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私は来る10月13日(土)日本文化研究会セミナーで「木喰仏の宗教社会学的考察」と題して発表する予定です。(慶応三田校舎)
私の主関心は仏像や石仏ですからその一環での研究です。
江戸時代後半木喰が農村を回って彫った仏像を素材にして、農民の宗教観や社会観、思想を社会学的な手法で考察を試みたものです。
でも、木喰にはもう一つ良い研究素材があります。
 
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           筆者が最も好きな木喰作「薬師如来像」(越後柏崎)神戸新聞社目録から転写
 
それは570首残された和歌です。
和歌というより「ご詠歌」といった方が適切かもしれません。
ご詠歌とは平安時代中期(花山天皇の御世)西国巡礼が盛んになります。
仏教の教えや仏やお寺への感謝の気持ちを5・7・5・7・7和歌の形式で、旋律に載せて唱えたものでした。
更に5・7、7・5調にして長くすれば和讃と呼ばれる日本語のお経になりました。
 
木喰行道上人が和歌を始めたのは天明2年(1782年64歳)佐渡でした。(集堂帳)
晩年にかけて作品が多くなります。表現は口語調で読み易く、覚えやすく、教えやすい和歌です。
木喰自身が言い回しを楽しんでいる風があります。
多分旅から旅に歩いているときに口ずさみながら、作ったものでしょう。
口に出しては直して、また口に出して歌ってみる。
何度も作り直してゆくうちにリズムが出てきます。
同音の繰り返しも多くなりました。
結果、口語性が強くなりました。
 
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                   木喰作「青表紙」歌集 寛政8年(1796) 木喰は何度も何度も口ずさん                    で「良し」とした和歌を纏めて筆録したものと思われます。
                   ま行に「丸くまん丸」の和歌があります。
 
口語であることは農民にとっては聞きやすく覚えやすいという事でした。
文字を知らない農民に教えを説くには先ず仏像を彫って見せました。
そして話して聞かせました。
農民に教えを理解させ覚えさせるには…、
覚えやすい口語調の和歌が最適だったのでしょう。
口語調和歌は農民から農民に伝わって行きました。
 
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                      筆者の版画作成のワンステップ。「丸くまん丸」
 
木喰が仏像を彫っています。
鑿先に全神経を集中して、一心不乱に、驚くほどの速さで彫りあげて行きます。
丸太から見る見る仏が浮き上がってきました。
木喰は何やら吟じながら、今度は仏像のお顔を彫り出しました。
    丸々と 丸め丸めよ 我が心
           丸くまん丸 丸くまん丸
 
仏像のお顔から丸い頬が、丸いおでこが、そして顎も丸く浮き出てきました。
丸いお顔には微笑が湛えられていました。
懐かしいような、ありがたいような微笑する仏が現れました。
今風に言えば「アンパンマン」のお顔でした。
 
仏教の言葉に「六根清浄」があります。
修験者がお山に登るときに「六根清浄・六根清浄」と唱えます。
六根とは五根(眼・耳・鼻・舌・身/五感)と意根(心根)で構成される、と考えられました。
”身も心も清浄にしよう”そう唱えて山に登って修行に励んだわけでした。
でも、若しも農民が教えに従って六根清浄を実践したら・・・・、大変なことになります。
先ず農産物は不作になるでしょう。
農民は栄養失調になり、子供も産まれなくなります。
農民は他の生物の命を奪って農作物を育て家畜を育てなくてはなりません。
 
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       木喰仏の開眼供養は仏像の背に「誰が、何時、何の為に、何を彫ったか」墨書しました。
 
