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<泊船軒>
千代田線町屋駅から徒歩5分程度の場所に泊船軒というお寺がある。
寺院で「軒」という屋号がつく寺院を訪問したのは初めてだ。
大雄山泊船軒
武田斐三郎は文政10年に伊予大洲藩に生まれた。
緒方洪庵の適塾で学び、江戸で佐久間象山の砲学も学ぶ。ペリー来航の際は佐久間象山に連れられ吉田松陰らとともに浦賀に黒船を見て「三浦見聞記」を著した。幕府でも彼の才能を認め、各国の交渉役として抜擢し、ロシアのプチャーチンや函館でペリーとも会談をしている。ペリーは斐三郎の人物と学識の高さを褒め称えている。彼の業績といえば何と言っても函館戦争の舞台でもある五稜郭の設計、建設をしたことだ。
ちなみに国内初のストーブの発明もしている。維新後は兵部省の砲兵などの教育者として過ごし、明治13年
54歳の若さで病死。
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東京都荒川区
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<円通寺>
京都の鳥羽伏見で開戦した戊辰戦争。幕府側は次々敗退し、遂に本丸である江戸城も無血開城。
当然、反対勢力もあって「開城を心良しとしない勢力」が、上野のお山に立て籠もり、彰義隊と名乗り、
徹底抗戦の構えを見せたばかりか、新政府軍にい挑み掛かる挑発行為に出たのだ。
新政府軍は、当該勢力鎮圧と、お山からの掃討の為、1868年(慶応4年)5月15日午前7時ころ、一斉
攻撃を開始し、ここに応戦する彰義隊との戦いが起こる。
戦は一日で、大村益次郎や、西郷隆盛が指揮した新政府軍が勝利した。世に言う上野戦争である。 その上野戦争で最も激しい戦闘が展開されたのは、上野のお山の入口の黒門付近なのだ。、戦いの戦略
主として銃撃戦であったので、その黒門も多く被弾して、そこに、銃弾痕が無数に残った。
この様に「無数の弾痕」が残るくらいの激戦だったので、黒門を守った彰義隊に沢山の戦死者が出たのだ。 その彰義隊の戦死者265体を、円通寺の住職と、東叡山寛永寺の出入商人が、同寺に合葬した。 それが縁となり、明治40年にお山の黒門がこの円通寺に移築され、現在に至っている。
上野戦争黒門の戦い
黒門。全体に黒塗りされている。
無数の弾痕が戦闘の激しさを物語る。
死節の墓
三河屋幸三郎が自宅に建てて供養していた戦死者の供養塔
彰義隊士之墓
武士能 忠死痛むや 夕さ久ら
と書いてある碑
正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑
松平太郎君墓
彰義隊後藤鉄次郎追吊碑
戊辰五月十五日於上上野山王台戦死
とある。
澤太郎左衛門は幕臣で函館戦争時は
開拓奉行も務めた。
澤はこの円通寺で彰義隊や幕臣の為の
法要を行っていた。
高松凌雲君追吊碑
高松凌雲は幕末・明治期の医師。
吉村 昭の「夜明けの雷鳴」では
彼のことがよく描かれている。
正三位勲一等子爵榎本公追吊碑
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日暮里にある日蓮宗の本行寺に歴史を感じた。
本行寺は、大永6年(1526)、江戸城内平河口に建立され、江戸時代に神田・谷中を経て、宝永6年(1709)、現在
地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」ともよばれていた。小林一茶もしばしば当寺を訪れ、
「青い田の、露をさかなや、ひとり酒」などの句を詠んでいる。戦国時代に太田道灌が斥候台を築いたと伝える道
