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<檜町公園>
かつてこの檜町公園に長州藩の中屋敷があった。周囲に檜が多かったことから檜屋敷とも呼ばれ、町名の由来にもなった。元治元年(1864)、長州征伐が決定されると、幕府は江戸、京都、大阪にあった長州藩屋敷を全て没収した。三万七千坪という広大な敷地を有していた中屋敷も一夜にして取り壊された。
<毛利庭園>
報道ステーションのお天気コーナーになると、毎度のようにカメラが写しだすのは朝日テレビに隣接する毛利庭園である。毛利庭園は、長州藩の支藩である長府毛利家の上屋敷跡である。討ち入りを果たした赤穂浪士のうち十名が、この屋敷で切腹したことでも知られる。嘉永二年(1849)乃木希典が誕生したのもこの長府藩屋敷内でのことであった。
<深廣寺>
深廣寺には佐藤一斉の墓所がある。
『言志四録』を著した佐藤一斎は、美濃岩村藩士であり、儒学者。昌平坂学問所で塾長を務め、その門下には渡辺崋山、佐久間象山、横井小楠、山田方谷らがいる。言志四録は、幕末の指導者のバイブルとまで言われ、西郷隆盛らにも影響を与えた。佐藤一斎は、安政六年(1859)、八十八歳で逝去している。
していなく、中に入れなかった。
<乃木大将生誕之地碑>
六本木ヒルズの南側、さくら坂公園の片隅に碑がある。
再開発後は300mも移動され、何のゆかりもない場所にひっそりと建っている。
以前は産湯の井戸の残っていたそうだ。
こういう形で史跡を無くしたり何のゆかりも
ない場所に移動させるのは、一歴史ファン
、一乃木ファンとして実に悲しいことだ。
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東京都港区
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<江藤新平遭難遺蹟碑>
江藤新平は天保5年生まれの佐賀藩士。文久2年に脱藩し、早くから京都を中心に志士活動をする。
維新後は司法卿、参議などの重役を務め、今日の日本の司法制度の基礎を創る。
明治6年に征韓論問題から発展した政変で下野し、世に言う佐賀の乱の首謀者と捕縛され処刑、梟首
される。享年明治7年。
江藤新平がこの地で襲撃されたのは、明治二年(1869)十二月二十日の夜のことである。その日、葵町佐賀藩邸に伺候した江藤は、珍しく深酔いし駕籠で帰路に着いた。虎ノ門に差し掛かった午後十一時頃、刺客六人が江藤の駕籠に襲いかかった。江藤は右肩に重傷を負ったが「無礼者!」と一喝すると、刺客は逃げ去ったという。襲撃者はいずれも佐賀藩の足軽で、江藤が佐賀で断行した藩政改革に不満を募らせていたと言われる。
江藤新平
<新聞創刊の地>
江藤新平遭難遺蹟碑の傍らに、新聞創刊の地の碑が置かれている。明治七年(1874)十一月に子安峻らがこの地で新聞を発刊したことを記念したものである。知識人向けの大新聞に対して、ふり仮名を施した大衆向け新聞はサイズが小さく、当時は小新聞と呼ばれた。読売新聞はその小新聞の始祖である。
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<長谷寺>
寺の南側は以前から武家屋敷があった
為、このような長い塀が続く。
杉田定一の墓。
自由民権運動に共感し、明治23年衆議院議員になる。北海道長官、衆議院議長も務めた明治期の政治家。
従三位勲ニ等子爵黒田清輝の墓
薩摩藩士で幼少より藩校造士館に学び、戊辰戦争では山陰道鎮憮総督府参謀を務める。
維新後はパリに留学し、絵画の才能を開花させた。その後日本の洋画史上の巨人となったのは周知の通りだ。
黒田清輝、黒田清綱のレリーフがある。
境内墓地に散在せる旧会津藩士の空墓を
ここの集う
長谷寺と会津藩の関係は不明だが、会津藩士
のお墓が数多く点在する。
従一位大勲位侯爵井上馨の墓
長州藩士として高杉新作らと英国公使館焼き討ちなどに参加するなど過激な攘夷志士であった。伊藤博文と英国に留学したり、外国船砲撃事件での和平交渉などで活躍した長州5傑の一人。
維新後は外務大臣や大蔵大臣を来歴したが、
常に財界との賄賂、癒着を指摘され、世間から悪評を招いていたが、実際はあえて割の悪い役回りを自ら買って出たという話しもある。
大正4年、静養先の静岡県興津市で病死した。
<青山スパイラル>
高野長英は江戸後期の蘭学者。
蛮社の獄で幕府に捕われるがその後脱獄。
江戸を脱出して逃亡するが、最後は江戸に戻り硝酸で顔を焼き、人相を変え町医者として潜伏しながらここ青山百人町に潜伏していたが、何者かに密告され奉行所に踏み込まれた。
長英は短刀を奮って奮戦し、最後は自ら喉を突いて、壮絶な死を遂げた。
吉村昭氏の「長英逃亡」には長英が脱獄、逃亡し、死に至るまで詳しく書かれている。
<善光寺>
表参道から一通りが少ない脇道に入ると、
信州善光寺の別院がある。
高野長英先生碑
没後48年たち、正四位が授与された、
勝海舟の撰文による顕彰碑がつくられた。
従一位勲一等中御門経ノ墓
公家中御門経之は岩倉具視の姉、富子を妻とし、岩倉具視と共に倒幕派の公家となり暗躍した。一時期は佐幕派の考明天皇の怒りを買い、閉門処分になるも後に許される。
