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古美術ウォーキング

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落葉の蕗の大寺

今回の旅行の日程を決めるに際して、二つの候補から選択しました。
一つは11月23日頃でした。この頃なら耶馬渓の紅葉が見られます。
もう一つが12月4日頃、国東の富貴寺が紅葉で囲まれます。
それで、富貴寺の紅葉に照準をあてて、日程を決めました。
 
ところが、今年の紅葉は例年と異なり関東では1週間も遅れ、逆に九州では1週間も早まりました。
耶馬渓の一目八景の紅葉は未だしも・・・・、
富貴寺の紅葉も…、間に合わなかったもしれない・・・、
心配です。
 
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   富貴寺山門、仁王さんの間から…富貴寺大堂がの覘けました。美しさにハッとした瞬間でした。
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  未だ紅葉が残っていました。境内全面を銀杏の落ち葉が覆っていました。お堂の前に整然と並んでいるのは   私の仲間の靴です。
 
 
真木大堂を後にして、街道をひたすら北に進むと、突き当りが富貴寺です。
高台の上に、急な石段の上にあります。
この辺りは六郷の一つ、「田染蕗/たしぶふき」です。
蕗の字があてられているのは、この辺りに蕗が自生していたからでしょう。
マップで見れば地名に「染る」字が目立ちます。
奈良時代の租税(租庸調)で染色した布が多く納められ・・・、
この辺りは「蕗の葉染」が納められたのかな?
思ったりします。
 
富貴寺は宇佐八幡の大宮家が建てたお寺で、「蕗浦阿弥陀寺」と呼ばれた祈願寺として創建されたそうです。(神宮司家の古文書)
当初は宇佐八幡弥勒寺と同じ法相宗でしたが、平安時代に天台宗に変わります。
更に、平安時代末期になると、浄土の教えが人々の心を捉えます。
宇佐八幡神職も現世を如何にかしたい、せめてあの世では弥勒浄土に生まれたい・・・、
強い憧憬を持っていたのでしょう。
だから、浄土寺院を建てて・・・、阿弥陀様を祀って・・・、
阿弥陀様の須弥壇の壁に、当麻曼荼羅絵を描かせて・・・、浄土を観想(イメージ)していたのでしょう。
 
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         富貴寺大堂は奥行4間(正面3間)ですから、横から見たほうが大きく見えます。
 
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   富貴寺大堂は正面3間です。一面銀杏の落ち葉が覆っています。 
   冬日が銀杏の樹の影を落としていました。
 
 
 
富貴寺の麓は田圃です。
今では田圃を埋め立てて・・・、大きなレストランが並んでいます。
国東観光では、このあたりで昼食にする観光客が多いのです。
レストランの辺りは・・・・、昔は一面に蕗が茂る湿地だったことでしょう。
蕗の薹が一面生い茂っていて…、その彼方に阿弥陀堂が見渡せたのでしょう。
まるで浄土庭園のように・・・・。
 
富貴寺の山門から見上げると、二本の大木が空を覆っています。
右に大銀杏、もう葉を落として、境内を黄色い絨毯で覆っています。
参拝客はその見事さに思わず声を発します。
阿弥陀堂の甍は古色な「行基葺き」です。
甍の溝も銀杏の葉が覆っています。
左には大きな「榧(かや)」が茂っています。
    行基葺き:本瓦葺きのこと。丸瓦を重ね下から上に葺くもの。法隆寺の玉虫の厨子等に見られる。
 
これからは、伝説の話です。
養老2年(718)、仁聞(にんもん)上人がこの地を訪れます。
上人は国東の6つの里に28の寺院と6万体余りの仏像を作った…、伝説の僧でありました。
国東の略中央、富貴寺の辺りに榧の大木がありました。
その樹陰は隣村にも及んだと言われます。
その榧の大木を切り倒して、先ずご本尊の阿弥陀如来を刻み、富貴寺本堂を建てました。
それでも、材木を使い切れなかったので・・・・・、余材を使って、その先の真木大堂を建てました。
私達の昼食は、山門下の「榧の木/レストラン」で、ダンゴ汁を戴きます。
 
富貴寺阿弥陀堂が榧の木で出来ているのか…、良く解りません。
私の眼には檜と思われる…、白い肌の材です。
でも材木は、一目見れば白い肌と、黒ずんだ肌と混じっています。
黒ずんだ材は1000年もの風雪を耐えてきたものです。
このお堂は悠久の歴史を乗り越えてきた・・・、事実を教えてくれます。
 
