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30日の土曜日は春の嵐でした。
今日(4月3日)も台風並みの暴風が吹くそうです。
「春に三日三晩の晴れは無し」と言いますが、咲き始めた桜のことが気になります。
我が家も、これで梅も、白木蓮も見おさめになることでしょう。
31日、私達夫婦は城山で片栗の花を堪能しました。
相模川の川原に出て、相模川自然の村公園に向かいます。
道路脇には道祖神や茅葺き屋根が見られます。
目的の自然の村公園には、江戸時代の民家が復元・保存されているのです。
津久井湖に向かう道路沿いの民家。立派な茅葺き屋根が目を引きます。正面の茅葺きの裂け目は屋根裏 部屋の窓があったのでしょう。屋根裏でお蚕が育てられていたものと思います。
相模川自然の村入り口の双体道祖神、右は庚申塔、左は馬獣供養塔と刻まれていました。
双体道祖神は、相模の西部では”双体地蔵尊”の形が多いのですが、相模川上流はこのような”双体神 像”が目立ちます。神像、地蔵尊、姿は違いますが、仲良く並んで、穏やかな表情は共通しています。
昨日(30日)の嵐のあとです、相模川は水量も嵩んで勢い良く流れています。
河原ではキャンプをしている家族もいますが、今日は水遊びは危険です。
河津桜を見ながら、テントを張って、敷物を広げて、お弁当を食べています。
民家(旧青柳寺庫裡)から眺めた相模川。此処が相模国のまほろばです。
相模川を見下ろす位置に民家が建っています。
私にとっては懐かさがこみ上げる建物です。
そう、この民家はお百姓の住まいではなく、お寺(旧日蓮宗方運山青柳寺)の庫裏なのです。
私の生家もお寺ですから、庫裏で生まれて、育ちました。
庭の石碑には八幡城太郎氏(俳人、本名は住職神部宣要)が
境川に近い上鶴間にある青柳寺の庫裏を”英断”して此処に移転、修復した・・・、記されています。
鶴間でしたら・・・・、大和市です。
大和も町田も飛ばして、相模原市に寄贈したのは・・・・、何らかの「英断」があったのでしょう。
石碑の横には句碑があります。
釈迦堂のわたりの冷えや涅槃西風
民家(旧青柳寺庫裡)全景。乳母車のところが入り口です。
左半分が土間、縁側のある部分(右半分)が座敷です。
旧青柳寺庫裡の平面図
春一番が吹いても、冬の季節風の名残風が吹きます。なごりの風は吹きます。
「涅槃西風/ねはんにし」と呼びます。 お釈迦様が亡くなられた(涅槃)したのは陰暦2月15日。
西行法師が「願はくは花のもとにて春死なむそ・・・」と詠んだ通りに亡くなられたのも、
春の彼岸の頃でした。
ご住職の八幡城太郎氏はお勤め(お経)で庫裏を出て、釈迦堂に向かったのでしょう。
素足に渡り廊下の冷たさがしみ入ります。
折から、北西の風が吹き込んできます。
思わず「おお!寒」法衣の首筋をつぼねます。
八幡城太郎さんの涅槃西風の句碑
庫裏(庫裡)はお寺に住む家族の住居ですが・・・、それ以上の役割があります。
それは、お寺に登った檀信徒の方にお茶を勧め、食事をしていただき・・・・・、
お茶屋のような役割です。
ですから、広く大きな土間が特徴です。
その土間には大きな釜戸が設えてあり、沢山の参詣人にお茶や食事を用意します。
土間には秋葉様(火の神様)が祀られ、囲炉裏の切られた板間には大黒様が祀られていました。
ですから、台所を差配するお寺の奥さんを「大黒様」と呼びました。
土間は「お客さんに喜んでもらう」、そんな場所なのでした。
ですから、居酒屋の「土間土間」はお寺の関係者の創業と想像します。玄関は特にありません。
お客様は土間に入ってきて「こんにちわ、大黒さん居られます!」
大声をかけます。
「はいはい、良く来られました!」お寺の奥さんが顔を出します。
建物の間取りは、田の字形です。
建物の間取りは、田の字形で、左半分が土間と板間(台所・居間)で、右半分の表がお座敷です。
ここで、法事のあとの精進落としや、お稽古をします。
私の生家でも、お習字、お裁縫、生け花・・・・・、加えて週末には碁会場になっていました。
お蔭で、今でも私は「先生のお孫さん」と呼ばれる事があります。
その座敷の裏側がお寺家族の住処でした。
一番北側の、東司(トイレ)に近い場所でした。
大きな掘ごたつがあって、家族全員が集まりました。
そこで、勉強していました。