心身ともに清浄になる事は理想ですが…、綺麗ごとでは命を繋ぐ事は出来なくなります。
其処を教えるために、木喰は「六根清浄」に代わって「丸くまん丸」と教えたのでしょう。
農業を営むにはネズミやイノシシを退治しなければなりません。
田の稲に水遣りするには、時に隣を騙さなくてはなりません。
で、「南無阿弥陀仏」唱えて、一寸懺悔して・・・・、行き着くところ「丸くおさめて」貰います。
今日もお隣と喧嘩もしたし、嫁姑の確執もあった。
”仏の戒”は解るものの凡人には守れません。
反省して、心の中で謝罪して、・・・・・行き着くところ「丸くまん丸に」おさめて貰いましょう。
 
木喰の和歌は農民に解りやすく、覚えやすく、教えやすいものだったのでした。
 
農民は木喰に仏を彫ってもらいました。説法も聞きました。
今日は仏像の開眼供養の日です。農民はご馳走を用意しました。
お酒も温めました。
木喰は満面に笑みを浮かべて上座に座りました。
そして農民の厚意を受けました。
「丸くまん丸」の教えが実践されます。
不飲酒戒は破られます。
       いきなりに ころりまるまる その良さは
                  寒さ忘るる 茶碗酒かな
 
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                               筆者作成「丸くまん丸」の墨刷
 
 
一般に木喰はその名(木喰)の通り木喰戒を守って、
穀物(五穀十穀)を一年中絶っていたのではありませんでした。
体が欲すれば、農民が布施して呉れれば、
喜んでお米を食べて、お米から作ったお酒を飲んで、山鳥を食べもしたことでしょう。
 
開眼供養の宴席で、農民が木喰をねぎらいました。
「上人様、お疲れ様でした。お蔭で、私達にも仏様が出来ました。お疲れを取る為に一杯どうぞ・・・!」
茶碗酒を差し出したのでしょう。
お酒は百薬の長があると言われます。
飲み過ぎれば「不飲酒戒」を破ることになります。
適量飲めば、まして農民の厚意を受けるのであれば・・・・・、甘露水でありましょう。
そこで、上記の和歌の通りに「丸く」収まった訳でした。
 
漱石は看破しました。
「山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
筆者は意地っ張りな性格で随分損をしましたが、
最近は少し丸くなってきた・・・、そんな積りですが・・・、果たしてどんなものやら?
せめて木喰の「丸くまん丸」の和歌を口ずさんでみましょう。
 
 
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                                       筆者作成「丸くまん丸」の完成
 
 
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木喰(幼名不明)は享保3年(1718)甲斐の国丸畑の庄屋「伊藤六兵衛」の二男として生まれました。
丘陵がまるで馬の背のように連なった痩せた土地でした。
住人は林業の傍ら、丘陵を開墾し畑にして雑穀を栽培していたのでしょう。
少しでも油断すれば、丸い畑から転げ落ちて谷底に落ちてしまいました。
庄屋の倅でも次男です。
木喰少年には一家を構えるような将来性は無かった事でしょう。
   
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   昭和40年ころの丸畑。一番右端が木喰の生家伊藤家。痩せ地の畑は今は竹や雑木が生えています。
   (五来重氏著、微笑仏から転載)
 
 
享保16年(1730年)木喰少年は薬売りに連れられて故郷を出奔します。
江戸日本橋の薬問屋に奉公します。
牛のように鈍重な少年が大都会江戸に馴染めなかったことでしょう。
加えて商売は不得手だったことでしょう。
大福帳の記帳やこまめに日記を書く習慣をつけて、転職します。
江戸には馴染めず、と言って故郷には帰れず、悶々として転職を繰り返します。
 
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   大山の麓の先導師の宿。様々に変遷しながらも50軒前後あります。
   注連縄が張られているのは神道系の先導師が営んでいるからでしょうか?
 
