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前々から房総風土記の丘の「龍角寺」に白鳳仏を拝観しに出かけようと約束していました。2月26日、朝8時30分の快速成田行きに乗車してお出かけしました。
車窓から眺める千葉の景色は久々です。私の学生時代、略同期生にY君がいました。略と云うのはY君は留年して私と同期になってしまったからです。遊んでいて留年したわけではなく、”大学が生物兵器の研究をしているらしい”事が許せなくて学生運動に情熱を注いだので留年して、しまったのでした。佐世保闘争にも出かけましたし、今日出かける成田空港の三里塚もありました。彼の家は検見川でした。あの頃は検見川もクロスカントリーのコースになっていて、田園そのものでした。Y君は千葉大の園芸学部と慶応の法学部に合格し。何故か慶応をチョイスしたのでした。ご両親にすれば息子が千葉大に学んで先祖伝来の田畑を耕作していたなら、今頃は別の家族形態だったでしょう。約10年前に膵臓癌を発症し、先立ってしまわれました。今思えば、慶応の”医学部が生物兵器の研究をしている”そんな噂が彼の耳に入らなければ良かったのでしたが・・・。
開発の進んだ検見川の市街地を眺めていると、人間の運命の不確実性をつくづく思うのです。
私もワイフもY君は良く承知していました。そこでY君の想い出話をしました。
『Y君は良く私の生家を訪ねてくれたよ!私は戸塚駅に出迎えたのだが、何時も切符を拾って彼に手渡したのでした。彼は私が拾った切符で改札口を出てくる。検見川で乗車する時は小岩位の近距離切符で乗車している。これを世に「煙管/キセル」と云うんだ。』何故キセルと云うか解るか?」
案の定ワイフは判りません。私は得意の薀蓄を傾けます。『煙管は吸い口と煙草を嵌めこむ口と両端が金属で真ん中は竹の筒だ、中抜け乗車をキセルと云うんだ。今の様にICタグによる自動改札だとキセルは不可能だけれど・・・』
風土記の丘資料館前庭に置かれている石棺、向こうに小さな古墳が見えます。この辺りには160基にも及ぶ古墳があってどれも乳房型の円墳ですが日本最大の方墳もあります。大きさに大小が在る事は強力な支配者が出現していたことを示すのでしょう。
資料館の正面入り口。並んでいるのは101号古墳から出土した埴輪、扉の写真は龍角寺の仏頭です。
此方は白鵬仏の仏頭です。写真出典久野健著(関東古刹仏像集」
本来なら浅子教授に連れられて龍角寺を訪問した想い出を話すべきなのに、Y君の思い出は良くも悪くも強烈でした。それに、私は龍角寺白鳳仏の記憶がはっきりしないのです。今年桜が咲いたら山城の蟹満寺に同じような白鳳の薬師を拝観する予定ですから。その前に再度拝観しておこうというのが私の思惑でした。
拝観予約を昨日もその前日も入れたのでしたが。お寺は電話は出ないし。栄町の生涯学習課も”お寺さんが居られれば拝観できるでしょう!”と云う次第で相手にしてくれないのです。
午前中に風土記の丘資料館を見学して、再度栄町の生涯学習課に電話したのですが。拝観の約束は取れませんでした。資料館で予め予習を終えて午後に龍角寺に入る事にしました。
この童顔若々しさは聖武帝の面影を宿すようです。
風土記の丘資料館から龍角寺までの道は「白鳳道」として最高の遊歩道です。
優しい古墳と復元竪穴住居の間を縫って龍角寺まで誘ってくれます。
白鳳の道は団栗が転がっていました。
龍角寺の周辺は明るい戸建て住宅の開発が進み市原の房総風土記の丘や栃木の下野風土記の丘、行田のさきたま風土記の丘に良く似ています。古墳群が在ったので宅地開発できずに、雑木林のまま調整区域に指定されたお蔭で保存されて貴重な緑が残されているのでしょう。
北に龍角寺があって南に風土記の丘資料館や民家園等が保存されているのです。三里塚闘争の舞台になって、今は成田空港の滑走路になっている処は戦前には御料牧場であって、学習院初等科正堂大学(重文)もその歴史の遺品なのでしょう。
矢張り土の道は歩き易いし楽しみは幾つもあります。ワイフは猪に遭ったらどうしようなんて言っています。先刻バスの窓から観たら動物注意!の標識に狸が出ていました。どうやらワイフ(狸)は猪が苦手のようです。
