親である神様の愛の顕れ

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真の父神の愛の証し人

私は、こうして神様が、どのように、子を愛される方なのかを、知るようになっていった。
神様には、自分というものが、全くない。
愛する子の為には、全てを惜しみなく、捧げる方であるのを、その後の体験を通して痛感し、感動する。

私は、祈り、神様に体を貸します。私が媒介になります。そう、決意して出発したけれど、その後、自分の祈った内容の重さ、責任、神様の愛を全く知らないで、約束をしてしまっていたことに、気付き、後悔したこともありました。

神様は、姉妹を赤ちゃんのように抱きしめおられたので、私も同様にしなければなりませんでした。何故、赤ちゃんに接するように神様が、されるのかは、また、後日書きます。重要な内容があります。
赤ちゃんの時は、親は何も子に要求せず、泣けばあやし、お腹がすけば、乳を与え、オムツが汚れたら、黙って替える。
そこにあるのは、我が子可愛い真の愛
見返りや、要求など何もない。
ただ、愛したい、愛していることに喜びをかんじ、ただ、愛するためだけに自分は存在している、神様でした。
その神様の愛を表示するための身体なので、
私、自身もその愛を成就する目的のためにある、それは、自分という存在を、自我を無くすという、私の闘いにそのままなりました。
神様の愛を成就することは、=私の愛の訓練、
信仰、み言葉の実践に繋がりました。

神様の真の愛を知らないで、堕落してから産まれた、私たち人間は、真の愛を知らないために、愛に対して、また、人間に対して不信感をもっています。この、不信こそが、神様の敵であり、怨讐です。親である神様は、私たちに蔓延るこの不信を取り去るのに、とても苦労されています。

誰も不信したいとは、思ってはいないけれど、今までの体験や生活の中で、裏切られることが、続き、自然に警戒心が生まれ、不信に変わる。信用したいけれど、安易に信用したら、身に危険が及ぶ。だから、まず、人間は疑いから始める。悲しいことだけれど、仕方ない。
サタンが、そのように、世を操り、人々に、不信感を与えているからだ。

長い間、不信に苛まれてきた人が、本心から心を開き、信用することが、どれほど難題なのか、やってみて、初めてわかる。

とても私たち人間だけでは、不可能、
神様の真の愛なくしては、絶対に出来ない。
その扉は硬く、重く、私が開けられる扉ではないからだ。
また、真なる父神が近づくことを、何より恐れるサタンが、神様が愛そうとされる姉妹に働くために、姉妹を愛すると同時に、姉妹の背後にあるサタンとも闘わなければならない。姉妹の背後のサタンとの闘うということは、まず、自分、我、自己中という内なるサタンと闘わなければならない。
自己中では、神様に遣われるものにはなれない。神様の本質が、正反対、為に生きる方だから。自己中では、神様の身体にも、遣われるものにもなれない。だから、宗教は、奉仕を教えるのだと思う。


つまり神様の身体になるということは、サタンから離れなければ出来ない。神様が愛することを、お手伝いするというのは、そのまま、私がサタンから解放されることになる。


神様が、全知全能であり、愛であることの証明になる。神様の救いは、兄弟姉妹の救いであり、私自身の救いに繋がっていく。

愛が循環すれば、全てが成就する
これが、父神が初めに創ろうとされた理想の世界なんだと、、私は教えられてきた。実体験をもって。

だから、神様の愛を確信できた。


そして、私は、神様が私を通し愛された姉妹が、どれだけ神様に愛されているかを、明かせる証人になりました。
一緒に愛したから、よくわかる
一緒に愛したから、私が明かせる
あなたは、確かに神様に愛されてるよ!