元文4年(1739)22歳の木喰は当時流行だった相模の国「大山石尊参り」をします。
大山山麓の宿坊に一泊して、翌朝の山頂登りに備えます。
宿坊には様々な人が投宿しています。
宿坊の主は妻帯した修験者で、一般に「先導師」と呼ばれています。
関東一円から信者を大山に先導する山伏の意味でしょう。
彼等を大山に招き、大山を案内し、お札を配りました。
大山は不動堂から上は女人結界で清僧(妻帯しない僧侶)が住んで、本尊の燈明を守っていました。
一方、妻帯僧は山上から下され麓で宿坊を営み、護摩札を配札して生活を守っていました。
そんな宿坊が50もあったと記録されていました。
その晩、木喰青年は古義真言宗の高野聖の誘いを受けます。
そして、得度してしまいます。(得度:剃髪し仏門に入る事)
木喰は得度した理由や精神的変化を「因縁によりて・・・(四国堂心願鏡)」とだけ記しています。
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                先導師旅館。石碑に東京神酒講の宿であったことが記されています。
                こうした講人宿だったのでした。
 
木喰は大山で出家しただけではありませんでした。
大山不動尊のお札を関東一円に配って、先導師の役割をしながら生活していました。
しかし、お札配りの生活に何処か満たされないものがあったのでしょう。
宝暦12年(1762)48歳の木喰は常陸の国で「木喰観海」に木喰戒を受け「木喰行道」と改名します。
そして、全国を回遊する事を誓います。
全国回遊の出発地を大山(麓の伊勢原)とします。
 
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   栃木の栃窪薬師堂の12神将像、銘に「相州伊勢原の木喰行道」が彫ったと書かれていました。
 
木喰の日本廻国は一遍上人のそれと似ていますが、基本的に異なる部分もあります。
金剛杖と鉦を持ち、背に笈を担ぎ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えます。
でも、五穀を絶った山伏の姿でした。
 
木喰は蝦夷の江差に渡り、突然に仏像(子安地蔵・観音)を彫ります。
次いで佐渡や下野栃窪で薬師仏群を造像します。
12神将の背に「相州伊勢原町 日本廻国行者行道」と署名しています。
木喰の出家してからのホームグランドは大山であり、その宿坊の一夜であったのでした。
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                    初期木喰の大黒天像。 磨崖仏の彫方を思わせます
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   国東の「熊野磨崖仏」不動明王像。平安末期に修験者が彫ったものでしょう。
   木喰仏像を見ると修験者の技を思い起こします。
 
改めて、木喰の仏像を見ると「六郷満山」国東の石仏群を思い出します。
それは修験者が大岩によじ登り、鑿で刳り貫きながら石仏を穿り出す技法です。
謂わば「山の聖」の伝統であります。(逆の概念が「俗の聖」と呼ばれる妻帯僧です)
怖い威嚇的な磨崖仏の表情が印象的です。
 
木喰の微笑仏が出現するまでには、まだまだ多くの精神的な遍歴、充実が必要になります。
 
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          此方は立派な先導師宿、今は一般的な旅館で昼は豆腐懐石等を案内しています。
 
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   木喰の仏像に独特の微笑が現れるには、まだまだ時間と修行を要したのでした。
   写真は越後柏崎の薬師堂の薬師如来。(朝日新聞目録から転載)
 
 
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廻国聖「木喰行動」が鑿を取って仏像を彫り出したのは、61歳の時でした。(安永7年/1778)
蝦夷松前の太田権現山に登り、その洞窟で膨大な円空上人の仏像群を見て、感化を受けました。
でも、円空とは全く似ていない鈍重で怖い「子安像」ばかりが残りました。
子安像ばかりを彫ったのは、当時蝦夷では疱瘡が流行していて、子供達が次々に死んでいったからでしょう。
過酷な大自然、軽い子供の命・・・・、その極端すぎる対比の中で「自分は如何すべきか?」悩んだと思います。
悩みがそのまま仏像になりました。
木喰行道には悩みは脇に置いて、荘厳で美しい仏像を刻む・・・、そんな器用な事は出来ませんでした。
だから、蝦夷でも、そのあと訪れる佐渡でも・・・・、「暗い仏像」を彫り続けました。
 
