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三浦佐原の満願寺さんから葉書が届きました、春蘭に「春光日々新」と添えられていました。満願寺の住職は文化人で昨年もお葉書が届き、東京大学名誉教授養老孟司さんのお話も伺えたようでした。でも私はリハビリ途上出かけられませんでした。
今年はワイフが積極的でインターネットで脚の弁を確認していました。私は先月奥三河の瀧山寺で運慶仏を拝観したので、久々に満願寺に登りたいと思って居ましたので、一緒に出掛けました。
三浦万願寺から送られてきた「春の文化祭」の案内はがき春蘭が爽やかです。
地下鉄で上大岡に、上大岡で京急京急の北久里浜でバスに乗り換えれて、岩戸停留所で降りれば満願寺はすぐ近くです。道路には満願寺の案内看板が立てられていました。
今日は満願寺の仏像を私なりに案内させていただきます。
寺伝では、満願寺の仏像は運慶作と言い伝えられています。でも、一般には慶派の作と云う事で、運慶の弟子(子孫も含めて)と云われています。私の様な素人目にも運慶の作にしては写実力や力強さ迫力に欠けると感じています。運慶の弟子の作とすれば、誰が適当だろうか?私の憶測が広がって行きます。憶測は自由です、小説は史実と骨格に憶測で血肉を付けて動かします。
主人公は運慶の三男の康弁です。康弁は興福寺北円堂の広目天を彫った人物として名を残していますが、長兄次兄は湛慶/持国天、康運/増長天を彫りました。二人の兄は夫々父の一字を貰っているにも拘らず三男の康弁だけが父運慶の字をもらっていない気の毒な仏師なのです。私も同じ三男ですので共感もあります。
頼朝の命令で東大寺が再建されると、運慶は焼失した仏像を収めます。次いで頼朝は鎌倉の谷戸に阿弥陀堂(永福寺)を建立することを決めました。目的は弟の義経の冥福を祈願し。義経の霊が怨霊にならず和霊になって鎌倉の守護神になるように祀り上げる事でした。
阿弥陀堂の落慶供養式典建久3年(1192年)11月25日に康弁は2人の兄と共に列席しました。
永福寺阿弥陀堂の第二層に阿弥陀仏等を収めるのが運慶一門に課された仕事でした。
主尊の阿弥陀如来は父の運慶が、その脇侍の観音菩薩は長兄の湛慶が勢至菩薩は次兄の康運に任されました。そして康弁は長兄の湛慶の補佐をするように命じられたのでした。
先ず運慶が筆を取り阿弥陀三尊の全景を紙に描いて示しました。そして主尊の阿弥陀如来坐像を詳しく描きました。息子たちは阿弥陀如来の脇侍仏をどのように作るのか、夫々にイメージさせました。
これは葉山淨楽寺の阿弥陀三尊像、運慶作と云われていますが藤原風の優美さもうかがわせています。二階堂永福寺の阿弥陀三尊もこんな風であったと推測されます。でも、サイズはこの倍の丈六でした。
鎌倉光明寺の阿弥陀堂も二階建てで上層に阿弥陀三尊が祀られています。前池手記主庭園(は睡蓮池で全体として阿弥陀浄土を模しています。写真は観連会のものです。
運慶親子はこれから2年間の間鎌倉に住い永福寺に収める仏像を製作する事になったのでした。
仏所(仏像を彫る作業所)は西御門に用意されました。八幡宮の東で頼朝の居宅にも政所にも近い処でしたから。全国から集まってくる御家人が仏所を覘いて行きました。
三浦の和田義盛も下野の足利 義兼(あしかが よしかね/鑁阿寺を建立した)もそんな見物人の中に居ました。
御家人達は運慶の鑿の冴えに眼を見張りました。巨木の丸太の面を切りだし、蚤の刃先が木端を弾き飛ばすと見る見る仏が姿を現しました。まるで巨材の中に仏が潜んでいて運慶の鑿は仏を隠していた汚れを剥がすような勢いでした。その姿に自分達の理想像を観る想いがしていました。
和田も足利も元々は平家や藤原氏の子孫でしたから仏像と云えば慈悲深くて優美なモノと思って居ました。
ところが時代の荒波は激しく力の無いモノは攻め滅ぼされ、愚鈍なモノは財を略奪されてしまいます。時代の荒波は自らの力で切り拓かなくてはならないと思って居ました、御家人は出来れば運慶の鑿のように生きたいものだ思って居たのでした。
御家人たちは競って自分の国にも運慶仏が欲しいものだ想い出していました。
運慶の西御門仏所はまるで定朝の京都7条仏所のような役割を果たしました。
7条仏所は藤原道長が土御門に法界寺を建立しその阿弥陀如来を定朝が彫った事で盛んになった仏像工場でした。全国の国司が都に登る度毎に時の権力者藤原道長のご機嫌伺いに参上すると決まって道長が愛でた定朝の阿弥陀仏を拝して行くのでした。そして自分もあんなに優雅で美しい阿弥陀仏が欲しいものだ、と思いました。そんな次第で定朝の阿弥陀仏が全国に広がったように、運慶の力感溢れる仏像は全国に特に東国に広まろうとしていたのでした。東国の御家人の間に運慶を憧れる気運が次第に強くなっていました。
康弁は阿弥陀三尊のうちの一体も自身に担せて貰えなかったのは自分の力量が無いからだとは思いませんでした。唯、父の運慶が兄達を依怙贔屓しているからだと邪推していました。
