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古美術ウォーキング

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小布施岩松院を出て、私達は「淨光寺」に向かいました。
淨光寺も岩松院も同じ山の裾にあります。
山の名は「雁田山」、淨光寺の山号も、高井鴻山(小布施の豪商、妖怪画でも有名)の雅号に「雁田山」です。
此処には山城があったそうでその名も「雁田山城」というのだそうです。
 
遠くから眺めると雁が両翼を広げて飛ぶ姿に見えるのでその名がついたのでしょう。
山上は最高の眺めだそうです。
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     雁田山からの眺望、麓が小布施町、信濃川を越えれば長野市、雪を戴いた山脈は北アルプスで、
     その手前が戸隠でしょうか。(写真はひらさんのハイトレッキング)
 
杉林の中に長い石段が続いています。
石段の奥に目指す薬師堂があります。
石段はゴツゴツした自然石が積み上げられて出来ています。
「歩き難そう・・・・!」直感しますが、実際に昇ると歩き易いのに驚きます。
石の上部が平らで、同じ高さなのでしょう。
京都の神護寺の石段を思い起こしました。
 
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   長い石段の先に薬師堂があります。石は固くゴツゴツしています。でも、意外に歩き易いのです。
   秘訣は石の上部が平たく横に揃っているからでしょう。
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                                                     淨光寺山門の仁王像
 
 
東京駅八重洲口から永代通りを東に進むと新大橋通りとの交差点にぶつかります。
この辺りが「茅場町」、更に東が「木場」になります。
江戸の町の「貯木場」であったのが木場で、茅を置いた場所が茅場だったのでしょう。
昔は一般に茅を屋根材にしていましたから、茅の需要が沢山ありました。
 
私の町にも茅場があって、一面ススキの原でした。
私の生家も茅葺で、汗を拭き拭き登ってきた来客は、
”涼しいですね”言いながら茅葺屋根を褒め上げてくれました。
屋根の葺き替えの時には境内一杯に新しい茅が積まれました。
屋根から古くなった茅が下されました。
見れば雨に濡れる先端は腐ってしまっていましたが、大半は瑞々しく・・・・、
まだまだ十分使えたのに・・・、勿体ないような気がしました。
古い茅は畑に敷きました。
茶畑にも、茗荷や芍薬の根元にも敷きました。
茅には植物を育てる効用が数多くあるのだそうです。
日本一の茶畑静岡に行くと点々とススキの原が見えます。
ススキ自体が茶の育成に効果があるし、茅をお茶の木の根元に敷くのだそうです。
縄文の昔から日本民族は茅葺屋根の下で暮らしてきました。
 
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     美しいススキの原、花を尾花と呼び、植物としては薄(ススキ)、屋根材としては茅(萱)と呼びました。
 
 
淨光寺薬師堂の最も美しいのはその屋根でしょう。
奈良や京都の堂塔の屋根は軒先に向かって反り返っているのが普通です。
ところが淨光寺薬師堂の屋根は、軒先が盛り上がってその先がストンと降りています。
一般常識からすれば「逆反り」です。
まるで高速旅客機コンコルドの機首のようです。
豪雪対策であり、同時に山号の雁の翼を模ったのかもしれません。
杉林の中にポツンと薬師堂が黒々と佇んでいる様は私の好きな山頭火の托鉢姿を思わせます。
     後ろ姿の 時雨れて行くか (原文は総て平仮名です)
 
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                 淨光寺薬師堂側面、この姿が山頭火を髣髴させます。
                                      桁行3間、梁間4間で側面の方が広いので正面より側面の方が雄大に見えます。
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     淨光寺薬師堂、桁行3間、梁間4間のそれほど大きくはないお堂ですが、茅葺屋根の存在感が大堂の
     風格を漂わせます。筆者はこの屋根の逆反りの形が雁の飛ぶ姿と推測します。
 
 
淨光寺の案内では昭和21年・22年の大修理に際して発見された墨書により、
応永15年(1408)の建立が明らかになったそうです。
人感センサーでも設置されているのでしょうか?
薬師堂の前に立つと案内がスピーカーから流れます。
 
