「ただし」のブログ 「 あの日、そのとき」。

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ただしの部屋

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朝夕はめっきり涼しくなり、季節は確かな足取りで、やさしく逞しく新しい舞台を繰り広げてくれています。
人生峠の下り坂も残り僅かとなり、いよいよ最後の曲がり角が見えはじめました。あの森を過ぎれば、浮世の沙汰ともお別れすることができると思えば、わけもなくこころが落ち着いてきて、思わずほっとため息がでてきます。
それにつけても思い出すのは、あなたと共に過ごした青春の日々の、あの日あの時の記憶です。なけなしの財布をはたいて買った青いシャツを着て、初夏の日差しが散っている銀座の大通りを、肩を並べて歩いたころが懐かしく思い出されてなりません。なにもなく、先行きの見通しさえもなかったけれども、柳の並木に風がかおり、こころは軽く豊穣だったあのころのことは、遠い昔の幻灯のように、胸の底に廻り続けています。
 
このところ、古い友人たちは冥土の道に足早に去っていきます。初七日の法要の席で語りあうのは、白雲なびく青春の懐旧談。いつの間にか自責と後悔の迷路に迷いこみ、寂しさが募るばかりです。          
中学卒業の送辞のなかで、人生はいばらの道だと語ってくれた国語の教師がいましたが、ふりかえれば、よくぞここまで生き延びてきたものだと我ながら呆れています。 おかげさまで、親からもらったからだだけは達者で、今のところ医者にもかからず、ほとんど薬も飲んだことはありません。
それにしても、浮世は苦娑婆の言葉通り、現役を退いたとはいえ、世間の沙汰は、あとからあとから追いかけてきて、積み重なった悪行のあと始末に、あと一歩、あと一歩と、ウンウン唸りながら日を送っています。
 
なにか愚痴めいた話になってしまいましたが、そうは言いながらも、ここまできたら何事にも逆らわず、修行僧の心境で、目の前のことは何でもありのままに受け入れて、あのころのように、晴ればれとした気持ちで生きたいものと、朝夕こころの中で念じています。
 
今朝は、子供たちの早朝ラジオ体操に出かけてきました。
まだまだ、暑い日が続きます。お体に気をつけて乗り切ってください。
 いつか、お目にかかる日を楽しみに。
 
  
 
 この秋は 雨か嵐か知らども、 
 今日のつとめに田草とるなり。
 
 
 
 
 https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/ed/ea/samarino501/folder/1466850/img_1466850_57679889_0?1240445249.gif
 

七夕の夜。

 
 
 
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    学園祭のひととき。ここにあるのは遥か遠く続く未来への時間と衝動。
 
 
 
 山峡の城下町の梅雨が開けた。
 日輪は高く紺碧の空に輝き、気温は一気に32度を越えた。           
 今日は七夕。いよいよ本番の夏がやってきた
 
 
 いまから68年前のこの日。先の戦争が終結するひと月半前の深夜、アメリカ空軍の重爆撃機の編隊がこの街を襲った。わずか四時間余りの間に、市街地のほとんどが灰燼に帰し、千百余名の人が焼け死んだ。その多くは子供と女姓と老人だった。若者や大人は戦場か軍需工場に駆り出されていた。サイパンも沖縄も落されて戦況は日々厳しさを増し、街のあちこちに、いよいよ本土決戦の時が来たという悲壮感が漂っていた。決死隊、玉砕、大和魂、などという言葉が日常の紙面に躍り、連日、特攻隊の華々しい戦果が報じられていた。こころのどこかで、いつかやってくる「殉国の死」を覚悟していたにしろ、絵空事でない阿鼻叫喚が渦巻くこの夜のありさまを、いったい誰が予想できたであろう。 
 
 まさに一木一草もなく焼け尽くされたガレキの原野に黒煙と異臭が漂い、路上には黒焦げになった遺体が断末魔の姿のまま転がっていた。幼な子をしっかり胸に抱きかかえたままの姿で焼け死んでいる母親を見た。焼夷弾の直撃を受けた遺体は見るも無残だった。
 