実はそれは康弁の僻みで。父の運慶は4人の兄弟夫々の技量も精神力も見極めていたのでした。
康弁は力強い仏像は彫れるし写実の技量もあるが、未だメンタルが若いので肝心の仏の慈悲を表現できないと思って居ました。その為に怖い四天王や力強い仁王像は任せられても知恵や慈悲の深みを表現する事が求められる観音菩薩像は任せられなかったのでした。そこで最初から息子4人には弥勒如来を守護する四天王像は任せたいと考えていました。康弁には広目天を任せる積りでいました。広目天は御家人に最も人気がある上に力感だけでは彫れない悲しみの表情も表現しなくてはならない難しい像だと思って居たからでした。頼朝が弟を殺さなければ幕府を維持できないと判断した悲しみを表現するのは広目天を置いて他にはないと思って居ましたから・・・・、東大寺の戒壇院の広目天に比肩されるほどの憂愁を秘めた広目天を康弁に彫って欲しいと思って居たのでした。運慶は康弁の彫る広目天を毎日見詰めましたが”康弁は未だ若い”と思うばかりでした。親の期待の大きさは未だ子供には解らなかったのでした。
ようやく永福寺の諸仏が完成する頃御家人たちは夫々に運慶親子に声を掛けました
”永福寺の仏には感銘しました是非私の領国にお越しください、そしてあのような尊く力強い仏像を供えてください”
足利 義兼は運慶の招致に成功しました。そこで鑁阿寺に大日如来が収まりました。北条時政は既に願成就院(韮山)に阿弥陀三尊初め諸仏を収めて貰っていました。
もう一つの名門御家人三浦市一族は和田義盛が葉山の淨楽寺に運慶を招きました。三浦一族の佐原十郎義連(よしつら)は康弁を故郷(岩戸山)に呼んで満願寺に仏像(阿弥陀如来)を収めて貰いました。一族の和田の淨楽寺の倍の大きい阿弥陀三尊が完成しました。材木は神武寺山林の檜を使いました。康弁の仏像は運慶の見た目の通りで親の贔屓目で見ても未熟でありました。
これが万願寺の観音菩薩像淨楽寺の倍の大きさですから万願寺の本尊は丈六であったと思われますこの写真は万願寺の案内板を写したモノですが次のブログに良い写真が出ています。http://members.jcom.home.ne.jp/3352528001/manganji%20yuisho.htm衣文も含めて運慶像に比べれば勢いが無く鈍い感じがするので寺伝では運慶作となっていますが慶派作品と云う事で通っているようです(重要文化財)金箔も剥落して下地の漆も禿げて木粉と檜の白地が表面に出ています。今年案内板が刷新されたので良く解りました。
此方は万願寺の地蔵菩薩像全体を観ると逞しさと優雅さが混ざった大きな像ですが運慶の迫力に乏しいと感じます。
康弁は運慶と共に鎌倉から興福寺仏所に帰ります。
鎌倉の御家人達に囲まれて楽しかった思い出で満たされていました。
奈良に戻れば京都仏師(院派とか円派と呼ばれる)と競わなくてはなりませんし、種々雑音も入ります奈良が近づくにつれて気が重くなるのでした。
東大寺の仕事は良いから今度はホームグランド興福寺の仕事です。
興福寺で北円堂を修復するので其処に諸仏を収めろ、と云った命令で戻るのでした。
康弁もその兄弟も鎌倉で逞しくなっていました。でも、親爺の運慶は相応に歳を取ってしまいました。眼尻の皴も目立ちます。18歳で円成寺の大日如来を彫った青年の面影は既になく。北円堂の仕事を成し遂げられるか少し心配です。
運慶は北円堂の諸仏を全身全霊を込めて刻みました。
主尊は弥勒如来ですが、初めて彫った仏(円成寺大日如来の体内に自身の名前を書いた紙片を収めた運慶でしたから、北円堂収める仏像は自身のライフワークになると云った予感がありました。
傍には成長した息子達が四天王像を彫っています。
兎角心配の種だった康弁は永福寺や満願寺では未だ未熟であると思いましたが、北円堂の広目天では違っていました。屹度戒壇院の広目天を見詰めたのでしょう。
怒りで手足の筋肉は震えていても、その眼差しや額には悲しみが満ちていました。仏の慈悲を憂愁に表現できたとは・・・、鎌倉で康弁はもう技量も性神も成長していたのです。
不肖と感じられて来た4人の息子達も大仏師になれる人物になって来ました。これで、興福寺仏所の将来も安心です。京都の新興の仏所に後れを取る心配は無医でしょう。
何かと心配だった三男の康弁喪広目天の憂愁を見事に表現しているのでした。
興福寺仏所を再興し東大寺や興福寺の再興に尽くした一生は満足でした。これも仏の慈悲のお陰であると感謝しました。其処で仏の慈悲に感謝する気持ちを無着世親像に表現しようと思いました。それは結果的には自分自身に似てしまったので後世の私達は無着世親像を運慶の自刻像と思って居るのです。
康弁は父の彫る無着世親像を観ながら想いました。父は自分を写そうとしている・・・・。自分を写し終えたら父は死ぬ積りかも知れない。
父は島津(鹿児島)の御家人から呼ばれていました。戦の予感がするので運慶の力強い仏が欲しいのだ・・・それが島津の要求でした。日本を外敵から守る為戦う島津の注文は無視できません。運慶は旅先で死ぬことを覚悟で旅立つのでした。康弁は父の後ろ姿を見送りました。生駒山を越えて難波の海から船に乗れば島津は近いのでした。
