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月に2.3度、図書館通いをしている。毎回借り出すのは3、4冊だから読みごろの本がいつも机の上に乗っている。その日の内に一気に読み終えるものもあれば、返却期限が間近になってから、ぱらぱらとページをくくって終わるものもある。
佐藤愛子や五木寛之の本などを片っ端から読んだ時期もあった。高校時代に手にしたモームの「月と六ペンス」や徳富蘆花の「自然と人生」なども懐かしく読み返した夜もある。読み古された文庫本の手触りが、過ぎた時代の空気を伝えていて、なぜかこころが温もった。三田完の「草の花」。佐藤衆一の「黄落」。「他人に自分の人生を支配させるな」などという加藤諦三のシリーズも記憶に残っている。いづれにしてもその時々の気分で、手当たり次第に書庫から取り出しては読み流す。散歩したり空を眺めたり、お茶を飲んだり映画を見たり、旅する列車の窓から移り行く景色を眺めていると同じ感覚である。さまざまな人々の思いや人生が点滅しながら幻燈のようにきらめき流れる。
先日、新刊書のコーナーから「ふがいない僕は空を見た」を手にした。窪美澄という当年48歳の女流作家である。二、三年前に評判になったことは知っていたが、現代風俗とはこんなものかと殊更に感じいった。例年、芥川賞や直木賞が発表されるが、新聞の書評を流し読みするだけで、あえて手にしようとする意欲が沸いてこなかった。なぜなんだろうと思う。おそらく住んでいる世界が違うからなのだろう。
およそ文藝というものは、その時代の人々の意識と息遣いを万華鏡のように反映するものであるとするならば、肉眼で見える今の風景と流れる風は、すでに異界のものというべきではないのか。絢爛と岸辺に咲く花々も、やがて散り果てて人知れず流れ去っていく。
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