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古美術ウォーキング

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昨日は妙楽寺の豊かな自然をガマ合戦を素材にご案内しました。
同寺の魅力はもう一つ山岳密教の仏教美術があります。
大自然と、密教美術が相まって私を虜にしています。
今日は、密教美術を、ご本尊の大日如来を中心に説明いたします。
 
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                                                       妙楽寺本堂。
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                                 妙楽寺本堂は奥行の方がある建物です。   
 
長く急な石段を、杖を頼りに登る事10分で本堂の前に出ます。
本堂は四方流れの和風建築です、案内板によると享保年間(1716〜1736)に建て替えられたものだそうです。
間口6間、奥行き7間と、奥行きの方が長いのは、内陣が広く加持祈祷を行う空間が充分に取られているからです。
江戸時代とはいえ、古代、中世の密教寺院にそん色ない荘重な建物です。
内陣には格天井に絵が嵌められ、鏡天井には狩野継信により昇り竜が描かれ、欄間の彫刻も素晴らしいものです。
”これは、素晴らしい”
興奮の頂点には・・・・・、ご本尊の大日如来が内陣中央に結跏趺坐して居られます。
 
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   本堂正面の蟇股には枇杷を食べる猿が刻まれています。江戸時代には枇杷が房総の名物だったのでしょう。
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                                          欄間彫刻がまた素晴らしい・・・。
 
 
大日如来の御開帳は毎年一度だけ、2月の第一日曜日ですが、
普段は本堂の扉を少し開いて堂内に入理拝観が出来るようになっています。
二本の灯でライトアップされていますから、隅々まで良く拝観する事が出来ます。
唯、少し赤味のあるライトのようで・・・・、最近はやりのLED照明にしたら・・・・、保存にも良いし、自然光にも近い様に思えます。
多分、護摩を焚いた・・・、その炎に照らしだされる大日如来を見て欲しい・・・、
そんな思いが赤味のある照明になっているのでしょう。
 
大日如来には二種類あります。
一つが忍者のような印(智拳印)を結んだ金剛界大日如来です。
此方が動の世界なら、定印を結んだ胎蔵界大日如来は静の世界です。
仏の教えの奥行きの深さを示しているのでしょう。
妙楽寺の大日如来は少数派の胎蔵界大日如来です。
この像は本来全身を金箔で覆われていたのでしたが、今では総て剥落して、下地の漆が顕れています。
写真(仏前にポスターが展示されています)で見ると黒漆なのですが、ライトのお蔭で赤味が目立ちます。
 
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    内陣、中央の大日如来。 左右に不動明王、毘沙門天。 須弥壇に始まり格天井、壁絵、欄間彫刻等々、総て    が密教美術の粋を尽くしています。
 
像は所謂丈六(1丈6尺/279㎝)のサイズです。
お釈迦様は大きなお身体で常人の1.6倍もあった…、経典に書かれています。
坐像で1丈6尺ですから・・・・、お立ちになれば5mを超す大きさです。
ウキペディアには一木造りと案内されています。
お寺の案内も「カヤの一木造り」と案内してあります。(千葉県教育委員会)
一方、久野健氏の調査では寄木造りと案内してあります。
真逆の説明が為されていますが・・・・、カヤ材である以上寄木と思われます。
一見すれば、上半身と下半身は別の大木で、両の腕も別材でつくられている・・・、そんな風に見えます。
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            此方が勝常寺の本尊「薬師如来像」像。筆者は妙楽寺大日如来に似た印象を持ちました。
 
待てよ、この仏様何処かで拝んだ気がする・・・。思います。
会津坂下の勝常寺の本尊「薬師如来像/国宝」を髣髴させます。
勝常寺像は平安時代初期、密教文化が盛んになる頃の作ですが、
こちらは平安時代末期、少し時代が遅れまます。
 
