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5月26日(土)慶応大学日吉校舎で、日本文化研究会で私の円空に関しての研究報告を終えました。
従来の円空研究の視点が、美術美学史的、又は民俗学、民芸愛好者、シュルリアリズム(超現実主義)に偏したりしているように思います。
私は宗教社会学的な視点や手法で研究したら、一層分かり易い・・・、と考えて報告しました。
何故なら、円空仏がどうだこうだ言う前に、円空自体が一人の遊行僧という江戸時代初期に生きた宗教人であったからです。
円空がお釈迦様と同じように全国を托鉢してまわり、一宿一飯のお返しにその家のご本尊を彫ってあげます。
中世から近世に変わる境目の時代にあって、
一人の作仏聖とそれを支えた農村社会に視座を置いて研究するのが解り易い、と考えました。
慶応大学日吉キャンパス。銀杏の緑が鮮やかでした。
毎回のように、報告が終わると沢山の質問や意見が集中します。
聴講いただいた人からの質問が楽しみであり、更に刺激になります。
今回も、その幾つかを記して、今後の研究の材料にしようと思います。
【円空が誓願した弥勒浄土とは】
1654年、24歳の青年僧円空は郡上美並の寺を出奔し、伊吹山の太平寺に入り、修験道を極めようとします。
更に、1665年35歳の時松前船に乗って蝦夷地に向かいます。
12万体の仏像を彫り上げる事を誓願します。
数値目標は12万体であっても、宗教人としての目標は何だったのでしょうか?
円空の残した和歌や仏像の背に残る墨書から推して、
「死後に浄土に生まれ変わるのではなく・・・・、現実の農村社会が弥勒浄土になるように・・・」
その役に立ちたい・・・、誓願して遊行聖、作仏聖の旅に出たと思います。
円空は”父親の無い子”として生まれ、母親一人に育てられます。
父親は誰か、そして何故捨てられたか? 疑問が生じます。
父親は郡上美並の富豪(星宮神社の宮司西神頭安永と言う研究もあります)で、
木地師の娘に子を孕ませてしまった。
そこで、娘を美濃羽島に追いやって・・・、日陰で育てさせた・・・・、というところが通説のようです。
しかし、円空7歳の時母は長良川の洪水で亡くなってしまいます。
こうした事実から、円空の目指した弥勒浄土とは・・・・、
親子が揃って暮らせる家・・・、とか洪水や飢饉が無い平安な社会・・・、とか言った事が考えられます。
青年円空の記憶には島原の乱(1637年)や由井正雪の乱(1651年)があったでしょう。
そして、封建領主に抵抗した農民一揆、国一揆の筵旗には「弥勒浄土」が掲げられている事も知っていたでしょう。
円空が義民になることでなく、仏像を彫って回る事を選択しました。
母を奪ったのも長良川、母を自分を育てたのも長良川・・・・、
ならば長良川を弥勒浄土に変えたい・・・、
そんな誓願であったのだろう・・・、私は推測します。
中宮寺弥勒菩薩像。円空は法隆寺で修行中朝な夕なに接したでありうと思われます。弥勒菩薩は釈迦入 滅56億7千万年後地上に降りてきて救済してくれる・・・・・、メシア思想の仏です。しかし、そんな長い先の ことでなく、現実世界を救済して欲しい・・・、そんな願いから、一方では百姓一揆等の理念的裏づけになり ます。円空の信仰の中核は弥勒信仰であった事は和歌等で確実ですが、肝心の弥勒仏が無いのは解せ ません。 【12万体目の円空仏】
円空は蝦夷地から下北の恐山や津軽を遊行します。
しかし、津軽藩は円空を追い払います。
江戸幕府は島原の乱に懲りて遊行僧を厳しく扱い始めたのでした。
僧侶は何処かの寺院に定住して・・・・、管理しやすくしたい考えたのでしょう。
この頃から円空には幕府嫌い、天皇好き・・・、の傾向が現れてきます。
1673年42歳の円空は法隆寺に入り、法相宗の血脈を受けます。
丁度、亡母の33回忌にあたります。
更に修験道の総本山とも言うべき大峯山に入り、日本神道の核伊勢志摩をめぐります。
故郷に戻ると、すぐさま琵琶湖の東、三井寺に入ります。
三井寺は推古天皇以後、天智天皇らの寄進した4体の弥勒佛がご本尊の「弥勒信仰」の寺でありました。
ここで大僧正直々の血脈を受けます。
弥勒を信仰する法悦の和歌を残します。
円空の心の核に弥勒の二文字がくっきりと刻まれた事でしょう。
三井寺 善女龍王像
更に日光から湯殿山をめぐり、飛騨千光寺に入ります。
1690年(59歳)の時、故郷に近い岐阜県吉城郡上宝村金木戸に入り、
桂峯寺で十一面観音、善女龍王、今上皇帝像を彫ります。
今上皇帝像の背に「10万体達成」と墨書します。
十一面観音は白山(日本三霊山)の本地仏です。
善女龍王とは長良川の治水の神様で、母の面影でありましょう。
で、今上皇帝は・・・・・?