突き当りが龍角寺です。参道の両脇は農家が並んでいました。
これが龍角寺の境内手前の礎石は中門の跡だと思います。南大門は上の写真の辺りでしょう。案内板には発起寺式伽藍配置であったと記してありました。正面の仮本堂の後ろに金堂の基壇があってその右(東)に三重塔の礎石があります。法隆寺と左右(東西)が逆転しています。
これは三重塔の礎石です。中央の阿丸い穴に塔芯の柱が収まっていました。
仮本堂の内部正面の葵の御紋のある扉を開けば薬師如来像を拝観できるのでしょう。セコムの監視装置が張り巡らされてありました。
龍角寺入り口バス停からコミュニティーバスに乗って安食駅から成田に回って帰宅しました。Y君がいたら、もっともっと楽しかったでしょうに・・・・。
漸く前方に龍角寺の堂宇が見えてきました。堂宇と云っても中門の礎石に三重塔の塔芯礎石と粗末な本堂と物置の様な校倉倉庫だけです。住職は不在と思っていましたが庫裏はシッカリしています。
本堂の窓から中を覘くと前机と座布団が敷かれて奥に土蔵の扉が見えました。屹度薬師如来像はあの土蔵を開けば拝観できるのでしょう。大昔浅子教授に引率されて拝観した筈なのですが想い出せません。私の記憶力はこの程度か!落胆しながら、バス停に戻りました。来た時とは違う龍角寺入り口のバス停でバスを待ちました。ワイフは筋向いの農家の無人販売所で海老芋を買いました。今晩は白鳳時代と同じで芋の煮付けでしょう。
栄町のコミュニティーバスに乗って安食駅に出て、成田線房総線横須賀線に乗りついで、陽がくれた頃戻りました。
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古美術ウォーキング
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全国に散らばる古美術を行脚します。
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私の親友がお父様の蔵書を整理される過程で「土門拳写真集」要りませんか?お声をかけてくれました。
写真好きの誰しもが尊敬する土門さんの写真集です。私も学生時代に小遣いでは全部は求められず、数冊求めていたので。”喜んで”ご厚意に甘えさせていただきました。宅急便で届けられた写真集はワイフが寝室に棚を用意して取り出しやすいように整理してくれました。
戴いた土門拳写真集は私が好きだった「古寺巡礼」だけでは無くて出世作の「筑豊の子供達」も含まれていました。改めて土門さんのカメラアイが社会派と云うか「写実派」である事を痛感しました。
私の枕元に並べて貰った写真集です。重たい土門拳写真集は下の段に積みましたのでこの写真では見えません。この蔵書がワインの段ボール箱に詰められて来ましたので家族は「親爺は気が狂ったか!」と思ったようです。
此方が戴いた土門拳写真集の第一回配本(古い順に出版したようです)萱傘を被っておられてベトナム写真家の様な若々しさです。写実派社会派と呼ばれた頃を如実に示しておいでです。
第2回の配本は古寺巡礼のうち天平の仏でした。
先月上野博物館で拝観した「櫟野寺展」でもライティングは四方八方から仏像に光りを当てて良く見えるように陰も見えるように工夫していました。基本的には土門拳さんの写真技法と同じでした。博物館員は基本的にルーブルのギリシャローマの彫刻のライティングを基本としています。四方八方から照らして彫技の隅々まで見せる事を良しとしているのでしょう。土門拳さんのカメラアイも同じです。
中宮寺の弥勒菩薩を土門さんは写されて次の文章を寄せておいでです。
頬にあてられている右手の細くたおやかな指先は色っぽく、官能的といえるほどしなやかな表現を与えている。ぼくはこの観音像くらい、女、それもゆたかな母性を感じさせる仏像をほかに知らない。
中宮寺の弥勒菩薩が「色っぽいか?」訊かれれば首を縦に振りますが、その前にそんな質問をする人を下品だと思います。「母性を感じるか?」訊かれれば同じように頷きます。でもそれを母性とは言いませんマリア様と同じく聖性とか神聖と呼びます。土門さんのカメラアイがギリシャローマ彫刻を見るそれと同じだから土門さんの言葉が足りなくて「色っぽいおか母性」と云った俗な言葉でしか表現できないのです。