それが、康弁が最後に見た父の後ろ姿でした。
北円堂に無着世親像があるので、何時でも父に会う事が出来ます。そして父に会えば”康弁よ!兄弟力を併せて仏の教えを弘めているか・・・・?”父運慶は尋ねるのでした。
これが興福寺北円堂主尊はあ、弥勒如来で4人の息子達は手分けして四天王像を彫りあげました。運慶は4人の仏師の仕事に満足し、仏の慈悲と感謝しました。其処で弥勒如来の台座に自分自身以下4人の息子と仏師の名前を書いて収めました。最後に仏の慈悲を体現する仏像として無着像世親像を彫りあげ弥勒如来の少し後ろに置きました。無着世親は法相宗の開祖で兄弟仲が良かったのでした。4人の子供達に力を併せて興福寺と興福寺仏所を守れと諭したのでしょう。
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古美術ウォーキング
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小田原で新幹線こだまに乗り換えて豊橋に豊橋で名鉄線で東岡崎に、バスターミナルで「このバスは瀧山(タキヤマデラ」に行きますね!確認すれば怪訝な顔をされて「瀧山寺(タキサンジ」ですねと確認されてしまいます。
NHKの天璋院篤姫では「大奥総取締瀧山(タキヤマ)と紹介されていまし、「瀧山寺にタキヤマデラ」では湯桶読みです。学校では重箱読みもも駄目教わりました。でもこのお寺は古代から音訓にはアバウトだったようで瀧山寺(タキサンジと敬意を持って呼ばれて来たようでした。
拝観券にもパンフレットにもタキサンジと記されています。
東岡崎駅からバスに揺られて鳳来寺山の方角に分け入って行きます。山間は翳んでいます。じっと見つめれば杉花粉が舞っているのです。
現在の本堂は、明治四十三年頃に解体・大修理をしたものだそうですが、現住職山田亮盛師の著に依ればカラスの被害で雨漏りが生じがひどく先年あるが、桧皮ぶきの寄せ棟造りで、ことに肘木の彫刻は極めて雄々しく、虹梁・木鼻・蟇股(かえるまた)等と共に鎌倉建築の特徴をよく表している。
また、和様・唐様・天竺様を取り入れた様式は、何れもが当代の名工の手になった会心の作で、唐様建築が行われ始めた鎌倉建長寺の建立に先立つこと三十年、藤原文化から鎌倉文化への様式の過渡期に当たり、古い伝統を守りながら早くも大胆に新来の様式を加味していることは評価の高い所以です。 瀧山寺本堂で催される鬼祓いの神事この鬼が被るお面も運慶作と云われています(寺伝)
瀧山寺の運慶作と伝えられる鬼面が、燃え盛る炎の中から鏡餅を持って登場し、天下泰平・五穀豊穣を約束する節分の神事です(今年も2月20日に無事終わりました。).お面を見た途端に修善寺の鬼面(岡本綺堂の修善寺物語の素材になった)を思い出しました。宝物館にはこの他に12面の菩薩面が保管されていました。菩薩面は当麻寺のそれを想わせてくれました。宝物館は運慶が中心ですが古代から中世にかけての民族の宝庫でもあります。
ところで本堂の左(西側)に鬼塚が祀られていて薬師石仏が立っています。
鳳来寺山の修験者が鬼祭りに強引に参加して”自分達は日常坐臥沐浴潔斎している”からと言って。素顔のままお面を被った処、お面が剥がれないようになってしまい窒息死してしまったので。境内に埋めたのだそうです。
本堂西に祀られた鬼塚鳳来寺山の修験者が七日間の斎戒沐浴をせずに面を被ったので窒息死してしまった故事を伝えています。
そもそも瀧山寺の開基は役行者で門前の谷川の河底に金色に輝く薬師仏を見つけてこの寺に祀ったのが始まりだそうです。 瀧山寺下のバス停、この辺りの川底で金色の薬師仏を発見したのがお寺の始まりだそうです。渓流の名は青木川で岡崎市内で乙川に名を変え更に下流で矢作川と合流して三河湾に注ぎます、道路は大沼街道で鳳来寺山に向かいます。鳳来寺の麓の道は善光寺に通じます。左の家は昔は水車で綿を紡いでいたそうです。岡崎市内には今も綿の紡績機工場が幾つもあります。トヨタの奥田 碩(おくだ ひろし)さんも岡崎のご出身でした。岡崎は家康が天下を制しましたが今はトヨタが制しています。
護摩が焚かれて真っ黒な瀧山寺本堂の内陣
瀧山寺本堂の内陣の垂木には源氏の笹竜胆のちょうちんが吊るされていました。平安末期の風格ある建物でした。此方が重文で勝沼の大善寺本堂が国宝なのは細部の意匠でしょう・・・。
やがて400年後、保安年間(1120〜24年)、比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が、仏法興隆のためこの地に来住。荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建てます。