今上皇帝とは多分現人神の「天皇」のことでしょう。
幕藩体制が締め付けを厳しくしている時に、天皇を彫るのは・・・、勇気ある行為だと思います。
10万体出来たのですから、目標の8割達成です。
もう、先が見えた・・・、喜びを感じます。
ならば・・・・・・、目標の12万体目は何仏にして、何処のお寺に納めたのか・・・・、大いに気になります。
桂峯寺 十一面観音(中央)、善女龍王(左)、今上皇帝像(右) 。今上皇帝像が10万体目でした。
1691年(60歳)円空は遊行中に書き留めた和歌を整理して、「熱田大神金渕龍王春遊」と表題をつけます。
遊行聖として必要な旅道具を整理します。
故郷に弥勒寺(関市)を再建し、三井寺の末寺に認めてもらい弟子の円長に血脈を与えます。
人生の締め括りの準備を進めたのでした。
1695年、64歳の盂蘭盆会に、自ら掘った土の中に入ります。
遊行中に見聞したと思われる湯殿山の即身成仏を我が身を以て実行したのでした。
穴は大事にした藤の花の下に掘りました。
地中からチリン・チリン鈴の音が止まったら、入定した合図です。
「この花が咲く間、私は仏になってこの地を守る」、と語ったと言い伝えられます。
現代風に言えば「樹木葬」という事になります。
私の直感では円空のミイラ(即身成仏)が12万体目の仏像であった・・・、
そして最初にして最期の弥勒仏だった・・・、思うのです。
円空の自刻像と言われる。円空はこんな表情で即身成仏したい、思ったのでしょか?
(弥勒寺の円空館所蔵です。朝日新聞円空展目録から転写) 【円空に少ない仏】
円空は法隆寺の西円堂で大日如来を刻みます。(1673年43歳)
その時、法隆寺の飛鳥仏をまじかに見て、深く勉強します。
ですから、円空の仏には飛鳥仏の影響が色濃く残っています。
当然、中宮寺の弥勒菩薩も拝んだはずです。(上段の写真)
でも、円空は”真似できない”思ったのではないでしょうか?
三井寺では7体ほどの仏像を収めていますが、全て善女龍王像で、
火災からお寺やお経を守る意味で納められています。
信仰の核に弥勒菩薩がありながら・・・・、最高の弥勒菩薩に接しながら・・・、
あえて弥勒菩薩を彫りませんでした。
理由は ”我死して弥勒にならん”
若い時から念じていたのでしょう。
円空が法隆寺で血脈を受けた際に彫った大日如来(高島屋法隆寺展目録から転載) 日本で最も多い仏は、観音様かお地蔵さんでしょう。
でも、円空にははっきり地蔵菩薩とわかる仏像は一体しかありません。
(一体も円空の真作とは断定できません)
木っ端仏と名付けられている千体仏が地蔵と言えない訳ではありませんが・・・・、
端材を使った仏で・・・、何とでも見られる仏様です。
更に閻魔大王をはじめとした十王像は一体も見つかっていないと思われます。
総じていえば、如何に庶民に、農民に信仰されていても「あの世を思わせる仏」は彫っていないのです。
屹度お釈迦様の教えを確信していたのでしょう。
「あの世の仏は偽りであり、この世の仏が真実である」
だから、今日、明日、現世を生き抜く人を救ってくれるのが仏様だ・・・・、考えていたと思われます。
【天照大神が男神の訳】
農家の床の間や仏間に良く天照大神の掛け軸(書)がかかっています。
天照大神が天皇家の神様だから・・・、というよりは太陽神であり、農業には最も大事な神様だからでしょう。
でも、天照大神の像は滅多に見ません。
恐れ多くて神像にできない、絵にも描けない・・・・、のかもしれません。
円空が敢えて天照大神を彫ったのは天皇を崇敬していたからでしょう。
反面では、伊勢神宮を支配しようとする幕府が嫌いだった・・・・、思われます。
ところが円空は天照大神を男神として刻んでいます。
天照大神は女の神様であり、弟が暴れ者の素戔嗚尊である事は江戸時代の農民も知っていたことでしょう。
それを「円空は古事記も知らなかった」批難する人がいます。
白山神像(福田寺)は伊邪那美でした。(朝日新聞社円空展目録から転写)
白山の神(伊邪那美/いざなみ、天照大神の母)の本地仏が十一面観音でありました。
ですから円空にとっては、白山や流れ出す長良川は母性を特徴とする仏(神)であり、
胎蔵界の仏でありました。
白山の神が母性なら・・・、天照大神は父性(金剛界)を特徴付けたくなります。
水と太陽、母と父、両性が備わって宇宙は回っているのですから。
天照大神像
もう、ブログとしては長くなりすぎました。
「円空は奥が深く興味が尽きない・・・・・」
そんな事を記したかったのでした。