此方は土門拳写真集の中から中宮寺弥勒菩薩を写されたモノ。四方八方からライティングされ弥勒菩薩の色ほさや母性を留めようとされています。
此方は入江泰吉さんの写された中宮寺の弥勒菩薩像ライトは拝む人の目線と同じで斜め下から当てておいでです。指先の柔らかさと、陰がお顔に射してまるで涙で濡れたような瞬間を捕えておいでです。
入江さんはシャッターは滅多に押さずにズット待ってその時が来たら瞬間を捕えると云っておいでです。私は待っている間祈っておられたと確信しています。土門さんと入江さんの違いは和辻哲郎と亀井勝一郎の違いと相似です。
今では中宮寺は不燃性コンクリートの建物に入っておいでです。
既に拝む人は滅多に来ない事を前提にしています。
でも拝むために置かれているお寺も沢山あります。
その最たるものは京都東山の法然院です。
法然院に残暑の最中に上がった事がありました。本堂の床が塵一つなく掃き清められていました。床に当たった光が本尊の阿弥陀様を照らしていました。私達は床に正座して阿弥陀様を仰ぎ見ます。私達に仏縁を与えようとお寺さんは本堂を清浄な空間に保っておいでなのです。
法然院の本堂(絵葉書)この写真は手前からライトアップして紅白の椿がハッキリ写っていますが。実際は床は黒光りしていて花がボット浮きあげって見えるのです。法隆寺の橘夫人念持仏と同じ濁世(沼)を救う阿弥陀様の様に意匠されています。
私達は床に眼を落して気付きました。床にはムクゲの花がさりげなく散らかせて在ったのでした。お寺の絵葉書を観れば春には境内の藪椿を散らして夏には睡蓮の花を散らせるようです。
薬師寺の高田後胤師はそんな土門さんを”野武士のようで抜身の刀を下げて仏像と戦おうとしている”評されました。
私が初めて中宮寺の弥勒菩薩を拝んだ時は、中宮寺は貧疎な尼寺でした。農家の居間のようなお部屋に通されると畳の部屋の奥に弥勒菩薩が半跏思惟されていて、その背後に天寿国曼荼羅が吊るされていました。国宝二点が可燃のあばら家に置かれていたのですから。驚く無神経でした。でも今思い返すと、それは無神経なのでは無くて本来の姿で置かれていたのです。
庭の砂に反射した光は障子越しに室内に差し込みます。そして畳の表面で反射して柔らかな光で阿弥陀様のお顔を下からアップで見せてくれます。
でも、仏像は本来はお寺の内陣の奥、須弥壇の上におられるものであります。ですから四方八方から光りに照らされることは無くて。蔀戸越しに差し込む陽の光や蝋燭や護摩焚きの火に照らされたモノであります。
信仰の対象が仏像だと思うのならライトは仏像の下から仰ぎ見る視線に合わせて位置すべきです。
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昨日(10月12日)の朝刊に『香薬師像の右手か?』と云った記事が載っていました。そこで今日は香薬師像の事を書きます。先ずは昨日の新聞を観てください。
これが昨日の新聞記事です。香薬師像のモノと思われる右手が発見され、芸大の権威も右手として同意していて文化庁も否定していないと報じています。
私はこの記事を読むと学生時代の記憶が鮮明に想い起されます。
昭和47年の真夏でした。私達は故浅子教授に引率されて奈良の新薬師寺に上っていました。
教授は会津八一の歌碑の前で無くなった香薬師像の話をされました。
この歌はこの寺に祀られていた香薬師像をで歌われた歌です。この歌は会津八一さんが憧れの香薬師像をまじかに見上げて歌ったものでした。
ちかづきて あふぎみれどもみほとけの
みそらはすともあらぬさびしさ もう1首教授は教えてくださいました。
みほとけの うつらまなこに いにしへの
やまとくにばら かすみてあるらし 2首目の歌は会津八一さん昭和17年に歌われたものでした。それは同年盗難に遭ってもう拝めなくなった香薬師像を偲んで悼んで歌われたものでした。
私達は少年のようなお顔の薬師像の瞼の彼方に大和の中原が霞んでいる景色を想いうかべました。
浅子教授のお話は未だ純粋だった私に強い感銘を与えてくださいました。香薬師像は明治の国宝で
