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旧呉海軍工廠が観光出来る、歴史の見える丘という場所を訪れた。
戦艦大和の塔。
大和進水30年目を記念に作られた塔。
大和の主砲鉄徹甲弾がある。
正岡子規句碑
「軍港 呉かあらぬ 春の裾山 灯をともす」。正岡子規が1895(明治28)年に友人の古嶋一雄氏が海軍従軍記者として軍艦松島で出征するのを見送るため、呉を訪れた際,船から日暮れの休山を見て詠んだもので、子規の筆跡が写しされている。
この歴史の見える丘からは旧呉海軍工廠が見ることができる。写真に写っているトタン屋根の骨組みは当時のまま。大和はこの屋根の下、建造された。
隣のドッグでは海上保安庁の巡視船を建造していた。
かつて東洋1と呼ばれるほどにまで設備を充実させた呉工廠。工員の総数は他の三工廠、横須賀、佐世保、舞鶴の合計を越える程で、ドイツのクルップと比肩しうる世界の二大兵器工場であった。戦艦「大和」を建造するなど多くの艦艇建造を手がけ、日本海軍艦艇建造の中心地であった場所だ。
現在はアイエイチアイマリンユナイテッド呉工場として稼働中。現在も自衛船など建造している。
大和がここで建造されたと思うと何か特別な思いがした。
大和建造時、誰か予想しただろうか?
総数400機からなる米軍戦闘機、爆撃機、雷撃機の波状攻撃を受け、沈没する様を・・。
呉工廠は戦時中にB−29が290機飛来し、凄まじい空爆を受けた(死者約1900名)が、今でも
こうして当時と変わりなく稼働している姿はたくましさを感じる。
大和が存在した証明を後世に伝えるふさわしい場所だ。
米軍航空隊の爆撃で炎上する大和
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/bb/Battleship_Yamato_sinking.jpg/250px-Battleship_Yamato_sinking.jpg
歴史が見える丘
呉市宮原5丁目
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広島県
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呉駅から徒歩で20分程度。情緒あるゆるやかな石畳の上り坂を上がると入船山記念館がある。
ここは旧呉鎮守府司令長官官舎と東郷平八郎旧宅がある。
入船山記念館入口。ここから明治時代にタイムスリップ。
東郷平八郎が呉に在任中(当時海軍大佐)に住んでいた離れ座敷。
自由に上がれる。
旧呉鎮守府司令長官官舎は明治38年竣工。
数々の旧呉鎮守府司令長官がここを居宅にし、執務などをこなした。
有名な長官として日露戦争で活躍した加藤友三郎、鈴木貫太郎(総理大臣)などがいる。
終戦後はイギリス軍司令官長官舎として使われた。
旧呉鎮守府司令長官官舎の入口にある立番所。ちょうど立っている場所の床がすり減って
いる。立ちっぱなしはきついので足を動かす結果、すり減ったらしい。
奥に見えるのが旧呉鎮守府司令長官官舎。
洋館の応接。日本では数個所にしか現存しない金唐紙という壁紙を使っている。
和館の土間。広くてきれいにしてある。
和館住宅部。9つの和室がある。
史跡としても充分楽しめるが、
明治時代の高級で貴重な建造物としてすごく身近に観光できる場所だ。
今回時間を気にしながらの訪問だったので、今度はゆるりと訪問したい場所だ。
入船山記念館
呉市幸町4番6号
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広島市内の知人の結婚式に招待された。
これはチャンス!と思い、兼ねてから行きたかった軍港呉に行ってみようと行動プランを練った。
式は3時から。6時40分羽田発広島行きに乗る為に当日4時半に起床し、急ぎ山手線に乗りこむが、ここで地震発生。暫く徐行する山手線を尻目にイライラしながら、どうにか時間に間に合うも、乗換と空港は猛ダッシュで疲れはてながらギリギリ飛行機に搭乗。
かなりな強行プランだが、これを逃すと暫く広島には行けないと、気を取り直し、呉に向かった。
まずは、大和ミュージアムへ。
呉駅からすぐの所にミュージアムがある。巨大な潜水艦が見えるのは海上自衛隊の資料館。
入るとすぐに戦艦大和の10分の一モデル登場。細部にわたり精巧な作りだ。
戦艦大和誕生から撃沈に至るまで、詳細に勉強出来る。又、呉で造船された戦艦などの資料も数多くある。
ボランティアのガイドの方に話しを聞きながら回ったが、極秘裏に造船された大和の話し、終戦まで呉市民は
大和の存在を知らなかったこと、呉港の空爆の話しなど、とても実のある話しを聞いて、良かった。
又、大和の造船技術は現代の大型タンカー、回転展望レストラン、工業技術など幅広く今でも活用されて
いるというから驚きだ。
そして、私が一番驚いたのは、
当時の大和の乗組員達の間では、大和は既に時代遅れの戦艦という認識があったとのことだ。
アメリカのレーダーや対空砲火の技術進捗の差などからアメリカの航空機が大群で押し寄せたらいかに大和だろうと沈むという認識は既にあったらしい。いわゆる大艦巨砲主義の終焉を当時の海軍はリアルに受け止めていたそうだ・・。しかし、時既に遅し。
亡くなった上官の話しを覚えていた言葉。(生き残った乗組員の証言)
「日本は進歩ということを軽んじた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。
時既に遅しかも知れないが、敗れて目覚めることも必要だ!それ以外どうして日本は救われるか?
俺たちは先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。本望だろ〜!」
ニタ〜と笑う上官を見て、死を覚悟してきたつもりだが、改めて肩の荷が落ち、よし!死のう!