ソロソロ、筆ならぬキーボードを離れます。
それにしても、熱心に聞いてくださり有難うございました。
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古美術ウォーキング
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全国に散らばる古美術を行脚します。
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私が円空仏に初めて接したのは、本州最果てに近い恐山でした。
大学生の私は、かねてから死者の魂が集まるという「恐山」に行ってみたい・・・、思っていました。
野辺地駅から1両だけのディーゼル電車に乗り換え、ススキの原を進み、むつ駅でバスに乗り換えます。
野猿が遊ぶ山道を1時間ほど登ると突然眼前が開けます。
エメラルド色の湖(于曽利湖)が出現します。
湖の手前側には沢山の噴火口があり、ブツブツと熱水を吹き出しています。
湖の此岸が灼熱地獄で、その先が美しい白砂の極楽浜、湖の対岸が極楽なのでしょう。
人が死んだら魂は北に北に向かいます。
そして、7日目に最果てに辿り付きます。
其処には三途の川(さんずのかわ)が流れていて、川を渡れば向こう岸は極楽です。
死者の魂が無事に極楽に行けるように、灼熱地獄の手前には沢山のお地蔵様が佇んでいます。
数名のイタコが死者の魂を呼び寄せていました。
円通寺の本堂で、初めて円空仏を拝みました。
以来、私の円空への熱は冷める事はありませんでした。
箱根明神ヶ岳の東山麓にある「阿弥陀寺」の参道。もうじき紫陽花が咲きます。
今週の26日私は日文研のセミナーで「円空仏を宗教社会学的に考察する」と題して話ます。(慶応日吉)
円空は美術美学史的な視点、現代美術(シュールリアリズム)の視点、民族宗教学的な視点・・・、様々な視点で研究されていますが・・・・、円空仏を取り囲む社会(中世から近世への過渡期)、円空仏を支えて家族・個人を視点にして検討しよう・・・、とするものです。
遠く谷間に見える温泉街は塔ノ沢温泉です。この温泉で皇女和宮は亡くなられます。阿弥陀寺はその お位牌を守る寺で、増上寺からは特別な寺格を得ていますし、ご本尊の阿弥陀三尊は増上寺から贈られ たものです。箱根阿弥陀寺で検索すれば総て確認できます。
そんな関心を持つと、円空以前が問題になります。
円空以前を考えると、弾誓上人(たんせい)に関心が寄せられます。
弾誓上人は円空と同じ美濃長良川の川沿い名古屋の郊外で生まれます。(天文20年(1551)〜慶長9年(1604)
遊行聖として全国を行脚して回りますが、美濃武儀町(現関市)の観音堂(現阿弥陀寺)に入ります。
この観音堂に数多くの遊行聖が集まっていました。
白山道(飛騨道)と中山道の分岐に近く、自ずと聖が集まって、情報の交換や見識の向上に努めていたのでしょう。霊山白山の神は主峰が観音菩薩、脇が阿弥陀如来を本地仏としていました。
ですから、ここに集まる遊行聖や修験者は観音や阿弥陀を信奉していました。
阿弥陀寺の本堂、麓の民家を移築したもの。本堂手前の白い花は「藪てまり」の花。
この寺では薩摩琵琶を教えていることでも著名です。
弾誓の弟子に但唱上人、その次世代の長音上人は作仏聖でもありました。
彼らは観音堂に籠って、仏様を彫りました。
円空は同じ長良川の下流15キロの岐阜羽島で育ちます。
お母さんは木地師の娘、お父さんは諸説ありますが(星宮神社の神主や富豪)所謂「父無し子」として育ちます。
しかし、7歳の時長良川の洪水によって母を失うと、寺に預けられます。
寺の近くにはこの観音堂がありましたから、
少年円空は但唱上人等が彫った素朴な仏像を見詰めて育ちました。
境内の六地蔵と阿弥陀様。背後はアジサイです。背後の山は明神ヶ岳です。
本堂の裏350メートルに弾誓上人の篭った岩屋があります。
本堂横の転宝輪(マニ車)、天明年間の作、250年余、ガラガラ転がって人の願いを聞き入れてきました。
弾誓上人の墓は京都大原から少し北、古知谷阿弥陀寺にあります。
同寺を筆頭に全国に300余りの阿弥陀寺を建立し、30寺が残っています。
神奈川県には大山の麓の浄発願寺や箱根塔ノ沢の阿弥陀寺が現存します。
大山は南関東筆頭の修験の霊場ですし、塔ノ沢の阿弥陀寺は明神ヶ岳の東山麓にある修験の霊場でした。
ですから、弾誓上人は江戸時代の初期に全国の修験霊場をめぐって、遊行聖(高野聖とか熊野聖も含めて)のサロンとも言える寺を建てて巡ったのでしょう。