鎌倉時代に隆盛した唐様建築と伝統の和様建築が見事に交わった、
入母屋造り「新和様」の建築物です。
蛙股が素晴らしい…、アナウンスされると正面の蟇股を見上げます。
側面にあるかな? 見上げるとその位置には蓑束があるだけです。
木鼻(横材の先端装飾)巻き込み渦文です。
外陣天井は化粧屋根裏です。
総じてシンプルな装飾で、和様建築が完成した室井町時代の初期建築の特長を良く表しています。
 
友人H君のお母様はこの先善光寺の北方のご出身です。
自身のルーツの血が騒いでいるのでしょう?
”素晴らしい、素晴らしい”を連発して感動しています。
勿論、私も同感です。
日本人は室町初期が大好きです。
 
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    シンプルな平行垂木、柱の上部には木鼻が置かれています。どれもこれもシンプルで美しいと思います。
 
薬師堂の茅葺の葺き替えは2007年に実施されたそうです。
次回は2040年頃を計画しているのだそうです。
その時にもこのような美しい茅葺を吹き替える技術が存続しているだろうか?
少し心配です。
其処此処のお寺の堂塔は銅板葺きなどに変わってしまっています。
茅葺に比べれば遥かに安価に出来るし、長持ちするからです。
でも、優しい植物で葺いた屋根と、無機物の銅板で葺いた屋根とは感じが全く違います。
茅葺屋根職人を大切にしていってほしいものです。
 
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        前回葺き替え前の淨光寺の本堂。屋根の先端の膨らみがありません。田舎のお堂の感じです。
        葺き替え後の素晴らしさが良く解ります。
 
上気した気持ちのままで石段を下って来ると、参道のお地蔵さんが見送って下さいました。
”またお出でなさいな・・・・”言ってくれているようです。
勿論・・・・・・、出来れば雪をかぶった頃に来ようかな?
思えば・・・・・・・、石段で滑って転んだ私の姿が瞼に浮かびました。
お地蔵さんはマウンテンパーカを着せられて…、若々しく見えました。
 
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     雁田山のハイキングを終えたハイカーが着せたのでしょうか?
     青いマウンテンパーカを着せられたお地蔵さんが見送って下さいました。
 
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岩松院の北斎鳳凰図

10月16日、小布施に入った私達は真っ直ぐ「岩松院」に向かいました。
岩松院の裏山はそのまま志賀高原に続きます。
野猿の露天風呂で有名な地獄谷温泉をはじめ名湯が続いています。
今頃は錦秋鮮やかな事でしょう。
志賀高原の西端、善光寺平に岩場が迫り出しています。
山号の由来はこの自然にあるのでしょう。
 
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                       小布施岩松院、裏山は志賀高原に続きます。名湯が並んでいます。
 
福島正則は豊臣秀吉に仕えた槍の名人でした。
関ヶ原の戦いでは東軍に組し、その功績を評価され広島藩50万石の領主になります。
しかし、広島城を無断で修理した事を理由に「信濃の国高井藩」2万石余りに改易されてしまいます。
 (高井藩は現在の須坂市、小布施町)
更に福島正則が死亡すると(1624年64歳)幕府の死体確認を経ずして火葬してしまった事を責められ、福島家は領地没収され3千石の旗本に下ります。
 
波乱万丈の生涯を終えた福島正則の霊廟が岩松院に祀られています。
私達は岩場に生えた赤松を見ながら、長閑な田舎道を歩きます。
道の一方はリンゴ畑、もう一方は葡萄畑です。
お婆ちゃんが梯子に昇ってリンゴを収穫中でした。
梯子から落ちないか…、ちょっと心配です。
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                岩松院福島正則公の霊廟。周囲にはご家来のお墓が囲んでいました。
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                         霊廟前の六地蔵、一番右は庚申塔でした。良いお顔です。
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   岩松院の本堂裏の庭、この池では春先「蝦蟇合戦」が見られます。
   一茶の句碑「やせ蛙負けるな一茶これにあり」が立っています。
 
 
何といっても岩松院を有名にしたのは本堂の天井に描かれた「八方睨みの鳳凰」が北斎の真筆であることが確認されたからでした。
従来この天井画は高井鴻山筆とされていたが、昭和47年北斎89歳の作であることが確認されました。嘉永元年(1848)になります。翌年90歳で北斎は亡くなります)。
 