と思ったという。
この時の精神状態でこの発言をする上官はすごいというか、もはや軍神レベルだ。
九州沖に沈む戦艦大和と3000人以上の英霊。
彼らの無言の訓示を、現代の我々はどう生かすかということを改めて考えなければならない。
今の呉港。
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)
〒737-0029 広島県呉市宝町5-20 TEL:0823-25-3017 |

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<広島城>
天正19年毛利輝元の命により築城。毛利家、福島家、浅野家と渡り浅野家14代まで続き明治維新
を迎える。元治元年第1次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。
広島藩は慶応三年(1867)には薩長と共同出兵の盟約を結び倒幕派の先頭を進んでいた。本来であれば維新政府においても薩長土肥に肩を並べる存在であるはずであったが、土佐藩に協力して大政奉還を建議したことが、武力倒幕を目指していた薩長から裏切りと取られ、新政府で重きを成すことができなかったと言われる。
広島大本営跡
維新後、広島城には鎮西鎮台第一分営ついで明治四年(1871)以降広島鎮台が置かれ、明治二十七年(1894)の日清戦争では軍港である宇品港を擁することもあって大本営が置かれた。開戦一ヶ月後の明治二十七年九月から翌年四月までの七ヶ月余り明治天皇はこの地を行在所とした。やはりこの建物も原爆により焼失し、現在は礎石が残っているのみである。
<頼山陽史跡史料館>
頼山陽は江戸後期の歴史家、思想家、文人。
日本史上のベストセラーと言われた「日本外史」の著者であり、多くの幕末の尊皇攘夷家のバイブル本として愛読され、影響を与えた。
頼山陽史跡史料館
元々は頼山陽の父、儒学者頼春水の屋敷があった場所で、現在は頼山陽史跡史料館が建っている。敷地内には頼山陽が幽閉されて、『日本外史』の草稿をまとめたと言われる居室が再現されている。
頼山陽居室
頼山陽は安永九年(1780)に大阪で生まれたが、広島藩の招きで父春水が広島に迎えられると、寛政二年(1790)より史跡史料館のある場所に移り住むことになった。寛政十二年(1800)には脱藩して上京するが連れ戻されて邸内の一室に幽閉された。当時の居室は被爆により焼失し、現存しているのは昭和三十三年(1858)に再現されたものである。
日本外史
平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、徳川氏までの諸氏の歴史が書かれている。伊藤博文、近藤勇の愛読書としてあっことも知られている。
<旧国泰寺跡>
頼山陽史跡史料館から更に南に進んで平和大通りとの交差点、全日空ホテルの前に国泰寺の遺構である愛宕池の跡を見ることができる。国泰寺は安国寺恵瓊が創建したと伝えられるもので、浅野氏が藩主として入国すると浅野家の菩提寺として歴代藩主の尊崇を集めた。やはり原爆により跡形もなくなっているが、相当広大な敷地を有していたことが想像される。
新選組近藤勇は、前後二回広島に下向している。一回目は慶応元年(1865)十一月、二回目は慶応二年(1866)一月。いずれも長州糾問使永井尚志に同行したものである。一回目は近藤のほか、伊東甲子太郎、武田観柳斎、山崎烝、吉村貫一郎、芦屋登、新井忠雄、尾形俊太郎、服部武雄。二回目は近藤、伊東、尾形、篠原泰之進。長州糾問使は国泰寺で長州藩代表宍戸備後助らと会談した。近藤は長州入国を試みたが断られ、空しく帰京することになった。
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出張で初めて広島に行った。広島といえば・・、僕の中ではやはり一番の興味は世界で唯一原子爆弾を落とされ
た都市に興味があったので空き時間を使い原爆ドームと平和記念資料館を見てきた。まずは原爆ドームを拝見。
元々は広島の特産品など陳列したり菓子品評会や美術展などが行われた建物だったそうです。原爆の衝撃波
がほぼ真上から受けたことや窓ガラスが多く爆風を吹き抜けるなどの条件が揃い、倒壊はまぬがれたとのこと。
戦後66年たった今も当時を物語る生々しい遺産だ。そして資料館を見た。率直な感想として日本側の資料もさる
ことながらアメリカ側の原爆投下までの経緯やいきさつなどの資料が豊富だったことに驚いた。でも・・、
正直、何だこれ?という展示物もあったのは確かだ。
どこかのアトラクションのような張りぼて人形で町を再現する展示物。
爆風で焼き焦げた瓦や無数のガラスが突き刺さった後のある壁。
当時を再現する資料としてはどうかな?と僕は思う。
リアルに当時のことをストレートに伝える為にもっと悲惨な資料を展示したほうがいい。
目を覆いたくなるような資料をもっと公開して、いかに原爆がこの世にあってはいけない
ことを伝えてほしい・・。現実当時の資料は山ほどあるはずだ。
何に気を使っているのかは分からないが、風化させてはいけない。
率直にもっとリアルに伝えていくべきだろう。
僕が一番印象に残ったこの一枚の写真。
報道カメラマンの松島さんが原爆投下直後に撮った写真。
『……御幸橋の西詰めの千田町派出所前で、ひとりの警官が一斗缶をぶち抜き、火傷を負った人たちの赤むげの肌に、油をぬって応急手当をしているが、時間がたつほどに、負傷者はぐんぐんふえてくる。よし、ここを写真に収めようとカメラに手をかけたが、ファインダーから見る光景は、あまりにもむごい。……二枚目のファインダーをのぞいたときは涙で目前の被写体がかすんでいた。……』
「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」
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