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「山笑う」季節。おだやかな新緑の山を眺めていると、母親と一緒に薪拾いに行った子供のころを思い出す。
小学校に入学した年の暮れ、大東亜戦争がはじまった。教科書の最初のページは「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」だった。「欲しがりません。勝つまでは」が合言葉になり、大人も子供も戦闘帽をかむり、女の人はみんな粗末なモンペ姿だった。
開戦から3年後の12月8日、2歳を過ぎたばかりの男の子が、ひっそりと死んだ。敵機、B29の編隊は、昼夜を分かたず本土に来襲し、主要都市は灰燼の中にあった。みんな食べ物に飢えていた。むろん薬など、あろうはずもなかった。小さな病室の真ん中にベッドが置かれ、電灯は灯火管制のための黒い布切れで覆われていた。裸電球の明かりは、真っ暗な病室の中で、死んだ子供の上にだけ、丸く輪を描いていた。子供の顔が、そこだけスポットライトを浴びているように見えた。木枯らしが、ごうごうと窓を叩き、母親が声を上げて泣いていた。子供の亡骸に取りすがり揺すっていた。生き返ってくれ。 母親は教師だった。若い男の先生は次々に出征し戦場へ行った。教師は聖職者と呼ばれていた。夜遅くまで学校に居残り、仕事をこなした。自分のことは次の次だった。心身ともに疲れていた。 子守の役目は、兄弟の役割だった。小学校3年生の長男は、幼い弟を乳母車に乗せたまま、いつものように草原で友達と遊びほうけた。たちまち冬の陽は落ち、広場には夕闇が忍び込んだ。寒風が吹き始めていた。母親が帰ってくると、部屋中を駆け回り、絡み付いて大騒ぎして甘える子が、その晩に限っておとなしかった。三日目に、あっけなく死んだ。医者は肺炎だといった。
土葬だった。墓穴に棺を落とすとき、「私が殺したのだ」と母親はいった。 「この子と一緒に埋めてください」「こんなつめたい穴のなかに、この子を置き去りにはできない」。 五年生の夏の初め、七夕の真夜中。アメリカの重爆撃機の編隊が次々と上空に飛来した。新型焼夷弾が炸裂し街は瞬く間に巨大な火柱となって炎上した。幼子を背負い、3歳の女の子の手を引いて業火の中を逃げ惑い、はっと気がついたときに背中の子を落としてきたことに気付いた。おぶい紐が焼き切れていたのだ。「ひろし!」絶叫する若い母親の悲鳴が爛れた空に木霊した。友人の悲しみを物語る母のまぶたは赤く腫れ上がっていた。
悪夢の夜から三日目の朝。父親は東京の連隊に出征した。召集令状がきていたのだ。見送る人もなく、脚絆にゲートルを巻いて、残り火がくすぶる焼け跡の街をぽこぽこと歩いていった。母親は上の子を仏壇の前に座らせていった。「今日からお前がこの家の主人です」。悲壮な決意が表情をこわばらせていた。10歳になったばかりの長男は、だだぼんやりと母親の顔を眺めていた。
その年の夏。やっと戦争が終わった。母親は42歳でこの世を去った。新緑がまばゆい稜線の空を眺めていると、優しかった母親のことを思い出す。
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