 東日本大震災に合わせて思う少年の日の記憶は、いつまでも手のひらの中にある。戦後68年。過ぎ去った時間は、なんと儚く短いものなのであろうか。この国の明日を占う参議院選挙が始まっている。これからの未来へ続く時間の、途方もない重く長い道のりを思う。
 
 
 
 
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  遠い昔に忘れ去られた一枚の写真がある。
 少年は焦土となった市街の道をここまで歩いてきた。焼け跡には余燼がくすぶり、アスファルトの道は溶けて波打っていた。町中から集められた遺体は公園の広場に積み上げられて、近郊の警防団の手にによって次々に荼毘に付されていった。
 少年は、すでに冷たくなった背中の妹を弔うためにここにやってきた。
 燃え盛る紅蓮の炎を前にして、いつまでも直立不動の姿勢を崩さずに立ち続けている。見かねた大人が、こどもを背中からおろし、荼毘の火の中にそっと重ねた。それでも少年は直立不動の姿勢を崩さなかった。       
 あれから68年。裸足の少年はどこにいったのか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

百年前の教科書。

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    図書館で加藤咄堂の「大乗仏教百話」第10版を見つけた。初版本は明治33年10月10日発行である。定価は金40銭。B5版150ページ。紙質は昔懐かしい藁半紙で、全文にルビが振られている。
 仏法の入門書とあって解説はきわめて簡明率直。難解な仏教用語を噛み砕くように平易な表現で語りかける。最初のページに「仏法は、転迷開悟、離苦得楽、止悪修善を目的とする」とあり、真善美を具えた人間の完成を目指すと説く。著者の言葉を借りれば「大乗仏教の大意を俗談平話に綴った」問答集ということである。黄ばんだ表紙に若い仏教学徒が手にした時代の手触りと百年の星霜が滲んでいる。
 
 
 
 
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 総論に続く転迷開悟の第2章では、「14話・仏教の所詮は何でありますか」の問いに答え、続いて「15話・迷いといい悟りというのは何でありますか」について考えながら百話を語りつくしていく。                  第3章〔止悪修善〕第4章〔離苦得楽〕。第5章では仏教の伝播と歴史に触れている。老師の仏教興隆への熱い思いが行間に溢れて胸を打つ。      窓外の緑を映して風が流れる法堂で、師と向かい合っている思いを込めて、静かに耳を傾けたいと思う。
 
 
 
 
 
加藤咄堂 かとう-とつどう 
1870−1949  明治-昭和時代の仏教学者,布教家。
明治3年11月2日生まれ。島田蕃根らに師事して明治30年代に太子信仰の上宮(じょうぐう)教会の講師となる。雑誌「新修養」(のち「精神」),「こころ」を主宰。昭和3年中央教化団体連合会の結成にくわわり,講演と著述で仏教の大衆化につとめた。昭和24年4月2日死去。80歳。京都出身。英吉利法律学校(現中央大)卒。本名は熊一郎。著作に「大乗起信論講話」「維摩経(ゆいまぎょう)講話」など。
 
 
                    
 

流れ去るもの。

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  月に2.3度、図書館通いをしている。毎回借り出すのは3、4冊だから読みごろの本がいつも机の上に乗っている。その日の内に一気に読み終えるものもあれば、返却期限が間近になってから、ぱらぱらとページをくくって終わるものもある。
 佐藤愛子や五木寛之の本などを片っ端から読んだ時期もあった。高校時代に手にしたモームの「月と六ペンス」や徳富蘆花の「自然と人生」なども懐かしく読み返した夜もある。読み古された文庫本の手触りが、過ぎた時代の空気を伝えていて、なぜかこころが温もった。三田完の「草の花」。佐藤衆一の「黄落」。「他人に自分の人生を支配させるな」などという加藤諦三のシリーズも記憶に残っている。いづれにしてもその時々の気分で、手当たり次第に書庫から取り出しては読み流す。散歩したり空を眺めたり、お茶を飲んだり映画を見たり、旅する列車の窓から移り行く景色を眺めていると同じ感覚である。さまざまな人々の思いや人生が点滅しながら幻燈のようにきらめき流れる。
 先日、新刊書のコーナーから「ふがいない僕は空を見た」を手にした。窪美澄という当年48歳の女流作家である。二、三年前に評判になったことは知っていたが、現代風俗とはこんなものかと殊更に感じいった。例年、芥川賞や直木賞が発表されるが、新聞の書評を流し読みするだけで、あえて手にしようとする意欲が沸いてこなかった。なぜなんだろうと思う。おそらく住んでいる世界が違うからなのだろう。
  およそ文藝というものは、その時代の人々の意識と息遣いを万華鏡のように反映するものであるとするならば、肉眼で見える今の風景と流れる風は、すでに異界のものというべきではないのか。絢爛と岸辺に咲く花々も、やがて散り果てて人知れず流れ去っていく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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「山笑う」季節。おだやかな新緑の山を眺めていると、母親と一緒に薪拾いに行った子供のころを思い出す。
 