灌物見塚があったが、現在は寛延3年(1750)建碑の道灌のみ残っている。そしてなんといってもここには外国・
軍艦奉行などを歴任し、最後まで官軍と戦った幕臣 永井 尚志 の墓があるのだ。
本行寺の山門。立派な門扉だ。
山門脇にある石碑。
永井尚志の墓。
墓の隣にある東京都教育委員会の説明板。
幕臣三傑に数えられているように幕末から明治維新までの歴史でこれほどいろいろな出来事に係わっている 幕臣の方はいないと私は思う。
・ペリー来航で外務官僚になり大忙し。初の外国奉行になる。
・海軍伝習所の監督する軍艦奉行になる。(生徒は勝海舟や坂本龍馬)
・安政の大獄で家禄没収、隠居差控という重い処分を受ける。
・井伊大老暗殺により、京都町奉行に就任。
・新撰組と近藤らと仲良くなる。
・大目付になり、禁門の変で長州藩主の責任を追及する。
・旗本最高位の若年寄に就任。将軍徳川慶喜へ大政奉還建白を周旋。
・坂本龍馬暗殺で土佐の依頼により新撰組局長近藤勇を呼び出し事情を聞く。
・戊辰戦争勃発。
・鳥羽伏見の戦いで将軍慶喜は江戸に逃げ、後処理を大阪でやる。
・江戸に戻るが江戸城無血開城。
・榎本武揚と品川から榎本艦隊に乗り込み、蝦夷に逃げる。
・函館奉行就任。函館で土方歳三らと共に徹底抗戦。
・敗れて無条件降伏。投獄される。
・明治5年に釈放され、新政府に登用され元老院権大書記官などを歴任。
・その隠居し、明治24年、享年七十六歳で没。
これほど幕末の動乱に係わっている人もいないだろう・・。
外国と日本の力量差を知っており、開国すべきだと分かっていながら、血気に逸る攘夷派を前に、幕府を守る為
には攘夷を行わなければならないと知った京都での日々・・。
結局はその攘夷派が外国の力を借りて強化した軍隊に追われ、箱館戦争まで戦い抜くのだ。
当時蝦夷地は見ず知らずの外国に等しく、そんな所まで行きたくないと脱走する旧幕府軍の兵も多かったのだ
が、永井はいずれ幕府軍が敗れると悟っていたのかもしれない。それでも幕府に最後まで忠誠を尽くして戦い、
いよいよ降伏が決まった時切腹しようとして周囲に止められたこともあった。
そこまで忠義に篤い永井が、幕府を倒した明治政府に仕えたのは何故かと人に問われて、永井は
「ある人(黒田清隆)への義理だ」と答えたそうです。
義の人、永井尚志(なおゆき)に熱く、歴史を感じられる・・。
本行寺(月見寺)
荒川区西日暮里3−1−3
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1655年に建立された日蓮宗のお寺。
本堂隣の大黒堂には日蓮上人が作ったとされる大黒天が鎮守として祀られている。ここは1866年の上野戦争
で敗走した幕府軍(彰義隊)をかくまったため新政府軍の攻撃を受けた。そのとき発砲した弾の跡が今も山門に
残されている。
入り口の門。
荒川区教育委員会の説明板。
官軍(新政府軍)による弾痕後。
門扉、かなり生々しい・・。
門脇にも無数の銃弾後が残る。
上野の山から敗走した彰義隊数千人が日暮里、谷中方面に遁走した。
この辺りはそんなに民家が無かったのでここ経王寺にもかなりの数の彰義隊隊士が逃げ込んだのだ。
彰義隊遺聞によれば、門を閉めたところを銃撃され、最後は斬り合いになったと伝える。
谷中、千駄木、根津、三河島などの方面はかなりのお寺や民家に彰義隊が逃げ込み、銃撃戦や斬り合いを
したそうだが、現存する建物でここまで弾痕が残っているのも珍しい。
境内に入るとすぐ正面に本堂があるのだが、本堂までの参堂でおびただしい斬り合いが行われたのではない
だろうか!?勇ましく悲しき彰義隊隊士の歴史がここに感じられる・・。
経王寺
荒川区西日暮里3-2-6
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