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              岩松院、北斎による天井画「八方睨みの鳳凰図」、写真は広角レンズを使っているので漫
              画のようですが、実物は実に素晴らしいものです。小布施町のHPから転載。
 
岩松院は曹洞宗の寺院です。
格式を誇るわけでもなく、田舎に馴染んだ地味なお寺です。
でも、一品豪華なものがあります。
それが本堂の天井に描かれた鳳凰図です。
 
この北斎の大作が無ければ・・・・、訪れる人も無いお寺だったでしょう。
本堂に入ると案内のテープが流れます。
天井は21畳の広さ、朱、鉛丹、石黄、岩緑青、花紺青、べろ藍等の顔料を膠で溶いた絵の具で描かれています。絵の具代が150両、天井の素材は桐材で、貼られた金箔は4400枚です。
一両の価値はお米に換算すれば4万円、大工の工賃で換算すれば40万円だそうです。
お米なら600万円、工賃なら6000万円を要した事になります。
スポンサーは高井鴻山でした。
彼が北斎を江戸から招き、数多くの祭りの山車や岩松院の天井に描かせたのでした。
高井鴻山のお墓もこの岩松院にあります。
 
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                 小布施山車の天井に描かれた龍図も北斎作(北斎館HPから転載)
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        北斎による小布施山車の天井画波図。(北斎館HPから」
        「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」の図と同じ意匠です。渦の中心から龍が出現するのでしょう。
 
北斎館には二つの山車があります。
その何れの天井にも北斎の絵が飾られています。
一つが龍で、もう一つが波です。
波は龍の出現を予兆するものでしょうから・・・・、二つとも龍の図と言えましょう。
 
神様が乗られるのが山車です…、”山車に龍を描いたので、お寺の天井には鳳凰を描こう・・・”
そんな風に考えたのかもしれません。
龍を上回りそうな弩迫力です。
 
描かれてから約200年少しの色褪せも、天井の歪みもありません。
北斎は国際的に高く評価されていますし、私達日本人の誇りでもあります。
でも、不思議な事に重文指定が一件しかありません。(肉筆の練習デッサン)
私達の好きな良寛の書も、北斎の絵も、江戸時代末期の文化は評価が低いようです。
立派な先生の意見ばかりでなく…、国民の感覚も大事にしてもらいたいものです。
勿論、岩松院の天井画も山車の天井画も…、私にとっては国宝の価値があります。
 
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                           山門裏の大黒さま、三面なの珍しい。
 
 
90歳まで生きて、死ぬ間際にこのような天井画を為しえた北斎は改めて偉大です。
私も、90歳までは相当の時間があります。
様々な意味で激励される天井画でありました。
 
岩松院を出て、細い農道を東に回ります。
約1キロ弱で「淨光寺」にたどり着けます。
不思議な事に栗の木はありません。
 
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   庫裏の前では物産を販売していました。無人販売で代金は梅酒瓶に入れます。瓶ごと盗まれる…、
   そんなことは心配ないのでしょう。男性三人は筆者の友人です。これもお寺の「おもてなし」の心でしょう。
 
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   林檎(秋映)を剥いたもの。これを食べながら次のお寺淨光寺に向かいました。
   大和路は柿を、信濃路は林檎をかじりながら歩きます。
 
 
 
 
 
 
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中山道熊谷宿から秩父往還道が分岐します。
荒川に沿って長瀞、秩父を経て秩父三峰神社の麓を経て、大菩薩峠を超えます。
今は「雁坂トンネル」を通りますので、驚くほど簡単に甲斐の国に出られます。
塩山で秩父往還道は甲州街道に合流します。
 
秩父往還道を見下ろす高台に二つの古刹があります。
一つが夢窓 疎石が開いた「恵林寺」です。
もう一つが恵林寺のお隣にある「放光寺」です。
恵林寺は大型バスが入っていつも参詣客で賑わっていますが、
放光寺は閑静で、自然豊かなお寺です。
甲斐源氏「神羅三郎義光」に遡る、由緒のあるお寺です。
日本最古の天弓愛染明王をはじめ、古仏が祀られています。
  仏像は以下に書きました(http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46711088.html)
 