物部氏の外護により本堂を造営しました。上人を慕って弟子入りするものは跡を絶たず、境内には360もの寺院が建立され、そのころに官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めました。
その後、物部氏に替わり熱田大宮司家が大壇那となり、熱田大宮司季範夫妻の孫、寛伝上人が登場します。源義朝は熱田大宮司家藤原季範娘の娘を正妻に迎えます(由良御前)。由良御前は頼朝を産みます。寛伝上人は頼朝とは従兄弟だったのでした。その結果瀧山寺は頼朝の庇護を受け400石を扶持されます。頼朝の庇護によって瀧山寺は整備されます鎌倉幕府は頼朝を失うと仏師運慶を呼び寄せ各地の寺院にに運慶の仏像を奉納します。此処瀧山寺でも運慶湛慶の親子が呼ばれて仏像を彫ります。聖観音には頼朝の歯と髪の毛を体内に収めて頼朝の再生を祈ったのでした。(寺伝)、実際に聖観音をエックス線で透視するとお顔の奥に歯と髪が確認されたのでした。 これが源頼朝と等身大の聖観音像体内に頼朝の歯と髪が収まっているとの寺伝がありました。
現住職の山田亮盛さんは弁も筆も立つ方のようで、運慶仏が海外流出の危機で話題になっったおり芸術新潮で運慶を特集結果当瀧山寺に注目が集まり参詣人も急増したそうです。私達の仲間のIさんが活躍されて足利で発見された運慶仏を国内に押し留めたご努力が瀧山寺に脚光を浴びさせたようです。
古代から中世そして近世には徳川家の支援を得てきた結果、瀧山寺には檀家が無いのです。民主主義の現代檀家の無いお寺は存続も困難です。今、こうして瀧山寺が運慶で世上の注目を浴びたのは干天の慈雨の感があるのでしょう。
瀧山寺参詣は覚悟して居ましたから急な険しい石段も頑張って登りました。でも本堂から宝物館へのの道は命がけでした。道では無くて澤なのです。幸い乾いていましたから恐る恐る杖を突いて下ったのでしたが滑ったら今迄のリハビリの苦心が水泡に帰してしまいます。
岡崎駅でお寺に宝物館見学を予約したのでしたが。「今日は臨時に休館にしているとの事・・・・」誰も居ない事はあるまいと思って本坊に向かいました。すると既に船橋から来たと云親娘がお願いしておりました。若住職が鍵を持って遣って来ました。帰りのバスは暫くありません。其処でバス通りを歩いて下る事にしました。3年前の晩秋に足助街道を歩きました。大沼街道も足助街道に似て居るような気がしたのでした。
此方は運慶湛慶作と伝えられる梵天像彩色が鮮やかなのは徳川家光の功績なのでしょう。家光は200石加増し650石の扶持になりました。江戸時代の彩色補修があったので重文指定なのでしょう。家光の善意が災いして国宝になっていないのは皮肉のようです。宝物館では像の後ろまで廻れます。後ろから見上げると梵天さんの肉付きが素晴らしくまるで秋篠寺の伎芸天のようでした。
此方は運慶湛慶作と伝えられる帝釈天像以上三葉とも絵葉書をスキャンしたものです。
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5年前秋に小栗観音堂を訪れ木喰仏を拝観しました。3年前の春には山梨の丸畑を訪れ木喰仏を見て回りました。
その後暫く観ていません。木喰恋しさで駒場の日本民芸館に行く事にしました。昨日は民芸館別館(柳井宗悦私邸)も開いていると云うので勇んで出かけたのでした。
私が日本民芸館を最初に訪れたのは昭和41年でした。浅子先生の鎌倉彫の講義で民芸運動を知り東大駒場キャンパスバスの西に日本民芸運動の聖地があると知ったのでした。
そこで拝見した木喰自刻像に見入ってしまったのでした。数年前甲府の山梨県立美術館で木喰像を見学した折。日本民芸館木喰自刻像発見の経緯を知りました。
以来私はこの有名な像は実は木喰自身の自刻像では無くて、参拝客に触らせる『賓頭廬尊者像(びんずるそんじゃ ぞう)。 賓頭廬尊者像はお釈迦様のお弟子である十六羅漢 (じゅうろくらかん)の筆頭で「びんずるさん」と よばれ親しまれています。 病気を治す力があるとされ、撫でるとその部位の病気が治る 』と考えられていました。基本的には羅漢像ですからそのモデルを自分自身に模した可能性はありますが、木喰が自分を彫刻して善男善女に拝ませたとは考え難いのでした。
自刻像と言い出したのは西洋文化に慣れた美術愛好家で。ミケランジェロの最期の晩餐やダビンチの自画像を見慣れて木喰の羅漢像を自刻像と言い出したと思うのです。この根拠は明日詳述する事にして、今日は今回の展示で一番に感動した事を書く事にします。それはこの民芸館の焦眉がアールヌーボー(美術運動)にあったことです。
孟母三遷を実施する賢い人達が駒場には集まっているようで、東大駒場キャンバスの東は瀟洒な戸建て住宅マンションが密集して居ました。花水木の通りを5分も歩くと日本民芸館に着きました。玄関には紅白の梅が満開で目白も集まって来ています。目白が一杯でも此処は目黒区駒場です、駄洒落を思いつきながらいかつい建物に入りました。職員が私の足元を気遣ってエレベーターの利用を進めて下さいます。
