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古美術ウォーキング

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脳梗塞を発症してから、最初に外出したのは武蔵の「野火止め」の平林寺でした。雑木林の細道を慎重に歩いて平林寺裏の雑木林を巡りました。
あの時の悦びが忘れ難くて、12月4日に平林寺に上ることにしました。
我家からは横浜に出て東横線、地下鉄副都心線、東武東上線と乗り継いで志木駅で降りて、バス(雲雀ヶ丘行き)に乗れば平林寺門前に着きます。東横線から先はFライナーと云う特急で乗り換えなしで着きます。文庫本を読んでいればもう志木です。
学生時代には当時の日文研の指導者だった浅子教授に連れられて、正福寺(東松山)と併せて廻った記憶があります。当時の私の目では正福寺本堂(国宝)と平林寺本堂(都重文)の区別は良く解りませんでした。それでも国木田独歩の「武蔵野」の名文の印象が強くて(原作は小手指の雑木林で古戦場)、青年らしく白秋の落葉松(カラマツ)をクヌギに置き換えて口ずさんだのでした。白秋の落葉松は軽井沢が舞台です。
『からまつの林を過ぎて、 からまつをしみじみと見き。 からまつはさびしかり けり。 たびゆくはさびしかりけり。 二からまつの林を出でて、 からまつの林に入りぬ』
の落葉松をクヌギに置き換えれば平林寺裏の雑木林に最適なのでした。
菱田春草の名作「落葉」を観るような雑木林でした。
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これが菱田春草の「落葉」です。平林寺裏の雑木林『野火止用水が流れている)の画材になったような景色です。
で、午前11時には平林寺山門を潜りました。山門や仏殿周囲の紅葉は明らかに京都風のいろは紅葉です。でも野火止用水の流れている雑木林の中に自生している紅葉は関東の山紅葉です。
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此れは平林寺山門前の紅葉です。この辺りの紅葉は先々代住職が京都から取り寄せて植えられたものだそうです。平日でも観光客が多かったです。
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平和観音周囲の紅葉もいろは紅葉でした
先月安曇野で鑑賞した七色大紅葉と同じ山紅葉です。いろは紅葉は一気に赤く紅葉しますが、山紅葉は陽当りや北風の風当たりによって紅葉のスピードが違います。
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平林寺裏の雑木林は周回路になっています。椎樫等の照葉樹に松などの針葉常緑寺そして山紅葉やクヌギなどの落葉広葉樹が混在しています。
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周回路から雑木林の向こうに見えるのは名門松下家の墓所です。雑木林の美しさは菱田春草の「落葉」を髣髴させる見事さです。
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左側にあるのは九十九塚と案内されていました解説には野火止の監視にこの塚に登ったとしてありました。
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これは業平塚の前の松林です。業平塚と云っても実際に業平の墓ではなくて矢張り野火止めの監視塔を伊勢物語に因んで「業平塚」と呼んで風流としたものであろう、説明してありました。野鳥用の巣箱が取り付けてありました。赤げらを初め啄木鳥が多く生息しているとp説明してありました。
一木総てが真っ赤になるのが綺麗だと思えばいろは紅葉が最高ですし、葉も大きいのですが、少しずつ紅葉して、緑・黄・橙・朱のグラデーションが好きなら山紅葉の方が風雅です。私が学生の頃の記憶では平林寺にはいろは紅葉では無く、山紅葉だけでした。上の菱田春草の絵画の様な雑木林でした。ところが前回登った時も今回もいろは紅葉が目立っています。そこで、山門横で入山券を販売している係員に訊いてみました。明らかに係員は平林寺のお檀家で次の様に答えて下さいました。50年以上も前でしたら。先生代の住職が京都からいろは紅葉を取り寄せて仏殿や山門の周囲に植えました。でも裏山には手を入れていませんから裏山も紅葉は山紅葉が自生して増えたまでの事です。一般に紅葉は渓流に自生繁殖します。一番の例えが法隆寺の西側竜田川の紅葉です。「神のまにまに」謳われた竜田川の紅葉は山紅葉です。樹木は総じて湿った土地は嫌いです。湿った土は息が出来ないので根腐れしてしまうのです。でも山紅葉は湿った土が好きですので渓流の周囲は紅葉だけが生育できるのです。平林寺の裏山は入間川等の伏流水が湧き出しているので野火止め用水が流れています。そんな自然環境が山紅葉の占拠を促したと思われます平林寺の本山は京都の妙心寺です。妙心寺は臨済宗の本山であると同時に紅葉の名所です。
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妙心寺には退蔵院や大法院等いろは紅葉の名所が幾つも在ります。京都五山筆頭である妙心寺の力は強く鎌倉でも建長寺の目の前の長寿寺の住職が妙心寺から送り込まれると早速にお庭を大改造していろは紅葉を植えて、山苔を剥がして杉苔を植えました。ところが長寿寺の環境に遇わずに杉苔は無残に枯れてしまいました。
屹度先々代の平林寺住職は妙心寺の紅葉に心惹かれて居られたので。その伝手でいろは紅葉を取り寄せ平林寺の境内に植えられたのでしょう。住職のその姿を観ていてお檀家の方や雲水さんが山紅葉も大事にされたので、現在の様な美しい武蔵野雑木林に本来の黄色の他に朱色を加えたのでしょう。池袋から1時間横浜から2時間足らずでこんなに美しい紅葉の名所がある事は愉快な事です。何しろ態々京都に行かなくてもいろは紅葉も武蔵野紅葉も満喫できるのですから。雑木林は天然記念物であり現皇太子のお言葉も添えられています。雑木林の中で飲食する事は禁じられています。でも至る所にベンチが設えて在って雑木林を鑑賞する事が出来ます。私はベンチに腰かけてミネラルを飲みましたが甘酒でも飲めれば最高です。そう想って山門を出れば道路向かいの茶屋のお汁粉に甘酒の看板が目に飛び込んできました。
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平林寺門前の茶屋はお汁粉と甘酒の看板が出ていました。