あなたを思う一途な神様の思いをずっとかんじてきたんだから
私の生活も、目も、耳も、口も、全て、あなたの為に用いられたといってもいいくらい。
家族よりも、一緒にいた時間が長い。

あなたが、泣くとき、私の胸は締め付けられた
あなたが、笑うとき、私は幸せになった
あなたが、笑えるように、幸せになるように
そのために、私はいた
あなたが、何かトラブルになったときは、我知らず、心配で、電話した。

悲しい、落ち込んだ姿で現れたときは、
事情を聞かずにはいられなかった。
あなたの心が平安であることが、私の平安だった。

この私は、神様の心情なのか、私の思いなのか、すでにわかりません。
一緒に愛してきたので、
私にとっても愛する姉妹です。

神様に、言いたいときも、あった。
私は?私の存在は?私という存在、
忘れてませんか?
私の存在は、まるで無視されているかのような日々でした。

神様が愛する姉妹に、やきもちやく時もありました。

今は、もうありませんが(^◇^;)


それが、当り前になってしまいましたし、
少し成長したみたいです。

普通、このような生活をしていたら、家庭が崩壊しますが、全くなく、返って家族の絆は、深くなりました。神様が護ってくれていましたから、


神様は、ただ、私を犠牲にするような方ではありませんでした。
愛においても、何においても、平等であり、
公平な方である。

聖書、み言葉の通りです。

北風と太陽

姉妹たちは、霊的に北風の中にさらされている状態であり、傷つくことを、恐れ
コートのボタンをしっかり閉めるように
心をしっかりととじていた。

信仰とは、忍耐や、犠牲を要求される
そして、愚痴ることも、怒ることも、泣くことさえ、許されなくなる。誰が許さないのか?
神様か?
許さないのは、他者の目であり、己自身である
教えに逆らうような、行動や、言動は慎まなければならない。そうやって、自身を縛り、心に鍵をかけて、生きるしかなくなってしまう。
北風吹き荒む中で、コートを脱ぐまいと、必死な旅人と同じである

コートを脱ぐようにと、諭しても、叱っても、
正当論を唱えても、脱ぐことはしない。
年々、コートを必死に掴む力が強まっていく。
旅人は、どうしたらコートを脱いだのか

簡単である。暖かくなれば、自然に脱ぐ
その道理を、神様はよくよく知っておられる。
知らないのは、誰⁈

信仰者の位置にありながら、
神様の愛を感じることなく、
信仰生活を続けるのは、無理に等しい。
何故なら今までには、なかったものを、沢山強いられる
重荷を、背負う立場におかれ、サタンからの、執拗な攻撃も、始まる。
愛なくして、それらを越えていくのは、不可能なことを、
父なる神、天のお父さんは、
知っている。
それから、身を護る盾も剣も、ただ、神様の愛のみである。み言葉、聖書と言われるかもしれないが、真理も、み言葉も、聖書も、全てが、神様の愛であるから、同じである、
しかし、愛がどんなにあったとしても、
絵に描いた餅では、意味がない。
味わってこそ、それがどんなものか、味や感触がわかる。
餅の絵をどんなに眺めても、満足できないのと同じ。
神様の愛も、聞いて、説明されても、心から、満たされないので、何処か寂しい。

その寂しい気持ちを誰よりも、知り、慰めたい父が神様です。

神様の愛は、太陽のように温かいから、愛を素直に受ければ、心のボタンを外しはじめ、重たいコートを背負っている自分に気づき、それを脱ぎたくなります。
私が、何故神様の愛を確信したか、
聖書に書いてあるから
神様だから
神様は、愛だと皆がいうから。
全て違います。

神様に愛され、そして、その神様が子供たち(私たち)を愛したくて、直接愛を伝えられなくて、愛ゆえに苦しんでいることを、知り
なら、私のカラダを、お使い下さい。
私があなたの、手足になります、そう、祈った時から、

今の私の生活が始まり、
今までの生活からは、考えられない出来事が、起こり、そして
今もなお、続いているからです。
神様が、どんな風に1人の人を愛するか?
私は、自分の身を以て知らされました。
真の父なる神が、どのような愛を示されるのか、
偽りの神とは、どう違うか、
私は、ハッキリと言えます。
見分けて欲しいのです。
本物と、偽ものの違いを、ハッキリと示された私の体験が、少しでも、判断規準になれば、幸いです。