これが日本民芸館の玄関関東大震災後暫く京都に転居していた柳宗悦は東京に戻って、そのコレクションを東京博物館に寄贈しようとしたのでしたが拒否されます。仕方なく柳は大原 孫三郎(クラレ創業者大原美術館設立者の庇護を受けて駒場に住み日本民芸館を設立します。この建物1936年竣工は内部は洋風外見憲和風で柳が設計したものだそうです。道路向かいに西館が在ってそこが宗悦家族の住居でした。バーナードリーチが滞在していたこともあって1階は洋風です。紅白の梅が盛りでした
日本民芸館の1階ホールは大空間で造作こそ和風ですが洋館のような設計でした。
日本民芸館の道路向かいは柳宗悦の私邸でしたお城の様な長屋門を潜ると土間でようふうな生活スタイルです。
日本民芸館は主として江戸時代の生活用具をコレクションしていますが、昭和10年代の作品も数多くあります。
河合寛次郎も浜田庄司も棟方志功も昭和13年の作です。
日本民芸館の2階展示室壁には棟方志功の版画が並んでいました。柳宗悦の業績には民芸美を発見した事と同じく同時代に民芸作家を育てた事もありました。それは西洋美が主流だった時代アジアの美術の再認識でもありました。(写真はパンフレットをコピー)
これは棟方志功の阿修羅像。前を見て後ろを見て横を見て疾風の如く走る阿修羅像は劇画のような迫力があります。昭和13年絵葉書を複写
昭和13年(1938年)は近衞 文麿(このえ ふみまろが内閣を組織したものの松岡洋右(外相)や軍閥(東条英機等)を御しきれず、シナ事変が起きると「国民党政権は相手にせず」と放置し。、「大正デモクラシー」を経て日本に根付くと思われていた議会制政治は死を迎えてしまいます。。日本は一気に戦争に転げ込んでしまいましたそんな危険を予感してか?日本の民芸運動は大きな花を咲かせたのでした。
民芸運動は先ずパリで起こります。
工業化大量生産に始まった生活用具の粗悪化に対しアールヌーボー(新しい芸術)と云う美術運動が起こります。パリ万博では日本の手作り美術品が人気を博しました。そんな美術運動が童話や竹久夢二の絵画や黒崎義介の絵本等を産みました。蝋燭の灯りが消える寸前に大きく燃え盛るように昭和モダニズムの花が燃え盛ったのでした。
柳宗悦に見いだされた棟方志功も河合寛次郎もこの頃最高の作品を作れたのでした。柳井宗悦は流石に目利きで彼等職人作家の最も優れた作品を収集したのでしょう。
昨今はプラスチックの生活用具が溢れています。プラスチックは射出成型すればどんな形の生活用具も大量に廉価に製造できます。プラスチックのお蔭で随分便利になりました。日本海に出れば海岸はプラスチックのゴミが大量に漂着しています。名物の「鳴き砂」は踏んでも鳴かなくなってしまいました。波で粉砕されたプラスチックの粉砕ゴミが砂が擦れて音を出すのを邪魔してしまっているのです。
木工具や陶器であったならゴミにならずに土に戻っていたはずでしたのに。プラスチックですから腐らないのです。人間は文明の始めから輪廻を発見して居ました。自然は産まれれば死ぬ同化作用と異化作用を繰り返しているのだと。異化作用は腐敗とか酸化とか醗酵と呼ばれて土に戻る現象でした。そして同化作用とは土から命を育み食物連鎖を繰り返す現象でした。仏教はこの輪廻に身を任せる生き方を実践する事で仏になれる、教えた宗教であり生き様でした。
近代は大量生産でこの輪廻の教えに逆行してしまいました。今工場生産されたプラスチックゴミは微細になって海底に沈み深海魚の胃袋に蓄積して何れ人間に対し怨みを果たそうとしているようです。
私達は大量生産大量廃棄のライフスタイルを改め民芸美の生活用具をリ・ユースする江戸時代の生活に戻る事が賢明のように思うのです。「美の法門」と云う看板は仏教的な教えが滲んでいます。
「美の法門」のポスター写真の阿弥陀様は大津絵だそうです。私はイコン画のような印象を持ちました。
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私は10月31日慶応大学日吉来往者中会議室で日本文化研究会セミナーにおいて「奪衣婆の変遷」と題して報告をする事になっています。子供のころから馴染みのあった奪衣婆さんですのでソロソロ自分の考えも整理しておきたいと考え今春は利根川上流沼田の「味噌舐め奪衣婆」も巡りました。
想い起せば3年前脳梗塞を発症する直前の秋には千曲川川中島の典厩寺にも詣でたのでした。
次は多摩川中流域の奪衣婆さんを確認したいと思い府中高安寺の奪衣婆さんを詣でに出かけました。
戸塚駅から湘南新宿ラインにのって武蔵小杉に出て南武線に乗り換え分倍河原駅を降りて5分程歩けば高安寺です。
駅舎ホームから見れば西側に東芝があって駅前ロータリーに新田義貞像が立っています。1333年
後醍醐天皇の宣旨に応じて下野の足利尊氏は京都の六波羅を攻め上り、上野の新田義貞は鎌倉幕府に10万の兵を進めます。