平安時代も末期、いよいよ世相は荒れに荒れ、末法時代に突入した・・・思わせました。
此処、房総半島でも大日如来の前で毎日夜加持祈祷に明け暮れたことでしょう。
その、お祈りする先には柔和な仏様では頼りになりません。
都で主流であった定朝様式の仏様では無くて・・・・・、
力強く時代に立ち込めた黒雲を切り開いてくれるような力強さが無くてはなりません。
房総の風土と、房総人の気質がこの大日如来を作らせた…、と思います。
 
定朝の仏像は総じて檜材が使われています。
檜に比べればカヤは木肌が浅黒く、香りも土の匂いがします。
房総にも檜が自生していますから・・・・、あえて檜ではなくカヤを選んで仏像にしたと思われます。
何故なら・・・・、柔和な檜よりもカヤに神性を強く感じたからでしょう。
先の勝常寺の本尊「薬師如来像」は欅の一木造りです。
その土地土地で使われる材は異なります。
堅い欅こそ会津人の気質にフィットしたのでしょう。
 
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      大日如来の右手に不動明王が配置されています。これがまた魅力的です。
 
左肩から斜めに条帛(じょうはく)が垂れて、腰は裳で覆われています。
光背は見事な飛天光背で、音声菩薩が14体も配置されています。
光背は時代が下がって鎌倉時代の補作であろう・・・・・、案内されています。
 
左右に置かれている不動明王、毘沙門天像はご本尊より少し古い、平安時代中期の作であろう・・・、
案内されています。
特に不動明王は頭が体に比べて大きく、東国らしい素朴さと力強さを併せ持っています。
魅力のあるお不動さんです。
妙楽寺にはもう一体有名な鉈彫りの毘沙門天像があるのですが・・・、此方は資料館に置かれています。
 
長生郡の妙楽寺は、
奈良室生寺よりも二回り小さく、国東富貴寺よりも大きく・・・・、大自然に囲まれた環境は両寺にも勝った・・・・、魅せられる古寺です。
 
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   外陣蔀戸に吊るされた沢山のお札・・・・、今も強く信心されている事が伺えます。
 
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                    境内はもう春爛漫です。向こうに見えるのが庫裏です。
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                 境内東端には天台宗のお寺に相応しく日吉神社が祀られています。 
 
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房総半島の略中央部に「長生郡」があります。
山から白子海岸まで広がる自然豊かな所です。
その、奥深い山の中に「妙楽寺」があります。
平安時代、慈覚大師円仁が開基と伝えられる、山岳密教のお寺です。
 
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                                 房総半島長生郡にある密教寺院の「妙楽寺」本堂。
 
山の麓に杖があります。杖を頼りに急な石段を10分ほど登れば本堂の前に出ます。
   (車で本堂の裏にある駐車場に出る事も可能です)
鬱蒼と茂るスダジイの森です。
根元はゆうに8mはあるでしょうか?
土が崩れないようにガッチリ大地に根を張っています。
堅牢地神とか荒神を地で行く弩迫力です。
前回詣でた時も春の彼岸の頃、この根元に大きな山かがし(蛇)が居ました。
私が根元に祀られた無縁仏を見ているとき、その足元をゆっくりゆっくり動いていました。
山かがしは既に私に気付いていて・・・・、忍ぶようにスダジイの根元に隠れようとしているのでした。
地面が暖かくなったので、冬眠から覚めたばかりだったのでしょう。
 
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    驚愕のスダジイの大木が茂っています。その根っこの洞が蛇の巣です。この石仏群の陰で良く山かがしに脅    かされます。
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       豊かな自然は石仏を美しく彩ってくれています。総てが江戸時代の墓標仏です。
       石に生す苔の名は知りません。背後がスダジイの根っこです。
 
広い境内には”ゲロ・ゲロ ゲコ・ゲコ” 賑やかな声が響いてきます。
そう、お寺の庫裏の裏に古池があって、其処から響いてきます。
そう、冬眠から覚めたガマガエルが「蝦蟇合戦」の最中なのです。
私と家内はガマ合戦の見物に、
庫裏の裏に回ります。其処は台所の先にありました。
 