平安時代後期(12世紀後半)に建立されました。
棟木の墨書から、中世に一度改修されましたが…、以降放置され、明治初年には朽ちかけていました。
屋根は茅葺に変じて、床は抜けて、天井は雨漏りで黒ずんでいたそうです。
明治40年、特別保護建造物に指定され、
明治45年には解体修理されて、現在のように修復されました。
改修に際して、可能な限り旧材を使ったのでしたが・・・、三分の二は新材に差し替えたのだそうです。
そして、屋根材をはじめ最初の状態に戻しました。
 
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  大半の外柱は新材に差し替えられました。でも、框などは旧材を使って改修しました。細部に舟形ひじきなども  新材で、古風に作り替えました。明治45年の大改修でした。
 
正面は3間ですが、奥行きは4間です。(中尊寺金色堂は正面側面とも3間の方形です)
奥行が長いので、側面から見たほうが大きく見えます。
1間奥行が広いのは、前面に加持祈祷する広間を作った事、そして後方に内陣を作ったからです。
床張りの上に正座して、ご住職の説明を聞いているのは・・・、
正座に慣れない私達には少し苦痛がありますが・・・・、まあ致し方ありません。
 
目は、内陣の隅々まで見渡します。
お堂の外側を並んだ柱は角柱で、大きな面取りがありますので…、八角の柱のように見えます。
でも、内陣の四隅を支える四天柱は円柱です。
内陣前面に格狭間のある仏壇をがあり、その背面は背面は来迎壁になっています。
来迎壁には当麻曼荼羅と思われる浄土が描かれています。
仏壇の周りで行道する本来の阿弥陀堂の性格と、
仏壇面前で修法を行う密教の堂の性格とを兼ねたものでしょう。
堂内は全面小組格天井を設けられています。
黒いのは雨水に濡れたためでしょうか?
内陣上は支輪て折り上げて、格天井を高く取りつけています。
ご本尊はその格天井の下におわします。
 
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     阿弥陀堂の内陣。中尊寺金色堂を数倍大きくした意匠です。須弥壇上阿弥陀様の背後の板絵は当麻曼     荼羅図でしょう。建物の内壁にも絵が描かれていたのか?それは解りません。(写真は大分合同新聞)
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   ご本尊と須弥壇板絵の復元図。富貴寺の庫裏展示室の写真を複写。菩薩群が右上から来迎すれば当麻寺   の曼荼羅絵になります。この絵では菩薩が浄土庭園に降りてきて主尊の阿弥陀様を拝んでいます。
 
ご本尊は阿弥陀如来です。
昔は、須弥壇の上に沢山の菩薩が並んでいたのでしょうが・・・、
今はポツンとお一人で座っておいでです。
金色の体も、華麗に装っていたであろう・・・に、既に塗装も剥げて、
地肌の榧の木目が浮き出ておいでです。
でも、その木肌がまた実に美しいのです。
 
螺髪に僅かに青い彩色を留めている…、気のせいでしょうか?
誰が彫ったか・・・・?
平安時代も末期です。
定朝風の阿弥陀如来は一世を風靡した柔和で優しげな表情でした。
それから、鎌倉時代も近くなってくると・・・・・、
王朝風の柔和な上に「末法の時代を切り開く決意」と、
仏(即ち人間)の威厳や理性を、濃密な宗教性を追い求めようとしてきます。
院尊らを筆頭にする京都仏師の作であろう・・・、私は確信いたします。
             (康慶・運慶らは京都・奈良から東国に多く見られます)
 
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       主尊の阿弥陀如来の横顔。榧の木目が浮き出て…、美しい。定朝風の王朝優美さを越えて、
       仏の威厳や理性が表現されていると思います。白毫(額の白い玉)や肉髻珠(頭の赤い玉)は宝       石ですから色は褪せませんが、他はすべての塗装も金箔も剥げてしまっています。ただ、螺髪       (頭のパーマ)の群青が残っているような気がします。(写真は富貴寺のパネルを複写)
 
素晴らしい阿弥陀堂ですが・・・、
その美しさはお堂の周囲・・・、鮮やかに紅葉し、落ち葉になった風景や、静かで穏やな山里によって・・・・、輝いている、と思いました。
そんな所で、自生していた榧を使って、仏や阿弥陀堂を建てたことも素晴らしいと思います。
また、その場所が蕗の薹の自生地だったことも夢のようです。
蕗の薹も、蕗味噌も、蕗の煮つけも美味しいし、蕗の葉っぱはハートのような形です。
蕗の葉染がどんな色か?・・・・、想像もつきます。
 