諏訪大社の近くにも阿弥陀寺を建立しました。
諏訪大社の春宮の近くにある巨大な石仏「万治の石仏」は弾誓上人の弟子「但唱上人」の作と言う人も多くいます。
同阿弥陀仏には発願者の名前は刻まれていますが・・・・、石工の名は残されていません。
しかし、円空以前の仏像に共通する「巨大な鼻、意思的な表情、素朴な技法」など修験者の作品として共通する特徴が伺われます。
万治の石仏も弾誓一派の作品でしょう。このことは下記に書きました。
円空(初期)/東津軽郡蓬田村正法院聖観音像(1667年)(朝日新聞 1994年円空展の図版)
伊吹山で修験を収めた円空は1666年全国遊行の旅に出ます。
松前船に乗って金沢から蝦夷(北海道)に入ります。
蝦夷から海峡を渡って、恐山に入ります。
恐山には2体の円空仏が残っています。
この頃(初期)の円空仏にはあの自由さ、明快さは無く、鉈彫りの鑿あとは無く、只管真面目に几帳面に、儀軌(仏像の決まり事)に忠実に彫っています。
大半が観音様であることは、母の冥福を祈っての事でしょか?
円空(中期)法隆寺の大日如来。(1673年43歳)飛鳥仏の影響が色濃い(出典は前と同じ)
1673年円空は斑鳩の法隆寺西円堂に現れます。
行基が建立したこのお堂は遊行聖の溜まり場でした。
そして、円空は師と仰ぐ行基の匂いの残るお堂です。
ここで、円空は大日如来を彫って、法相宗(現聖徳宗)の血脈を受けます。
血脈とは「仏教の精髄を理解した」証明書のようなものです。
飛鳥仏を勉強した・・・・、仏師の技法を学んだ・・・、その証だったのかもしれません。
円空の中期の作品に飛鳥仏の影響は色濃く現れます。
阿弥陀寺境内には2基双体道祖神が祀られています。ご住職(水野賢世師は薩摩琵琶を教え、質問 をすればパソコンを開いて教えてくれるし・・・、大変に懐の深いご住職と思いまし た。この石仏もそんなご住職の人柄を示すものでしょう。
お地蔵さん「ちゃんのおへそはお母さんの・・・」と刻まれていました。
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5月8日朝8時、家内に付き添ってもらい病院に出かけました。
まあ、1時間もあれば終わると予測したのですが・・・、病院を出たのは午後1時過ぎになってしまいました。
実はこの日が見沼(さいたま市)にある薬王寺の円空仏の御開帳なのです。
この機会を逃すとまた暫く待たなくてはなりません。
急いで、見沼にお出かけです。
昔の見沼は湿地帯だったのでしょう。
でも、現在では大宮郊外の住宅地です。
でも、計画的に開発された住宅ではないので、道は迷路のようです。
ただ、大きな立木が茂った一角が見えました、
森を目標に行けば、目指す薬王寺の門前に出ました。
薬王寺の門前に庚申塔や六地蔵尊が立っています。
施主は「嶋村」となっています。
沼地の中にあって、まるで島のような高台だったのでしょう。
沼地には病気が必ず伴います。
さいたま市見沼区島にある薬王寺の薬師堂。
享保11年(1726)作の6地蔵像、
円空の50年後に作られた石仏が境内入り口に祀られていました。
その嶋村には行基菩薩が建てられたと言い伝えられる、薬師堂がありました。
1680年、49歳の円空は弟子の円長を連れて笠間の月崇寺で大明神を造顕し、
背銘に「御木地士作」と書きます。
更に富岡(上野)等、例幣使街道沿いに逗留し、村々の期待に応じて造仏活動を続けます。
その結果、埼玉県は円空と確認されている仏像は(64体)もあり、美濃の羽島、飛騨に次いで多いのです。
中でも、薬王寺には29体を数え、何れも円空晩年の作で、最も円空らしい秀作が揃っています。
【円空の年表】
でも円空は、注文があれば何処にでも行ったのかと言えば・・・、そうとも言い切れません。
円空は全国の修験地、霊地に向けて向かいます。
そこは、概して行基や弘法大師の謂れのある土地でした。
ですから、見沼の薬王寺に逗留したのは自然な事でした。
薬師堂の周りに自生していたヒバの巨木を倒して、仏の素材にする事にしました。
『ヒバ(檜科大木になる。檜に比べると木肌が黒い)と思うのは私の思い込みで正確ではありません』
先ず、根元の太いところを切り出して、二つに割りました。
丸太の半分を使って、薬師如来を彫り出しました。
残りの半分を使って、日光菩薩、月光菩薩を彫り出しました。
(薬師如来立像:像高68.2cm。日光菩薩像:像高66.9cm。月光菩薩像:像高67.0cm。)
次の丸太は先ず二つに、次いで4つに割りました。