一方執権北条高時はほぼ同数の軍勢で新田軍を迎え討ちます。両者は鎌倉街道を進み多摩川の両岸で対峙しました。分倍河原の名前は蚊多摩川を挟んで両軍が向かい合ったからと思い込んでいましたが、駅前の住居表示を観て「分梅ヶ原」が本来の地名で何時しか単純化して現在の名に変えたようです。分倍河原では”倍返し”のようで古名の方が趣があります。「分倍河原の戦い」に勝利した新田軍が稲村ケ崎の戦場に到達した時には幕府軍の数倍の軍勢に膨れて居ました。関東の地頭や地侍は機に乗じるのに敏感ですぐさま勝ち戦に乗ったのでした。
高安寺は足利尊氏が全国に建てた安国寺の武蔵の寺で古くは臨済宗の古刹でしたが現在は曹洞宗のお寺です。この寺から下流に10キロ下れば私の母の生家泉龍寺(狛江」ですから。母も従兄弟(現住職)も馴染みのお寺でしょう。泉龍寺は東大寺の建立を進言した良弁と聞いていますので、歴史は泉龍寺の方が在る事になります。
一昨日台風21号の余波で強風が吹いた為でしょう。境内には沢山の銀杏が落ちて居ました。石仏も銀杏は苦手な事でしょう。「葷酒山門に入るを許さず」と書かれていますが銀杏は生えているので臭くとも追い出せません。銀杏は火災防止と仏の教えを諭す教材なのです。銀杏は古刹には欠かせません。
そう想って本堂を拝むと本堂前には4本の伽羅の木と百日紅と高野槇の大樹が茂っていました高安寺の境内はで鬱蒼としていて、何れの大樹も東京都の指定古木と指名されていまっした。
本堂前から山門を眺める左に高野槇右に伽羅(沙羅双樹が茂っていました。どれも仏教の聖樹です。
山門(明治5年建立)を本堂側から見返ると右の大樹が葉書の木(タラヨウ」子供が屈んでいるのは蝉の遺体を蟻が運んでいるのを見詰めて居たものです。山門の右手は水子地蔵尊が並んでいます。山門の向こう側が正面で仁王様が居られその裏手の左右に地蔵尊と奪衣婆が祀られています。
山門正面の仁王像一木造りで現代的な木彫の雰囲気が漂います。裏側の地蔵尊像奪衣婆像も含めて山門と同時期(明治5年)の作と考えて良いでしょう。総て金網で囲まれています。
仁王像裏に祀られた奪衣婆像
奪衣婆さんはまるでローレライの様に岩場の上に半跏しています、岩場の四方を鬼が囲っています。
岩肌には何故か茸が生えています丸いのは六文銭かと思えば菊の花です。奪衣婆さんの上の木に懸っている洗濯物のような衣は亡者が着ていた衣服で奪衣婆が亡者から剥ぎ取って衣領樹に懸けて生前の罪の計測をしているもの、手にしている衣は亡者が生き返って娑婆に戻る時に着せてあげるもの(産着)
筆者は明治の作と推測するものの仏師の技は江戸匠の技であると確信します。幸田露伴の五重塔、「のっそり十兵衛のような匠を思わせます。
奪衣婆さんの西側には水子地蔵尊が祀られていました。私が水子さんの前に立つと風車が一斉に廻り始めて首筋に寒いものが走りました。近くの小学校では運動会でその歓声が響いてきました。明日は高保寺の幼稚園で運動会ですから水子の霊も見物に出かける事でしょう。
明日は高保寺幼稚園の運動会です。向こうの入母屋が本堂です。
【府中に奪衣婆が祀られている事情】
江戸から東海道を下れば最初の宿場が品川宿で甲州街道を下れば府中宿でした。
どちらも宿場も旅立った気安さからか色町と栄えました。
色町と言っても遊郭が在った訳ではなく、旅籠の「飯盛り女」と呼ばれた女性が広間は旅人面倒を看て夜は旅人の慰みのお相手をしました。
飯盛り女は幕府公認の娼婦で多くが農村部の娘さんが借金の質に取られたものでした。そんな哀れな飯盛り女が府中では旅籠1軒に2人認められていたので25軒合計50人もの娼婦が居たことになります。飯盛り女の信仰の対象が奪衣婆なのでしたなのでした。
多摩川の河畔の分倍河原自体が三途の川の渡し守奪衣婆さんのロケーションにピッタリであった事に加えて、
『今生は惨憺たるものだったが生れ変わったら幸せになりたい願望を奪衣婆さんに祈ったものと思います。』
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もう30年も前の事です。私は福岡天神のど真ん中に在る長銀福岡支店に勤めていました所謂博多チョンガ(短くして博多チョンでしたから寮のある藤崎から地下鉄で博多港に港からJR九州のホーバークラフト(愛称ビートル)で3時間もあれば釜山に着けました。仕事でも韓国には再三行きました。
隣国でありながら犬猿関係に在りましたがようやく雪融けの気運が濃くなってきました。パク・クネ(朴槿恵)大統領も「反日」だけでは韓国民をリードしきれないと気付き出したのかも知れません。
「明治日本の近代化遺産」に反対して「韓国人が強制労働された側面がある」主張は世界の顰蹙を買い、およそ儒教の国らしくありません。「日本が百済句歴史地区の世界遺産登録認可に協力する」ことを条件に反対意見を取り下げました。安倍首相は「未来志向」を提言して日韓協調を呼びかけていますが、もう一つ理解が得られません。韓国人は安倍首相の[未来志向提言を」日本帝国主義の歴史隠蔽と受け止めてきたのでした。中韓両国は共同歩調で日本を罵倒してきました。でも今回ようやく歩み寄りを示し。「日本は近代化遺産を韓国は百済歴史地区」の世界遺産登録を強調して進める事で合意できたのでした。私にとってはどちらも価値あるものですが、どちらかと言えば「百済歴史地区」の方が高価値に思えるのです。