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 「蕗の葉染」 ”古布にひかれて”さんのブログからお借りしました。次をご覧ください。
 
明日は富貴寺の石仏を書きます。
これがまた素晴らしいのです。
 
【追記】
今年は11月29日に白水阿弥陀堂【国宝】を参詣しました。生憎お堂には入れませんでした。
 同じく11月15日には上田の中禅寺の阿弥陀堂を参詣しました。(重文)下記に書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46818226.html 何故かこの秋は阿弥陀堂を3度も参詣した事になります。
 
 
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熊野磨崖仏を拝観し、興奮も冷めやらぬままに次の目的地「真木大堂」に向かいます。
鋸山の山腹を下って、麓の田圃を走ればほんの10分足らずで、大堂に着きました。
春秋には沢山の観光客が押し寄せるのでしょう、境内よりも数倍も広い駐車場です。
駐車場の外れ、トイレの前に車を停めました。
私達は、今日最初の拝観者なのでしょう。
 
拝観受付には二人の女性が居られました。
説明をお願いすると、快く受けてくれました。
「私は、素人ですので専門的な事は解りませんが・・・?」
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         今日の主話題は真木大堂の大威徳明王像です。(寺のパンフを複写)
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         真木大堂大威徳明王。寺の写真を複写する。
         京都仏師の院尊のような、力量のある仏師の作であると確信します。
 
案内によると、真木大堂は六郷満山65寺の本山本寺として建てられ、
36坊もの霊場を有する国東の最大の寺院だったそうです。
その霊場が次第に廃れ、南北朝時代の戦乱で伽藍が焼かれ・・・・、
真木大堂とは名ばかりの小さなお堂を本堂にした・・・・、小さなお寺になってしまいました。
堂塔や坊に祀られていた仏像は自然と真木大堂の本堂に集まってきました。
本堂に所狭しと置かれた仏像群でしたが・・・・、
昭和25年に9体が重要文化財に指定されたのをきっかけに、新築された国宝収蔵庫に移されました。
平成20年には国宝収蔵庫も改修され、仏像も修復されました。
 
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                      真木大堂宝物館中央の阿弥陀如来。(パンフレットを複写)
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      真木大堂不動明王像、天台密教らしく、迦楼羅(人間の欲望を食い尽くす鳥)が光背から抜け出して、明      王の額を飾っています。
 
 
京都の東寺の講堂は弘法大師が建立した「立体曼荼羅」として有名です。
中央仏像群は大日如来を中心にした五智如来です。
その右に五大菩薩、左に不動明王を中心にして五大明王が祀られています。
五大明王の西方に位置しているのが大威徳明王です。
圧倒的な立体曼荼羅ですが…、一体一体も素晴らしいものがあります。
特に大威徳明王は…、水牛に跨る群青の六面六臂の怒りの神像は密教のハイライトでしょう。
 
東寺の大威徳明王は像高144㎝です。
一方、真木大堂の大威徳明王は165㎝です。(水牛も含めれば262㎝)
間違いなく日本最大の大威徳明王です。
東寺のは群青色ですが、真木大堂は朱色の体です。
火炎光背も鮮やかな朱で塗られています。
東寺のは真言密教ですが、真木大堂は天台密教の大威徳明王です。
細部は少しずつ違いますが、怒りの表情は共通しています。
 
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    東寺の大威徳明王像。弘法大師京都仏師(院派)に命じて彫らせたものでしょう。体も全体も群青色なので    静かな怒りに満ちています。真木大堂の大威徳明王と少しずつ違っていますが、どちらも素晴らしいと思い    ます。
 
大威徳明王は阿弥陀如来が人を導くために敢えて恐怖の姿になって表れたもの…、
と言われます。(教令輪身)
六つもあるお顔は六道(地獄界、餓鬼界など現世の諸相)の各を見渡します。
六つの手は武器を持ち、仏法を守護し、六つの足は行(布施、自戒などの六波羅蜜)を実施する決意を示していると言われます。
頭上に三面の懸仏を戴き、髪の毛は怒りに炎のように逆立っています。
牙が剥き出て・・・、大憤怒の表情です。
水牛はおとなしく跪いています。
 