古池の中央でガマガエルが取っ組み合っています。
もう、8匹程は集まって、団子状態です。
その中央に雌のガマが居る筈です。
その周囲に雄どもが集まって・・・・、雌のお腹を押さえて・・・・、産卵を促します。
産卵した瞬間に精子をドバっと輩出して・・・、水中で受精させるのです。
団子から弾き飛ばされた雄ガエルは・・・・、再び団子に乗っかって・・・、男の役割を果たそうとします。
 
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    妙法寺庫裏裏にある古池。中央の大きな塊がガマ合戦です。周辺部にもガマが居ます。崖の穴は根菜類の     貯蔵庫です。この池で野菜を洗ったり、防火用水の役割を果たしてきました。
 
池の端っこでは負けた蛙がじっと見つめています。
要領の良い合体したまま・・・・、静かに出産しているカップルもいます。
周囲は心太(ところてん)状の卵がニョロニョロしています。
 
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    此方は二匹で仲睦まじいガマガエルのカップル。下の蛙が雌で、上に乗った雄が脇腹を押さえています。
    すると、心太状の卵がお尻から排出されます。その時雄は精子を放出して、水中で受精させます。
    二匹の周りはもう卵で一杯です。
 
 
 
”痩せガエル 負けるな一茶 ここにあり”
小林一茶が小布施の岩松院の池で作った俳句だそうです。
お寺の方丈池には句碑が出来ており、ガマガエルも置かれています。
奥信濃の春は未だでしょうから・・・・、ガマ合戦は志賀高原の雪融けの頃、4月中旬になる事でしょう。
 
貧乏農家に生まれた一茶でした。
家督は腹違いの弟仙六が継いでいました。
父親弥五兵衛の13回忌の法要で、ようやく財産の分与を受けられました。(文化10年/1813年、51歳)
その翌年、菊という名の嫁を娶ります。一茶52歳、菊28歳の、二回りの齢の違う結婚でした。
 
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       蛙合戦に夢中の雄ガエル達。もう、下に隠れた雌ガエルは窒息死していると懸念されますが・・・・、
       雄達のアドレナインは止まりません。
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       手前が泥沼の中で夢中にガマ合戦を繰り広げるガマ君たち。少し距離を置いて見守る雄も居ます。
       これが、負けガエル、痩せガエルです。
 
一茶はこまめな男で、妻の月経も、愛した回数もメモしていました。
文化12年1月には次のようにメモしています。
1月20日、善光寺に赴いていて、我が家に帰る。 曇り、柏原に入る。夜夕飯
1月21日、晴れ 墓参 夜雪 交合ス
1月22日、晴れ 昨夜窓の下で茶碗・小茶碗、人に障らざるに微塵に破る。妻言う、怪霊の事。股引、褌を洗う。
 
こんな会話が夫婦の間で取り交わされていたものと思います。
結婚して、直に菊は妊娠しました。(文化13年1816年)
1月はもうお腹も大きく・・・・、交合は好ましくないにも関わらず、一茶は毎晩のように求めてきます。
   善光寺の初詣でをして、墓参もしました。
1月21の夜も雪が降っていたので・・・、
   布団に早く入ると・・・、一茶が求めてきます。
   菊は「親の命日は精進日で潔斎しなくては・・・・・いけませんよ、今晩は止しにしましょう!」
   言ったのでしたが・・・・・、一茶は承知しません。
 
1月22日、昨晩交わってしまったので・・・・菊は潔斎しなければいけないのにと言って・・・、怯えています。
    災い除けの為に茶碗類を木端微塵に割りました。昨晩着ていた股引や褌も綺麗に洗いました。
 
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                           小布施岩松院の方丈池。此処が一茶の句の舞台と言われています。
 
その年の4月14日菊は男子を産みます。ところが痩せ細った虚弱児でした。
一茶は善光寺にお参りして、赤子の無事を祈願します。
小布施の岩松院の仏前に額づきます。
その時につくった俳句が前述の”痩せガエル負けるな一茶ここにあり”でした。
倅の名は千太郎と付けました。
 