神様の愛の衝動は、もの凄い力です。雪崩や、洪水を想像してみてください。
それが、愛として、怒濤のように流れ込み、愛の洪水が起きます。

私の生活は、一変しました。

神様が愛したい人が、どんな人か?
善であり、正しい生活をしている信仰者でしょうか?
何時も明るく元気で、皆から好かれる人でしょうか?
いいえ、
もちろん、そういう人は、神様に愛されますし、また。そういう人はら自らが、神に愛されていることを実感しているかもしれない。


私が神様と愛した人は、何かに満ちている人ではなく、
神や人の愛に上乾き、瀕死状態のような人ばかりでした。
私のようなものを、神様が愛してくれるわけない。皆そう呟き、下を向いている人ばかりが、現れました。
そんな人を神様は
抱きしめたくて、泣いていました。
そうじゃない、私は、ずっと愛してきた
お前がわからないだけだ、私はお前の父だよ、
ポロポロ泣かれていました。
始めにも書きましたが、その神様の思いが強く、我知らず抱きしめてしまいました。
始めは、私も自分がおかしくなってしまったのか?悩みました。
でも、明らかに、神様でした。抱きしめた姉妹は、泣いていました。神様を感じるといい、その後、明らかに、変わり始めました。解放に向かい、神様の霊が働きだしたのでした。神様は、私を媒介にされ、私の身体を使われ始めたのです。
神様の愛しかたは、半端じゃありません。
私は、神様が愛する姉妹を愛するという、生活を始めてから、本当に大変でした。私たちは、人は、神様の下に姉妹なので、神様の愛したい人を姉妹として話をします。
何をしていても、何処にいても、その姉妹のことで、私の頭はいっぱいでした。
他のことは、かんがえられません。
脳裏に焼きつくとは、正にそんな状態です。
朝から、晩まで、眠るときでさえ、
姉妹が、どうしたら、幸せになれるか?何を悩み、苦しんでいるのか?辛そうにしていれば、一晩でも、話を聞きました。一晩聞いてもまた、翌朝から、夕方まで。
もう、付きっきりでした。
神様は、愛において、僕のようでした。
神様が、僕ですから、当然私は、僕になります。体なので。
愛する姉妹から、一時も、離れたくないようでした。こんなにも、神様の愛は、手抜きがない。私は、身を以て知りました。
私の生活は、大変でした。家事は出来なくなり、子供たちの世話も満足にはできず、毎日電話で、酷い肩凝りになりました。

 私の生活や、身体は全てそのためにあり、自分のことを、考える暇も、何もなくなりました。

生活は全て犠牲になり、尽くしても、尽くしても、まだ、私は、神様に愛されていないと、言い続ける姉妹を、本気で、
殴りたいと、何度おもったかしれません。
しかし、
そう、思う私とは、全く違う神様がいました。
まだ、まだ、愛し足りないというのです。
愛しても、尽くしても、愛が届かない

それだけ、姉妹の心は凍りつき、頑なに心を閉ざしていたのです。
神様は、そのことを何よりも、知っておられ、心配されていたのでした。
イソップ物語の北風と太陽のような歩みでした。

自由を下さった神様へ

自由により帰ります

神様が、私たちに下さった
一番の賜物は、自由。
神様は、ロボットを作らなかった。
自らの意思で選択し、良心を先だてていきる、
人を創造されました。

神様が下さった自由、それは
賜物でありましたが、
残念ながらその自由により、人は堕落しました。

自由によって堕落した私たちは、再び自由により、
自らの選択で、神様にかえらなければなりません。
神様は、人に自由を与えられたので、
強制的に人を連れ帰ることは出来ません。

神様が下さった自由。
自由の本来の素晴らしさを発揮するために、
良心があります。

自由を宝にできるか、
それとも
足枷になるかは、私達自身が決めるのです。

神様が、長い間、待って下さったのは、私たちの自由を守るためです。

自由を下さった神様は、私たちが、各各の意思で、神様の元に戻ることを、信じて、
ずっと、待ちつづけてくださいました。

この時まで。

天のお父さん
本当にありがとうございました。
私たちは、あなたの期待の通り、自由により、あなたの元に帰ります。
長い間、お待たせして、申し訳ありませんでした。
お父さんの、愛と忍耐に深く感謝しています。
お父さん、
大好きです。