お婆さんが説明されます。
この大威徳明王像は平安時代末期の作と言われています。
楠の大木の一木から彫られています。
一木と言っても、水牛は大木を横にして彫られています。
明王は大木の幹を縦にして彫られています。
水牛の上に明王を跨がせて完成ですから・・・・、昔は二体別れていました。
博物館に展示するため・・・、持ち出したのですが・・・・、帰ってきたら二体がくっ付いていました。
私達は”そんなことあっても良いのかな?”思わず笑ってしまいます。
 
水牛の背後からは大きく内刳りされています。(内刳り:仏像が乾燥しても割れないよう、内部を刳り貫く事)
地域の子供達は水牛には跨るわ、内刳りの内部に隠れるは…、遊んでいました。
隣の本堂の中にあったのですから…、出入りも自由でした。
今は国の重要文化財ですし、このように収蔵庫の中で、管理されていますから・・・、
昔から見れば嘘のような状態です。
 
言われてみれば、大威徳明王の朱色は鮮やかに残っていますが、
水牛の白色はもう剥げています。
楠の地肌が出てしまっているのです。
子供達が遊んだ跡でしょうか?
私も寺育ちの悪餓鬼でしたが…、さすがに水牛に跨る事は出来なかったでしょう。
水牛に跨れば、背中に恐ろしい大威徳明王が居る事になります。
そんなに怖い事は…、先ずできません。
   追記:楠(クス)は樟脳の素材になる照葉広葉樹で、九州では大木になります。大川市の家具は主とし       て楠を材料にして作られています。
 
大威徳明王と言えば、我が国にはもう一体重要な像があります。
金沢文庫称名寺の大威徳明王です。
2006年11月に解体された折に胎内から紙片が出てきました。
運慶が1216年に制作した・・・、紙片は史実(東鏡)とも符合しました。
21㎝の檜材の小像ですが、朱や群青に金箔が鮮やかです。
玉眼の効果も絶大です。
小さくても弩迫力がある・・・・、さすがに大仏師運慶の晩年の作だと、納得させられます。
平安時代の大威徳明王は顔こそ恐ろし気ですが・・・、お体は筋肉の力感に欠けています。
筋肉まで含めて、仏像の力感や畏怖すべき姿を示したのは鎌倉時代の仏像の優れた点でしょう。
 
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     称名寺で発見された大威徳明王像。運慶作であることが確認されました。以下に書きました。
 
大威徳明王三体が日本の東西、南にあるわけです。
平安から鎌倉にかけて…、日本中が”末法の時代の恐怖から脱しよう・・・”と試みていたのでしょう。
何れも素晴らしいのですが、真木大堂の大威徳明王が私は一番好きです。
 
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  真木大堂の本堂、以前はこの小さなお堂に9体もの仏像が所狭しと置かれ、祀られていたそうです。
  中央の阿弥陀三尊図のところに前述の阿弥陀如来が置かれ、四天王像が祀られていました。
  その左(西)に大威徳明王が、右(東)に不動明王が祀られていました。
  お供えのミカンの缶詰が気になりました。
 
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  本堂の扉を飾る菊のご紋章は元寇襲来の際に六郷満山65寺が異国降伏の大祈祷が行われました。
  その時に朝廷から菊のご紋章が下賜されたのだそうです。
  手前の仁王像はそれほど古いものではなさそうですが・・・・、この像が収まる山門があったのでしたから、
  真木大堂はその字の通りの大堂であったのでしょう。
 
 
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私が最初にいわきの白水阿弥陀堂を見たのは昭和42年の初夏でした。
大学に入ったばかりの、五月病の季節に浅子勝次郎教授(故人)が言われました。
「みなさん、内郷に阿弥陀堂を見学に出かけましょう!」
浅子教授は文学部の教授であると同時に、日本文化研究会の部長でいられました。
迷うことなく日本文化研究会に入会した私は、以来鎌倉や奈良で教授に導かれました。
 
泉温泉から暫く入った山間に阿弥陀堂がありました。
田圃の向こうに柳や楠・銀杏などの木立があって、
その真ん中にこじんまりとした、三間四方の阿弥陀堂が建っていました。
単層宝形造りで、屋根はこけら葺きでした。
でも、屋根が高く三角帽子のようでしたし、頂にチョンと載せられた宝珠が小さく感じました。
 
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                                         白水阿弥陀堂(国宝)
藤原清衡は娘徳姫を岩城則道に嫁がせます。
平泉から浜通りを真っ直ぐ南下すれば、いわきの豪族岩城氏が居ましたから・・・、
結婚によって、両者の良い関係が築かれたのでしょう。
しかし、則道は亡くなってしまいます。
 
