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<近藤勇陣屋跡>
慶応四年(1868)四月一日、近藤勇の率いる新選組は、五兵衛新田の金子家を夜半出立し、翌朝流山に到達した。流山では醸造家長岡屋に本営を置き、入りきらなかった隊士たちは光明院に分宿した。
情報を察知した官軍は流山を包囲。大久保大和と名乗っていた近藤は「流山に兵火を上げることは町の人々を苦しめることになる」としてこの地で自首する。板橋に連行され新撰組局長近藤勇と発覚し、同年四月二五日に斬首される。ここ流山本陣は近藤と土方の今生の別れとなった場所でもある。
陣屋の隣にある秋元稲荷
説明板にはここで、近藤、土方らが戦勝祈願を行ったとされる。
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千葉県
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<本福寺>
1303年開基の寺院本福寺に、嘉永四年(1851)十二月十四日、江戸藩邸を脱して東北旅行に出た吉田松陰
が最初に宿を求めたのがここ本福寺。旧水戸街道からかなり離れたこの寺院に宿泊したのも追ってから逃れる
為に旅籠を避けたのだろう・・。
本福寺。
吉田松陰の「東北遊日記」には、
「この時すでに日は落ち、この松戸宿を欲したが、追捕の手が及ぶのを恐れ、本郷村に至り山を二町ばかり入り本福寺に投宿した。」
とある。 本福寺の門前には、「吉田松陰脱藩の道」という文字と松陰の辞世が記された石碑が建てられている。
又、左には「真然證空居士」という戒名が刻まれている石碑がある。
幕末に水戸藩で改革派の天狗党とそれと対立する保守派の諸生党との抗争の際に、諸生党の密偵であった佐藤久太郎が天狗党側の水戸藩士に小金宿(北小金)で捕らえられ、上本郷で斬首されたことが記されている。
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兼ねてから行きたかった大多喜城に行ってきました。
夷隅郡大多喜町にあるのですが、僕の父側の実家が同じ夷隅郡岬町というところにあり、
何でもご先祖が大多喜城の重臣として仕えたとのことで、格別な思い入れがある城だ。
上総国の戦国大名真里谷怒鑑(じょかん?)が築城。その後、徳川家康が武蔵国に入植すると、この大多喜
は徳川十六将本田忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立。
一度藩主転封により大多喜藩は廃藩にされ、城は荒廃するが、その後の藩主阿部正春の命で再度築城。
明治維新後の廃藩置県で城は壊され、本丸も取り壊されるも昭和50年に千葉県が再築城される。
山城特有の空堀。敵兵が城まで登らないように壁を削る堀。
城内の模型通り立派な山城だ。
本丸後にそびえたつ天守。
天守閣から見下ろした大多喜城下。
城ちかくの良玄寺にある本田忠勝、奥様、息子忠朝のお墓。
息子忠朝は関ヶ原の役で戦死した。
良玄寺の前に忠勝公園なる公園が!
大多喜町がある夷隅郡は山あり海ありと千葉県とは思えないほどのんびりしてかなりの田舎だ。
小学生の時は毎年家族で田舎に帰り、海で遊んだり近くの神社でカブトムシなどを採った。
今回バーチャンの墓参りがてらこの夷隅に来たが、やはり空気もおいしく田んぼが多く、のどかで
いて20年前と変わらない情景が数多く残っていた。
いつの時代、誰が藩主の時に僕の先祖さまが仕えたのかはよく分からないが、もしかしたら
猛将本田忠勝に仕えていたのかもと思うと、浪漫を感じてならない。
僕は渡辺という性だが、本田忠勝の重臣にも渡辺という名字の人はいたし、この大多喜町には渡辺性
が多いのも事実だ。
真相はよく分からないが、御先祖様は大多喜城の重臣だったことは確かなのでそういうことにしておこう!
城自体は山城で雰囲気はいいが、何しろ天守も新しいし、お決まりのように城内は近代的な資料館
になっているので城自体は残念な気がするが、僅かに土塁や当時の石垣、堀の後は残っているので
それなりに楽しめる。
周辺には久留里城、万木城、千本城などの小さな居城があるので毎年墓参りに来るとしよう。
大多喜城
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
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