夏涼しく、冬暖かいのは茅葺きの効果でした。
お寺に登ってくる人は、本堂は誉めなくても、庫裏はほめあげてくれました。
そんな茅葺きもトタン板で覆ってしまいました。
残念ですが、素材の葦(茅)が取れないのでは致し方ありません。
この庫裏は茅葺きですし、長所が昔のまま残されています。
相模国の住人には誇らしい建物です。
相模国の民家の特徴は川崎の民家園「北側家住宅」を素材に下記に書きました。
庫裡の主座敷。法事のあとの食事等おもてなし会場でした。
お裁縫やお習字等、寺小屋にも使われました。畳の敷き方もその利用方法を示唆しています。
八幡城太郎氏の著作
家内が、この北東の小部屋で、数冊の書物を見つけました。
筆者はこの庫裏の住人だった俳人の八幡城太郎氏です。
同氏の俳句集が中心です。
筆者は相模原市で地域の文学活動のまとめ役をしたのでした。
明治45年(1912)相模原市で生まれます。
早稲田大学卒業目前に左翼活動で大学を追われてしまいます。
やむなく横浜で彷徨生活をしていたところ、兄の死により青柳寺住職を継ぎます。(昭和18年)
そして、住職の傍ら地域で文学活動のまとめ役を担います。
相模原近辺には沢山の文学者が居ました。
苦労人でお寺の住職で・・・・・、庫裏を相模原市に寄贈して・・・、
まとめ役には適任だったのでしょう。(昭和60年没)
(八木重吉、乾直惠、川田総七、石川桂郎、野田宇太郎、白洲正子等多くの文学者が住んでいました)
表座敷には生花がいけてありました。
薮椿をはじめ自生した花ばかりで活けてありました。
その横には俳句が色紙に書かれています。
私は片栗の絵に惹かれて、一句を推薦します。
啓蟄(けいちつ)の ミミズに 及ぶ 放射線 (行江)
作者は私の実母と似た名前で居られます。
放射線とはセシウム(放射能)のことでしょう。
今年の2月6日の新聞に報道されました。
福島の川内村で2万ベクレルの放射能セシウムがミミズの体内から確認されたのでした。
森林総合研究所(茨城県つくば市)の長谷川元洋主任研究員(土壌動物学)の調査結果が、日本中を驚かせました。
ミミズは枯葉等を食べて肥えた土壌を作る貴重な生物です。
お百姓は畑を耕します。
その時、ミミズが這い出してくれば安心です。
良い土が出来ているので、良い野菜が出来ます。
鳥やモグラは良く知っていて、ミミズのいる畑に寄ってきます。
魚や野鳥やモグラ等はミミズを食べます。
食物連鎖のスタートがミミズです。
そのミミズが基準(100べクレム/1キロ)の200倍もの放射能に汚染されていたのです。
作者の驚愕や恐れ・・・・・、それは日本人がみんな抱いたものでした。
今朝の新聞では福島に限らず、茨城、千葉までもで、筍の出荷が自粛されました。
新基準値の100べクレムを超えていたのでしょう。
以前の基準値500べクレムも根拠不明でしたが、4月1日以降は100べクレム・・・、
コッチはもっと根拠不明です。
これから、その根拠が問われるでしょう。
政府には国民の健康を守る責任があります。
基準値には、しっかりした(科学的な)根拠が求められます。
自然界でも放射能は存在するのです。
「大地が大切だ・・・!」
これは日本人の常識でした。
だから、最も短な仏様は「地蔵菩薩」でありました。
大地を汚せば、自分自身にしっぺ返しが及ぶのです。
屹度あの世の八幡城太郎氏もこの俳句の通りだ・・・、誉めていることでしょう。
俳句サークルの展示も為されています。
色紙の描かれた絵にも感心します。
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古美術ウォーキング
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日本橋高島屋で、法隆寺展を見学に行って来ました。(3月20日まで)
私の仲間(先輩)のT氏もブログに書かれています。( http://blogs.yahoo.co.jp/gonana180/33533934.html)
Y氏も(http://tachibana.blog27.fc2.com/ の3月15日の記事に載せていられます。
3月は奈良の町はお水取りもあって、観光シーズンの幕開けです。
法隆寺の宝物が高島屋にご出張では・・・・、法隆寺では寂しくはないか?