「百済歴史地区の歴史は日韓友好、そして日本文化黎明期の歴史を伝えるものですし、将来に向けて日韓友好の証になるものだからです。
1500年前は日韓は良きパートナーでありました。日本は韓国帰化人のお蔭で文化の恩恵に浴したし、日本人はは百済人の血を混血して日本国の祖形を形成したのでした。この歴史的事実を確認すれば両国民が「未来を語ろうとするときに「両国民の間に流れる嘘っぽい空気」は吹き飛ぶことでしょう。
韓国のユネスコ世界遺産は10「文化遺産は9」です一方日本は17「文化遺産は14」です。昨今の様に矢鱈と世界遺産が増えるとその価値も疑わしくなってしまいます。日本には10もあれば充分で隣国に反対されて11にしたい根拠もありません。韓国だって同様でしょう。私の個人的な価値観では「長崎の軍艦島よりは百済歴史地区の方が高いものがあります。それは百済の方が美しいし、感謝の想いが深いからです。今は軍艦島は廃墟であって美しくないし、日本人として世界の人々に見て欲しいとも思いません。「何故百済歴史地区が尊いか」、それは百済の文化や百済人が日本の古代国家の形成に多大な影響を及ぼし、戦後の今もその恩恵に浴していると思うからです。そんな次第で、今日は”日本文化がその黎明期に如何に深く強く韓国の百済人に百済国に世話になったか”書いてみようと思います。
此方は百済の都であった扶餘(ブヨ)のにある、百済の文化生活を再現した百済文化再現団地。五重塔金堂講堂と並んだ姿は四天王寺を思わせます。見学した人のブログでは安普請なので落胆した意見が多いようですが日本が協力を約束したのはこの安普請を昔の工法によってユネスコの審査に通るように作り変える事ではないかとも懸念されます。
筆者は新羅の都のあった慶州には行きましたが慶州には仏国寺という古刹があっても土壁や煉瓦が目だって法隆寺の木造建築とは趣を異にしていました。その点扶餘(ブヨ)の建築は飛鳥文化を思わせました。写真の出典は韓国オプショナルツアーhttp://www.sedotravel.com/xe/41877
【法隆寺百済観音】について
亀井勝一郎氏は先の戦争に反対し投獄もされた清廉なお人柄でした。多くの人と同じく焼け跡になった日本の国を見て心を痛められました。そして大和国を旅して大和古寺風物詩を書かれました。大和の古仏を巡って心を癒し再起の想いを強くされました。私達は和辻哲郎氏の「古寺巡礼」と亀井勝一郎氏の著は必携の書でありその一字一句を心に刻んで育ちました。「古寺風物詩」という表題より「巡礼」の方が適切と感じられる書だと思います。佐藤ハチローさんも戦争前は戦争翼賛的な詩を書きましたし。宮沢賢冶でさえ「欲しがりません勝つ までは」や「雨にも負けず」はに、国民全体に犠牲と我慢を強要し、戦争推進勢力によって 利用されました。その事実に賢治さんは沈黙しておいででしたし法華思想は戦争に組して利用されました。詩人も僧侶も農民も、多くの人の良心が戦争に対して抑止力にはなりませんでした。そんな後悔を誰しもが抱えて終戦を迎えたのでした。でも多くの人が戦前戦中の自分のしてきたこと言っていたことは口をつぐんでしまいました。地獄の閻魔さまは日本人に大嘘つきが多いので大忙しだったことでしょう。そんな中で懺悔する勇気を持った人が少しだけ居られました。亀井さんは数少ない良心のある方でした。懺悔されるで亀井さんに優しく凍れる音楽の様に迎えてくれたのが百済観音でした。百済観音は故郷を北方の高句麗に蹂躙され焦土の中から日本に逃げ延びた百済人が未来を託して彫った仏像だったのでしょうから。亀井さんの心に響いたのはごく自然な事だったのでしょう。亀井さんが人倫に従って生きられ私達後進を導く名著を書かれたのは、大和の古仏を巡礼して、古仏の導きが在ったからでしょう。
亀井さんの古仏巡礼のハイライトは法隆寺の百済観音でした。私は優しく見下ろされる百済観音の眼の先に大戦を止められなかった亀井さんの懺悔される尊い姿を思い描く事が出来ます。静謐でありながら百済観音の口元は僅かに開こうとしているようです。百済観音は何とお言葉を発せようとしているのでしょうか?「昭和の日本人は取り返しのつかない罪を犯した。でも人間は愚かで罪は避けられない。大事なことは未来の世代に同じ間違いを起こさせない様に充分に懺悔してその苦しさを悲しさを次世代に伝える事だよ、お前の大和古寺風物詩は良く書けている」そんなように動くように思えます。
法隆寺百済観音のお顔。百済観音は楠の樹を継ぎ剥ぎして漆を塗って白土(石灰)や木葛で表面を造形した上に着色したものだそうです。その手法は再現(上野の博物館で3体模造品を作ったので手法が解明されました。写真で見ると漆の剥落や色褪せが目立ちます。韓国で展示されると”百済観音は日本人が略奪したものだから韓国に返せ”韓国が言い出す事が心配されますが素材が楠である事等で百済人が日本に帰化して日本の素材で日本の感性で作った考えるのが妥当だと思います。