永暦1年(1160)徳姫は夫の菩提を弔うため願成寺を建立、その一角に阿弥陀堂を建築したのでした。
阿弥陀堂の北方は屏風のような山がありました。
南から人は阿弥陀堂を眺めます。
そこで、東西南の三方を池で囲みました。
人の視線の集中する位置に阿弥陀堂を建立したのでした。
お堂には阿弥陀如来を中央に、観音・勢至菩薩、持国天・多聞天を配置しました。
平泉の浄土寺院が此処いわきにも建立されたのでした。
 
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                         阿弥陀堂(国宝)には二つの橋を渡ってお堂の前に出ます。
 
平泉の「泉」という字は白と水の 二字からできています。
そこで白水阿弥陀堂…、と呼ぶようになりました。
平泉の「平」は「平市」の地名になった・・・・、言われています。
 
中尊寺金色堂は屋根が極端に平たく出来ていますし、宝珠は大きく出来ています。
屋根は本瓦葺です。
毛越寺の阿弥陀堂は二階建てであった…、記録されています。
ですから・・・・、浄土庭園こそ平泉文化そのものですが…、
阿弥陀堂自体はいわき独特なものであったように思えます。
 
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             白水阿弥陀堂(国宝)の周囲は総て田圃でした。
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      中尊寺金色堂 三間四方の建物ですが白水阿弥陀堂とは屋根を随分違います。
      (東京国立博物館ライブラリーから転載)
 
浅子教授は田圃を指さされて話されます。
「ここら一帯は美しい池が巡っていました。池の南から阿弥陀堂を遥拝します。
阿弥陀様は空から山越えして阿弥陀堂に降りてこられます。
人は虹のような太鼓橋を渡って池に浮いた中島に辿り着きます。
そこで、再び阿弥陀堂を眺めます。
お堂の扉があいて、その奥に阿弥陀様の姿が見えます。
今度は平橋を渡って、お堂の真ん前に出ます。
”阿弥陀様に総てを委ねる・・・”
心は安堵しています。
 
私達学生は教授のお話を聞きながら、目の前の青田を浄土池に変えて…、イメージを膨らませました。
 
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          白水阿弥陀堂(国宝)は山越え阿弥陀来迎図そのもののロケーションです。
 
昭和49年から2年間、私は再三白水阿弥陀堂を訪れました。
当時私は建設省系の公団に出向していました。
いわきニュータウンを計画し、その用地買収に入っていました。
買収予定地に鉱泉があったりして、計画を再三変更していました。
私は監理課の補佐でしたので・・・・、再三現地に行きました。
その折々に阿弥陀堂を訪れました。
既に阿弥陀堂は国宝の指定を受けていましたから・・・、
田圃を買収して浄土庭園も復元する計画でした。
私の脳裏には宇治の平等院が思い浮かびました。
これから・・・、どんな庭園が出来るのだろうか?
平安神宮の神苑ように桜の花園になるのだろうか?
それとも平等院のように藤棚が作られるのだろうか?
想像するのは楽しいものがありました。
 
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                           周囲は紅葉の回廊です。手前に萩の一群もありました。
 
1976年庭園文化研究所の村岡正氏は
観自在王院庭園と白水阿弥陀堂庭園の復元整備」を発表します。
長年発掘調査を続けられ、その成果を白水阿弥陀堂の浄土庭園復元プランに反映させるのでした。
同氏は京都の清風荘など幾つもの実績があります。
 
その結果が写真の通りでした。
浄土庭園の復刻でありますが、同時に昭和の名園が出来ました。
 
浄土庭園の周囲をイロハ楓で囲みました。
楓なら秋ばかりでなく、緑も美しいものがあります。
そして東岸には蓮を活けました。
夏には蓮の花の向こうに阿弥陀堂が浮いている・・・、そんな姿を観想したのでした。
田圃の泥の中から蓮の種が出現したのかも知れませんし、
楓の根っこが発見されたのかも知れません。
若しかしたら…、現代人の持っている浄土へのイメージが…、
春の若葉、夏の蓮、秋の紅葉だろう、同氏が判断されたのかも知れません。
 
 
 
でも、見事な浄土庭園が出来ました。
私も、家内も嬉しくなります。
故浅子教授にもお見せしたい・・・、
そんな美しすぎる浄土庭園です。
脳裏に先生の笑顔が浮かびます。
 
