律の布教と、社会事業に貢献します。
箱根の峠の地獄では、忍性を導師として、霊地の石仏つくり、石塔つくりは進められます。
こうして、関東以北では最高傑作の石仏群が出来上がって行きました。
時代を切り開こうとする意志を強く持っていた鎌倉武士です。
彼等は古代の人には薄かった「自我」が強く芽生えます。
石仏を彫るに際して、彫像した年を記録、併せて、誰が、何の為に石仏を奉納したか・・・・、
石仏や石塔のの台座や、周囲に刻みました。
だから、私達の想像も膨らみます。
(少し赤味がかっているのは夕陽を浴びているから・・・・花崗岩に刻まれた石仏群)
昔も今も、人は善行だけをしたいと思っています。
でも、鎌倉時代は矛盾に満ちた時代でした。
時代を生き抜いて、力や目標を達成するには様々な悪行も重ねなくてはなりませんでした。
親戚や親兄弟も、御家人仲間も殺しました。
仕方なく行った悪行でも、重ねれば、死後の地獄の責め苦は免れません。
でも、あの世にはお地蔵様が導いてくれる。
責め苦を明ければ、生前の善行もあれば、阿弥陀様が救済に来てくれる筈だ・・・・・。
地蔵信仰の起こりは奈良でありました。
興福寺に近い元興寺が地蔵信仰の中核になっていました。
「大蔵安氏」が率いる「石工集団」がお地蔵さんを盛んに彫って、普及に尽くしていました。
中央の地蔵信仰が地方に伝播するのに時間はかかりませんでした。
信仰を形にする石工集団が呼ばれました。
幕府は大蔵安氏に「箱根に地蔵を」頼んだ事でしょう。
「此処箱根は、鎌倉幕府を開いた武士の魂が漂う霊地だ、その魂を救う仏を刻んで欲しい!」
石工「大蔵安氏」が最初に刻んだのは25菩薩像、(永仁元年・1293年) でした。
聖衆来迎図は平安時代末期から盛んに描かれていました。
高野山をはじめ、各地の寺院に懸けられた、その絵を転がっていた最大の石に刻む事になりました。
『聖衆来迎図、鎌倉光明寺』 真ん中に阿弥陀如来を刻みました。
普通は阿弥陀様の周囲には観音菩薩や天女が描かれます。
でも、此処は地獄での来迎図、阿弥陀様の周囲は地蔵菩薩だけにしました。
大きなお地蔵様、兄弟のようなお地蔵様、石の面を使って、くまなく刻みました。
結果、25菩薩が出来上がりました。
(主尊の阿弥陀如来)
続いて磨崖仏(俗称六道地蔵)を正安2年(1300)に、
磨崖仏(俗称応長地蔵)を応長元年(1311)に造像します。
昭和42年、私達が浅子先生に連れられて見学したときには、周囲に何もありませんでした。
荒涼とした景色の中、国道一号線の東に西に渡りました。命がけでもありました。
石仏は排気ガスで汚れて、土中に埋もれていました。
ところが、昭和63年から平成4年にかけて学術調査し、
重要文化財に指定されました。
また、保存事業に平成2年に着工、4年に完成しました。
1号線にトンネルを2本通して、安全に石仏石塔巡りが出来るようにしました。
そして、精進池の畔に展望施設を建立、丁寧な説明と、休憩が取れるようにしました。
地元の文化財が大切にされるのは大変に嬉しい事です。
石仏といえば臼杵磨崖仏が唯一、国宝です。
国東、熊野など重文の石仏は数箇所あります。
多くが地方色が強く、密教の色濃く残しています。
しかし、何れも整備が充分ではなく、臼杵始め多くが凝灰岩など痛みやすい石材である事もあって、
損傷が進んでいるようです。
箱根石仏群は保存の状況も良く、説明、見学の体制など実に良く出来ています。
浅子先生も、この施設があれば心行くまで授業をして下さっただろうな・・・・思います。
家内は先刻から強風に目も開けられない・・・・、コンタクトレンズなので、必死の形相です。
山陰が精進池に及んできました。
「賽の河原を巡るのは止しにしません・・・・・」
言います。
悪霊が近くに浮遊し始めた・・・・・そう感じたのかもしれません。
夕刻の箱根地獄は、恐山以上の迫力があります。
右端にあるのが六道地蔵の祀られた鞘堂、その下に国道1号線。道路を渡って精進池、河畔が賽の河原、その上に、周囲に石仏があります。国道下にトンネルがあって、安全に周遊できます。) ブログランキングに参加しています。
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