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「遠野物語」 柳田国男・作 集英社文庫
京極夏彦、畠中恵などなど、硬軟取り合わせた妖怪物を結構読んでいる自負のある私。
ですが、実はその元ネタになった本を殆ど読んだ事がありません。
しかも、酷い事に、参考文献の本のタイトルも殆ど覚えていません。
毎回、小説の中で見かけては、すぐに忘れちゃうんですよね…
これで「自負してる」と言い切る私は、どれだけ鈍感なんだか…
妖怪と切っても切り離せない学問が、民俗学です。
その祖、柳田國男も名前しか知らず、「遠野物語」も全く読む気がありませんでした。
その私が変心したのは、今年の夏の文庫フェアにあわせて、表紙を漫画家さんが書き直したのを見たからです。
数年前からこの試みは各社で行われているのですが、今まで「これにつられて読むなんて邪道」と切り捨てていました。
ところが、偶々私の好きな作家さんが「遠野物語」の表紙を担当していて、あっさり宗旨替え。
何て変わり身の早い人間なんでしょうね。
「遠野物語」以外にも、数編の文章が載っています。
「遠野物語」は著者が友人から聞いた「遠野」地方の妖怪(妖怪と言う言葉は出てきません)を紹介しています。
私がそれ以上に頷きながら読んだのは、「ていきゅう…」です。
人が泣かなくなった、言葉でばかり表現するようになった、というのがメインです。
特に男性は「無口」を美徳とする時期がありましたが、今は誰もが言葉で説明しようとする。
その代わり、「無口」であっても、感情の発露はあるわけで、そのときにいろいろな種類の涙があったはずだ。
しかし、それを良しとしなくなったのは、「泣く」「涙する」など、柳田が活躍していた時代から既に、「なく」には「さんずい」のつく字が当てられており、それがあまり見栄えのいい物ではないとされたからではないか。
本当は「哭く」という字もあり、涙を見せず、抱えきれない感情の発露を発散させる為に声を上げる、ということも「なく」の中の一つだったはずだ。
特に子供は「なくのも仕事」であり、頭ごなしに「静かにしなさい」と怒鳴りつけると、感情の起伏のあまりない子供に育つのではないかと危惧する。
このような趣旨の事が書いてありました。
最後の部分は根拠はない、と柳田本人も言っていますが、今はますます「なく」ということに対して、周囲の人が余りいい感情を持たないようになっているような気がします。
それがいい事なのか、悪い事なのか…
問題提起として、今改めて取り上げられても、とても新鮮な話題だと思います。
あれ?
「遠野物語」はどこに行った…?
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