「暗い仏像」は庶民の人気もなく・・・、拝みたいと思う人も少なかった事でしょう。
「暗い」のは仏像ですが、木喰行道自身の心が沈んで居たからです。
人気のない木喰は弟子の白道と共に旅を続けました。
同じ遊行僧でも、人気のある僧とは違いました。
 (この段は下記に書きました。 http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46503740.html)
 
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                                        初期の木食像(下野栃窪12神将像)
 
 
天明8年(1788、71歳)木喰行道は四国88霊場を巡り海を渡って、日向国分寺に入ります。
国分寺の住職になります。
ところが、在職時に火災に遭遇し、国分寺の再建に奔走します。
九州中を勧進し浄財を集め、自らも大工仕事をしたことでしょう。
寛政5年(1793、76歳)国分寺は竣工します。
木喰行道は自信を深めます。
そして初めて自分で自分の名を改めます。
「天一自在法門 木食五行菩薩」がその名です。
”私は既存の宗門に拘束されません。五行戒を守って菩薩道を追及します”
そう宣言したのでした。
  
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      九州からの帰途愛媛県光明寺で刻んだ子安観音像。この頃中国地方を中心にに9体もの立木仏を残      しています。何れも、霊的な仏像で独特の微笑する手前の仏像のような気がします。
 
木食五行は国分寺を辞し、中国から四国霊場を再度めぐって甲斐の丸畑に帰郷します。
既に日本中を廻国する…、最初の本願は達成されていました。
14歳の時故郷を捨てて江戸に登ってから、二度目の帰郷でした。
 
木食五行にとっては驚きの事態が出現します。
丸畑とその近在の村人が揃って訪れ
「村に四国88霊場を作ってほしい・・・、」依頼されたのでした。
故郷の人々は木食五行が「国分寺の住職として実績がある。その仏像も霊験がありそうだ」
評価して、そんな依頼をしたのでしょう。
故郷を捨てた木食五行にとって嬉しい依頼でありました。
越後行きの計画を遅らせて「四国堂」を竣工させます。(寛政13年/1801、84歳)
四国堂には88体仏、そして自刻像など91体もの仏像を納めました。
 
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   柳宗悦が発見して木食ブームの発端になった木食自刻像。四国堂に祀られた自刻像と思われる。
      笑顔は故郷を離れて60年、故郷に迎え入れられた歓びが微笑を生んだと想像します。顔の数倍大き      な徳利を抱えている所など、天一自在な境地でありましょう。(木喰展のアルバム/朝日新聞社から転       載)
 
 
この時の自刻像が柳宗悦氏が発見し、日本民芸館に収められています。
見事な、心の底から笑いがこみあげてくる・・・・、そんな印象の自刻像でありました。
台座には徳利も置かれています。
 
四国堂の計画は貧困な丸畑では少し過大なものだったのでしょう。
竣工時の協力者は少なく、木食五行の負担は大きくなったようです。
でも、故郷に四国霊場を作った…、満足感は大きかったと思います。
その時の木食五行の笑みが木食仏の笑みに現れたと考えます。
”自分は故郷を捨てて70年随分遠回りしたが…、今は故郷に恩返しが出来た。これで良かったのだ”
両親は既に亡くなっていましたが、地下で私の菩薩行を喜んでいてくれるだろう…、確信していたことでしょう。
そんな喜びが素直に仏像の表情に「微笑」で現れました。
 
 
  
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                      小栗山観音堂の33体仏。微笑む仏像が並んでいます。
 
享和3年(1803,86歳)木食五行は越後小千谷に居ました。
”小栗山観音堂の本尊(行基菩薩作)が無くなってしまった。
自分達の守り神を作って欲しい…、”  依頼でありました。
木食五行を「行基菩薩の再来だ」信じてくれる人々がいる・・・、
嬉しさがこみあげてきました。
 
銀杏の大木を切り倒して、小栗山に運びました。
そして、33観音を刻みます。
どれも、微笑仏でありました。
  (小栗山観音堂は http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42223936.html に書きました。)
 