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運慶像の胎内物

芸大を出て私達は東京博物館に「運慶展」を観に廻りました。
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芸大美術館から東博に、美術館の梯子でした。上野公園の西洋博物館角のポスター
私は脳梗塞で倒れて以来偶然ではありますが運慶を随分観て廻りました。
というのは私の敬愛する日文研の先輩I氏が三越に居て運慶の大日如来に係られたのでした。ニューヨークのクリスティーズでのオークションに運慶作と確認されている大日如来がかかると報道されたのは2008年でした。日本中が運慶の流出を心配していました。当時2万㌦(20億)と噂されていましたが、バブル破裂後で総じて自信喪失気味の我国にはそんな大金を投じる企業も篤志家も居まいと思われました。大昭和製紙の名誉会長であった斉藤了英氏が115億円も投じてゴッホの『医師ガシェの肖像』を買った記憶が悩ましく思い返されました。ところが、2015年朗報が流れました。三越が14億円で落札したのでした・・・・・・。
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これが2008年3月三越が真如苑の依頼に応じて運慶作の大日如来を落札した報道です。
落札したのは三越でしたが、一般人や企業がクリスティーズでのオークションに参加出来る訳ありません。三越はそのお客様の依頼に応じて落札したのでした。今では依頼主は真如苑であった事は周知です。私達は三越の美術部の要職に居たI氏に日文研セミナーで講師をして貰い、世界の美術市場の動向や仕組みや運慶落札の時の苦心話をして貰いました。
その直後に金沢文庫で大威徳明王(実朝の念持仏・運慶作)が発見され、再びI氏に同行して貰い皆で拝観しました。更に、伊豆韮崎の願成就院にも出かけました。
私はI氏から三河の瀧山寺にも運慶の真作があると聞き2015年晩秋に古刹に上りました。
勿論私の生活圏にある葉山の淨楽寺や横須賀の万願寺にも出かけました。2016年の盆には友人と京都の六波羅蜜寺に運慶の肖像を拝観しました。想い起せば私のリハビリと運慶は深く拘りあっていました。今夏東博にインドの仏像展を見学した折にこの秋に「運慶展」が予定されていることを知っていましたので、出かけたのでした。学生時代拝観して仏像への眼を開いてくれた円成寺の大日如来や最古の玉眼陥入仏である長岳寺の阿弥陀三尊など半世紀の時間をかけて巡って来た運慶仏を一堂に拝観できるのは幸運です。
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これがパンフレットに並んだ運慶展の仏像案内です。でも期間中全部展示されている訳ではありません、入れ替えが在るのでチェックが必要です。今日の話題は上段左の真如苑大日如来と左の岡崎瀧山寺の聖観音です。どちらも胎内に故人の歯や髪や五輪塔が収められていました。
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展示替えがあるので、拝観したい運慶仏の展示予定を確認してから出かける必要があります。
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東博平成館の大空間には円成寺大日如来がかかっていました。この運慶のデビュー像は第1室の最初に展示されていました。