四分の一の丸太を立てました。
そして、その側面を正面にして、右向き6体、左向き6体で合計12体の神将像を彫り出しました。
薬師三尊を真ん中に、左右を12神将像が取り囲みました。
こうして、行基菩薩が建立したと伝えられる薬師堂にご本尊が出来上がりました。
薬師三尊像、70Cm余りの丸太の半分で薬師如来を彫り、残りの半分を二つに割ってその角を正面にし て日光菩薩月光菩薩を彫って、薬師三尊を彫り出しました。
木地師と言われる円空ならではの妙技でしょう。(円空の父は飛騨の木地師でありながら遁走、円空は父 無し後、母に育てられた・・、と言われています)
此方は12神将像、丸太を四分の一に割って、丸太割の側面を正面をして神将を彫りました。
衣紋が風に吹かれて「風の神将像」を思わせます。
実際は60Cm程の像ですが、写真にしてみると巨像の印象があります。(案内板を撮影)
ヒバの大木は薬師如来とその眷属を彫りだしても、まだ余材がありました。
後は村民があれが欲しい、これが欲しい、注文に応じて造仏する事にしました。
火事が怖いから・・・「秋葉神様」が欲しい。
疱瘡で死ぬのが怖いから・・・、「疱瘡神様、お稲荷さま」が欲しい・・・、
そこで体が人間、お顔は狐の神様を彫りました。
尖った顎が強い印象を与えました。
青面金剛(庚申講の神様)が欲しい・・・、
竜頭観音立像、不動明王像、善女竜王像、仁王像(阿・吽)、金剛神像、
護法神像、善財童子像、迦楼羅像、、山王像、尼僧像、菩薩形像・・・・、等が並びました。
合計29体もの神仏が並んだ様は壮観です。
見沼嶋村の人たちはこれだけの神仏に守られて、日々を送っていたのでしょう。
これは珍しい、稲荷像。お顔は狐のようです。顎が尖っているのは疱瘡神と同じです。
29体もの神仏像を収めてみると、さしものヒバの大木はもう余材は残っていませんでした。
薬王寺の諸像は長い間薬師堂に祀られていました。
堂内は護摩が炊かれて煙が立ち篭めていました。
お蔭で、神仏は煤けてしまいました。
秘仏のように守られた円空は木肌もみずみずしいく良いものですが、
煤けた円空は庶民の祈りが込められていて・・・、それは良いものです。
薬師堂には絵馬が沢山かかっていました。
”め”の字が多いのは眼疾が多かった為でしょう。
虎の絵馬が多いのは、虎歳の守り神が薬師如来如来だからでしょう。
必死に祈っていると、天空から雲が降りてきて、雲の上には仏や神の依代の紙垂が立っている・・・、
そんな絵馬も多く飾られています。
何故か絵馬の中に明治天皇の御真影が飾られていました。左の絵馬には「開活眼」と書かれています。
絵馬には”め”の字、虎、来迎仏が目立ちます。 かっては円空仏はこのお堂に祀られていたのでしょう。 でも、円空仏は昭和40年代から大人気です。
盗まれる事件も相次ぎました。
何時からか円空仏は薬師堂から本堂(兼庫裡)のスチールキャビネットの中に移されてしまいました。
住職の枕元に置いたのでした。
狭いキャビネの中に押し込まれて、お気の毒の仏様です。
江戸時代の文化財は円空も木喰も良寛も、評価は高く、人気があっても国の文化財に指定されていません。
それは、昔ながらの学者や美術史家の目が江戸時代の宗教文化を低く見ているからでしょう。
非常に残念なことです。
スチールキャビネットの中にしまわれた、円空仏。
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JR大磯駅はスペイン瓦の明るい建物です。
緑の中に、湘南の海に、よく似合います。
駅舎を降りると、駅前ロータリーの前に小高い岡があります。
その岡の頂上に「ノアの方舟」風の建物があります。
二階が教会で、1階が「隠れキリシタンの資料館」です。
施設名は「澤田美喜記念館」です。
私は細い道を、スダジイなどの樹下を登って、方舟の前に進みます。
踊り場に「キリシタン燈籠」が立っています。
実に美しい燈籠です。
灯篭の前で、教会を仰ぎ見ます。
ノアの方舟の舳先が迫って見えます。
緑陰の向うに教会の建物が見えます。建物は方舟の形です。
この1階が澤田美喜記念館で、隠れキリシタンの遺品が展示されています。
茶人の古田織部がデザインした灯籠。織部はじめキリシタン大名がこのデザインの灯篭を作って祈りの 対象にした、と言い伝えられ、別名をキリシタン灯籠と呼びます。
全体が十字架の形であること、アルファベットの組み合わせ文字、
そして最下段にマリア像を思わせる像が彫られています。