心配しましたが・・・・、展示品の多くが摸作品であり、法隆寺を描いた絵画でありました。
国宝、重文は展示されていませんでした。
増長天、持国天像が案内されたチラシ。重文クラスの宝物が展示されていました。
法隆寺展は法隆寺の宝物の展覧と言うよりも、日本文化の歴史の中で、法隆寺が脈々と伝えて来た文化のエキスを展示したものでした。
現代作家の後藤純夫画伯の「百済観音」まで展示されています。
日本文化は法隆寺や聖徳太子と共に歩んできたのだ・・・、教えられる展示です。
日本人は傷つくと法隆寺に戻る・・・、不思議な繰り返しをしているようです。
古代、壬申の乱の直後、古代から中世に移る源平の争乱の直後、関が原の戦いの直後、維新戦争の後、そして太平洋戦争の後、何れも法隆寺が見直され、聖徳太子信仰が盛り上がりまし。
傷ついた民族を癒し、誇りを回復させ、新時代を切り開く勇気を持たせたのは・・・・・、法隆寺であったようです。
法隆寺は1400年の間がこうした役割を演じて来ました。
そして、未来永劫にこの尊い役目を果たして行くのかと思うと、”有難や、有難や”拝まずば居られません。
法隆寺の大日如来像(円空作)台座の岩こそ円空らしい作風ですが、仏座を含めて全体的に丁寧な穏 やかな作風です。法隆寺の諸仏の影響を受けたものでしょう。そして、この法隆寺にいて円空は仏師と しての確信を得たものと思います。また、法隆寺ではこの大日如来を見て血脈を与えたものと思われ ます。一方、円空は仏像の笑みと立像のスタイルを飛鳥仏から習得したと思います。
展覧会場の一角に円空の大日如来像が置かれていました。
円空と言えば「鉈彫り」です。
鉈を振るって荒々しく材木をカットして彫った・・・・ように言われますが、実際の作業は違います。
鉈で木を切り出して、鑿(のみ)で大凡の輪郭を彫り出して、最後は細い丸鑿(彫刻刀)で仕上げました。
でも、荒々しい表情、天地の神の造作はまるで鉈一本で仏像を彫り上げた・・・・、そんな印象です。
でも、法隆寺の大日如来像(上写真)は少し違います。
頭上に仏のお顔が彫られているので、十一面観音のようですが・・・・、智拳印(ちけんいん/忍者の印)を結んでいるから大日如来です。
隅々まで、 丁寧に、丁寧に彫られています。
円空らしい荒々しさは台座(岩)にしか現れていません。
仏像の笑顔も、穏やかです。
法隆寺の飛鳥仏はアルカイックスマイル(古拙な微笑)が特徴だと言われますが・・・・、
円空版の穏やかな、優しい微笑です。
円空でありながら、飛鳥仏のような笑みが出現します。
円空が仏像を彫りだしたのは1663年(寛文3/円空33歳)でした。
美濃の美並村の神明神社で天照大神を彫ります。(長谷川公茂氏調査)
1671年(寛文11/円空39歳)亡母33回忌の年、法隆寺に入ります。
そして法相宗の血脈を受けます。
仏教の教法は祖師から弟子に、またその弟子に教え伝えられます。
その法脈がまるで血液のようだ・・・・、と言うので”血脈”と言い表されます。