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これは円成寺大日如来の台座裏のサインです。仏師は運慶であり運慶は康慶の長子であり大仏師である事と1175年11月24日に造りはじめたこと、給料として絹が支払われたこと、そしてこれは仏像本体の分であること(つまり台座や光背は別料金ということか)が書かれる。ここまでが前半である。 後半には、翌年(1176年)10月19日に納めたこと、そして大仏師康慶・実弟子運慶の名、そして花押(かおう、サインのこと)が記される。勿論我国仏像史上サインが在るのはこれが最初であります。写真出典小学館/日本の美。

展示は第1室が青年運慶の仏像で、正面に「円成寺の大日如来」を展示して「運慶デビュー」と案内していました。第1室には父康慶の仏像(興福寺四天王や法相六祖像等)も展示されていました。第2室が源氏に支援されて関東に下向した運慶、第3室には運慶の子供や弟子達の仏像を展示していました。始まり、確認出来る限りに古い順に展示されていました。円成寺大日如来像の隣にはパネルが貼られ台座裏の運慶のサインを案内していました。台座に裏には「この像が運慶の作であり、運慶は康慶の長子であり大仏師である自分の名と肩書きを誇らしげに書かれ花押も押されています。更には仏像を造像するに際して運慶が興福寺仏所のリーダーとして願経した法華経も展示されていました。円成寺大日如来の台座裏に書かれた書は自己主張の強い自覚的な才気走った書ですが興福寺に納めた願経の書は活字の様に揃った几帳面な小さな書でした。運慶仏は総じて力感溢れる仏像ですから、運慶も豪放磊落な人物と推測されるのですが、運慶は書を観る限り生真面目で組織のリーダーに相応しい官僚的な側面もあったようです。
願経には興福寺仏所や東大寺仏師にとって重要な意味を有しています。平安時代南都の仏師は定朝を筆頭とした京都九条の仏師に圧倒されていたのでしたが。南都が無謀な平氏によって焼かれた事から東大寺興福寺の再建の機会を与えられ、天平風の仏像造像の注文を受けたのでした。青年運慶は天平仏を観て育ったのでしたから、京都仏師には天平仏をルネッサンスする意欲もスキルも無く、後白河法皇も運慶一門を是としたのでした。この時運慶は一門のリーダーとして。東大寺の焼け残った材木をお経の芯木として法華経8巻を納めたのでした。
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此れが一般に運慶願経と呼ばれている法華経です。運慶が一門を率いて東大寺・興福寺に仏像を納め慶派一門を率いて行こうとする決意が察せられます。運慶の真面目な顔が窺がえます。

東大寺南大門の吽形像は運慶展の後半に展示されるようです。東大寺・興福寺の再建需要に恵まれて運慶は仏師としてのチャンスを与えられました、東大寺再建のスポンサーであり警護役であった頼朝や頼朝に従った和田義盛や北条時政の知遇となり、活躍の場を関東に広めたのでした。結果、韮山の願成就院や葉山の淨楽寺を始め北関東の寺寺に仏像を納めたのでした。真如苑の大日如来もそんな一体と思われます。
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此れは真如苑大日如来のエックス線写真です。心臓の位置に五輪塔(水晶)が、結んだ印の位置に木札が納まっていることが解ります。
展覧会場は興福寺や東大寺の運慶仏から関東の運慶に移ります第2室)。その冒頭に展示されていたのが真如苑の大日如来でした。真如苑大日如来については胎内に納まられていたお杓文字風の塔婆を説明していました、そして、その隣には岡崎の瀧山寺の聖観音が展示されて、解説には歯と髪の毛が胎内に納められていたと説明してありました。
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これは瀧山寺聖観音のエックス線写真です。口の位置に針金で吊るした歯が納められています。写真出典岡崎市https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E6%BB%9D%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E8%81%96%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%83%8F&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=0&oq=takiyama&at=s&ai=PuZ2uA0vSUaJfVHe479vrA&ts=6564&fr=top_ga1_sa寺伝では瀧山寺の住職は寛伝で頼朝の推挙では下野国日光山満願寺十九世座主となり、後に同に勤めたそうです。聖観音は頼朝の冥福を祈るために運慶によって造像され頼朝と等身大にして顎髭や歯を胎内に納めたという事でしょう。
中世には死後あの世で極楽に行く事よりも生前に現世を極楽にしたいと考えます。そして、仏像も人体に似て造像するようになります。造像の目的が故人の冥福とか故人が天上で子孫を守護する事であれば故人の体の遺品を仏像の胎内に納める事が一般化したのでしょう。
展示は第3室に移ると『運慶の弟子や子供の仏像』に移ります。六波羅密寺の伝運慶像(康勝作?)は胎内には五輪塔を模した木札が収められている。また有名な鬘掛け地蔵も人の毛髪が握られています。
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六波羅密寺の鬢懸け地蔵像、人毛を握っています。六波羅密寺には国宝の空也上人像が祀られているなど想像力に満ちた興味深い仏像が多いのです。伝運慶像も祀られています。

