東京都豊島区

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目白(学習院)

学習院は宮内省所轄の官立学校であったが、昭和22年に私立学校に変更になり、
現在と同じように一般市民が通学するになった。
谷千城、大鳥圭介、野木希典など、陸軍や海軍の歴戦の猛者達が院長を歴任している。
 
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<乃木館>
 
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乃木館(旧総寮部)は明治四十一年(1908)竣工。第十代の学習院長を務めた乃木希典が起居した建物を移築したものである。乃木希典は、寄宿生を監視するために総寮部内の一室に起臥して寝食をともにした。現在は学生の部活動に利用されている。
 
 
 
 
 
 
 
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<榊檀>
 
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明治42年明治天皇の学習院行幸を記念し、
野木希典院長の私費によって築造された。
周囲は当時の国境から集められた80個の
石で前方後円型に築かれている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


<青木義比歌碑>
 
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青木義比は幕末の旗本。彼が好んで逍遥した富士見台に歌碑が建てられた。以下、二首の歌が刻まれている。
 
夏月涼 かくはかり すずしきよはの 月かけよ しはしささへよ にはのまつかえ (鶴山)

山家夏 世のうさの みちもはなれて やまさとの なつのゆふへは すずしかりけり (義比)
 
 
 
 
 


<厩舎>
 
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明治41年築。
開校当初は目白通りをはさんだ正門の
むかいにあった。目白通り拡張に伴い、
倉庫とともに現在の場所に移された。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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<血洗いの池>
 
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赤穂浪士の一人堀部安兵衛が、高田馬場
の決闘で叔父の仇を討った際、この
池で刀を洗ったことから名づけられた・・。
という創作話を大正期の学生が作ったと
されることから血洗いの池と言われている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 


<東別館>
 
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全寮制だった学習院の皇族寮として
大正2年に建てられた。
正面玄関には馬車を寄せる車寄せがあり、
玄関庇に付けられた桜模様の飾りは、
向かい合わせに建てられていた院長官舎
のものと対を成していた。
 
 
 
 
 
 
 
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歩くとミシミシと、建物の古さが伺える
音がする。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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六義園と日露戦争

旧古川庭園に行ってから以前から行きたかった六義園にようやく行けた。
 
我が家の最寄駅田端駅のお隣の駒込駅から徒歩7,8分。一般的には都内にある大きな日本庭園が見物で、
 
景観を楽しんだり植物鑑賞したり、珍しい野鳥などを見たりする場所だが、実はこの大名庭園は相当な歴史的
 
価値がある場所なのだ。その理由として明治時代にこの六義園で日露戦争の凱旋大園遊会が催され、あの海
 
軍大将東郷平八郎なども出席されたのだ!そこである書簡から当時の状況を抜粋しよう。
 
(前略)現在、東京都文京区にある六義園は、五代将軍綱吉の側用人の柳沢吉保が、綱吉から賜った地に自ら設計を指揮して、七年の歳月を費やしてつくった大庭園である。江戸の名園として知られたこの六義園も維新後は荒廃していたが、弥太郎が一八七七年ごろに隣接地と併せて買い取り、修復して岩崎別邸とした。弥太郎の死後、弥之助がそれを引き継いでさらに改修を行い、かつての名園を蘇らせた。(中略)現在の六義園の広さは約三万坪だが、当時の岩崎別邸の敷地面積は十四万坪とも十五万坪とも書かれている。そして、日露戦争が終わった一九〇五年の秋、弥之助が久弥と共にこの場所で催した大園遊会は、後世までの語り草となった。(中略)

 日露戦争は約五十万名もの兵士が出征した大きな戦争であり、鉄道や船舶の輸送能力にも限界があるため、一度には帰還できず、二カ月以上の長い凱旋となった。その結果、十月から翌年一月ごろまで、陸海軍の兵士たちの凱旋パレードや歓迎会が目白押しだった。(中略)
 そのなかでも人々を瞠目させたのが、岩崎弥之助と久弥が合同で開いた大園遊会だった。十月二十九日と十一月二日の二度に分けて、岩崎別邸(六義園)に、なんと一万三千名以上の将兵を招待したのである。十月二十九日の新聞紙面には、岩崎弥之助と久弥の連名で「在京連合艦隊下士以下各位に謹告」という広告が掲載されている。岩崎家の園遊会は、とくに下士官以下の水兵を中心にするという趣旨で開かれたため、新聞各紙はこれを岩崎家の快挙として大きく報じた。十月三十日の『東京朝日新聞』の記事は以下の通り。

●岩崎邸園遊会余聞 岩崎家の巣鴨の別荘は十五万坪といふのだから日比谷公園の約三倍、さればこそ六千有余の水兵が入りこんでも混雑どころか、園内にはまだ\/閑静な処が幾ケ所も残されてあつた(中略)▲園遊会の飲食店といへば大抵一時間か二時間位になくなるのが常であるが、流石は岩崎家の催し丈けに、ビール、おでん、天ぷら、すし、しるこ、蕎麦、煙草、団子、塩煎餅、餅菓子、弁当といつたやうな卅余ケ所接待所に売切れの札を下げたものは一つも無かつた(中略)▲水兵連は非常の満足で掛員をつかまへては満腔の熱誠を吐露し、感極まつて泣くものさへあつた(後略)