法脈を繋ぐ時・・・、わざわざ図に朱色を入れます。
ですから、円空は晴れて法相宗の法脈を繋いだお坊さんとして認められたのでした。
法相宗と言うより、法隆寺宗の血脈を受けた・・・、と言った方が適切だったのでしょう。(円空自筆の血脈図在り)
以下は私の想像です。
きっと円空は法隆寺の法堂の暗闇の中で、日夜仏像を見詰めた事でしょう。
毎日、お経を唱え、講義を聴き、寺の掃除選択などを行い・・・・、空いた時間は仏像の前に正座し瞑想しました。
円空の瞼には1000年前の仏像の姿が焼き付けられました。
最も強いインパクトは・・・、アルカイックスマイルで、次は立像の衣文処理でした。
あの、衣の裾が三段に、ギザギザに流れている・・・・、独特な姿です。
飛鳥仏、立像の衣の処理。円空の立仏像もこの処理を模していると思われます。(法隆寺菩薩立像)
円空、十一面観音。衣文のギザギザ処理は飛鳥仏に通じる。
当時も今も法隆寺夢殿の救世観音は秘仏でした。
フェノロサ、岡倉天心が白衣で巻かれた救世観音を白日の下に曝します。
あの救世観音像を円空が見ていたかも知れません。
円空は法隆寺で血脈受けたのですから。
たとえ円空が救世観音を見ていなくても、秘仏の話は聞いていたでしょう。
その姿は、数多くある飛鳥仏の立像に確認する事が出来ました。
以来、円空の立像は法隆寺夢殿の救世観音スタイルになりました。
天川村の栃尾観音堂の阿弥陀三尊像。感動の大作であり、瑞々しさです。
この諸仏も法隆寺での修行、血脈を受けた事実が・・・・、実現させたものでしょう。
円空は法隆寺において、仏師としての確信を得たのではないでしょうか?
1673年(寛文13/円空42歳)円空は修験道の霊地大峯山に入ります。
天川村の栃尾観音堂で10体弱?の諸像を刻みます。(天川村には16体の円空仏があります)
もう、10年ほど前、栃の木の黄葉の中、粗末で小さな観音堂を日本文化研究会の仲間と詣でました。
その時の感動は、何時までも新鮮です。
昨日切り出したばかりのような、瑞々しい杉の肌です。
円空仏が”良くも、この鄙びた村まで来てくれた!”笑ってくれました。
続いて円空は1675年(延宝3/円空44歳)大峯山で役行者像を彫ります。
この役行者像の裏面に「延宝三乙卯九月於大峯円空造之 法印二之宿」とあります。 この像はどんな経緯をたどったのかわかりませんが、
現在は法隆寺に近い松尾寺の秘仏になっています。(年1回開扉)
役行者像
中世から近世に、時代の境目には応仁の乱以後長い戦乱に明け暮れました。
戦乱は聖徳太子の教え「以和為貴」を身に沁みて解らせました。
平和の訪れと共に、人々には聖徳太子を思い起こしました。
聖徳太子、法隆寺は時代の境目で必ず現れる現象でした。
きっと、今が時代の境目なのでしょう。
だからこそ・・・、法隆寺が見直されているのでしょう。
「以和為貴」そして「以愛隣人」・・・愛を持って隣人に接しろ・・・、なのでしょう。
栃尾観音堂の弁才天像。お母様の面影?