維新後は造幣局掛等など来歴し、明治24年
病気の為、71歳で死去。
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<勝海舟邸跡>
文久二年(1862)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
<勝海舟住居跡>
海舟が明治5年の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいた屋敷跡地。
勝海舟は氷川の街が余程気に入っていたらしい。
海舟の死後、屋敷は東京市に寄付され、
平成5年まで氷川小学校敷地として使用された。 現在は老人ホームと中高生プラザとして
使用されている。敷地内には屋敷跡の発掘調査で出土した勝家のゆかりの品などが展示
されている。
<氷川神社>
江戸7氷川の筆頭の神社。勝海舟がこやなく愛した神社と言われている。
この神社に遷座した古呂故(ころこ)稲荷、地頭(じぬし)稲荷、本氷川(もとひかわ)稲荷、玉川(たまがわ)稲荷を合わせて「四合(しあわせ)稲荷」と名付けたのも海舟である。
氷川神社内には忠臣蔵で知られる浅野内匠頭の妻・瑤泉院(ようぜんいん)の実家である浅野土佐守の屋敷があった。
<種徳寺>
種徳寺には堀 直虎の墓所がある。
堀直虎は、信州須坂藩主。文久元年(1861)、病弱な兄に代わって二十六歳で藩主に就くと、有為の人材の登用、洋式兵制の採用など、藩政改革を断行した。慶応三年(1867)、大政奉還後の末期の徳川幕府の若年寄兼外国奉行に任命された。外様大名としては異例の抜擢であったが、誰もが辞退して回ってきた「火中の栗」であった。直後に鳥羽伏見の戦いが勃発し、幕府を守るために慶喜に徹底抗戦を進言したが容れられず、そのために諫死したとも言われている。ただし勝海舟の手記においては、堀直虎は乱心して自害したと記されている。
墓地内には古い墓石が多い。
堀 直虎の墓
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<乃木旧邸>
乃木邸は明治12年に買い求め、明治35年に改築された言わずとしれた乃木希典の邸宅。
正門。
乃木邸。
乃木将軍がドイツ留学中に見た
フランス兵舎を参考にして建築された。
お供の人の待合所。
露将ステッセルから乃木将軍に送られた、アラビア産の名馬「壽(ス)号」とその子馬「璞(アラタマ)号」の馬小屋。
乃木将軍の愛馬として非常にかわいがった
として知られている。
愛馬用井戸。
乃木将軍と辻占い売りの少年像
明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代に用務で金沢を訪れたときの、希典は金沢で偶然当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は辻占いを売りながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は少年を励まし、金二円を手渡しました。
今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績をあげました。 一番右の部屋で乃木夫妻が殉死した。
えいけつのところ
乃木大将夫妻が殉死した際に
血のついた物を埋めた場所。
敷地内にある乃木家祖霊社。
乃木家の祖先日露戦争で戦死した
二人の令息の御霊を祀っている。
命日と前日の9月12日と13日の2日間だけ内部見学が出来る。来年こそは行こうと思う。
<乃木神社>
大正12年に乃木邸裏に創建。祭神は乃木希典。
社殿。
正松神社。
玉木文之進と吉田松陰が祀られている。
乃木希典は吉田松陰を追慕し、16歳のときに、松陰の叔父であり、松下村塾の創始者でもある玉木文之進の門に入り薫陶を受けた。 吉田松陰を深く敬い、玉木から教育を受け、これが乃木大将の人格形成に大きく影響を与えたということで、乃木神社戦災復興の際、萩の松陰神社から二柱の分霊を請い受け、摂社として境内に鎮守されることとなった。 明治41年(1908)1月に御祭神乃木将軍が学習院院長に任命された頃に生徒心得の為に明治天皇より賜った御製である。
この碑は当時の御歌所所長 高崎正風氏が謹書したものを刻んだものである。 自刃直前の別盃に用いた葡萄酒の空瓶。
この葡萄酒は恩賜品と言われている。 (宝物殿)
乃木将軍御殉死の刀と
静子夫人御殉死の短刀(宝物殿)
日露戦争時でワインを嗜む第3司令部。
アメリカの従軍写真家バートン・ホームズ
撮影。(宝物殿)
(宝物殿)
こちらも殉死した当日朝の夫妻の写真。
(宝物殿)
日露戦争が終結し、乃木大将は明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとのことだ。
そして、明治天皇が崩御し、大葬が行われた午後8時ごろ、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した・・。
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