生憎11月28日(水)に行きましたので、曇天で時折小雨が降ってきます。
昨日は小雪だったそうです。
小雪の降る中の阿弥陀堂も見たかった…、思いました。
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           白水阿弥陀堂浄土庭園は冬鳥にとっても楽園であります。
 
阿弥陀堂を後にしました。
田圃を埋め立てて…、木造の仮設住宅が出来ていました。
阿弥陀堂の裏山を北に向かえば…、相馬市です。
原発事故から此処いわきに避難されたのでしょう。
突然に現実に戻された・・・、そんな思いがしました。
見て、次の目的地に向かいます。
遠くで白鳥の啼き声が響きます。
 
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                          二つの丹塗りの橋を渡って阿弥陀堂の前に出ます。
 
 
 
 
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中禅寺から塩田神社、塩田城跡、そして前山寺と歩く道が「塩田平」のハイライトです。
右側(東)に独鈷山が連なります。
左側(西)には塩田平の盆地が開けて見えます。
何処を見ても美しい信濃の風景が広がっています。
絵心のある人なら、スケッチブックを開いて、水彩画を描きたくなる・・・、そんな景色が続きます。
 
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                           前山寺辺りから塩田平を見下ろす。柿に林檎葡萄等が見渡せます。
 
そんな景色を目の前に、独鈷山を背景にして、前山寺が建っています。
独鈷山は812年弘法大師空海が開いた霊場です。
前山寺は善通寺(弘法大師霊蹟)から長秀上人が訪れ、開いたと言われています。
山号は「独鈷山」です。
 
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   前山寺参道、前山寺も白壁が囲んで、新しい庫裏が出来ました。畑だった場所は庭園に、駐車場に変わりまし    た。また門前には「信濃スケッチ館」が建っています。住職が塩田平の景色を心底愛しているからでしょう。
 
前山寺の参道は立派です。
赤松や欅の大木が参道の両側に連なっています。
注連縄が張られていますから、もうご神木です。
参道を進むのも良いのですが、少し南の車道を登って来ると、
三重塔を見上げながら登るようになります。
独鈷山の深い稜線を背景にした三重塔は夢のように美しい…、と思います。
 
三間三層の三重塔です。
屋根はこけら葺きの、和様が主で、禅宗様が折衷されています。
様式としては室町時代でしょう。
宗文化を刺激として、和風建築が完成した時期になります。
初層にのみ扉があって、二層三層には扉も窓もありません。
廻縁(周囲を巡る縁側)も、勾欄もありません。
長い胴貫が付き出ていて、その上に縁を巡らせる計画だったのでしょう。
 
イメージ 3
 
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         (以下は私の想像です。根拠はありません)
住職は毎日毎日少しずつ完成する三重塔を見上げていたのでしょう。
自分の家が建ち上がるのを見るのは嬉しいものです。
住職だって同じでしょう。
屋根が出来、相輪も建ちました。
後は、勾欄を取り付ける予定です。
窓を連子に開ける予定です。
更に、組み物には様々な装飾を取り付ける・・・・、大工の棟梁の説明でした。
 
住職は考えました。
この塔に勾欄をつけて、様々な細工を加えたら…、今よりも美しく出来上がるだろうか?
いっその事、現状で完成・・・・、「未完成三重塔」の方が良いのではないだろうか?
その方が、シンプルで美しいのではないか・・・・、三重塔を見上げながら思いました。
 
屋根の下に重厚な組み物が加わり、誰も使わない勾欄が加えられる…、完成した姿をイメージしました。
そうしたら・・・・、今が最高に美しい…、判断されました。
そこで、棟梁に「現状で完成だ!」 結論を伝えました。
お蔭で、シンプルで、すっきりした細身の三重塔が完成しました。
 
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   初層と二層の間をを見る。柱を貫いて胴貫が出ています。この上に縁側を回し、その周囲を勾欄を設えるのが    普通です。窓も扉もありません。これらを指して「未完の塔」と呼ばれています。
 
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        初層の内部。木製の五輪の塔と仏像が置かれています。(上田市文化財HPから転載)
 
千曲川中流域には8基の塔があります。
佐久に4基、塩田平に4基もあります。
先に案内した安楽寺、そして大法寺、信濃国分寺と此処前山寺です。
 
大法寺は俗に「見返りの塔」と呼びます。
余りに美しいので、見反ってします・・・、そんな意味でしょう。
見上げた時は少し装飾過多と感じます。
特に初層は大きく反り返っています。
初層の下に沢山の組み物がある様は・・・、”重い”と感じます。
下から見上げるより、横から見る…、見返りした方が良い…、そう言われてきたのでしょう。
大法寺三重塔(正慶2年1333)の建立です。
 