5月11日、未明に千太郎は息を引き取ります。
突然な事で一茶は看取る事も出来ませんでした。
寝釈迦(ネブッチョ仏)のように、死に装束に包まれていました。
ホトトギスがけたたましく啼いていました。
  時鳥(ほととぎす)ネブッチョ仏ゆり起こせ
一茶はわずか28日で命の炎を消してしまった我が子を激しく揺すって「目を開けてくれ」叫んだことでしょう。
 
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                            此方は我が家近くのガマ合戦。妙楽寺に比べれば未だ若造です。
 
菊は出産前後の疲れと、我が子を失った悲しみで家出をしてしまいます。
でも、同年8月に戻ってきます。
一茶のメモは続きます。
8月17日 晴 墓詣 夜三交
8月18日 晴 夜三交
8月20日 晴 三交
8月21日 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交
一茶はもう子供が欲しくて・・・、たまりません。
もう、・・・、尊敬するというより、呆れるばかりです。
すこしは間を置いたら良いだろうに・・・。
 
妙楽寺のガマ合戦を見ていて・・・・、小林一茶の話に脱線してしまいました。
 
蝦蟇たちはもう夢中です。
もう2、3日もすれば、古池は元の静寂に戻る事でしょう。
古池にはガマ合戦で息絶えたガマが数匹浮かんでいる事でしょう。
そうして、この場所には無気味な山かがしが集まって来て・・・・、小さな蛙を食べ尽くそうとするのでしょう。
 
こうした大自然の営み自体が・・・・・、山岳密教・・・その物なのかもしれません。
明日は、その密教美術をご案内する積りです。
 
我が家のガマ君も合戦からもうじき無事帰還する事でしょう。
 
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   昨年ガマ合戦から帰還した我が家のガマ君。もう、右前指は骨折していましたが無事に再生するのでしょう。
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   ガマ君(右端下)を呆然と見送るワンちゃん。 
   もう、ガマは威風堂々のご帰還でした。ことしももうじき見られることでしょう。
 
 
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上野のお山は「両面宿儺」像で溢れていました。
そう博物館で、飛騨千光寺の「円空展」が開催されているのです。
2月5日、家内と一緒に出かけました。
このブログでも各地の円空仏は書いていますし、千光寺の旅も書き綴っています。
でも、千光寺の宝物館で拝観するのに比べ、東京博物館で見る円空は遥かに良かった・・・のでした。
先ず、ライティングが素晴らしいので仏像の陰影が深く、深遠に見えます。
ま近によって木肌の隅々まで、蚤の跡も、年輪も良く見られます。
加えて、仏像の横に行けば像が扁平であることが判りますし、木割をした墨線も確認できましたし、
裏に回れば銘や梵字が黒々と墨書されているのを確認できました。
 
唯、残念なのは会場が狭かったこと、そして記念アルバムの写真がです。
アルバムの写真はライティングが為されていないので平凡に写っていました。
展示会場で拝観したときの興奮を留めるように・・・・、
会場で撮影すれば良かったのに思いました。(それでは展示に間に合いませんが)
今日は、その中から今回の展示のハイライト「両面宿儺」像を、私なりに説明させていただきます。
 
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               東京国立博物館、正面の5室で円空展が催されました。
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”鉞(まさかり)担いだ金太郎熊に跨り・・・・”
童謡「金太郎」です。
金太郎は昨日書いた道了尊のある金時山に生まれました。
力持ちで、大江山の酒呑童子を退治するに際し活躍します。
小さいのに、大きな鉞を担いでいる姿で知られています。
鉞は木を切り倒し、木割(材木に挽く前、おおぐりに割る)する時に使う道具です。
樵(きこり)の道具であると同時に、雷神が持つ道具であると信じられていました。
金太郎の母は金時山の山姥で、彼女の脇の大木に雷が落ちます。
樹が裂けてしまいます。
その時に身籠ったのが金太郎でしたから、金太郎の父は雷神であるとされます。
ですから金太郎は父譲りの鉞を持っている・・・・・・、雷神の子供なのでした。
 