小栗山に「微笑する仏を刻む菩薩が来ている」 噂が越後中に流れます。
長岡の宝生寺も33観音像を彫って欲しい…、依頼してきました。
宝生寺の境内に大きな銀杏がありました。
これを切り倒し33観音と自刻像を刻みます。
越後では群像の中に自刻像を残しました。
自刻像の笑みは仏像の笑みと変わりません。
自分自身の心の底から湧きあがる笑みが…、そのままに仏像のお顔に出たのでした。
   (長岡宝生寺はhttp://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/42278054.htmlに書きました)
 
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宝生寺33観音像に添えられた木食自刻像。
照り輝いているのはおびんつる様代わりに扱われたから。
 
 
古代には「止利仏師」がいます。
法隆寺の諸仏を造像しました。
アルカイックスマイル(古拙な微笑)を湛えています。
止利仏師は如何にして「霊的な仏像」を造像するか…、腐心しました。
人間ではない、霊的な仏像、神々しい仏像を表現すると・・・、古拙な微笑、杏仁形の眼等を形にしました。
拝む人は古拙な微笑に薄気味悪さを感じます。
でも、古代の人は仏は人間を超えた存在で神に等しい…、思っていましたから、ひたすら拝みました。
 
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          法隆寺釈迦三尊像。古代にアルカイックスマイルがあり、以降仏像に笑顔はありませんでした。          近世になって突然に木食の微笑が出現します。でも、同じ微笑でも大違いであります。木食仏           の微笑は、「人間の延長上に仏がある」との自覚から発しています。
 
中世に運慶が居ます。
運慶の仏像も人間を超えた存在でした。
何時も「神々しい仏像」を刻んで、拝観する人を感動させたい…、思っていましたから、
ひたすらに「超人間的な仏像」を形にしようとしました。
18歳の時に刻んだといわれる円成寺大日如来像と、
晩年に刻んだ興福寺の弥勒菩薩と、大差はありませんでした。
 
ところが木食行道の場合は違います。
初期の仏像と晩期の仏像では大違い、同じ人の作とは思えないほど違っています。
原因は、仏師の精神が変わって、成長したからです。
 
近世になると「人間が修行を積んで行く末は仏になる」考えるようになります。
ですから・・・・、自分自身の理想の姿が仏像でありました。
仏像はその時々の自分自身の姿であり表情でありました。
木食の若い時には暗く鈍重なのは・・・・、当時の木食の心が重かったからでしょう。
それから、廻国の目標を達成し、経験・修行の積み重ね、そして精神遍歴の行く末に・・・
ようやく、「微笑する境地に到達できた」のでした。
こうした意味では木食行道は既に近代の芸術家に似た精神構造を持っていました。
 
現代の絵かきでも、彫刻家でも13体もの自刻像(自画像)を残している人物は少ないと思います。
19世紀初めには日本には、
「自分自身を見詰める」「自分自身を追及する」近代的な精神構造が鍛えられていたのでした。
筆者は木喰の廻国の旅程を追い、その仏像の変遷を確認すると、
微笑には大きな意味が隠されていた・・、確認します。
 
実は木喰の和歌には現実への批判精神、現世への皮肉が込められています。
和歌にも近代的な精神を確認する事が出来るのです。
 
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          京都蔭涼字の自刻像(前記朝日新聞社のアルバムから転載)
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           新潟柏崎の薬師仏。筆者は数ある微笑する仏の中で最も美しいと思います。
           写真では如意輪菩薩のように見えますが、地域では薬師如来として「イボ取り」「虫歯」の薬師           様として信じられています。
 
 
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私の学生時代、行事が終わると必ず肩を組んで合唱しました。
「若者たち」と題するフォークソングでした。
君の行く道は 果てしなく遠い
   だのになぜ 歯をくいしばり
   君は行くのか そんなにしてまで
 