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         放光寺総門、真言宗のお寺さんです。(曼荼羅扁額が架かっています)
         山門への道は萩が埋めています。
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      9間もある美しい放光寺の本堂。左側に桂の木(黄葉している)があって、
      その奥に見えるお堂が愛染堂です。
 
ガイドブックに「放光寺は花木の美しいお寺です」と紹介されていました。
総門から本堂まで一直線の参道です。
右側の土手はずっと萩が茂っています。
生憎萩の花はもうおしまいのようです。
「また、来年おこしなさい」言われているような気がします。
参道の左側は桜です。
 
山門を潜ると金木犀の芳香に包まれます。
何処に金木犀が咲いているのか、辺りを見回しますが中々見つかりません。
実は金木犀は頭上で咲いているのです。
一般に金木犀は精々4m位の樹高にしかならない…、思っていたのは間違いで、10m近い高さです。
その大木に一斉に金の花が咲いています。
桂花酒にすれば、どの位取れるか…、気が遠くなるほどのお酒に香りを注げそうです。
   (中国では金木犀の事を桂と呼びます)
 
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                               山門を潜ると巨大な金木犀の脇に出ます。
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               金木犀は愛染堂の脇にもあって、お堂を見下ろして、本堂の甍の高さです。
 
拝観をお願いしに庫裏に向かいます。
庫裏の入口には花梨の木があって、地面にゴロゴロ花梨の実が転がっています。
花梨の実も良い香りがします。
これも、お酒に香りを移して楽しめます。
秋の放光寺は芳香に包まれます。
 
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庫裏の脇に溝があります。
本堂の裏から流れる水を庭を通して、笛吹川に注がせる・・・、そんな溝のようです。
溝は1mにも満たず、跨げる幅です。
でも、溝の両岸はまるで大河の盆景のように工夫されています。
秋の山野草が植栽されていて…、見ているだけで楽しくなります。
参詣客に「良くお越しになられました・・・」言っているようです。
 
そんな山野草の中に「大文字草」がありました。
赤い大文字草、白い大文字草、仲よく植えられています。
清流と砂質の土壌が大文字草には最適なのでしょう。
株は大きく育って、楚々とした山野草のイメージを超えています。
大株に成長しています。
 
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良く見ると葉っぱは虫に食われています。
何ていう蝶の幼虫なのか私には解りませんが、好んで食べる青虫がいるようです。
お寺は青虫を取り除く…、そんな殺生はしないのでしょう。
大文字草の花は咲き放題、虫は食い放題です。
序に言えば”自然は仕放題”の放光寺です。
 
鎌倉でも東慶寺の境内には大文字草が咲きます。
5月に入ったころ、雪ノ下の咲くころです。(大文字草は雪ノ下の仲間です)
でも、秋には咲かなかったような気がします。
出てこられた美しい大黒さん(お寺の奥様)に尋ねました。
「大文字草は秋にも咲くんですね?」
大黒さんは笑顔で教えてくださいます。
「此処では梅雨入りの頃と、今頃二度咲くんですよ・・・」
 
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              庫裏の梁組、神棚と手前に金魚の弥次郎兵衛が蔓下がっていました。
 
 
放光寺は仏像群も素晴らしいのですが、何より山野草や花木が魅力の…、いいお寺さんです。
秩父往還道らしい、美しいお寺です。
来年の春、桜の季節には再訪することにしましょう。
近くの慈雲寺にも詣でましょう。
 
 
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塩山市の名の起こり「塩の山」を越えると雁坂道(国道141号線)に出ます。
大菩薩峠のトンネルを超えれば秩父に出られます。
峡谷の底には笛吹川が流れています。
峡谷を見下ろす高台の上に「高橋山放広寺」があります。
 