杉の木肌が瑞々しく、木目が美しい像です。(尚、写真は円空展/朝日新聞社目録平成6年から複写しま した)
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原三渓は本牧に私邸(三渓園)に梅林を整備します。
明治39年(1906)早春、梅の香る日に沢山の客人を招いてお披露目します。
客人の中には、芥川龍之介や下村寒山の姿もあったことでしょう。
以来、戦時下中断した事もありましたが、三渓園では毎年観梅の催しが行われてきました。
三渓園が横浜市に寄贈されてからも、観梅会が行われてきています。
もう100年を越す観梅の催しです。
三渓園の梅園は大池の東、三重塔の下に広がっています。
今年の観梅会は3月4日に終了しました。未だ3部咲きといった所です。
梅林は大池の東に、渓流に沿って広がっています。
緋梅、野梅など様々な梅が植えられていて、楽しませてくれます。
大凡200本もあるでしょうか?
その中でも、最も見事なのは「臥龍梅」と呼ばれる野梅です。
梅の幹がまるで寝そべって、鎌首を持ち上げた龍のような姿をしています。
勿論、熟練をした梅匠が精魂込めて、臥龍に仕立てたものです。
三重塔のある高台の真下ですから・・・・、まるで八岐大蛇(やたのおろち/出雲神話)が、
酒を飲んで、立ち上がろうとしているようです。
観梅の客人は”流石に三渓サン、素晴らしい臥龍梅ですね”
誉めちぎったと思われます。
三渓園の梅園、右端煙が立っているのが「初音茶屋」、観梅会期間中は此処で熱い麦茶が用意されます。
今日の話題臥龍梅は正面竹林の下です。昨年竹林が伐採されたので、少し梅の花数が増えた気配です。
手前の渓流が三渓園の名前の謂れです。蛍が飛び交います。
臥龍梅の全景、右端が初音茶屋。
まだ、駆け出しであった下村観山も臥龍梅の見事さに酔いしれた一人でした。
寒山は原三渓宅に居留していましたから・・・・、直ぐにその感動を絵筆にたくします。
臥龍梅を幅広な屏風に描きました。
そして、咲き誇る臥龍梅の中にポツンと、合掌する法師を右端に描きました。
法師は頬骨が出て、痩せ細っています。
良く見れば盲目です。
芳しい香りの中に身をおいて、心の目には満開の臥龍梅を見ているのでしょう。
馥郁とした梅の香りに、梅林の全景を見て、思わず感謝で合掌してしまいました。
下村観山は絵の名を「弱法師」と名づけました。
下村観山作「弱法師」、梅は三渓園の臥龍梅でした。東京国立博物館HPから転載。
弱法師は鎌倉時代の説話でした。
難波の古刹四天王寺の霊験譚でした。
加えて室町時代、世阿弥が謡曲に仕立ててなので、有名になりました。
難波の長者通俊には聡明な倅「俊徳丸」がいました。
しかしは、継母の讒言により俊徳丸は追放されてしまいます。
俊徳丸は放浪し、病になり盲目になってしまいます。
仕方なく、俊徳丸は乞食坊主となり各地の寺寺を渡って生きながらえていました。
彼岸の中日に難波の四天王寺にやってきました。
四天王寺の西門からは真西に沈む太陽が見られます。
四天王寺の夕日を拝めば、極楽浄土に往生できると信じられていたのでした。
彼岸の中日は難波中の信者が夕日を拝もうと集まって来て、賑わっていました。
父の通俊は俊徳丸を追い出した事を悔いていました。
そこで、四天王寺に出かけて貧者に施しをすることで罪滅ぼしをしていました。
彼岸の中日、群衆の中に倅の俊徳丸がいることに気づきます。
初音茶屋、初音とは鶯のこと。背後の竹林は鶯が好んで生息します。
でも、今年は未だ鶯は啼かず、梅も咲きだしたばかりでした。
初音茶屋の囲炉裏には大きな鉄瓶がかけられて、熱い麦茶が配られていました。
3月4日(日曜)はお茶会が開けれ和服のご婦人が紙コップの麦茶で掌を温めていられました。「お抹茶も いいけど、囲炉裏の麦茶が一番ね!」顔に書いてあるようでした。
