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姫路

<姫路城>
 
別名白鷺城と呼ばれる。羽柴秀吉が当時の姫路城主黒田官兵衛(如水)の言を入れ、毛利攻めに際して姫路城主となって三層の天守閣を築いた(天正八年 1580)。関が原の合戦後、播磨五十二万石の領主となった池田輝政が慶長六年(1601)から九年間をかけて城郭と城下町を築き上げた。以来、姫路城は美しい五層の大天守と三層の小天守を備えることになった。
 
天守閣
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城内にある武者隠し
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お菊井
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播州皿屋敷で有名なお菊井戸。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
千姫化粧櫓
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姫路城の西の丸に千姫の化粧櫓がある。
千姫は徳川秀忠、お江の長女。
千姫は豊臣秀頼に嫁ぐが、大坂夏の陣で秀頼と死別。本多忠刻と再婚し、姫路城で10年程過ごした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
中村大佐顕彰碑
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中村重遠は天保十一年宿毛の生まれである。明治六年(1873)太政官は全国125の城郭の廃棄を布達した。このとき姫路城は廃棄されることから逃れたものの、老朽化が著しく名古屋城とともに取り壊しが計画されることになった。当時、陸軍省第四局長代理であった中村重遠は、先人の築いた遺産を後世に伝えなければならないと陸軍卿山県有朋に建白し、両城は陸軍の費用で修理保存されることになった。中村重遠は姫路城を救った恩人として、城内に石碑が建てられた。中村重遠は明治十七年(1884)四十五歳で亡くなった。
 


<船場本徳寺>
 
姫路城の南西、白鷺橋近くに船場本徳寺がある。東西本願寺があるように、姫路の本願寺別院も東本願寺派の船場本徳寺と、西本願寺派の亀山本徳寺がある。
 
船場本徳寺
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行在所碑
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明治18年8月8日に明治天皇は伊藤博文、広幡忠朝を連れてこの寺院に宿泊している。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
西南役戦没者慰霊碑
イメージ 8有栖川熾仁親王の揮毫。陸軍少将三好重臣の撰文による。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
姫路藩勤王十二士の墓
イメージ 9この墓碑は藩の尊攘派弾圧により斬首された河合伝十郎、江坂栄次郎両名と切腹した河合惣兵衛、萩原虎六、江坂元之助、松下鉄馬、伊舟城源一郎、市川豊三及びその関係者らの招魂碑らしい。一連の弾圧運動を姫路では「甲子の獄」と呼ぶ。長州の内戦や土佐の弾圧は比較的よく語られるが、幕末のこの時期、日本中の至るところで、血で血を洗う藩内抗争が繰り広げられていた。改めてそのことを思い至らせてくれる。
 
 
 


<姫路藩勤王志士終焉之地碑>
 
塩町大蔵前公園内に姫路藩勤王志士終焉之地の石碑がある。公園のある場所にはかつて牢獄があった。甲子の獄にてここで斬首された八名の遺志を偲び建立されたものである。戦後の占領政策により一旦撤去されていたが、昭和四十三年(1968)、明治百周年を記念してこの場所に復元再建された。
 
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