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                                      湯島天神蟇股に刻まれた金太郎
 
円空は1632年美濃国(現在の岐阜羽島)で生まれます。
母は郡上美並の木地師(木割をする専門職人)の娘でした。
父は誰であったか諸説ありますが・・・・・・・、郡上星宮神社の宮司西神頭安永と思われます。
何れにしても郡上の名士であり、富豪であったのでしょう。
それが、木地師の娘に手を付けて・・・・、子を孕ませてしまった・・・・、
そこで、羽島に遠ざけて、母息子の面倒を見ようとしたのでしょう。
ところが円空7歳の時に長良川の洪水で母と死別してしまいます。
そこで、円空は西神頭家の庇護を受けて、郡上に引き取られます。
 
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   円空の仏様は樹をこの写真のように割って、その割った面を表にして仏像に彫りました。
   このような技法は「木地師」の技です。因みに上の写真では下半分が主尊(薬師)になり、上の半分を   二つに割って脇侍にしました。
 
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          千光寺護法神立像210㎝余りもあります。
          一本の丸太を4つに割って、角面が正面になっています。
 
諸国を行脚した円空は出羽の湯殿山から、飛騨千光寺に入ります。(1685年54歳)
千光寺の住職「舜乗」と気があったのでしょう。
長い事千光寺に住みついて、この寺から里に下りて、人々の注文に応じて仏像を彫り続けます。
そんな中で、舜乗の話に聞き入った事でしょう。
舜乗は飛騨の伝説「両面宿儺」の話をします。
 
日本書紀にはこう記されています。
「飛騨には両面宿儺という名の鬼が居た。顔が二つ、手足が8本もあり、剣を持ち弓矢を使って、民を苦しめていた。そこで「武振熊」を使わせて両面宿儺を退治させた」
ところが、これは朝廷の言い分で、両面宿儺は良い鬼で洪水をおこしたり旱魃を引き起こす悪龍を退治して・・・・、救世観音の化身である・・・」と言い伝えられています。
そして、この千光寺の開基も両面宿儺なんです。
まるで、先日までNHKで放映していた「阿弖流為(アテルイ)」の飛騨版のような伝説です。
 
飛騨から北アルプスを越せば鬼無里です。
鬼は大和朝廷から見て・・・・・、従わない地方の豪族であったのでしょう。
刃向ったから・・・・、鬼と酷評され、退治して当然と主張しましたが・・・・、
本来は地域に貢献したかけがいの無い実力者だったのでしょう。
一昨日書いた「二宮の節分で追放された赤鬼・青鬼」も朝廷に従わない者でした。
私のような縄文人は”鬼”と聞くだけで・・・・、情け心が湧いてきます。
 
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               両面宿儺像。大きな鉞だけが持物です。如何にも山の神の面目です。
 
円空は千光寺の山に生えている翌檜の木を切り倒します。
そして、舜乗和尚の話と、自分の生い立ちを併せて・・・・、
自分の脳裏に浮かんだ飛騨の英雄「両面宿儺」を彫り出します。
千光寺の開基ですから・・・・、珍しくも像に光背を付けました。
沢山の人々が拝む場面を想うと・・・、光背は欠かせません。
そして、山の民、木地師が多く住む飛騨ですから・・・・、両面宿儺の持物に大きな鉞を彫り出しました。
手は異常に大きく、太い指に長い爪も加えました。
正面の顔は山の神として、雄々しく荒々しい表情にしました。
そして、脇の顔は口を開き、顔の端まで裂けている・・・・、恐ろしい表情にしました。
背面は平カンナで削って平面にしました。
梵字で「ウ/最勝」、その下に「ア」「ウン」その下に大日如来の真言を書き・・・・、仏像開眼としました。
(一般に円空も木喰も真言を墨書するすることによって、仏像開眼としました)
 
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千光寺「おびんずるさま」口元に丹が塗られています。これは後人の作為でしょうか?
 