運慶は初めて仏像にサインをした仏師です。現代人の感覚で云えば運慶は自分の肖像も残した筈だ探してみたくなります。
私はその候補に第一に東大寺重源堂の重源像を思いつきます。そして第二に世親像を想います。
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此れが重源像です。東大寺の再建に尽力した重源上人の姿は何処にも居そうな叔父さんです。でも強靭な精神力を持った人物であり苦労を重ねた事が窺がわれます。写真は公式絵葉書をスキャン。
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此れは世親像です。興福寺北円堂の弥勒菩薩の脇侍の位置に無着像と対で置かれています。無着も世親も法相宗の教学を大成した高僧です。老人の無着よりも壮年の世親の方が運慶の肖像に近いと思います。
鎌倉時代は武士が意志力で幕府を開いたように、百姓が新田を開墾しようと自然に立ち向かった様に、親鸞や道元日蓮が新しい仏教を広めた様に、意志力と理性を以って時代を切り開いたのでした。そんな姿を代表したのが運慶であり、運慶仏は人体を仏の姿と確信していたのでしょう。西欧のルネッサンスが「人間復興」と呼ばれたように、理想の人間の姿が運慶仏に表現されたから、私達の憧れであり続けているのでしょう。




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今年も広島長崎の原爆死没者慰霊式が行われました。昨年はオバマ大統領が参列されて日本中が盛り上がりましたが、歴史の歯車が逆行したようです。第1回が昭和21年で私の生まれた年です。今回が72回と云う事は私は満72歳になります。
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長崎平和祈念式典は満月の日に執り行われました。爆心地に在った山里国民(現学校城山小学校)の生徒が「あの子」と題して唱歌を合唱して慰霊と平和希求を訴えました。
8/8日が満月になった事は深夜ラジオが「毎朝ラジオ」に変わって、西の空に満月が沈むとアナウンスしていました。アナウンサーは何時までも寝て居ないで早起きして西の空に白い月が沈むのを見せたかったようですが、縁の下の「蟋蟀」の鳴声を聴きながら今日のブログの草稿を練っていました。
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朝庭に出てみれば蟋蟀ならぬ「馬追い」が飛び出しました。奈良は赤蜻蛉が飛んでいましたし、8/7は24節季の立秋でしたから、秋虫が目につくのも自然な事です。
その結果夕顔や南瓜の事を書きたくなってしまい。奈良旅行記は一休止してしまいました。小休止前は藤原宮跡に蓮の花と布袋葵を観て桜井を廻って帯解寺と清酒発祥の地を廻って奈良駅に戻リました。奈良駅から市内循環バスに乗って奈良公園を廻って東大寺裏の戒院周辺の百日紅を観て廻りました。リュックは宅急便で自宅に返してしまったので手軽にはなりましたが転倒で傷めた足腰は痛むし、左肩も肘も動きません。何か執念の様なモノが私を突き動かせて、奈良博物館に向わせました。私は新築された奈良博に入るのは初めてです。流石に奈良博です。京博や東博とは違って外観は正倉院風の校倉造りを意識しています。
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新築された奈良博物館、内部は最新の設備とフランクライト風の機能的合理的な空間でありながら外観は校倉造りをデザインしました。
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奈良博地階のミュージアムショップ喫茶コーナーから中庭を挟んで博物館1階を見上げる。生き返る空間でした。
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これが奈良博物館源信の千年忌展「地獄極楽の扉」展のポスターです。
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此れは同展示の中の 六道絵のうち阿鼻地獄(部分国宝(滋賀・聖衆来迎寺))です。これを観たさに去年も一昨年も京都に出かけました。出典同展示会のポスターチラシ
私は脳梗塞のリハビリを始めた2年前の盛夏に京博に源信の往生要集を地獄絵に映した地獄草子(国宝)を観に行きましたが特別展(丹波の仏像展)を実施していたので地獄草子こそ拝観できませんでしたが、地獄絵も極楽である事を意識した様な伽藍図もみられました。去年は五山の送り火に合わせて再び京都に行きました。源信の住んだ横川の聖衆来迎寺を詣でたのは8/16日肝心の地獄絵は15日に虫干し展示した後でした。よくよく地獄草子には縁の無いような気がしましたが三度目の正直で今回奈良博の「源信/地獄・極楽への扉」を見学に向かいました。東大寺と奈良博の距離がこんなに在るとは思いもよりませんでした。