三渓園には月影の茶屋・雁ヶ音茶屋などが並んでいます。
梅の香りよりもお蕎麦の鰹の出汁の匂いが勝っていました。茶屋を食べ歩くのも楽しみです。
俊徳丸は夕日を拝むと祈りが叶ったのか、見えない目でも見えるようになっていました。
気分が高揚して、俊徳丸は四天王寺の境内を歩き回ります。
そして、雄大な伽藍を見て回ります。
しかし今日は正月のように賑わっています。
行き交う人にぶつかってよろけてしまいました。
途端に現実に引き戻されてしまいます。
目が見えたと思ったのは、ただの錯覚だったのでした。
そんな俊徳丸を見て周囲の人々は嘲笑います。
日が暮れると夕方の賑わいは潮を引いたように、四天王寺は静寂に包まれました。
一人佇む俊徳丸に父は寄り添います。
話しかけられた俊徳丸は、乞食の我が身を恥じて逃げようとします。
通俊はそれに追い付き、彼を家へと連れて帰るのでした。
世阿弥は俊徳丸を「弱法師」と呼んで、謡曲の題にしました。
作品は下村寒山の代表作になり、国の重要文化財に指定されました。
原三渓は臥龍梅を育て、観梅と言うサロンを開きました。
偶々下村観山が居て重文の名画を描きましたが、
盛大にお茶会が開かれ、サロンは今も健在であります。
大池の畔の緋梅
月華殿(重文)前の白梅、障子が明るいのは中で大茶会が開かれているからです。
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昨日は湯島天神の蟇股(かえるまた) を紹介しました。
蟇股は中国大陸から伝わった建築技術が、日本の風土や生活習慣に順応して行く中で生まれ育ちました。
和様建築の”華”であります。
鎌倉でも随所で蟇股を見かけます。
特に印象に残る蟇股が扇ヶ谷の英勝寺にあります。
英勝寺仏殿(南面)、真っ直ぐ進んで仏殿の前に佇むと自然と蟇股に目が向きます。
この週末には梅も開花していると思います。
英勝寺は現在では鎌倉唯一の尼寺です。(尼五山の筆頭東慶寺は僧寺になり、多くの尼寺は廃寺になりました)
家康の筆頭側室「お勝の方」の法名が英勝院であり、家康没後同院が此処で髪を下ろしたのでこの名があります。
徳川頼房(家康の11男、水戸徳川家創始者)や、徳川家光から庇護をうけました。
はじめ玉峰清因(徳川頼房の娘小良姫)を門主に迎えて開基したこともあって、
代々の水戸徳川藩の子女を門主に迎えました。
従って、「水戸御殿」とか「水戸の尼寺」ともいわれたと言います。
仏殿、祠堂、唐門、鐘楼など随所に葵の紋が見られます。
5年間を要して修復なった山門。遠目で見ても古材を尊重して、新材で補強してい る事が解ります。苦心の作が・・・・、長い時間を要した事が解ります。
水戸のお姫様のお寺ですから、随所に女性らしさが窺がえます。
春の椿、梅に始まり、初夏の山吹(太田道灌の家紋)や白藤、秋の紅葉、彼岸花そして冬の竹林と、四季折々の表情が楽しめます。
伽藍の中心は阿弥陀三尊が祀られた「仏殿」です。
流石に禅宗様(浄土宗の寺ですが)の建物ですが、細部には女性好みの優しさ、たおやかさが見えます。
その一つが、蟇股彫刻なのです。
三間の柱の間、梁の上に蟇股があります。蟇股を額縁のようにして干支の彫刻が飾られています。
この写真は東面ですから、右から虎、兎、龍です。(建物の南北線が少し西に振れていますので下表とずれて います。)
禅宗様の大きな屋根があって、柱が支えます。
柱の上部に梁(頭貫と言う)が通っていて、屋根の重みを均等に柱に伝えます。
梁は二本あります。(下段の梁を長押・なげしと呼びます)
二本あるから重たい屋根を支えても歪まないのです。
二本の梁の間に蟇股があります。
蟇股は構造材であるよりも、装飾の意味が多いのです。
蟇股に鼠、葡萄を彫刻してあります。(北)
蟇股に猪、植物は萩でしょうか?