昭和40年ベルリンで「日本禅美術展」が開催されます。
その時、この両面宿儺像が展示されました。
既に海外では白隠の禅画が人気でしたから・・・・・、円空仏も評価される・・・・、
そんな思惑があったのかも知れません。
期待は・・・・、(思惑と違っていたかもしれませんが)・・・・当りました。
ヨーロッパの人には、ピカソの「ドラ・マールの肖像」等の、二つの顔を持った肖像を髣髴させたのでした。
”円空は東洋のシュールリアリズムだ”  そんな目で見られたのです。
その評価の当否は別にして、円空仏を世界的に有名にし、日本人に改めて円空を知らしめたのは、
この両面宿儺像でした。
 
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                                    ピカソの「ドラ・マールの肖像」
 
展示室(正面5室)を出て、一般展示室に寄ってみました。
円空が一体、木喰が一体展示されていました。
 
国立博物館も円空や木喰を保有しているのだ・・・・・・、初めて知りました。
天平や鎌倉時代の仏像の流れから見れば・・・、円空仏は異端の仏像で評価は低いものでしょう。
しかし、民族の視点で見れば、その流れの正統に位置しています。
何れ、円空や木喰の中から重文・国宝の指定を受けるものが現れる・・・、そんな時代が来ることでしょう。
先ず最初に指定されるのは・・・・、この両面宿儺像でありましょう。
円空も全身の全霊を注ぎ込んで・・・・・・、木地師の祖霊、山の神を彫り込んだと思われます。
 
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                                   千光寺 33観音像
 
 
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千社札(せんじゃふだ)とは神社仏閣を参拝した人が、
その記念に自分の名や住所を書き込んだ札を貼る、その札のことです。
殆どが和紙製ですが、中には木札や金属の札もあります。
最近は、ストラップやワインバー等のボトルキープ用に使われたりしています。
 
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  キーホルダー、ストラップ用の千社札。浅草名入れ専門店のHPから転載(http://www.fudaya.com/)
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芸・舞妓さん等が名刺代わりに使う千社札(銀座歌舞伎座前の千社札屋のHPhttp://www.senjafuda.com/)
 
芸妓さんや舞妓さんが襟の間から名刺を差し出して・・・・
”お贔屓にしてくださいな!” 挨拶してくれます。
その名刺も千社札です。
此方は、名だけで住所も電話番号も記されていません。
連絡先は・・・・、置屋さんや検番ですから・・・・、書く必要もありません。
戴いた名刺(千社札)は妙に色めいて見えるものでした。
 
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         別所温泉北向観音に貼られた千社札。江戸時代には千社札の規格(幅一寸六分(58ミリ)、         高さ四寸八分(174ミリ)が決まっていましたが、今は崩れてしまっています。でも、此処は墨         物ばかりですから…、まだいい方です。
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    塩田の前山寺庫裏に貼られた千社札。平たい所なら長押にも壁にも貼られています。
 
 
1月6日、浦賀の西叶神社を参拝しました。
朝10時、未だ参詣者も疎らです。
でも、本殿には5人ほどの若者が梯子をかけて・・・・、お掃除をしています。
ばけつに水を汲んで、手には金属ブラシと雑巾を持って・・・・・・・。
天井や柱長押に貼られた千社札を剥がしているのです。
この、正月に貼られた千社札を、早いうちに剥がしてしまおう・・・、しているのです。
 
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西叶神社の本殿は1842年再建されました。
その彫り物は若干28歳の「後藤利兵衛義光」が彫りあげます。
安房の千倉出身の若手でしたが・・・・、この叶神社彫り物を皮切りに各地に秀作を残します。
(この項は次に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/43952964.html)
勿論、地元三浦市の文化財に指定されています。
 
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   西叶神社、本殿の大棟を支える力士像。(後藤利兵衛作) その上にも千社札が貼られています。
   長い、長い竿を使って貼ったものだそうです。鳶職の札のようで・・・、これはもう広告塔のような千社   札です。
 