ご無沙汰しております。
ブログを始めて、2年が過ぎました。
初め、神様から、ブログを立てるように言われ、神様の愛、心情、事情など
伝えるべく、私なりに一生懸命したつもりです。
なぜ、神様は、私に、ブログを立てるように言われたのか、今になって、やっと
わかるようになりました。
神様は、悟るまでは、何も言われません。ただ黙って、時を待たれます。
黙って時を待たれますが、何もしないわけではありません。
私が、悟れるように、気付くように、わかるように、時をかけて導かれます。
私も、当初は、本当の神様の目的や、導きの意味もわからず、思いつくまま書くしか
ありませんでした。
神様の導きは、すぐにはわかりません。何段階にも分けて、悟ります。
今回の私のブログもそうです。私は、まずは行います。神様が、しなさいということを
素直に実行してみます。なぜ、それをするのかは、教えてくれません。なぜ、それをするのかの
答えを探すことが、神様の本当の目的であることを知っているからです。真実は、簡単には
わかりません。紆余曲折、松の木が伸びていくように、神様の導きも、初めからわかるものではなく
間違っていると思えば引き返し、立ち止まり、悔い改めて、再出発、また曲がった道から、元の正しい軌道に戻って…ということを繰り返しながら、探していきます。私も、いつもそうです。
このブログの中でさえも、いろいろ起こりました。

ブログを始めて、1ヶ月が過ぎたところあたりだったと思いますが、同じように神様に
ついて、探求されている方々から、いろいろなコメントをいただくようになりました。
中には、自分が全く思ったこともないようなこと、なぜそんなふうにとられてしまうのか、
など、混乱したり悩んだりさせられるものがありました。
いつも、「なぜ」から考えます。そして、その時は、その時で、それなりの結論を導き出し、
整理して次に進み、そういう方法できました。解決することができず、すっきりしないものは
その時は、一度休止して、時を待ちます。
いろいろなことに巻き込まれ、翻弄されそうな時に、神様が、ひと言だけメッセージをくれます。
それが、今回のブログでのひと言は、「井の中の蛙になるな」という、厳しいひと言でした。
この言葉は、簡単に言えば、知った気になるなということです。かく言う私も、知った気になって
話していた一人です。神様が、私も含め、皆に強調したいひと言だったのではないでしょうか。
神様を語らせれば、千人が千人の神様を語る。なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。
それは、神様ご自身がそのことを赦されているからです。そのことが、ブログを立てて、
私が悟るべき内容だったということ、今わかりました。

私は、こんな神様に出会った、私の知る神はこうだ、私はそんな神は知らない、そうやって
私達人が、神様のことを論じ合うこと、意見を闘わせたり、言い争ったとしても、神様が
それを赦されている。そう感じるようになりました。

私達は、神様から見たら、子供であり、未完成な者です。
完成されていないのです。神様は、絶対者であり、完成された方です。
その、神様から見た時に、未完成な子供である私達が、意見を闘わせるのは、仕方ないことなのです。
幼い子供が、間違ったことを言った時、親は、どう対処するでしょうか。
例えば、子供が、お月様が僕のあとを着いてくる、お月様、僕のこと好きなんだね、そう
子供が言ったとします。その時、親はどう答えるでしょうか。そんなバカなことあるわけないでしょう!月が着いてきますか!と言うでしょうか。そんなことを言ったら、その子供はどうなりますか?子供なりに、わからなくとも、一生懸命導き出した結論なのです、それを、親は否定するでしょうか。これが、神様が、私達が何を言っても、許されている理由なのです。
それをわからない私達は、自分が正しい、あなたは間違っている、そんな神様知らない、そんなのは神ではない、と言い合っているだけなのです。
それが、もっとエスカレートすれば、宗教戦争です。