8/2に喜光寺で転んでしまった事はワイフに伝えました。ワイフは一人旅を中断して即刻帰宅させたい雰囲気です。斑鳩のホテルに直行する意欲でした。でも、私は当初プラン通り8/3の深夜に奈良交通のバスで帰宅する事の変更は拒みました。その為には今夜10時まで奈良市内で時間を潰さなくてはなりません。酒も飲まないし喫茶店で読書する位しか方策は思いつきません。博物館でも可能な限り長時間逗留する事にしました。
源信の地獄図も極楽図も心行くまで眺められます。でも、地獄絵と極楽絵と並んでいれば極楽を観たいのが人情です。
私は当麻曼荼羅図の前のソファーに腰掛けてジット見詰めました。案内には貞享本と記されています。どうも当麻寺にある当麻曼荼羅には4つほどあって、勿論一番古いのが天平時代の緞通織の曼荼羅図で(国宝)、平安時代には中将姫が蓮の繊維で織ったと云われる当麻曼荼羅が在って(重文)江戸時代初期に貞享本と云われる曼荼羅(重文)が作られたようです。私が当麻寺で拝観して来たのはこの貞享本だったようです。緞通は祇園祭りの山鉾にも懸っていますから、屹度山鉾の緞通も何れ国宝に指定されてしまうかもしれません。当麻曼荼羅は何時の時代も日本人の憧れだったので、天平の緞通が痛むと平安時代に鎌倉時代に江戸時代に最新の技法で作り変えられたのでしょう。
今回のツアーでは喜光寺に始まり唐招提寺本薬師寺と蓮を観て廻りました。中将姫が蓮の繊維を撚って染めてタペストリーにしたのが当麻曼荼羅図と説明も受けたしそのように確信してきました。そのつもりで貞享本を見詰めていた処截金細工が目につきます。また多くが泥金のように見えます。私がソファーに腰下して身動きしないのを不審に思ったのか監視員のお嬢さんが声を掛けて来ました。そこで自分の疑問をぶつけてみました。
「貞享本の当麻曼荼羅の素材は絹糸の織物でその上に金箔を截金して貼り付けて多くの画面は泥金(日本画と同じように金や宝石を粉砕しニカワとよく練り合せたあと絵筆で描いて乾燥させる)ではないか」と質問すると、その通りだという事でした。
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此れが貞享本当麻曼荼羅図です中央に阿弥陀三尊、三尊のバックは阿弥陀浄土の図諸菩薩たちが楽器や舞を演じる舞楽会などを配置している、下段宝池、宝地、宝樹左右の外縁には、向かって左に『観無量寿経』の序にあたる部分、すなわち阿闍世(あじゃせ)太子による父王の幽閉とそれを悲しんだ母后韋提希(いだいけ)夫人の阿弥陀仏への帰依を十一区画に描き、右に極楽浄土を観想するための十六の手段(十六観)のうち十三観、下辺に残りの三観を開いて九品来迎図九図として描いている。中世において男女を問わず多くの日本人が憧れた浄土の景観は、この当麻曼荼羅の図様が長くイメージの源泉となってきたと確信できます。浄瑠璃寺や三千院や平等院のイメージは何れもこの曼荼羅に描かれています。
源信の往生要集も当麻曼荼羅を文章に下したものと云っても過言ではないでしょう。
私が熱中症では無くて当麻曼荼羅に見惚れているのを確認して監視員のお嬢さんは微笑んでくれました。大事なテーマを最新のスキルで作ろうとするのは自然な事です。まして最新のスキルが訴求力を増している事は多多ある事です。天平の四天王や12神将が鎌倉時代に訴求力を増しました。伝統はスキルの革新で引き継がれます。自宅に戻るとテレビでは地獄を最新の映像で復元していました。何時の時代も怖いモノ観たさが夏の定番です。地獄の扉を京都の街に探して回ります。
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此れは盆になると必ず出てくる盂蘭盆会の図。釈迦の弟子の目連尊者が亡くなった母親の現状を神通力すると地獄で逆さ吊の責め苦(これを盂蘭とい呼びます。盂蘭盆会は子の故事になぞられて亡者に追善供養して天国に再生して貰おうとする行事です。出典は画面に出ています。
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此れは色欲に溺れる事を諌めた地獄絵です。生前浮気を重ねて奥さんを苛めた人は地獄に堕ちても美女を追い求めます。美女が高い枝に居れば針の枝葉に深傷を負いながら追い求めます。出典は画面に出ています
でも大して怖くありません。「何よりも怖いのは人間そのモノで人間の狂気が何時発露するか解らない、その事実よりも怖いモノはない」それを皆が知ってしまいました。原爆が一度爆発すれば現世が未来が地獄に化す事実を人類は知ったというのに未だ一世紀も経ないのに人類の狂気はもう一度地獄を観ようとしているのかもしれません。