 沿道にも観覧者が大勢集まってきて、小学生は小旗を振り、軍人が通るたびに万歳の声が上がった。第二回の園遊会には、東郷大将をはじめ各大将やその家族、アメリカ公使夫妻なども参加し、その数は七千名以上に及び、模擬店の数を増やして二万五千名分を用意したという。招待された人々は庭園の広さと飲食物の豊富さに驚き、大いに楽しんだ。園遊会の料理の内容は、主催者が異なってもだいたい同じで、おでん、寿司、蕎麦、ビールに日本酒……等々である。意外に軍人には下戸や甘党も多かったようで、汁粉があるのが面白い。
 盛装した岩崎家の夫人や令嬢のほか、新橋・柳橋などから呼ばれた選り抜きの芸妓四百名が水兵たちを接待した。第一回の園遊会に参加した芸妓は三百名だったので、さらに百名増員されたことになる。しかも、余興として芸妓たちが玉乗り、芸者手踊り、住吉踊りなどを間断なく演舞したので、水兵らは狂喜して口々に「岩崎家万歳!」と叫んだという。
 園遊会で四百名の芸妓が評判になるのは、弥之助と久弥の本意ではなかったはずだが、戦地で女性と触れ合う機会が少ない将兵にとって、美女の接待つき宴会が最高の饗応だということは、弥之助も久弥も十分承知していたのだろう。なによりも、二日間で一万三千名以上に大盤振る舞いしたことは、大富豪の岩崎家の気前の良さを人々に印象づけた。しかも、国のために戦った無名の下士卒たちを主役にしたことが、大衆には受けた。この二度の園遊会の費用を現在の金銭価値に換算すると、相当な金額になるに違いないが、三菱にとってはどんな広告以上に、宣伝効果は大きかったといえる。
 
染谷門。いつも閉まっている。
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正門。外壁はモダンなレンガで囲まれている。
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庭園の入り口。
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大きな庭園の真ん中にある大きな池。
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庭園には茶室や休み小屋が所々にある。
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渋い茶室。今でも庭師が綺麗にしている。
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大きな灯篭。
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六義館跡。
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ここの庭園は本当に大きい。凱旋大園遊会の時に六千もの水兵が入ってもまだ閑静な処があったと言われる
 
ように大きな庭園だ。1時間程ゆっくり歩いたがこれほど大きな土地で和を感じられる場所は本当に貴重だ。
 
江戸時代前期の豪華な大名庭園には、明治時代という過酷な時代を生き抜いた人達の息使いが聞こえて
 
来る・・・。
 
そんな場所だ。
 
 
柳沢 吉保
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岩崎弥太郎
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海軍大将東郷平八郎
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六義園 
文京区本駒込6-16-3
JR・地下鉄南北線「駒込」(N14)下車 徒歩7分
地下鉄三田線「千石」(I14)下車 徒歩10分

旧古川庭園

昨日は旧古川庭園に行ってきました。
 
ここは海援隊出身で日清戦争当時は「カミソリ大臣」の異名で、外交官として手腕を篩った陸奥宗光の終焉地
 
です。陸奥宗光は紀州藩出身で坂本龍馬の海援隊に属していました。終始坂本と行動を共にし、坂本曰く、
 
「「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったといいます。
 
明治維新後は神奈川県令、駐米公使、外務大臣など様々な要職に就き、条約改正や日清戦争の難局打開など
 
様々な功績を残し、明治30年8月24日、肺結核のため旧古川庭園で死去する。享年54歳。
 
その後、陸奥宗光の次男宗光の次男が古川財閥創業者の養子となったため、古河家に所有が移り、大正6年
 
に古河財閥3代目当主の虎之助よって西洋館と庭園が造られ現在の形となった。洋館と洋風庭園はジョサイア
 
コンドルが設計され、日本庭園は京都で人気を集めた小川治兵衛により作庭されました。第2次世界大戦中は帝
 
国陸軍に接収され、戦後は連合軍の宿舎として使われたそうだ。
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現在の正門。昔は通用門として使われていたそうです。
 
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1階は洋風、2階は和風で造られています。中は公開日じゃないと見られません。
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日本庭園の入り口にある兜門。手前の屋根が欠けているのは門から傘を上にさせるような配慮があるらしい
いですが、その配慮は必要なのかい?と息子がガイドさんに話しかけていた・・。
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庭に小さな渓谷があります。川を作り、景色を楽しんだそうだ。すごい財力だ!
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上の川で子供が遊んだら、ここで手を洗ったそうです。
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15層塔。数えると14層しか無く、実は一番上の層がすぐ横に落っこちていました。何故かは不明。
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こういった灯篭がここにはかなりあります。理由として入り口の門が風水でいうと鬼門の位置にあるため厄除けと
してたくさんある説と、当時の財界人から贈り物として灯篭をたくさん貰ったので至る所にある説と2つあるそうです。
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当時の表門。
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真ん中にある池。池の周りには松や梅など景観を計算して植えており、とても心が和む。
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日本庭園から見る洋館。自分んちだったら広すぎて使用する部屋2つくらいしか使わないだろう。
 
この庭園で当主は奥さんと息子さん1人と使用人1人の4人で住んでいたというから驚きだ。
 
陸奥さんの死後に、洋館や日本庭園は造られましたので海援隊隊士陸奥宗光の史跡は特に見あたらなかった
 
が、昔の馬車道などはそのままで、伊藤さんや明治政府の高官がここに来て見舞ったりしたのかなーと
 
感慨深いものを密かに感じた。日本庭園も素晴らしく、心を穏やかにする場所として最適だ。
 
人生に疲れたら古川庭園だ!
 
 

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