余りにも美しいので。全身が金で出来ている、噂が立っていました。最初の盗難に逢ったのは昭和17年でした。その時泥棒は流石に香薬師像を鋳つぶして金塊にしてしまう事を躊躇ったのでしょう。香薬師の右手が切断されて戻されたのでした。泥棒は屹度右手を切断して香薬師像はブロンズで純金では無い事をかくにんして密かにお寺に戻して贖罪したのでしょう。
でも戻された香薬師像の美しさに惑わされた人間はもっと多く。お寺の人間の欲望に限度が無い事を知らなかったのでしょう。充分な対策はしませんでした。結果香薬師像は昭和44年に二度目の盗難に遭遇します。
時の新薬師寺のご住職は悲嘆にくれました。
東大寺の海雲師は文芸春秋社長の佐々木茂索氏に相談します。
幸いに新薬師寺に石膏摸型が残っていた事などから、新たに三体の摸像を作ります。
摸像と言えども大変に精巧で、当初の面影を伝え、童顔の面相、薄い衣等、深い感銘を与えるものでした。
三体のうち一体は新薬師寺に、もう一体は国立博物館に、そしてもう一体は佐々木家が菩提寺の東慶寺に寄贈したのでした。
以上が浅子教授がお話しいただいた香薬師の受難の歴史です。私はこの講義が忘れ難く、春には新薬師寺に上り、秋には府中の深大寺に薬師像を拝観しては香薬師像を偲ん出来ました。
香薬師像に惹かれた人は数多かったのでしょう。
私はもう5年も前に鎌倉の東慶寺宝物館に香薬師像の石膏模造を拝見してこの記事をブログにアップしました。http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/44748083.html
新聞記事に載っていた貴田正子さんは亡くなった香薬師像を追ってドキュメントを綴って来たのでした。
それを上梓したのが下の本のようです。
画像出典アマゾンこの本の著者の貴田正子さんの想いが右手発見の功績に直結しました。何時の日か本体も寺に戻ることを願っているのは黄泉に逝かれた人生きている私達共通の願いです。
日本に伝わった仏像は主流が法隆寺の釈迦三尊や飛鳥大仏に代表されるような北魏様式の硬く神秘的な、異国的な仏像が作られました。それが日本化するというか徐々に優美な姿に変じます。香薬師はそんな変革期(白鳳期)を代表した金銅仏だったのでした。香薬師は持統天皇が建立した薬師寺の薬師三尊(天平仏の代表)にたいして香るように麗しいと云った意味で愛称された名だったのでした。同時代の正延暦寺や深大寺の薬師像が椅像(椅子に腰かけられた像)であった事を鑑みれば薬師立像で充分だったのかもしれません。
此方が奈良山野辺の正暦寺の薬師如来椅像。このお寺は紅葉の名所であり清酒発祥の地(三輪山の山蔭にあるので)ですからこの秋も紅葉狩りを兼ねた客で混雑する事でしょう。
これは府中の深大寺の釈迦如来椅像(絵葉書転写)今年もナンジャモンジャの花が咲く頃拝観しました。
白鳳仏はファンが多いモノです。特に女性ファンが多いのは現代の男性に爽やかさや本当の優しさが欠けて来たからかも知れません。童顔に純粋さ男らしさを期待しているのかもしれません。
白鳳仏の強靱な脚にリオオリンピックで活躍したケンブリッジ飛鳥選手を想い起した人は多いと思います。
いずれにしても右手に続いて御本体も新薬師寺に戻ることを願っています。
既に盗んだ人も時効にかかっています。盗んだ人は今頃地獄の責め苦に喘いでいることdふぇしょう。仏像が家に(新薬師寺)に戻れば地獄の責め苦を免責されるかもしれません。両墓制は盗人にしても有難い慣習かも知れません。二度目の葬儀の後は閻魔大王は優しいのでしょう。
少なくとも浅子教授も会津弥一氏も香薬師像が戻る日を黄泉で待ち望んでおいでです。
来春は木津川に沿って蟹満寺(此処も白鵬仏)から笠置寺に遡上する計画です。桜と仏を巡る旅です。今回も浅子教授の教え子仲間の旅です。早く私もハンドルが握れて笠置の石仏・石窟を巡れるよう強靱な足腰を回復させたいものです。
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昨年の春は日本文化研究会ОB会の仲間20名と奥吉野の観桜ツアーに行きました。今年は何処に行こうか?正月に考えましたテレビではフィギュアスケートの羽生選手が復興支援ソング”花が咲く”に乗って華麗にそべっています。”花は咲く”は美しいメロディーです気ですがそこ歌詞に不可解な部分があります。