私は千社札を剥がしている若者に声掛けします。
「朝早くからご苦労様です。皆さんは叶神社さんの氏子さんですか?」
「そうです、西叶神社の氏子青年部です。千社札を文化財に貼るのは、文化財保護法違反ですから・・・・、困るんですが・・・・、こうして剥がすんですよ。
高い所だし、糊も様々で・・・・、年々剥がし難くなっているんですよ。」
千社札は水に湿らせて、しばらくすると・・・・・、するする剥がれるものがあります。
これは、多分天然の澱粉糊で貼ってあるのでしょう。
障子紙と同じ要領で・・・・、湿らせれば簡単に剥がせます。
でも、化学糊(シールを剥がして貼る)で貼られた千社札は容易に剥がせません。
剥がし難い千社札はマナー違反です。
 
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   西叶神社 本殿前向拝の天井に貼られた千社札を剥がす、氏子青年部の人達。
 
神社仏閣を参拝して、祈願する・・・・、それは個人的な事ですから・・・・、
参拝した記念を残したい・・・・、そんな気持ちは落書きするのと大同小異でしょう。
日本人が落書き好きなのは、法隆寺の天井裏の落書きにも表れています。
だから・・・・、先年ロサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に女子大生が落書きしたのは・・・・、
1000年余の日本人の困った習性です。
千社札なら・・・・、剥がしやすい糊で貼ったお札なら・・・・、少しは益しなような気もします。
 
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    天然糊で貼られた千社札は湿らせれば気持ちよい程綺麗に剥がせます。
    でも化学糊はそうは行きません。
 
最近は「千社札お断り」大書してある神社仏閣も良く見かけます。
千社札が流行って来て・・・・、プリクラのような感覚で作られているのも関係しているのでしょう。
神社仏閣を廻る「歴女」が増えてきたのも……、影響しているかも知れません。
でも、千社札が文化財を損なっている・・・・・・、文化財を鑑賞する者にとって目障りである・・・・、
そんなことも事実です。
 
せめて、千社札は芸妓さん舞妓さんのように、名刺代わりに使って欲しい・・・・、思います。
 
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三渓園の36歌仙

12月4日、豊後路の旅から戻ると家の紅葉も散り始めていました。
慌てて、鎌倉・横浜で紅葉狩りです。
先ず、家内を誘って横浜本牧の三溪園に出かけました。
 
”京都の紅葉は近年稀な見事さであった・・・”、風説では聞きましたが、
横浜では・・・期待しましたがイマイチでした。
三溪園の紅葉は朱に染まる…、というより黄色が勝っているようです。
 
 
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       三溪園の臨春閣。右側から第1室、第2室、第三室と三棟が雁形しています。
 
今日は秋の特別公開で臨春閣にも入れます。
第一室(来客の控えの間)、第二室(紀州の殿様が来客と面会した間)、
そして第三室(紀州・殿様の奥方の間)と順番に回って、鑑賞できます。
どの部屋からも庭先の紅葉を見る事が出来ます。
流石に紀州の殿様の別荘、そして原三渓さんです。
桂離宮には行けなくても・・・・、行ったつもりになれます。
 
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                                 第1室は坪庭の紅葉が見事です。
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  第二室から第三室を見る。普段はこの襖は閉じられていますから、来客は奥の庭は見えません。
  正面(左側)から庭とその向こうに三重塔が見えます。お客の視線は狩野狩野探幽(1602〜74)の「琴棋書画」   障壁画で襖7面、壁1面に集まり、次いで欄間の36歌仙色紙に注がれるでしょう。
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      第三室は奥様のお部屋でした。この部屋の欄間は実物の笙と笛が嵌められています。
 
 
第一室と第二室の間の欄間は「波の彫刻」です。
第二室の欄間には「36歌仙」と思われる和歌の色紙が収まって居ます。
多分、藤原定家の小倉山荘「時雨亭」を意識したものでしょう。
    (定家は百人の歌の名人を選び、色紙にしたためた…、と言われています。色紙が百人一首カルタ     の始まりでしょう。)
来客は紀州のお殿様にお目通り戴くまで・・・、36歌仙の歌を楽しんでもらう・・・、そんな意匠でしょう。
此処は、夏の別荘ですから・・・・・、先ず紀ノ川の波しぶきを欄間に置きました。
次いで、36歌仙です。
そして、第三室の欄間は本物の笙と笛が収まっています。
そして、この部屋を「天楽の間」と呼びます。
隅々にまで・・・、雅に満たされた建物です。
 