神様、という存在は、恐ろしい存在です。他にはない存在です。
なぜなら、死をも問わない存在なのです。キリスト教徒は、殉教します。神様のために死ねるのです。こんな存在が、どこにあるでしょう。
親兄弟、子供、愛するかけがえのない人のためになら、人は命を捧げます。命も問わないというのは、そういう存在です。それが、神様の位置です。だから、問題も大きいし、争いも大きくなります。
最も大切で、重要で、唯一無二の存在だから、それだけ人々が譲れない、引かない。それは、
神様が、神様である証拠です。神様という存在が、私達を離さない、離れない存在である証拠になるのではないでしょうか。

そういう神様なので、一方、宗教戦争を客観的に見る人は、神は争いのもとだ、神なんかいるから
争いが起こるんだ、妄想だ、妄想で闘って何になる、ばからしい、そう思う人が出るのも当然です。
そして、宗教観で争えば、今度は、宗教はいらないと言い出す。それが、今までの構図です。
神様を、大切に思い、愛するが故の争い。複雑ですが、それは、現実です。
こういった全てのことを、許す親なる神様の位置があります。
神様からみたら、兄弟喧嘩と同じです。でも、それも、親を思い、慕う気持ちから出たことなので、複雑です。これを収拾する時に、どちらが悪いとか、親が言えるでしょうか。親というのは、どちらの気持ちもわかるのです。簡単に、お前がいい、お前が悪いと、裁けません。
自らが、悟り、仲直りできる時が来るまで、待つしかないのです。神様は、神様にとって
キリスト教徒も、仏教徒もイスラム教も、新興宗教も、無宗教の人も、神様を迫害する人も、全て、子供であるので、親である神様のご苦労は、どれほどでしょうか。

神様にとって、自分を愛するものも、自分をいらないと、神様を迫害、否定する者も、同じ子供
ですから、同じように愛を注ぎ、同じように抱かれ、与えます。
自由と、平和と、平等。愛と秩序を護るのが、神様の役目です。護るということは、自らが
実践し行うことです。
私達が、争いを止めなければ、神様は、いつまでも口を閉じ、沈黙し続けるしかありません。
沈黙しながら、見守り、気付きやヒントを与えながら、最終的に皆が一つになれるように、導いて
こられました。今も、毎日、気付いても、気付かなくても、区別なく、導いておられます。
私達が、早く、その導きに気付く者になってほしいと、神様は望まれています。しかし、各々の
姿形、性格、環境、性別などが違うので、導き方も、その人に合わせた導き方をされるので、
現れる神様の姿は、宗教が、いくつもに分かれているように、違った形で表れます。
表れた神様を、皆神様と思うので、全て一致しないのです。全て一致することは難しいのです。
だから、共通点を探す、闘うところを探すのではなく、折り合えるところを探すのです。
いろいろな人の中に、いろいろな神様が潜んでいる。その潜んでいる神様を、各々の中から
見つけ出すのです。そこに神様がいます。
闘い合っていたら、いつまでも、そこに神様が現れることはありません。神様は、戦いは好みません。好まないというより、そういう概念がありません。だから、闘うところには来られません。
意見を闘わせるとしても、いつか、一つになろう、わかり合おうという、動機がなければ、その
闘いの結末はサタンが支配します。神様のことで、争っているうちに、それがいつの間にか、サタンにすり替わり、本人も知らないところで、いつの間にか、サタンの操り人形のようにされて
しまいます。争うところに、神はいません。自分が正しいと主張するところにもいません。
私も、自分が正しいんだ、間違っていない、そう思うときは、大抵間違っています。心が
気持ちよくありません。良心には、逆らえません。仲たがいをして、気持ちの良かったことなど、
いちどもありません。たとえ、仲たがいしても、いつか、分かり合えると、わかり合いたいと思い、願い、神様に祈り、尋ねながら、悔い改めて、時を待ちます。
器のない自分には、今が精一杯。これ以上無理をすると、偽善になったり、壊れたりしてしまう。
そういう時は、もう少し、器が育つまで、また神様の導きにより、育てていただきながら、
自らも、精一杯闘って、やるべきことを果たしながら、成長できた時、もう一度、仲たがいしてしまった人とも、わかり合える時が来るかもしれません。だから、希望を捨てないで、自分自身がもっと神様と一つとなれるよう、日々精進していくだけです。

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