澤田美喜は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫として生まれ、外交官の澤田に嫁ぎます。
そして、長年イギリスで生活します。
イギリス滞在中にキリスト教の信仰を深め、偶々見学した孤児院に深い感銘を覚えます。
戦後三菱財閥も解体を命じられます。
岩崎本家は大磯駅前の別邸も財産税として物納します。
一方戦後社会には孤児が溢れ出てきます。
若い米軍の占領兵士が父親でした。
母親は売春婦だったり、自由恋愛であったり、強姦された事もあったでしょう。
街に孤児が溢れるのはベトナム戦争を描いた「ミス・サイゴン」と同じでした。
澤田美喜は混血孤児の救済に立ち上がります。
かって、自分が遊んだ大磯別邸を買い戻すことを決意します。(買い戻し金額400万円)
自分の全財産を投じます。更に寄付を募ります。
しかし、基金は不足しています。
困り果てていた時、英国人エリザベス・サンダースが英国大使館を通じて、170ドルが寄付されます。
この寄付が勢いをつけ基金が出来ました。(1948年)
澤田美喜は孤児院を「エリザベスサンダースホーム」と名付け、その厚意を長く伝えることにしました。
此処で守られ育った、孤児は1400人(2010年)を超えました。
混血孤児が次第に成長します。
孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になり、周囲の偏見迫害を受けたりします。
そこで、1953年小学校を、1959年中学校を創立します。
今では一般家庭の子女も教育しています。
熱心なキリスト教徒であった澤田美喜は生涯をかけて隠れキリシタンの遺品の収集しました。
昭和63年、美喜の遺志を伝えるため「澤田美喜記念館」を竣工します。
記念館をはいると、美喜の次の文章が案内されています。
「(私は)10数年の海外生活の中で、日本人は飽きっぽいと批評されてきました。
日本に帰って日本のキリシタンの歴史を見たとき、移り気であると云われている日本人が真理と信仰のためにかくまで命を落とし、血を流して戦い抜いた跡を見て、改めて全世界に向かって叫びたくなった。
我々日本人は宗教史上比類のない試練と迫害を受けても毅然として正義に突き進む勇気と信念を持っていたことを。(中略)
何れも、尊い殉教の人々、朝な夕なの手擦れの品々、人たちの身辺にありしものと思えば、この一つ一つに朽ちざる生きた魂のあえぎを覚える。 (中略)
最後の審判の日は近い。それと共に天国に近づいている。
幾多の殉教者たちの祈りととりなしは、その愛する子孫のために、その終わりの日の美しき準備のために、いよいよ盛んに捧げられいることが感じられる。」
この信念が記念館の建物を「ノアの方舟」にしたのでしょう。
生コンクリート打ち出しで、木の素材を生かした・・・・、昭和60年代流行のモニュメント建造物です。
少し、前置きが長くなりすぎました。
肝心の隠れキリシタンの遺品を紹介しましょう。
一言で表現すれば「本物は違う」という事です。
先ず、度肝を抜かれたのは記念館の入り口長押の上に置かれた蟇股です。
館長に聞けば千葉県にあった廃寺の門上にあったものだそうです。
(館長さんに撮影を許可されました)
右がイエスを抱くマリア様、左がヨセフ、キリストが厩で誕生する場面です。
背景にある樹木は棕櫚の木、そして二人のあいだには何故か「釜」が置かれています。(本来ならパン箱のような形です)
上はマリア地蔵尊です。10Cm足らずの小像です。
硬い石を丁寧に刻んで出来ています。
唇と額に朱が残っています。
上品な面差しで、女性らし優しさに満ちています。
そして、背中に十字架が刻まれています。
上記は襖の取っ手です。楕円の長径は10Cmに足りません。
銅銭がデザインされていますが、下の銅銭には十字が刻まれています。
取っ手を裏返すと、十字架が浮き出されています。
記念館を訪れた美智子妃殿下はしみじみと見詰めておいだったそうです。
生活の中に、信仰を大切にした日々が想像されます。
中央はマリア像、右手にキリストを抱いておいでです。左手にはイチジクの葉をお持ちです。
これは宣教師が持参したもので、スペインの像だそうです。
周囲の黒く煤けた像は多くが日本人が隠れて刻んで、拝んできたマリア像です。
飛騨で発見されたもの等もあり、一見すると円空風ですが、勿論違います。
飛騨の匠ならこれくらいは刻めそうな、素人ぽい、民芸風の諸像です。
展示品を分類すると、宣教師が持参した外来もの、キリシタン禁教令だだされる前の遺品、