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阿修羅像のロマン

今年の4月NHKテレビで「謎多き仏像阿修羅像」を放映していました。私が山城旅行を終えて和束町に安積親王墓を詣で、阿修羅像のモデルは聖武天皇の第5皇子安積親王墓であると確信して居た時でした。テレビ番組はエックス線写真や現代の仏像作家の意見を参考に阿修羅像の原型を突き止め、塑像の上に木糞漆を重ね、元の像は一般的な猛々しい阿修羅であったモノが漆を重ねる事によって青年の憂いを帯びた仏像に修復したと判断しました。
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NHK総合テレビでの阿修羅の謎を追っていました。日本人の一番好きな修羅像は興福寺宝物館に横一列で展示されていましたが、現在は仮金堂で立体的に展示されています。釈迦の説法を8部衆も十大弟子も揃って聞き入っているジオラマです。中金堂の竣工が2030年ですから後3年でオリンピックでさらに10年頑張ればこの立体説法を観る事が出来ます。

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山城和束町にある安積親王古墳和束町には恭仁京跡から10キロほど北の山中です。古墳の右の山は笠置になります。今頃は茶摘みで忙しくしていることでしょう。
そして結論的には阿修羅像を完成修復させたのは光明皇后で産後1年足らずで早逝した基皇子の慰霊の為に”今生きていたらこんなお顔であったろうと”して阿修羅像や10代弟子を作らせたと説明していました。
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右がエックス線写真をベースにした阿修羅像(主として塑像)その上に漆を浸みこませた麻を張って更に木糞で凹凸をつけた阿修羅管製造では瞼の下の大きな涙袋が据え付けられ像の主(霊)の悲しみや憂いを表現した。
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此方は興福寺八部衆の一人沙褐羅像此方の表情は10代にも見え、光明皇后は八部衆と十大弟子を通して早逝したは基皇子の面影を”若しも生きていたならこんな少年だったろう!”と推測されたと説明していました。
確かにそんな仮説も成り立つでしょうが1歳児の面影を仏像に写すとすれば。戦いの神様阿修羅は不適当の様に思われます。イメージとすれば光明皇后が建立した新薬師寺の「香薬師像」の方に基皇子の面影をイメージします。
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此方の新薬師寺香薬師像の方が基皇子の面影を問い止めていると思います。光明皇太后が聖武天皇の題皇子の安積親王を殺害した事を確信した皇太后が安積親王哀れに思って阿修羅像に10代半ばで亡くなって安積親王の慰霊の為に造仏されたと考えた方が自然でしょう。阿修羅は安積親王にとって現世が修羅界であった事、釈迦の説法を聴く像にした事も慰霊を思わせます。
光明皇后と聖武天皇の間に出来た子供と云えば阿倍内親王で首皇子が早逝さえしなければ阿倍内親王は現出しません、基皇子の母親は県犬養広刀自で地方豪族です。里中満智子氏の著「女帝の手記」によれば藤原仲麻呂が光明皇后の意を汲んで殺害した事を想わせています。
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これは「女帝の手記/里中満智子著)の人物相関図です。聖武天皇と光明皇后との間に出来た子は阿倍内親王と基皇子だけでした。一方県犬養広刀自との間には安積親王がありました。親王を藤原仲麻呂が殺害したと推測するのです。
続日日本紀に依れば安積皇子は都から桜井に向かい折り返して聖武天皇がおられた恭仁京に向かい、恭仁京で亡くなった、死因は脚気であったされています。恭仁は皇親橘諸兄の膝元です。里中満智子氏は其処に仲麻呂が刺客を派遣した事を想像させておいでです。
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この美青年が里中満智子氏の描く安積皇子です。