花は 花は 花は咲く
いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く 私は何を残しただろう 歌詞は美しく咲く花に託した応援なのでしょうが。最後のフレーズ”私は何を残しただろう”は応援には響きません。
”貴方は何を残しましたか?”尋ねられて胸を張って答えられる火は稀でしょう。私は答えに窮してしまい”精一杯やったのでしたが、唯運が悪かったそれで何も残せませんでした。”呟くだけです被災された人も多くが故郷の美しい山河を観ながらに、運が味方しなかと涙するだけでしょう。
私は何を残しただろう”は被災者にとってはむごすぎるフレーズです。
官製応援ソングの欠点でしょう。反感を持っているのは私だけでは無く、花そのものも思って居るでしょう。折角精一杯咲いたのに誰も観てくれない、誉めてくれない”恨み辛みも言いたくなるのではないでしょうか?ならば福島に桜を意味てあげよう”思って磐越桜ツアーを企画し、ました。
今回も同期の4名と一緒逢うる予定だったのでしたが。肝心の親友М君が首を痛められて同行できませんでした。М君は今年は”御柱祭り”で盛り上がった諏訪大社の氏子でた人でしたが、磐越地方にもその末社が多くあります。そんな話もしたかったのでしたが、3人で2泊三日の旅を終えて昨晩帰宅しました。
今回のツアーは”花が咲いたら観てあげよう。がテーマでした。
折角精一杯咲いたのに放射能汚染で誰も見てあげないのでは、桜さんに申し訳ない”そんな気持ちで磐越の桜を見て回ったのでした。
今回は”山に咲く桜を観てあげよう”と云ったツアーでした、。これは21日の朝一番に白水阿弥陀堂を出て戻る時に観た阿弥陀堂の向かい(南側)の自然山林です。鶯色と濃い緑とピンクの山桜と白い大島桜が濃き混ぜて美しいと思いました。
これは徳一上人の遺跡を巡ろうと四倉から玉山鉱山の裏にある八茎寺に行こうとした時に観た景色です。右奥の杉山の向こうに八茎寺が在ると期待したのでしたが道を登ると右が二葉町左は小野町に繋がる筈でしたが。右も左の通行規制(放射能の為)されていました道路斜面にはウドもタラの芽も見捨てられていました。
知的好奇心では先ずは古代の徳一上人、2番目は中世の山椒大夫安寿姫と厨子王丸の軌跡を観る事でした。
いわきの地名は中世の初頭にこの地を治めた磐木(いわき)氏の名に由来します。龍門寺は岩城の国主岩城氏の菩提寺です。私達は磐木の名は安寿と厨子王丸の父親が磐木の判官であった事を知っています。あの悲しい物語はこの地がルーツで、安寿姫と厨子王丸は母親に手を引かれて磐越道を越後まで歩き、親不知沖で人買に浚われ遭難してしまいます。
私達は磐木駅に降りるとレンタカーに乗りかえ磐木氏の菩提寺龍門寺の門を潜りました。私達に気付かれた住職さんが庫裏から出て来られました。
私は大きな声でご挨拶して住職さんの立ち姿の美しさに私は思わず合掌してしまいました。私は昨今お坊さんの動作が自然になって来たようです。
「私の従兄弟に福島信夫山の麓に古舘鎌秀院(れんしゅういん)があります。」話しますと。
鎌秀院さんならお世話になっています息子さんも立派に晋山されましたよ。(晋山とは曹洞宗のお寺の住職になるために充分に修行を積んで、寺の住職となるためには、所定の修行を積み、資格を得たと判断され曹洞宗管長より住職の辞令が交付されたこと)。ならば貴方は竹内さんですね。
「そうです。横浜の盛徳寺の三男として産まれましたが、還暦を過ぎてから仏心が湧いてきて、今回は花を観てあげよう思ってこれから三春まで旅をします。」
「ところで。此方は磐木氏の菩提で居られましたなら安寿と厨子王丸の記憶に繋がるモノはおありですか?」
残念ながら当寺にはありません三春の天寧寺さんにはお地蔵様が残されていますよ。この庭の桜も三春滝桜の種ですよ。今年も見事に咲いてくれました。