 小学校に入学した年の暮れ、大東亜戦争がはじまった。教科書の最初のページは「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」だった。「欲しがりません。勝つまでは」が合言葉になり、大人も子供も戦闘帽をかむり、女の人はみんな粗末なモンペ姿だった。
 
 開戦から3年後の12月8日、2歳を過ぎたばかりの男の子が、ひっそりと死んだ。敵機、B29の編隊は、昼夜を分かたず本土に来襲し、主要都市は灰燼の中にあった。みんな食べ物に飢えていた。むろん薬など、あろうはずもなかった。小さな病室の真ん中にベッドが置かれ、電灯は灯火管制のための黒い布切れで覆われていた。裸電球の明かりは、真っ暗な病室の中で、死んだ子供の上にだけ、丸く輪を描いていた。子供の顔が、そこだけスポットライトを浴びているように見えた。木枯らしが、ごうごうと窓を叩き、母親が声を上げて泣いていた。子供の亡骸に取りすがり揺すっていた。生き返ってくれ。                                       母親は教師だった。若い男の先生は次々に出征し戦場へ行った。教師は聖職者と呼ばれていた。夜遅くまで学校に居残り、仕事をこなした。自分のことは次の次だった。心身ともに疲れていた。                                     子守の役目は、兄弟の役割だった。小学校3年生の長男は、幼い弟を乳母車に乗せたまま、いつものように草原で友達と遊びほうけた。たちまち冬の陽は落ち、広場には夕闇が忍び込んだ。寒風が吹き始めていた。母親が帰ってくると、部屋中を駆け回り、絡み付いて大騒ぎして甘える子が、その晩に限っておとなしかった。三日目に、あっけなく死んだ。医者は肺炎だといった。                              
 土葬だった。墓穴に棺を落とすとき、「私が殺したのだ」と母親はいった。 「この子と一緒に埋めてください」「こんなつめたい穴のなかに、この子を置き去りにはできない」。
 
五年生の夏の初め、七夕の真夜中。アメリカの重爆撃機の編隊が次々と上空に飛来した。新型焼夷弾が炸裂し街は瞬く間に巨大な火柱となって炎上した。幼子を背負い、3歳の女の子の手を引いて業火の中を逃げ惑い、はっと気がついたときに背中の子を落としてきたことに気付いた。おぶい紐が焼き切れていたのだ。「ひろし!」絶叫する若い母親の悲鳴が爛れた空に木霊した。友人の悲しみを物語る母のまぶたは赤く腫れ上がっていた。
 
悪夢の夜から三日目の朝。父親は東京の連隊に出征した。召集令状がきていたのだ。見送る人もなく、脚絆にゲートルを巻いて、残り火がくすぶる焼け跡の街をぽこぽこと歩いていった。母親は上の子を仏壇の前に座らせていった。「今日からお前がこの家の主人です」。悲壮な決意が表情をこわばらせていた。10歳になったばかりの長男は、だだぼんやりと母親の顔を眺めていた。
 
 その年の夏。やっと戦争が終わった。母親は42歳でこの世を去った。新緑がまばゆい稜線の空を眺めていると、優しかった母親のことを思い出す。
 
 
 
 

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