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                          第一室、第二室の間の欄間は波です。
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                              第二室の欄間は36歌仙の色紙が嵌められています。
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      第三室の欄間は笙と笛が嵌められているので「天楽の間」と呼ばれます。
      奥の花頭窓を潜って二階に上ります。二階は仏間のようです。
 
三十六歌仙とは藤原公任が和歌の名人36人を選んだものです。
絵巻物などに盛んに描かれましたが、特に有名なのは「佐竹本36歌仙絵巻」です。
描いた人は藤原信実、鎌倉時代前期の人でした。
 
その絵巻物が大正8年、佐竹家から売りに出されました。
此処から始まる絵巻の数奇な変遷はNHKテレビで「絵巻切断」として放映されましたから、
ご覧になった方も多いと思います。
(何度も放映されています。NHK取材班『秘宝三十六歌仙の流転 絵巻切断』、日本放送出版協会、1984)
 
明治時代は個人所得税はありませんでしたし、途轍もない財界人が出現します。
財界人の中でも文化財をコレクションし、若い作家や文人を育てた人物が現れます。
その一人が益田鈍翁でした。
佐渡で生まれた益田は三井物産を創設します。
政財界、文化界でも強いリーダーシップを発揮します。
そして、佐竹本36歌仙が売りに出ると・・・・、欲しい人も多いし・・・、余りに高い値段だ・・・、
と言うので・・・・・・、36枚に分断してしまいます。
軸物に変えて・・・・、抽選で36人に分売してしまいます。
現在、そんな話が出れば非難が轟々と盛り上がる事でしょうが・・・・、
明治時代は異論をはさむ人も居なかったようです。
 
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                        原三渓が求めた36歌仙断片、「小大君/こおおきみ」
 
原三渓も田舎出でした。(岐阜県稲葉郡、青木家)
跡見女学校で歴史の教師を務めていた時・・・、
教え子の「原屋寿」と相愛になり、豪商原家の婿養子になります。
そして、原商店を世界一の生糸商社に育て上げます。
 
元来歴史教師であったこともあり、文化財に深く傾倒します。
コレクションは美術史的な価値、芸術的な価値観や審美眼に裏打ちされていました。
また、芸術のスポンサーになり岡倉天心とも交遊し、
その門下の下村観山をはじめ、小林古径、安田彦、前田青邨等を支援します。
 
三溪園の臨春閣第三室は奥様のお部屋です。
部屋からは春の限らず、四季を楽しめるように工夫が凝らされています。
広く大きな縁側が廻らされています。
縁側に出れば、正面には池の向こうに三重塔が遠望できます。
山側を見れば、雅な屋根の付いた橋が架かっていて、その向こうに紅葉の山が見えます。
紅葉に隠れるようにして、秋聴閣も見えます。
矢張り、この建物は避暑地の別荘であったものが、
小倉山のように…、秋が最も美しく、楽しめるように出来ているような気がします。
 
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      三溪園、紅葉のハイライト「聴秋閣」、二階の小部屋も仏間のようです。
 
縁側から座敷に戻れば、欄間に嵌められた36歌仙の色紙が見えます。
原三渓もこの36歌仙色紙に彩られた部屋が自慢だったことでしょう。
 
三渓が求めた佐竹本36歌仙の断片は・・・・、どのような変遷をたどったのか…、
現在は奈良の大和文華館に収まっています。
季節も目まぐるしく移り変わるように、名作も変遷します。
TV画面でデジタル処理して、繋げて見るよりも・・・・、
一堂に集めて・・・・・・、実物を見てみたいものです。
 
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                                  奥が燈明寺三重塔、手前聴秋閣
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                    佐竹本36歌仙断片から「伊勢」
 
 
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