放広寺の開基は甲斐源氏「神羅三郎義光」の孫「安田義定」です。
安田義定は以仁王の令旨に応じて挙兵します。
義定は富士川の戦いで先鋒を務め、源氏軍を大勝に導きます。
更に京の都に木曾義仲を追討し、平家を追って一の谷の戦いでは、
平氏の大将、平経正・帥盛・教経等を討ち取ります。(治承8年1184年/吾妻鏡)
同年、義定が修験者の霊場であった大菩薩峠の山麓「一之瀬高橋」に当寺を建立したのでした。
義定は再び平家追討軍に合流し、文次1年(1185)壇ノ浦に平家を滅ぼします。
 
戦功大であった義定でしたが、梶原景時の讒言により源頼朝の嫌疑を受けます。(永福寺事件)
景時の攻められ、建久4年(1193)自刃して果てます(享年61歳)。
梶原景時一門は義定の亡霊の鎮魂を祈願して、多聞天像を納めます。
                     (案内によっては毘沙門天となっています)
放広寺の説明では多聞天像のお顔は安田義定を模した・・・、そうです。
 
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      放光寺多聞天像、開基安田義定の慰霊のため、同武将の姿を模して造像されたと伝えられています。
     (放光寺の写真パネルを転写)
 
放光寺の本堂前庭に入ると、ドンツク・ドンツク太鼓の音が響いていました。
私は山門前の案内によって当寺が真言宗智山派であると確認していたのでしたが・・・、
日蓮宗の寺院だったかな…、錯覚したほどです。
太鼓の音は本堂西側の小さなお堂から響いていました。
ここが愛染堂で・・・・、女性が一人祈願を受けていたのでした。
良縁を求めてか・・・、悪縁との決別を求めてか・・・・?
解りませんが…、相当の事情があるのでしょう。
御祈祷の邪魔にならないように・・・・、忍び足でお堂の縁をまわりました。
色々失う事の多かった私の人生でしたが・・・・、愛染明王には恵まれたようです。
 
此処放光寺は日本最古と言われる愛染明王が祀られているのです。
愛染堂のご本尊でしたが、重要文化財指定となり他の大日如来像、不動明王像と共に
耐火建築の宝蔵庫に移されています。
ですから、宝蔵庫の中で、御祈祷を聞きながら拝観します。
お堂の屋根高く金木犀の大樹が今盛んに咲いています。
芳香に咽ぶような思いです。
 
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      奥が愛染堂、廊下を隔てて左に宝蔵庫があって愛染明王が収まっています。
      甍の遥か上まで金木犀の梢が茂っています。
 
放光寺愛染明王像は檜の寄木造りです。
頭には炎髪に獅子の冠を被っています。
三眼で開いた眼の真ん中に矢を繋いでいます。
矢先は真っ直ぐ天に向けられています。
天弓愛染明王と呼ばれる、特異なお姿です。
 
愛染明王の次の動作は、弓矢を真上から標的に向けるのでしょう。
標的は仏前の人に向けられ之か?
敵対する人に向けられるのか?
又は恋焦がれている佳人か?
観るものに応じて、何れにも動作するのでしょう。
 
天弓愛染明王はこの放広寺を筆頭に高野山金剛峰寺、京都神童寺の三体が数えられます。
 愛染明王は放光寺愛染明王像に始まり、鎌倉時代には盛んに造像されました。
 
放光寺像は総じて高貴な感じがします。
彫は浅く、菱形をした目も、憤怒の表情も鎌倉時代のそれに比べれば大人しく感じます。
お体の肉づけも穏やかで、獅子冠も小さく全体として流麗で静謐な感じがします。
12世紀後半京都で盛行していた円派の造像によるものでしょう。
想像するに、安田義定が木曾義仲追捕のため京に登った折に求めて、
はるばる甲斐の国に運んだのではないでしょうか?
又は円派仏師が甲斐まで招来したのかも知れません。
10キロほど離れた大善寺にも平安時代の仏像が多いのですから・・・・、
甲斐の国に逗留して造仏に励んだのかも知れません。
    (平安時代末期は奈良興福寺の慶派、京都の円派仏師が競っていました。鎌倉の愛染明王像は     慶派の流れを汲んでいます)
 
 
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                     放光寺天弓愛染明王像(ポスターを転写)矢を天に向けた構えています。天に           向けて射る訳では無く、標的に矢を構える前の動作でしょう。
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                   放光寺天弓愛染明王像(全体)同寺HPから
 