そして禁教令が出されてあと、地下に潜って隠れキリシタンになった後の遺品・・・、に分けられます。
私の興味をそそるのは三番目の隠れキリシタンの遺品です。
踏み絵が4点程度展示されていました。
2枚はブロンズ、2枚は彫刻板のような木版にキリスト像やマリア像が描かれていました。
どれも、数万人が踏みつけたのでしょう。
お顔もお体も磨り減ってしまっています。
奉行所にしょっぴかれたキリスト教信者の疑惑をかけられた者は、踏み絵を踏まされました。
踏み絵を踏めばよし、躊躇えば命を失うことになります。
仏教の信者でも、他の人の信仰は尊いと思います。
キリスト教徒が命よりも大切にしている像です。
阿弥陀様を信仰していない人でも、阿弥陀様のお顔を踏むことはできません。
阿弥陀様でマリア様でも、これを人の信仰を足蹴にする事は憚れます。
自分自身の人間性を否定するような気になります。
だから、踏み絵を迫られた時、躊躇する人も多かった事でしょう。
私は館長さんに尋ねました。
「遠藤周作さんは沈黙を書くにあたって、この踏み絵を見られたのですか?」
綺麗なお声の館長さんは答えられました。
「遠藤さんはこの記念館の発起人になってくださいましたが・・・、
沈黙を書かれるきっかけにこの踏み絵がなったか・・・、それは解りません。」
キリシタン禁教令が出て200年間、我が国には宣教師も聖書も無い時代が続きました。
その中で、親から子にキリストの教えが綿々と引き継がれました。
自ずから、日本人の民族性や、日本列島の風土が隠れキリシタンに色濃く影響したでしょう。
本家本元のキリスト教とは似て非なる教えになっていたことでしょう。
禁教を厳しいものに変えたのは「島原の乱」でありました。
天草四郎時貞の檄文は願文も展示されています。
展示場は狭い空間ですが、一つ一つが命をかけた信仰、血を流して守り抜いた信仰の証です。
信仰を失った現代にあって・・・・・、貴重でありましょう。
私は館長さんに話しました。
「この展示は実に疲れました。一つ一つの展示は小さくて・・・、十字架を探すのに”謎解き”のような面白さがありました。でも、その十字架に数百年の間、隠れキリシタンと呼ばれた人々の命が注がれていたと思うと、その重みで圧倒されました。」
館長さんは優しげに見送ってくださいました。
私は全国各地で、隠れキリシタンの遺品を見てきましたが・・・、何時も”本物かな?”思っていました。
隠れキリシタン・・・、言われればそのようにも見えますが、
そうではない、思えば何のことはない観音様やお地蔵様です。
矢張り”本物”を見ると違います。
命懸けで守った信仰の遺品には、圧倒されます。
阿弥陀如来立像。背面が扉になっていて、その中に象牙の十字架が隠されています。十字架にはキリスト の磔姿が刻まれています。蟇股以外は「澤田美喜記念館」の見学ガイドブック、絵葉書から転写しました。
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米軍の基地問題、というと沖縄だけの問題のように思いますが、神奈川県にも沢山の基地があるものです。
厚木基地が返還されれば、地域の発展と安全安心に寄与するでしょうし、横須賀やその後背地逗子の爆薬庫やも、横浜港の真ん中にも米軍専用の埠頭があって、座間基地への物資の積み上げに専有させています。
平塚八幡山公園の洋館(旧海軍水交社クラブ)。
雨が降り出したので帰りましょう・・・、お母さんが言いますが、砂場でもっと遊びたい・・・・、
駄々をこねる子供です。ブルーシートは花見の場所取りです。
国道1号線を下って、相模川を越えると茅ヶ崎市から平塚市に入ります。
右に折れれば厚木に向かいます。その交差点近くに緑の森があります。
平塚八幡社の森「八幡山」です。
その西半分が「八幡山公園」になっています。
公園には瀟洒で、美しい洋館が建っています。
明治時代に流行った「下見板コロニアル建築※1」です。
下見板コロニアル建築では札幌の時計台や松本の開智学校が有名ですが、
どれも板壁を白いペンキで塗っています。
窓枠や柱を深い緑色で塗ったものもありますが、総じて白色が基調です。
アジアは緑が深いですし、日本の建築は渋い色です。
ですから、白い建物はそれだけで目立ったことでしょう。
でも、八幡山公園の洋館は壁の色がピンクなのです。
そのままで、東京ディズニーランドに置いても、違和感が無い、斬新で瀟洒な建物です。
屋根は落ち着いた緑色で、シンボルの尖塔の屋根は丸味があります。
誰が、どんな時に使ったのだろうか?