   君の行く道は 希望へと続く
   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める
 
   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める
 
その頃の仲間が時々議論する話題があります。
「木喰は円空をどの程度意識したか!」と云うテーマです。
円空、木喰は江戸時代の遊行僧で作仏をしながら全国を廻行しました。
遊行先で求めに応じて鉈を振るって木を伐りだし、鑿をふるって仏像を刻みました。
生き様も支えた人(主として農民)も同じです。
でも、作られた仏像は随分違っています。
 
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                                円空の代表的な自刻像(関市円空館)
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                         木喰の代表的自刻像(日本民俗館)
 
165423歳の円空は故郷を出奔し伊吹山太平寺(修験道)に入山します。
そして、166535歳の時初めて廻国の旅に出ます。
行き先は北前船に乗って蝦夷の松前でした。
西海岸帆越岬の断崖に「太田権現の洞窟」があります。
此処で一心不乱に鉈を振るいます。
1676年菅江真澄は紀行記に,
「円空と云う法師が彫った鉈つくりの仏が沢山立っていた」と記しています。
 
177861歳の木喰は二度目の旅に出ました。行き先は蝦夷の松前でした。
弟子の木喰白道を従えています。
蝦夷地で木喰と白道は突然に造仏を始めます。
高名な民族学者五来重氏は
「木喰が突然に造仏したのは太田権現の円空仏に触発されたから」断言されています。
 
二人が刻んだのは「子安観音像・子安地蔵像」でした。
多分、道南一帯は疱瘡が大流行し、夥しい子供達が病魔に命を落としたのでしょう。
その冥福を祈って、子安像を刻んだのでした。
 
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   木喰の処女作(?)と言われた子安地蔵像。(江差金剛寺)
   松前には近年赤外線調査により白道の作と判明した仏像が多い。(五来重著「微笑仏」から転載) 
 
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    これも初期木喰の地蔵像。一般に「白粉地蔵」と呼ばれます。
    佐渡両津に「金沢楼」という遊郭がありました。遊女が白粉を塗って願をかけたと言われます。
 
 
二人が触発されたのは「円空仏」だけでは無かった事でしょう。
厳しい蝦夷地の自然、それに比べて人の命の儚さを疱瘡に教えられました。
 
木喰は遊行僧になっても「大山不動尊(相模国)」のお札を配って旅をしていました。
お札は、木版を擦って、朱印を押して、梵字等を書き足して・・・・、
作ったお札を配って回る自分に疑問を抱いて居た・・・、と思われます。
そんな時に蝦夷地に行きました。
私は「蝦夷」「疱瘡」「円空」三者が木喰をして鑿を持たせた、考えます。
 
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            此方が初期円空の仏像。(函館/称名寺)
 
 
蝦夷地での木喰は61歳、弟子の白道は20歳そこそこでした。
造仏は白道のほうが盛んでした。
従来、木喰の処女作仏像(門昌庵、子安像等)と思われていたものが、
赤外線を使った調査の結果「白道作」と判明してきています。
多感な青年遊行僧の白道が先ず鑿をふるって、子安像を刻み、子供冥福を祈ったのでしょう・・・。
木喰は驚いて、白道の鑿の先を見詰めていたと推測されます。
 
 
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          百道の作風は師木喰に似ています。木喰に比べると控え目な作風でした。
 
 
円空の仏像は天才の鑿の冴えがあります。
それは木地師の持つ技でした。
白道も木喰も円空に触発されても、真似る事は適いません。
勿論、二人は修験者です。真似る気持ちも無かった事でしょう。
素人の二人が、宗教的衝動を受けて仏像を彫ろうとしました。
コツコツと鑿を振るって・・・・、石工のように仏像を彫るより技はありませんでした。
 
木喰の初期仏像は着ぶくれて鈍重で、衣文線や輪郭が渋滞しています。
手や顔が体に比べて大きく、左右相称が崩れています。
野暮ったい、泥臭い印象を与えます。
要するに素人仏師の作品になりました。
 