 
平安時代になると、従来の静止した穏やかな仏像に代わって、
荒々しい動的な明王像が多く造像され始めます。
その一つが悪魔を降伏させるために大日如来に使わされた不動明王でした。
もう一つが愛染明王です。
 
仏教は伝来以来、愛欲や金銭欲・権力欲等の欲望を抑える術を教えてきました。
しかし、古代から中世への変換機になるといくら祈っても社会も人心も治まりません。
人は、容易に欲望から脱することは出来ません。
”ならば欲望を否定するのではなく、素直にこれを認める事から始めよう”と考えました。
”煩悩と愛欲は人間の本能として認め、むしろこの本能そのものを向上心に変換しよう”考えます。
人間の本能を認める事からスタートする考え方は武士階級の支持を受けます。
ですから、鎌倉には数多くの愛染明王像が祀られました。
覚園寺、宝戒寺、八幡宮(神宮寺・現五島美術館)等には優れた愛染明王が祀られています。
 
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                      五島美術館(元鶴岡八幡宮所蔵)愛染明王像。鎌倉時代。鎌倉御                      仏巡礼から転写
 
放光寺愛染明王像の彩色は殆ど剥落してしまっています。
放光寺はお隣の恵林寺ともども織田軍に攻められ、武田氏滅亡の際に焼け落ちてしまいます。
再建は江戸時代初めまで時間を要します。
幾たびもの戦火を耐えて、星霜を経て・・・、焼けた檜の地肌が出たのでしょう。
一見鉄仏かと見間違うような錆びた地色が出てしまっています。
 
 
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   放光寺には数多くの朽ちた仏像が残されていて、歴史の変遷の無常を教えてくれます。
 
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                            放光寺阿形金剛力士像(鎌倉時代)264㎝の巨像です。
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                                同上 吽形金剛力士像
人間の欲望の処し方を教えて広く信じられた愛染明王ですが、
人間の欲望に翻弄され傷んだ姿を見るにつけ、複雑な気持ちになります。
矢が真っ直ぐ真理に向けて放たれれば・・・・、
安田定信に向けて愛染明王はこう諭したことでしょう。
”真理と確信したことに向けて突っ走れ…”
その結果、姦策を弄した梶原景時に討たれてしまいました。
しかし、甲斐源氏の誇りの高さは続きました。
 
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魚もキノコも美味しい季節になってきました。
私は胃の術後3か月を経て、食欲も出てきました。
秋刀魚なら三分の二程度、食べられます。
でも、お酒は禁じられています。
私は、本来呑兵衛ではないのですが、矢張り一口飲みたいものです。
 
お米の美味しい地方を見分けるには、”美味しい酒蔵”を探せば良いのです。
お酒には美味しい水と、美味しいお米が必須です。
美味しい水と美味しいお米は・・・・、ブナやコナラの照葉樹林があるような地方に出来ます。
魚沼コシヒカリは、上越国境の山々が照葉樹林であることから…、美味しいのですし、
銘酒「八海山」はじめ幾つもの酒蔵があります。
秋田も庄内も宮城も、米どころは酒どころ・・・・、照葉樹林帯です。
 
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              長狭街道、向こうの小山の山頂が大山不動尊です。本堂の甍が樹間に見えます。
 
千葉県は概して照葉樹の茂る山がありません。
だから・・・・、銘酒も、美味しいお米も無いように想像しますが・・・・、
そんなことはありません。
「長狭米」があります。
長狭街道は鋸南町保田から房総半島を鴨川市横渚まで横断する古道です。
全長26k余りですが、道の両側に棚田が見られ、古寺や石仏が点在する…、素晴らしい街道です。
其処に亀田酒造があり「吟醸酒・寿萬亀」があります。
 
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         大山千枚田、オーナー制度によって都会人が耕作する機会が与えられています。
         写真は9月26日でしたので彼岸花が少ししか咲いていませんが、今は盛りだと思います。
 
長狭街道の峠近くに「大山寺」があります。
関東三不動の一つに数えられます。
他の二つは成田山新勝寺、相模の大山不動尊です。
江戸の深川不動尊や高幡不動、目黒不動などの江戸五不動を凌いで、三不動に数えられています。
 