想像が膨らみます。
※1 英国人が植民地で建築した、暑さ対策住宅。製材技術を開発、大量に薄い板を挽く事が可能になりま
した。薄い板を壁にした「下見板」と、広いベランダ(風を通し、日陰を作る)」が特徴の下見板コロニアル 建築が東アジアに建てられました。日本に多くが残されています。日本近代建築の一ジャンルです。
建物全景、左に玄関があります。左手に応接室、続いて右手にホールが続きます。
今日は花の金曜日です。
八幡山公園にはブルーシートがあっちこっちに張られています。
そう、今晩花見をしよう・・・、その為の場所取りです。
中には、場所の先取りを監視するため、人が座っています。
左手に缶ビール、右手に文庫本を持っています。
午後になって日が曇って、雨も降ってきました。
女子従業員が傘を持ってきました。
「心配だが・・・、夜桜の頃には晴れるから・・・・頑張ってください、課長さん・・・・!」
そんな雰囲気です。
傘を届けて職場に戻って行きました。
そう、今晩は15夜の満月です。
花見と月見と同時に鑑賞出来ます。
課長(そんな年齢)の苦労も報われる事でしょう。
他社より広い2枚のシートを広げて夜桜見物の場所取りをする中年のオジサマ。多分課長年齢でしょう。
私の時代とちがって、課長は大変です。
明治37年日本は日露戦争に辛うじて勝利します。
NHKの坂の上の雲でも放映されたように、英米に借款をして、爆弾を買って・・・・、
乃木希典に「戦うには弾がない・・・」嘆かせました。
政府は明治38年日本火薬製造株式会社(明治40年日本爆発物製造株式会社と改称)を設立します。
建築したのが平塚の幕府のご料所跡でした。(126ha)
東海道線が開通し(明治20年)原材料の輸送に便利だったこと、軍都横須賀に近いこと、
相模川の良質な地下水が汲み上げられたこと・・・・、様々な要因が国産の無煙火薬の製造に味方しました。
火薬工場は日英同盟に従って、日本海軍とアームストロング社、ノーベル社等の合弁事業としてスタートしました。
このコロニアル建築は英国人の執務室として建てられた・・・、という説もあるようです。
日本海軍と英国技師との会議室、交流室だったのかもしれません。
大正8年(1919)、日本海軍が全施設を買収し、4月、海軍火薬廠として発足します。
火薬廠の発足後は、本建物は高等官クラブとして使用されました。
海軍の高官がこのクラブで交友したのでしょう。
火薬廠クラブのホール。グランドピアノが置かれて、ダンスに興じた事もあったでしょう。
臙脂の床、白い壁、緑の窓枠とカーテン、実にオシャレです。
玄関右手の応接室。
下見板コロニアル建築は、関東大震災にも、戦争の空襲にも耐えて存続します。
昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠が廃廠となって、その使命を終え、一時は米軍に接収されましたが、
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、本建物を含む一部敷地の払い下げを受け、主に応接室や会議室として使用されました。
平成16年、本建物は横浜ゴム株式会社より平塚市へ無償贈与され、八幡山公園に移築され、 保存のため復元されました。(国の重要文化財)
私は管理人に聞いてみました。
「ピンク色が印象的ですが、当初からピンクだったのですか?」
管理人は答えます。
「当初の姿から変更した部分は壁に架かっていますから・・・、読んでください。」
重要文化財だから、適当に色を変える訳はない! 言いたげです。
私は銅板に刻まれた案内を読みます。
材木など傷んだ部分は新材に交換しましたが、材料に変更番号を刻印した・・・、案内しています。
少なくとも、日本海軍が専有した時には現状の「ピンクの壁に緑色の屋根」だったのでしょう。
軍人さんにはハイカラ過ぎるような気がします。
でも、日本海軍はセーラー服を採用し、カレーライスを食べ・・・・、
合理的で自由な発想に富んでいたのでしょう。
だから、青年将校やその奥さんが・・・、このお洒落なクラブがお気に入りだったのでしょう。
私は時々YOU-TUBEで海軍の軍歌を聞きます。
歴史の悲惨を忘れれば・・・、素直に良い歌があります。
「軍艦マーチ」は世界三大マーチの一つです。
パチンコ屋の販促行進曲ではありません。
窓からはお隣の平塚八幡宮の緑と桜が眺められます。
下見板コロニアル建築に必須の広いベランダ。ベランダに出て風を感じながら読書や喫茶を楽しみました。
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