加えて出来た仏像はどれも「暗い」もでした。
疱瘡の大流行、暗い世相の中で刻んだ仏像でしたから・・・・・・、暗くなってしまったのでしょう。
しかし、暗い仏像では拝む人々は救われません。
屹度、蝦夷地での仏像は人々の心を捉えなかったと思います。
と言っても、木喰は自らを偽って「救われる想いのする…、美しい仏像、荘厳な仏像」は刻みませんでした。
 
後年木喰は仏像の表情に「微笑」を湛えます。
五来重氏が「微笑仏」と絶賛した、「救われる思いのする…、微笑」です。
木喰自身の心に「微笑」が生じて・・・・、その自分自身の宗教的境地を刻んだのでしょう。
 
蝦夷地に始まり、佐渡、栃木等で初期木喰像が刻まれます。
どれもこれも木喰の真面目で実直で、努力を惜しまない姿勢が明らかです。
そんな姿勢の行き先に「達人」としての境地があったのでしょう。
 
問題は真面目で鈍重な木喰が、何時から、どんな精神的遍歴を経て、達人の境地に到達したか?
そして、あの独特な「微笑仏」を刻みだしたか? と云う事です。
 
 
その説明は何れかの機会にすることにしましょう。
 
「若者たち」も「青年は荒野を目指す(作詞五木寛之」も同じような若者の前に進む姿を表してヒットしました。
果てしなく遠い道のりを歯を食いしばって進むのは、何も青年だけの生き様ではありません。
江戸時代の遊行僧だった円空も木喰も
「蝦夷地は荒野の向こうにあるチャレンジ」だったのでしょう。
 
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   円空が初めて廻国の旅に出た…、行き先は何と蝦夷松前の太田権現の洞窟でした。
   この洞窟に十数体の円空仏が祀られていたと思われます。
   五来重氏は「木喰はこの洞窟で触発され作仏聖になった」と主張されています。
 
【補足】当原稿は文中の五来重氏の著書のほか、木喰の諸仏を各地で見学し、展覧会で    鑑賞し、その目録等を参考に書いています。
 
 
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円空と法隆寺

誰でも真似できそうで、真似しにくい「円空仏」は独特です。
でも、円空仏が突然に出来たのではなく、江戸時代初期、円空以前に「弾誓」一派の仏像がありました。
円空は故郷岐阜羽島の観音堂でその仏像を眺めながら育ちました。
円空仏の素朴さは円空以前の仏像に由来すると考えられます。
 
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                    法隆寺百済観音を彷彿させる円空の11面観音像。円空の母の面影?
                    写真は本件も含めて朝日新聞社円空展(1994年)のアルバムから転載。
 
1665年、35歳になった円空は伊吹山太平寺を出て、遊行の旅に出ます。
行き先は最果ての地、蝦夷松前のでした。
蝦夷から下北半島、恐山や津軽を遊行し、1669年39歳で故郷に戻り粥川寺で得度します。
そして再び旅に出て、1673年42歳の時、斑鳩の法隆寺に入山します。
法隆寺西円堂は円空が尊敬する行基菩薩が創建したもので、行基を慕う遊行僧が全国から集まっていました。
遊行僧と言っても様々な人がいて、土木が得意な人、火葬が得意な人、石工の技がある人、造仏が得意な人・・・・、様々な得意技を持った坊主がいたことでしょう。
勿論円空は作仏聖ですから・・・・・、仏像の研鑽を積んだこと事でしょう。
 