不動尊の周囲は大山千枚田と呼ばれる棚田です。
大山の棚田は「棚田百選」に数えられ、東京の最も近い棚田です。
今はオーナー制度が浸透し、都市の住人が汗水して美味しい長狭米を楽しみながら作っています。
 
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                     大山不動尊の本堂(1802年再建)、初代伊八の彫刻群が見物です。
 
大山不動は奈良時代良弁僧正が開山したと伝えられます。
現在の本堂は棟札からは江戸時代中期(1802年)に建てられた事が判明したそうです。
堂内諸像も流石に奈良時代まで遡るものは無いようです。
朽ち果てたか、落雷などで焼失したものが江戸時代再建されたのでしょう。
房総の大工や彫刻師が総力を上げて古寺復活にいそしんだことでしょう。
 
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                                    不動堂内陣・外陣の境上に飾られた絵馬
 
今、江戸東京博物館で「二条城展」が開催されています。
二条城の唐門や欄間彫刻が私達の目を奪います。
江戸時代初期、豪華絢爛な欄間彫刻が、傷んだ古寺の再建に際して飾られました。
仏像や須弥壇の彫刻が、欄間彫刻に活かされたのでした。
その伝統は京都から富山県南砥市の井波などに残っています。
 
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               不動堂正面の伊八の龍の図。大海原の中からドカーンと出現したようです。
 
江戸時代中期、欄間彫刻師が言ったそうです。
「関東に行ったら波は彫るな!」
江戸には「波の伊八」と呼ばれる匠が居る・・・、下手な波を彫ったら馬鹿にされるぞ・・・!
畏怖されたのでしょう。
 
初代「波の伊八」こと伊武志伊八郎信由は、
長狭街道の下打墨村(鴨川近くの幕府領)の名主「武志家」五代目として生まれました。
10歳の時に彫刻をはじめ、房総の神社寺院の建立に際し、欄間彫刻を納めるようになります。
また、多くの弟子をとり一門を形成します。
 
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                       お堂の欄間は波が飾っています。白い塗料が少し興を削いでいます。
                       伊八の波は北斎の「神奈川沖浪裏」に影響したと言われています。
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              木鼻には獅子と獏(?それとも象?)が据えられています。左奥に波が見えます。
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                                                 再び正面の龍図
 
享和2年(1802)年、大山不動尊が上棟します。(伊八51歳)
享和3年(1803)伊八は大山不動尊の不動堂に彫刻群を納めます。
千葉県はこの頃伊能忠敬、波の伊八二人の偉人を輩出したことになりました。
 
不動堂の周囲は波が覆っています。
大山からは遠目に鴨川の海が見渡せます。
でも、彫刻は白い塗料が塗られています。
腐らないように塗料を塗ったのでしょうが…、いかにも興ざめです。
 
一方、正面は塗料は塗られていません。
龍の眼が藍色に光っています。開いた口からは紅い口内が見えます。
此方は中々の迫力です。
 
不動堂全体が波で飾られていますから・・・、大海原の向こうから大波が打寄せて来て、
海中から巨大な龍が出現した・・・・、そんな図柄です。
伊八は働き盛り、男盛りであったこと、そして故郷長狭の不動堂を飾る彫刻群です。
心血を注いで龍の図柄を完成させた事でしょう。
 
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                                              不動堂の狛犬
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私が次に感心したのは狛犬です。
神仏混淆した時代ですから、
仏式の本堂の前に神式の狛犬が鎮座していて不思議なことはありません。
狛犬が龍に負けずに迫力十分なのです。
頭上の伊八の龍に劣らずに…、立派な狛犬を納めたい…、石工の作品なのでしょう。
房総の石工の腕前は、長狭街道の西端「鋸南町の日本寺の羅漢群像でも示されています。
確かな技量を有した石工が居たことになります。
 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46474116.html に日本寺の石仏を書きました。
 
 
 
長狭街道は棚田も美しいし、寺院も、伊八の彫刻も、石仏も・・・あって、
山海の美味に恵まれて・・・・・・・・、実に良いところです。
 
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