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   大法寺三重塔(国宝)。お寺の裏山の山道から見る、
   このアングルが最も美しいので「見返りの塔」と呼ばれているのだと思います。
 
信州鎌倉近辺には8基もの塔があります。
一方、本家の鎌倉には塔は1基だけです。(片瀬の龍口寺、明治43年)
廃仏毀釈で八幡宮の大塔が取り壊された…、残念な歴史もあります。
 
千曲川は水清く、数多くの湯治場を抱え、美しい風光の中を滔々と流れます。
布引観音の断崖に立つと、私が未だ見たことないモルダウを思い起こします。
スメタナの交響詩を聞くとき、私は千曲川を瞼に思い起こします。
景色の中心はゴチックの尖塔の立つ教会です。
千曲川ではお寺の塔です。
塔は信濃の景色に欠かせません。
 
 
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野倉の道祖神から峠を下って、別所温泉に行きました。
愛染かつらの北向き観音から、安楽寺に向かいます。
現在は曹洞禅宗のお寺ですが、佇まいは臨済禅宗のそれです。
曹洞と臨済と佇まいがどう違うのか?
それは、門をくぐったとき直ぐに感じます。
武家の屋敷のような印象が臨済禅、農家の民家のような空気が曹洞禅に感じます。
本堂前に大きな高野槇が垂直に伸びています。
どうやったら、こんなに幾何学的に刈り込めるのかしら?
感心します。
庭木の刈り込みを見れば、もう臨済禅のお寺です。
 
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     安楽寺、本堂手前に見事な高野槇の刈り込みがあります。その手前のお堂は16羅漢堂です。
 
目指す八角三重塔は本堂の裏の高台にあります。
翌檜の林の向こうに建っています。
翌檜は檜ほどは大樹になりません。
でも、真っ直ぐに伸びます。
真っ直ぐな樹林の中に、垂直に立つ塔を見るのが好きです。
始めて見た時の感動は、何度来ても変わりません。
 
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      翌檜の樹林の向こうに八角塔が見えます。この感動は昔も今も変わりません。
      以前は塔の横に朴の大木があったのですが、伐採されました。お蔭で垂直線を遮るものが無く       なり、美しさが際立って見えます。昨年修理を終えたのでした。
 
長野県の国宝第一号がこの三重塔でした。(同時指定松本城)
善光寺の本堂を差し置いて、この三重塔が指定されました。
でも、昔は鎌倉時代後半の作であろう…、言われてきました。
それは、禅宗様(唐様)の複雑に入り込んだ「組み物」が、
”こんなに複雑なのは後半だろう”思わせたからでしょう。
でも、平成16年、解体修理に先立って調査をしました。
用材を調べたところ、木材の切り出しは1289年(正応2年)と判明しました。
唐様建築としては最も古い部類に入る事になります。
 
宋から蘭渓道隆(建長寺開基)が来日します。
同じ船に留学していた樵谷惟仙が乗っていたそうです。
樵谷惟仙は故郷に戻って、安楽寺に入ります。
若しかしたら、宋から大工さんを連れて帰ったのではないか?
思います。
だから、複雑で、全体として良く統一された、唐様建築が出来たのではないでしょうか?
 
鎌倉にも、京都にもない、八角三重塔が塩田平に出来た・・・、
日本中が話題であったことでしょう。
中国に行けば塔は多くが八角ですが、それは煉瓦を積んでいるから。
木造で八角の塔を作るのは大変です。
四角形を一つ作って、45度回してもう一つ四角形を作らなければなりません。
塔ではありませんが、日本では法隆寺の夢殿がある程度でした。
 
時代の文化「禅」の最高の建物が塩田平にある・・・、誰もが一度は見てみたい…、思ったことでしょう。
今、私達が東京スカイツリーを見る様なものです。
法隆寺五重塔も、東京タワーも、塔は時代や文化の先駆けとして建てられました。
 
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良く禅画に「まる」が描かれます。
円は始まりも終わりも無い永遠の図形です。
”円”は禅の究極の境地を表し・・・・、最高なのです。
円を木材を素材にした建物で表そうとすると・・・、自ずと八角形になります。
八角形の塔を立てて、お釈迦様の遺骨を祀ろう…、としたのでしょう。
三重塔を設計し、その初層には雨風を防ぐため裳階をつけました。
その結果、四重の塔に見えます。
 