蟇股に鶏が刻まれています。花は菊でしょうか? 山門(昨年5年がかりの工事で修復されました)を潜ると、眼前に仏殿が聳えています。
参拝者の目線は、仏殿正面に注がれます。
三間の左右に花頭窓、真ん中には桟唐戸、欄間は弓の形をしています。
そして蟇股の装飾彫刻に目が留まります。
尼寺の蟇股ですから、細い、柳腰のような小股です。
その中に干支の彫刻が為されています。
南から入ったので、干支は馬、羊、猿です。
左に回れば西ですから、鳥、犬、猪になります。
北に回って鼠、牛、虎。東に回って兎、龍、蛇になります。
【干支と守り神、方角の関係。この外に時刻があります。】
仏殿のご本尊は阿弥陀三尊で、寺伝では運慶作となっています。
桟唐戸は目線の高さで明けられる様に、便宜を講じてくれています。
暫く見詰めていると仏殿の暗闇に目が慣れてきます。
すると、阿弥陀三尊の立像が見えてきます。
先日常楽寺の阿弥陀三尊立像が定慶の作である事が判明しました。
(従来は室町時代の作と言われていました)
英勝寺でも、解体してみれば、作者が誰だか判明するとも期待されます。
印象としては常楽寺阿弥陀三尊に似ています。
仏殿の内陣。阿弥陀三尊は寺伝では運慶作となっています。
この華麗な仏殿に座して門主様がお祈りしたのでした。
年齢も干支で表します。
方角も干支で表します。
時刻も干支で表します。
だから、仏殿の蟇股に干支をデザインしたのは、必然性があったのでした。
干支はお月様の満ち欠けを見ていて、思いつきました。
お月様を観察していると、12回満月が巡ると1年が経つと解りました。
そこで、1年を12ヶ月にしました。
1ヶ月の間は月の満ち欠けで(月齢)で細分しました。
そして、春夏秋冬、3回づつ満月が見られる・・・・、区分しました。
月齢は農作業にも、漁業にも、生理にも符合していました。
ですから、アジアモンスーン気候の地帯は、総じて太陰暦の文化が共通していました。
天井の鏡板には龍と天女が描かれています。
四方の壁板には鳳凰が飛んでいます。
華鬘(けまん、金属で出来た花)や天蓋も華麗です。
お姫様の門主様が阿弥陀様の前に座られて朝に晩にお勤めをした事でしょう。
尼さんが、お勤めを終えて本堂を出れば燦燦と光る陽の光です。
太陽の位置で時刻を知ります。
時刻は干支で表します。
そして、干支は自分自身の守護神をも示しています。
尼さんたちは本堂の蟇股の干支を見上げて、
暦や時刻を知り、更に様々な思いを託したのでしょう。
此方は修復した山門の蟇股。仏殿の蟇股に比べると背が高い(足が立っています。力があると表現します)
彫刻も故事が多くなっています。図は鯉に乗った琴高仙人、おめでたい話です。木食い虫の開けた穴もある し、・・・修復の困難さが窺がわれます。
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梅の花の名所と言えば「天神宮」です。
大宰府天満宮にも、北野天満宮にも見事な梅園があります。
華麗な権現造りの社殿を背景に、梅の花が見事です。
毎月25日には「天神さん」の市がたち、骨董品や古着・衣料品などの露店が並びます。
特に12月25日は「終い天神」、1月25日は「初天神」と呼ばれ、何処の天満宮は賑わいます。
湯島天神の社殿と白梅。泉鏡花の小説『婦系図』でも有名です。
湯島通れば 想い出す お蔦主税の 心意気 知るや白梅 玉垣に 残る二人の 影法師・・・・・、歌謡曲でも お馴染みです。
江戸っ子にとって天神様と言えば、「湯島天神」です。
東大をはじめ大学が立地する文京区湯島の高台にあります。
梅の木の梢には先には神田の家並みが見渡せます。
受験シーズンにはポツリ、ポツリ咲き始めた梅の花に思いを託す受験生の姿が見られます。