「此方は震災の被害も無かったようで良かったですね?申し上げれば、)対先年まで瓦屋根だったのでしたが、銅板葺に変えた直後に震災が遣って来ました。瓦のままでしたら本堂は倒壊していたかもしれません運が良かったと思って居ます。山門も随分揺れて台座石と柱は5センチも外れてしまいましたが屋根が茅葺で軽かったのが幸いしました。
そして本堂の扉を開けて内陣を見せてくださいまあした。私が首からカメラを吊るしているのをみて写真を写しても良いですよ言って下さいました。
私達が本堂に登っているのに気づかれて御子息が来られました。
この人は信夫山の鎌秀院竹内さんの従兄弟だそうで、竹内さんは息子さんの晋山も終えられて」言って戴きました。従兄弟でも私よりは10歳も年下でしたが親しい間柄です。ちなみに晋山とは充分言修行を積み人格識見とも住職として認められると曹洞宗宗務管長に認められた人の事です。こうして従兄弟が誉められると嬉しくなってきます。ご住職は息子さんへのエールも在ったのでしょう。
私が副住職とお呼びすると少し気恥しい風でした。私は青い坊主頭が可愛らしく眺めたのでした。
龍門寺の本堂左に座っておいで方がご住職ご本尊は釈迦如来でしたが欄間の彫刻(中央が龍右が獅子)が見事でした。
欄間の彫刻の獅子
私達は数年前会津の勝常寺に徳一上人を偲びました。
本堂から山門を眺める。5センチも柱がズレてしまったそうですが山門に傾きや歪みは無いようです。
台座から柱が5センチもズレテしまったと云われましたが既に修復は終えているのでしょう。ピッタリ正位置に柱は立っているようでした。
これは迫力の仁王像(写真は住職に戴いたパンフレットをスキャンしたものです)
これが三春滝桜の子だそうです。今年も見事に咲いたそうですが既に葉桜状態でした。これで樹齢50年だそうです。滝桜の種は成長が遅いようです。明日21日に三春に泊まります是非とも散らずにもっていて欲しいと願いながら。瀧桜の若木を見詰めました。
此方は磐木と三春の中間に位置する小野町(小野小町の生誕の地と言い伝えられるの夏井の千本桜です。桜は娘鯉幟は男の子青空ならもっともっときれいだったでしょう。この道を古代徳一上人は会津に向かわれ会津に仏教の理想卿を築かれました。中世には安寿姫と厨子王丸が京に向けて歩を進めました。
そんなことで2泊三日で磐木から三春まで桜を探しながら古代と中世の文化を訪ねて帰ったのでした。今日からしばらくの間その紀行記を書きます。
実は予め言っておくと三春の瀧桜は既に終わっていて地元の人に訊けば今は会津が満開だから猪苗代湖の湖畔の桜を観に行けと奨められました。これから桜前線を追う方は会津から米沢蔵王山ろくに向かわれることをお勧めします。
いつか三春から会津坂下更に朝日連峰の麓を米沢から最上川に沿って大石田から天童に桜と共に北上してみたいものです。
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埼玉古墳群を観て今回も鉄剣(国宝)を展示してある「埼玉史蹟博物館」に入るか将軍山古墳に入るか迷いました。将軍山古墳展示館の入り口は実際の前方後円墳のくびれた位置にあります。
古墳の中に展示室が在るのは韓国の慶州の古墳の展示と同じですし、想像力を刺激されて面白そうです。
将軍山古墳展示館に入る事にしました。
埼玉古墳群は前方後円墳が6基もあるので、私は稲荷山古墳と間違ってしまい、慌てて将軍山古墳展示室の入り口に辿り着いたのは4時半を過ぎていました。
それでも係員は親切に入れて下さった上に私の質問にも丁寧に答えてくれました。
稲荷山古墳から将軍山古墳に回るには古墳の略一周を歩かなくてはなりません。将軍山古墳を見上げながら考えました。何で前方後円墳と名付けたのか?実際は「前円後方墳」では無ないのか。前方後円墳が人形(ヒトカタ)なら丸い頭が先で四角い体は後ろではないか?思います此処には6基もの前方後円墳がありますがどれも円形が南(少し西に振れていますが)方形が北を向いています。現代人は北枕と云いますが古墳時代人は死ぬ時は南枕にしたのかしら?死者の体は丸い部分に埋葬されたのなら。死者の魂が再生するときは四角い部分を渡って現世に来るのでしょう。
此処は忍川が流れる肥沃な台地ですその中央に幾つもの古墳が集積しています。古墳は死者を葬る墳墓の意味以上に何か役割が在ったのでしょうか?