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此方は小泉淳作画伯の描いた光明皇后像
阿倍内親王は女性でありながら日本史上最初に皇太子になった人物です。安積皇子を失って聖武天皇には選択肢は無くなりました。天平10年(738年)天平勝宝元年(749年)孝謙天皇が実現します。天平勝宝8年(756年)父の聖武上皇が崩御すると光明皇太后と阿倍仲麻呂が紫微中台から孝謙帝をバックアップします。
光明皇后も藤原仲麻呂も大事な天皇の外戚ののポジションを失いたくなかったん子でしょう。その為には無理を押しても阿倍内親王に天皇になって貰おうとしたのでしょう。阿倍内親王が孝謙天皇として即位すると光明皇太后の指示を受ける紫微中台と太政官の二重の行政組織が出現します二重組織は孝謙帝の力を削ぐことになり藤原仲麻呂とは距離を生じさせ、藤原仲麻呂の乱を引き起こします。
2030年まで長生きして興福寺中金堂が竣工したら立体釈迦説法像の一員として阿修羅像を観る事が出来ます後13年干支をもう一回りしたら拝観で拝観できます。
後かsら後かsら長生きするようなモチベーションがみつかります。

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奈良の都のトイレ事情

成田駅のトイレです。、男子トイレは空いているのに、女子トイレは長蛇の列でした。私は改札口でワイフを暫し待たされました。この時ばかりは”良くぞ男子に生まれたり”思ったのでした。
「平城京や平安京のトイレは如何道だったのかな?」想います。あの12一重を着て居ては「オマル」の様な道具を使ったのかな?思いますが「オマル」は先ず間違いないでしょう。
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12一重を着て居てはトイレも心配です。オマルと衝立金屏風)を使ったのでしょう。でも裳は前割れでしたから汚さない様に気遣いすれば良かったのでした。用を足すときは衝立の陰で済ませて顔は扇子で隠したのでしょう。
こんな興味は業界リーダーの東洋陶器が詳しいので博多時代に同社本社の博物館で観た記憶があります。
下の写真は小用の道具で、清少納言さんもこれを持って部屋の片隅に行って十二単の前をカパッと開いてお股の間に差し込んで小用を足して下女に捨てに行かせたのでしょう。大便の時にはもう一回りおおきな道具を使って用を足して、下女に厠に運んで流させたのでしょう。
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樋箱の一種で御小用箱と呼ばれた。現代のオマルのようなモノ出典は「トイレ博物館http://www.woodssite.net/remodel/HAKUBUTUKAN.html
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此方が大便用のオマルです。鳥居のようなものは着物の裾を汚さない様にするもの。此処を握って踏ん張ったのでありません。出典はトイレ博物館[東洋陶器) です。この他にも東洋陶器の博物館には面白いモノが沢山展示されています。黄門様のオマルは檜の葉が敷かれていてその上にウンチをされていました。屹度鰹の生節のようなウンチをされておられたのでしょう。
平安京は水が豊富でした。右京区が栄えたのは湧水が豊富だったことと併せて厠に流せる河川が張り巡らされていたからでしょう。平安京は右京区が発展したのは上流に位置していたから左京区はトイレ事情が悪かったのでしょう。堀川通りは朱雀大路なのですが、その名の通り堀が大きかったのは下水を流す必要があったからっでしょう。私達が好んで出かける錦小路は下水の溜まる「ウンコ通り」と邪推しています。
一方気がかりなのはその前の平城京です。京都に較べれば奈良は水利に恵まれていません。排出物を流す川もありません。
平城京の大極殿で働いた官吏は男女合計1万人と聞いています。1万人がトイレに出かけるとすると成田駅のトイレとは違って大騒ぎでしょう。
其処で、「平城京塵図鑑/奈良文化財研究所編」を図書館で借りて読んでみました。「若しかして農家のトイレと同じかも知れない・・思っていたのでしたが。平城宮跡発掘の結果日本人は奈良時代から水洗トイレだったことが判りました。
平城京には大きな河川は流れて居ません。春日野の奥の地獄谷の渓流や秋篠川が在るだけです。その水を溝を掘って大極殿内に引き込み、大極殿のトイレに使い。貴族はその支流を自邸に引き込み、水流の上で用を足したと考えられる遺構が見つかっています。大極殿入り口に在った長屋王の屋敷のゴミ捨て場からは大量のゴミが発掘されて随分新聞報道されたモノでした。
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平城京の溝で発掘される人形、厄を肩代わりした人形が溝に流されたか、捨てられた人形が水に浮いて溝に溜まったモノでしょう。この他落書きや歳入の荷札に使われた木簡等が発掘され長屋王家の歳入歳出が大掴み出来ました。写真出典平城京塵図鑑/奈良文化財研究所/河出書房新社)