同時代法隆寺では止利の釈迦三尊像等(北魏様式)が主流でしたが百済観音は全く違った印象を与えてくれます。止利仏師の様式は近寄り難く正面から見られる事しか意識していないのに対し百済観音は親しみやすく傍によって横から見上げる事を意識して作られています。光背(宝珠の形)を支える柱は青竹を模していて日本人の俳句の感性が観られます。
会津八一は次のように賛歌しています。
ほほゑみてうつつごころにありたたすくだらほとけにしくものぞなき
百済観音全身像素材は楠で衣文や持物も楠で本体に継ぎ剥ぎしてあります(平安時代以降の寄木とは異なります)8頭身の長身で居られます。法隆寺の記録で初めて現われるのは室町時代からですので近隣の寺から移された客仏であろうと云われていました、預かった法隆寺では百済様の虚空蔵菩薩と受け止めていたそうです。江戸時代になって別の収納されていた宝冠が見つかり宝冠の中央に阿弥陀の化仏が描かれていたので今日では”百済風の感音菩薩”という意味で「百済観音」の呼び名が一般化しているようです。亀井氏は百済観音は「凍れる音楽」とか「凍れる火」とか表現されましたが凍れる火ならば絵蝋燭のようです。絵蝋燭は青い焔を燃やして細い体を溶かして行きます。
百済観音像は3体の模造が作られ一体は上野博物館に他の二体はベルリンとロンドンの博物館に展示されているそうです。
ですから。私は百済歴史地区が世界遺産に登録されたら模造仏を寄贈したら良いと考えます。お金を出すより感謝を述べる方が誇り高い韓国人は喜んでくれるでしょう。
もう一体日本には百済というと重要な仏様が在ります明治政府が国宝第一号に指定した京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩像です。昭和35年私が未だ中学生の頃でした。京都大学の大学生が弥勒菩薩の美しさに我を忘れて抱きついてしまい
頬に当てられた薬指の指先が折れてしまい折れた指が紛失してしまった事件がありました。三島由紀夫の金閣寺炎上を想いださせる事件でした。弥勒菩薩が余りに美しいので純粋な青年に罪を起こさせてしまったのでした。
当時の記憶では広隆寺の弥勒菩薩像の素材は韓国の赤松でしたので。此方がソウルか扶餘(ブヨ)で開催される百済文化展来会に協力出品すると「お国還り」で済めば良いのですが返さないと言い出しかねません。
百済観音はパリで展示され「日本のビーナス」と紹介されました。室生寺の釈迦如来はベルリンで展示され1939年ヒットラーも目を見張ったと、伝えられています。浴衣を着たヒットラーはこの時の日本古美術展」で撮影されたものでしょう。
外国人に人気がありそうなものは円空の「両面宿儺像」です。
伝統技法の継承や技術の解明の意味もありますので。こうした仏像は模造品を作って世界に寄贈したり貸し出したら如何でしょうか?今では新薬師寺の香薬師像は無くなってしまいましたが。善意で三体が模造されていて私達は模造された香薬師像を見詰めて満足しています。
今から広隆寺弥勒菩薩像を作っておくことを考えます。ソウルの展示会場に模造品を寄贈して次のように書いておきます。
「私は模造仏ですが、本体は1500年前に百済に産まれて日本に渡って来ました”そして未来が大切な事を”日本人に説いてきました。以来日本人は未来を信じて生きて来たようです。今次百済歴史地区が世界遺産に指定されて私も里帰りしたかったのですが代理の仏を向かわせました。今も私は世界遺産京都の仏として世界中の人に未来を指し示しています。日本では私は大切にされていましたので幾度も戦火を潜って来ました、私の子孫百済人は日本に帰化して1500年も経ちましたが今では皆日本人になっています。私にとっては未来には日本も韓国も境は無いのです。」
私は度々このブログで書いてきましたが。原日本人は縄文時代人で縄文式土器の時代は1万年もあります。(この時代に日本人は文化の祖形を作り上げ次いで稲作技術を持った弥生人が渡来すると弥生人とも共存し混血しました。半島で戦争がおこり高句麗が半島を制圧すると百済人は日本に帰化しました。日本の政府は百済人を歓迎して政府の要職に就かせました。そこで百済人は大仏も作りましたし。陶器造りや織物も教えてあげました。日本人は和が大切で和が未来を切り開く信じて疑わなかったのでした。でも何時の時代も日本人原点は縄文人の感覚でした。和の感覚は”自然と和する事が基本”で韓国や中国では食事を金属の器や箸を使うのに対し、日本人は自然の材木や土を使って食事をします、金属には違和感が在るのですが自然素材の木や土には感覚が和合するんです。
日本文化の祖形縄文ビーナス。(茅野の尖り石遺跡)この造形の抱擁力や豊饒さが外来の文化や民族を受け入れて来たと確信しているのです。
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