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「悔い改め」ということは、キリスト教だけでなく、人との出会いや、
様々な出来事を通して、人が、生き方を正していくために、必ず行き着く
ところだと思います。
では、「悔い改め」とはどういうことか。
神様に出会い、自分が、この「悔い改め」の意味を、全くわかっていなかった
ことを知りました。
人並みのしつけと教育を受け、善い事悪い事の、それなりの道徳観、基準も
持っている。
周りからは「いい人」と言われ、咎める人もいない。
しかし、自分の本心は知っていました。
「私は、何か間違っている。」
漠然としたそんな思いはあるものの、では何が間違っているのか、それを
どう正したらいいのかわからない。
そして、私がしたことは、自分を責めること…。
後悔、反省、自分を責める。
でも、何も変わらない。
もっともっと責める。
でも変わらない。
ただ、苦しいだけ。
自分なりの基準でしか考えられないから、その時その時、基準がころころ
変わってしまう。
必要以上に自分を責めたり、ある時は、都合良く自己弁護、自己完結して
しまったり…。
羅針盤のない小舟のように、今どちらに向いているのか、どこに向かえば
いいのかわからず、くるくる回っているような状態でした。
こんな自分勝手な責め方ばかりされ、とうとう、私の心が叫びをあげました。
そんな時、yuriさんに出会いました。
しかし、悔い改めることは、決して簡単ではありませんでした。
今までの思考の癖が、亀の甲羅のように、なかなか神様の愛を感じさせない
のです。
どんなに後悔しても、反省しても、自分を責めても、何も変わらず、ただ苦しい。
それでも、人や出来事を通して、神様は私に愛を届けようとしてくださいました。
そして、やっと私がそれに気付き、神様の愛を知った時、涙が止まらず、自然と
「ごめんなさい」という言葉が出てきました。
そこには愛が溢れ、喜びがあり、本当に、今まで感じたことのない感覚があり
ました。
本心が、心から喜んでいるのがわかります。
「わかったんだね…」という、ただただ親である神様の思いを感じ、自分が
子どもになれます。
yuriさんが、ずっと言っていたこと。
「神様の愛を知って、赤ちゃんのように神様に抱かれてほしい。そうしたら、
必ず変われるから。」
あぁ、それがこういうことなのか…そう思いました。
沁みついた自分なりの基準や、思考の癖は、なかなか治せるものではなく、
いつも悔い改められるわけではありません。
悔い改められていない時は、どんなに反省しても、わかったような気になっても、
「何かが違う」と感じます。
一度この感覚を味わうと、神様の愛が感じられるように、悔い改められるようにと、
心が求めます。
悔い改めと感謝は、ワンセット。
そこには、神様の愛と、喜びと感謝にあふれた天国があります。
「悔い改めよ、天国は近付いた」という、イエス様の言葉、そのものです。
(chell)
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