この村で此処で族長が亡くなったとします。すると族長の遺体は丸い墳墓に埋葬したのでしょう。そして一定期間(例えば49日)経てば族長の魂は天に昇って祖霊に昇格します。
次に村では新しい族長のポストを継承する者を決定する祭事を執行する必要があります。その祭事を方形の台地の上で執行したのでしょう。村の一般人は前方後円墳の下でこの祭事(聖事)を見詰めます。並んだ円筒埴輪の上に火を灯せば祭事が良く見えるでしょうし、俗界と聖域との境を示し、邪悪なモノの浸入を阻止する事が期待されます。円筒埴輪は現在の神社の灯篭のようなものでしょう。
将軍山古墳の方形部分には円筒埴輪が並んでいます。まるで道路工事ネオンライトか神社の灯篭のように見えます。左に円墳が在って死者が埋まっています。円墳に埋められた霊が再び現世に戻って来た時に迷わないようにする標識だったのかもしれません。同時に円筒埴輪は先代族長からバトンタッチした新族長の就任式を執り行ったのでしょう。前方後円墳と云った特徴的な形態は族長や王様の承継を執行する政治(祭事)の舞台だったと思うのです。
方形部分の円筒埴輪の並びを見ていると天孫降臨の野外舞台を見て居るような気持ちになりそうです。夕焼け時にはドラマチックな写真がとれそうです。
「人物埴輪には朱色の入墨があるのこともあるし、多摩川台古墳の復元模型には埋葬された人の顔に隈取があるが将軍山古墳には無いのか?」すると次のように答えられました。
「此処では埋葬された人の遺体は完全にが腐食してしまって骨さえも溶けてしまっていた。入墨が在ったかもしれないが人物埴輪も出土しなかったので推測で入墨を施すことはしなかった。」
私達は先史時代の歴史を次のように学校で教わりました。
『縄文時代・弥生時代そして古墳時代が続きます。古墳時代には各地に武力のある豪族が競ったものの大和朝廷が抜きんでた力を示し.吉備や出雲を平定し国家統一を成し遂げました。』
古墳も当初は土饅頭のような円墳や方墳が主流であったが次第に大きくなって、前方後円墳が目立って行きました。豪族の優勝劣敗が巨大な前方後円墳を発展させました。そして仁徳天皇陵のような世界最大の墓を実現して古墳時代は幕を閉じました。
私達は同じ日本人が日本列島に住んでいて同じ民族が縄文弥生そして古墳時代を経て帝(大和朝廷)に統一されたように教わりましたが、最近の遺伝子科学や文化人類学の成果によって、大陸や半島から民族が移入して前の(縄文時代の)民族や文化を吸収して発展したと考えるのが主流になったようです。日本民族は単一では無くて南方から移住してきた南方モンゴロイド(弥生民俗)と北方から渡って来た騎馬民族(北方モンゴロイド)そして邪馬台国に代表される征服民俗(大和朝廷)など幾つもの民族が多層化、交じり合ったと考えるのが主流になりました。
更に朝鮮半島の文化は日本の文化より先行していたので常に日本は教えて貰う立場にあったと思い込んで来ました。
ところが最近になって半島南部に前方後円墳が発見されて古墳時代には日本文化が半島に進出していた、と考えるようにもなっているようです。大和朝廷が南朝鮮に進出した結果半島に前方後円墳が在るというのなら、神功皇后が新羅出兵(古事記、日本書紀)の記述にも符合します。
ところで円筒埴輪ですが”古墳時代の初期に吉備地方に出現した初期の埴輪でしたが、古墳時代が進むと形象埴輪が出現します。私達は学校で次のように教わりました。
日本書紀には垂仁天皇の御代に野見宿祢(のみのすくね)が殉死を止めて埴輪を作って陵墓に立て,殉死に代えたことに始まった。事の真偽は解りませんが形象埴輪は畿内よりも関東平野に多く秀作も多いのです。
これは群馬県太田市飯塚町出土から出土した武人埴輪像国宝6世紀写真出典は国立博物館ライブラリーhttp://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J36697この像を観ると始皇帝の兵馬俑を思い出します。この像が大魔神を作ったと思います。
先史時代や古代はロマンが満ちていて楽しい世界です。知的好奇心を満新進を健康に保つには最高です。帰路は埴輪の館前の循環バスのバス停に出て行田駅(JR)から湘南新宿ラインに乗って替える事にしました。
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