”梅の花ほころぶ” 吉報を待つ受験生の想いが枝垂れた梅の花に繋げられています。
大宰府天満宮も、北野天満宮も、湯島天満宮も、亀戸天満宮も・・・・・、
総じて天満宮は「権現造り」の社殿です。
権現造りは安土桃山時代から流行った豪華・華麗な建築様式です。
日光東照宮がこの様式で建てられたので「権現造り」と呼ばれるようになりました。
偶々、天神様(菅原道真)が篤く信仰され始め、
各地で新築造営されたので、時代の流行「権現造り」が採用されたのでしょう。
鎌倉柄柄天神社の絵馬。お願いは菅原道真公に、御礼は白馬の絵馬を奉納します。
菅原道真は遣唐使を廃止します。
それから200年、平清盛が日宋貿易を始めるまで日本は鎖国状態になります。
国風文化の盛期を迎えます。
江戸幕府が鎖国を始め、約300年弱の間に江戸文化を醸成したのと似た状況になります。
湯島天神の社殿正面の蟇股。股の間には梅に囲まれた牛が描かれています。
梅は「飛び梅」、臥牛は天神様のお使いで、臥したのは「道真公の亡骸を大宰府に葬るように、臥したから」
故事に拠るものでしょう。
中国から伝播した寺社建築でしたが・・・・・、平安時代に日本風に変化し、発展します。
それは、奈良の平城宮と京都の平安宮を見比べれば解ります。
建築の細部も平安時代に独特の変化をします。
その典型が「蟇股/かえるまた」です。
蟇(がま)と書いて”かえる”と読ませます。
やせ蛙の股では貧粗で弱々しいので、”蟇かえる”にしたのでしょう。
蟇が脚を広げてふんばった姿勢と似ています。
だから、蟇股です。
蟇股に朝顔。
蟇股に紫陽花。蟇股は額縁のような役割もしています。湯島天神社殿の側面。
蟇股にクレマチス。
屋根の重みを梁(はり)で受け止めます。
梁と梁の間を支える構造材に短い柱を置きました。
法隆寺(飛鳥時代)には間斗束(けんとずか)」と呼ばれます。
天平時代になると、装飾を重んじて板状に変化します。(板蟇股)
更に軒下を飾っていた複雑な斗栱が姿を消すと、蟇股の装飾性が重んじられるようになり、
我国独自の発展を遂げます。
大工は蟇股を腕の見せ所にします。
日光東照宮を仰ぎ見れば視線は先ず蟇股に注がれます。
華麗で力感のある股の姿に眼を注ぎ、更に股の間の装飾彫刻を見ます。
東照宮では股の間に「眠り猫」を置いて見せます。
それが「左甚五郎」と言う名で呼ばれる伝説の彫刻士になります。
蟇股に兎
天満宮の神紋を奉げる唐子の彫刻 和風建築の発展のルーツは菅原道真の遣唐使廃止にありました。
それが、蟇股発展の与件になったのでした。
ですから、湯島天神の蟇股も工夫を凝らしています。
蟇股見て歩きます。
デザインの妙に感心します。
どれも、何らかの故事や思いや祈りが込められています。
つくづく、日本人は自然が好きで、平和な民族だな・・・、痛感します。
蟇股に飛天女像(鎌倉白旗神社) 蟇股に白兎(豊川菟足/うたり神社)
【説明】
和様建築は我が国古来の建築様式ではありません。
飛鳥時代、奈良時代を通して我国に伝わった中国の建築技術をベースにして、
我国独自に、日本人の生活様式や風土に沿って発展したものでありました。
中国では椅子に座って、室内でも履物を脱きません。
日本は室内では座して、履物も脱きます。
日本では、天井は低くて済みます。床下には通風が大事になります。
そうした生活の中で、衣・食・住が発展したのでした。
そのきっかけになったのが菅原道真の実施した遣唐使の廃止でした。
日本人の感覚に沿って国風文化が自律に展開して行きました。
その一つを蟇股に見出す事が出来ます。
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