勿論、法隆寺には飛鳥時代以降の優れた仏像が並んでいます。
朝から晩まで円空は法隆寺の仏像を見つめて、自らを励ましたことでしょう。
その成果を法隆寺で大日如来像に顕します。
法隆寺で円空が彫った大日如来は不思議な笑みを湛えています。
それはアルカイックスマイル(古拙な微笑)、飛鳥仏特有の笑みでありました。
技術的には一木を正面から少しづつ削って、仏像を彫り進める「一木造り」でしたし、
仏像は真正面から眺める「正面観照性」を重視していました。
(後半生の円空は一木を割って、半分で主尊を残りの半分を二つに割って脇持仏にする「一木三尊」が目立つようになります)
法隆寺は円空の大日如来を評価して、「法相宗の血脈」を与えます。
「法隆寺の修行を終えて、法相宗の教えを受け継いだ立派なお坊さんである」承認されたのでした。
 
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      円空作大日如来像、円空は初めて法隆寺で血脈を受けます。丁寧な彫りは晩年の円空とは随分違う      ように見えますが、円空の技法の骨格になっていると思われます。三角形のフォルム、独特の笑み、       正面観照性が特徴です。
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                                                          法隆寺釈迦像
 
法隆寺で血脈を受けた円空は故郷羽島に戻り、亡母の三三回忌の法要を営みます。
そして再び奈良を遊行し、修験道の聖地大峰山に入ります。(1673年42歳)
大峰山から天川村に出て高野山に近い栃尾観音堂でも造仏に励みます。
更に円空は志摩に現れます。(1674年43歳)
 
志摩三蔵寺では大般若経を修復し、43枚の添絵を描きます。
この2年余りの間に法隆寺、大峯山、伊勢志摩をめぐります。
法隆寺は日本仏教の生誕の寺、大峯山は修験道のメッカ、伊勢は日本神道の中核でした。
日本宗教の骨を一時にお覚めたことになります。
円空体を巡る血液が仏教・修験道・神道、何れにも馴染んで、一緒に流れたことでしょう。
同時に円空の肉体や精神が、日本の長い伝統、日本の風土に根ざしている・・・、自信を得た事でしょう。
 
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         天川村栃尾観音堂の観音像。笑みは法隆寺大日如来像に共通しますが、
         衣紋等の処理は鉈彫りの豪快さが出てきています。
 
法隆寺の飛鳥仏にはもう一つ特徴があります。
立像の場合、その衣紋が三段にギザギザに流れていることです。
一段目より2段目が大きく流れ、更に3段目がもっと大きく流れます。
まるで、飛鳥風が仏像の衣の裾を吹き返しているような形であり、音楽を感じます。
円空はそのデザインを自作の立像にも採用します。
 
円空が法隆寺で学んだのは法相宗の奥義出会ったのかもしれませんが、
その大部分は飛鳥仏の技法だったような気がします。
飛鳥時代の仏像の技に、木地師としての技術がオンされて、円空独特の仏像ができたと思われます。
それは、「伝統と革新」、永遠のテーマを円空が成し遂げた秘訣だったと思われます。
 
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円空の立像の衣紋処理・・・、ギザギザの意匠は飛鳥仏の影響と思います。(写真は埼玉の薬師堂)
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法隆寺菩薩像。衣紋処理は円空に影響を与えた?
 
次回、何れかの機会に晩年の円空を案内するつもりです。
それは1676年45歳の円空が荒子観音寺で大きな丸太から観音立像を彫っているとき、閃きました。
円空は巨大な檜の丸太を池に浮かべて、鉈をふるい落とします。
見る見る、木っ端が池の表に浮かびました。
檜の丸太は観音になります・・・、ならば、檜の木っ端も仏であるはずです。
仏教には『悉有仏性』という言葉もあります。
円空は偶然出来た木っ端を活かして「木っ端仏」を彫ります。
融通無碍な作仏聖の晩年がスタートします。
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                  荒子観音寺の木っ端仏、最も円空らしい「自由無碍」な円空の仏でしょう。
 
  【追記】 当原稿は5月28日日文研で円空研究を発表した時の一部分です。①円空以前 ②青春の円空 ③伝統を学ぶ円空 ④円熟の円空、構成の③になります。
 
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