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此方は平城宮跡長屋王の屋敷跡から出土したトイレで直径㎝の土穴に炭化したウンコが溜まっていました。上に乗っかっている木切れは籌木(ちゅうぎ/)呼ばれる糞掻きベラです。写真出典平城京塵図鑑/奈良文化財研究所/河出書房新社)
平城宮跡に行くと道路の脇には幅5メートルもある溝が作られています。この大溝の上に跨ぐように建てられた小屋が「厠/かわや」で厠の跡からは真っ黒なウンコが固まって確認されるのです。黒い塊がウンコである証拠は塊の中に寄生虫(カルシウムの殻で囲われた卵なので残っている。加えて籌木(ちゅうぎ/箸のようなモノ用を足した後に糞掻きした)も出土しているのです。大極殿のトイレは特大で長さが20メートルもあったのでした。阿倍仲麻呂も長屋王もこの大型トイレに並んで小便をしたかと思うと楽しくなります。
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これは籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる糞掻きヘラです。実際に使ったら痛そうです。出土した当初jは真っ黒だったのでしょうが綺麗に洗われてしまっています。 

 さらに、藤原宮の官庁街からは、幅5メートルの大溝の上をまたぐように建てられた川屋(厠(かわや))の跡も見つかっています。建物は、長さ20メートル、個室の間口を1メートルとすると、20人が一挙に用を足せる共同トイレだった可能性があります。しかし、こうした痕跡からなぜトイレと判断できるのは、次の事情だからです。 
 排泄(はいせつ)されたウンチは、時間がたつと分解され、土に帰ります。この土を洗って調べると、消化されなかった魚の小骨などの食べカスが含まれるのです。周辺の土とくらべて寄生虫の卵の数が異常に多いと、トイレの有力な証拠となります。
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これは平城京大極殿のトイレ想像図。道路側溝に流れる水を引き込んでトイレにして溜まった排出物は水に流したようです。庇で覆われた長さが70mも在ったので、沢山の人が一時に用を足したのでしょう。右端の肥溜めは肥料用の肥溜めの意見もあります。出典上記と同じ奈良文化財研究所。
 当時は、トイレットペーパーはなく、木切れ(籌木(ちゅう木)でお尻をぬぐいました。ちゅう木がたくさん出土すれば、トイレの可能性はますます高くなります。ただし、上図がトイレでなく、「肥だめ」や、糞尿(ふんにょう)を棄(す)てた場所と考える説もあります。。
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これは地獄草子の排便図です。場所は鴨川に近い河原町筋でしょう。旅人は高下駄を履いて大便をしています。餓鬼は便を食べて腹を満たそう小便を飲んで野喉の渇きをいやそうとしています。中央の少年は糞掻きべらを地面に刺して踏ん張っています。古代は貴族の屋敷や宮中では前段の様な水洗式トイレでも市井では道路が便所のようなものだったのでしょう。

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