塔を見上げた時、先ず目を奪われるのが、垂木の美しさです。
一般に重垂木、扇垂木と呼ばれる唐様の特長の一つです。
垂木とは屋根を支える細い材です。
その垂木が塔の中心から放射状に出ている様に…、扇状になっているのです。
扇の骨が、一層、二層、三層と重なって見えます。
椎茸の傘を下から見たようです。
 
イメージ 3
  扇垂木が重なって見えるアングル。今回の修理に際して新材を使ったもの(白っぽい)、旧材をそのまま  使ったものが混じっていることが判ります。材を大切に扱う姿勢が素晴らしいと思います。
 
 
今回の修理は屋根のこけらを全面的に葺き替えたようです。
真新しい屋根は白く見えます。
反り返った姿、波打った姿は美しい女性のフレアのスカートのように見えます。
 
フレアスカートを支えるために、扇垂木も二段に作ってあるのでしょう。
各層の屋根の下にはぎっしりと木が組まれていて、屋根の重みを支えています。
庇を思い切って外に張り出させるため、木組は何段にもなっています。
良く見ると初層は2段(二手組と言います)、二層以上は三手組になっています。
木組を受ける四角い部分を斗(ます)と呼びます。
斗は屋根の重みを受ける部材ですから、負荷がかかります。
その上に雨露に濡れますので、傷みやすいのです。
 
白い斗が沢山見えます。
今回の修理に際して差し替えられた新しい斗なのでしょう。
垂木に木組・・・、”建築工芸の美”です。
 
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  二層の木組を見る。三手先の組み物が見えます。尾垂木の根元「斗」には新材が目立ちます。
  また連子窓も新材に差し替えられています。もう一年もすれば見分けがつかないようになるでしょう。
 
木組が複雑だからでしょう。各層に縁や手摺はありません。扉もありません。
窓(連子窓)があるだけです。
八角ですから各層8ッつの窓があります。
連子の隙間は僅かです。
この隙間から暗いお堂の中に光が差し込んでいる事でしょう。
塔の中に入るとどうなるのだろうか?
見て見たいものです。
 
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   初層内部。中央に大日如来。心柱が無く8本の丸柱が支えている構造です。
   裳階の連子から光が差し込んで、荘厳で静謐な空間が構成されているようです。
   (上田市文化財HPから転載)
 
あれも書きたい、これも書きたい…、思いつくままに書き連ねると冗長になってしまいました。
最後に、誰が安楽寺のスポンサーだったのか説明します。
 
塩田北条氏は北条義政に始まります。
北条義政は京都六波羅探題から、8代執権北条時宗の連署(幕府NO2)として名補佐官を務めます。
ところが、蒙古が臣従するように求めてきます。
若く血気盛んな北条時宗はこの要求を撥ね退け、蒙古使節を惨殺してしまいます。
一方、連署の北条義政は臣従することを見せれば良い・・・、意見が異なりました。
 
義政は時宗を見捨てて、この塩田平に引き込んでしまいます。
時宗が形だけでも蒙古に従っていれば…、鎌倉幕府はもうしばらく永続した事でしょう。
必死で戦った御家人たちに何ら褒賞を貰えませんでした。
幕府を支えた「御恩と奉公」の関係が断絶しました。
御家人たちは鎌倉幕府を見捨ててしまいます。
 
北条義政はインテリで剛直な性格だったのでしょう。
そんな人柄が塩田平を「信州鎌倉」と呼ばれる文化ゾーンを残してくれました。
江戸時代高々3万石の小さな地方都市でしたが・・・・、
薫り高い文化、真田幸村に代表される剛直な性格は・・・・、塩田北条氏から続くものでしょう。
 
見事に修理を終えた安楽寺三重塔、何時見ても美しい…、実感します。
 
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            安楽寺経蔵。日本最古の回転式八角経蔵です。本堂の裏紅葉の中に建っています。
 
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追掲「全体が解る写真」
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日本語のフレーズは7.5.3で構成されています。奇数が余韻を残し、美しいと思うからでしょう。
日本の塔も7,5,3で構成されます。同じ美意識からそうしたものでしょう。
4層に見えるのは裳階があるから。
裳階は風水害対策と採光を考えて作られたと思います。
 
 
 
 

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