|
人は、ひとりでは生きていけない。
まことに、当たり前のことなのに、あたりまえ過ぎて普段はまったく気がつかない。人を押しのけて、自分勝手のことばかり、我儘のし放題である。それでいて、いつもなにか重苦しい気分を抱え込んでいる。「隣の芝生」に追いかけられて、俺がオレがと息を弾ませているように見える。
スーパーのレジで「ありがとうございます」と頭をさげてお礼を言うのは売り手の側で、お客さまは至極当たり前の態度で横柄に構えて返事もしない。蛇口をひねれば水が出る。カネを払っているのだから、あたり前だ。いちいちありがとうなどといっていられるか。出なければそれこそ大問題だ。水道局に談じ込んで損害賠償を取ってやる。先日、ファミレスの店内で責任者を出せと大声を張り上げていたご仁を見た。
なにはともあれ、こうして毎日つつがなく暮らしていけるのは、まことに有り難いことである。人間の命は何よりも尊いが、反面、あまりにもはかなく弱いものであることも知っている。傲慢とは、ありがたさを忘れることであると思う。今日こうして、生きることができるのは、自分を取り巻くすべてのものに支えられている「おかげさま」である。
このところ早朝と夕方の門前清掃を日課にしている。50メートル先のミニ公園に桜の古木があって、衣替えのこの時節、盛んに落葉している。目通りの道路を30分あまりかけて丹念に掃き清める。ついでに公園の花壇の世話と水遣りをする。犬を連れた人が通る。バス停に急ぐ早出の勤め人が通り過ぎる。この通りを散歩のコースにしている老婦人と顔なじみになった。見かけると、どちらからともなく「おはよう」と声を掛け合う。それだけのことだけれども晴々と、なぜか気分爽快である。絆という言葉がお流行りであるが、お互いにどこかで繋がっている安心感がある。ぼつぼつ「あの人が通るころだな」などと気持ちのどこかで待っているものがある。 子供たちの秋の大運動会。地域の自治会の運動会もあった。人々が集いこころを寄せ合う。人間ってあったかい。理屈なしにそう思う。
菩提寺の和尚の口癖に「人間本来ほとけなり」というのがある。一人ひとりが、みんなそれぞれ一つの純粋無垢な仏さまを抱いている。人に逢う時には、手を合わせてその仏さまを拝んでいこう。ありがとうと手を合わせて拝んでいこうと教えてくれた。この秋、なにかストンとこころに落ちるものがある。なぜかわからない。わからないが、このところ胸の中のつっかえ棒がポロリとはずれて、さっぱりした気分である。
人間って、あったかい。家族っていいな。友達っていいな。生きているっ ていいな。なぜかむしょうにそう思う。みんなみんなありがとう。
人は、ひとりぼっちじゃ生きられない。
|
想い出の花束
[ リスト | 詳細 ]
|
そーたんの運動会が終わって、秋色が日ごとに濃くなっていく。
毎朝6時に雨戸を開け放って一日が始まるのが日課だが、東山の暁光が日ごとに遅くなってきた。つい先ごろまでは同じ時刻に、眩い早朝の光線が部屋いっぱいに躍り込んできたのに、あたりはいまだ醒めず、乳色の霧の中に沈んでいる。下駄を突っ掛けて庭に出る。
夏の終わりに種を播いた遅咲きの百日草が、背伸びをしながら橙色に滲み始めた稜線に、真紅の花弁を開いている。透明に澄みわたった青い空は、巻雲を棚引かせながら今日の天気を告げている。こころを悩ますものはなにもない。四囲の山々は、清冽に姿を整えて見事である。
そーたんは、間もなく小学校の一年生になる。利発で元気な5歳の男の子だ。 煩悩に追われて、あくせく這いずり回っていたあのころの暮らしを思い出す。すべてなるようになるといった菩提寺の和尚も歳をとった。一日一日は平凡な日々の繰り返しだが、5年の春秋はすべてを流し去って新しい今日一日を用意している。幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学と、5人の子供たちはそれぞれのポジションでがんばっている。それだけこちらも歳をとったということか。
人生90年時代到来と新聞に見出しが躍る。これからが本番の舞台ということなのだろう。健康診断の定期検査ですべてAランクのお墨付きをもらった。死ぬまで前を向いて歩き続けなければなるまい。人生楽ありゃ苦もあるさ。涙のあとには虹もでる。思わず水戸黄門道中記の鼻歌が口をついてでる。
先日、次男の高校の強行遠足があった。目的地に向かって一昼夜歩き続ける伝統行事である。振り返ってみれば、あの夜のあの道を、今日まで歩き続けたのだと思う。どんなに苦しくとも、一歩足を前に出せ。やればできる。人間は精神だといった漢文の教師の四角い顔が浮かんでくる。亡くなって何年になるのだろう。「自分で自分に引導を渡す馬鹿ものにだけはなるな」が口癖だった。
人生意気に感じて突っ走った季節もあったよな。
窓の下でこおろぎが鳴いている。漆黒の空遠く下弦の月が輝いている。
|
|
結婚式の記念に、希望という名の薔薇の苗をいただいた。
玄関先の、日当たりのいい場所に植えた。
庭の一隅が、俄かに明るくなった。
ギリシャ神話のパンドラの寓話を思い出している。
大切に育てようと思う。
ここには、信頼や思いやりや、優しい爽やかな勇気が満ちている。
「希望」という言葉が生きている。
|
|
三歳になったばかりの春四月。母親が死んだ。
翌年の正月に、若い継母がやってきた。
その次の年の春に女の子供が生まれ、間もなく叔母の家に養子に出された。夏の初めだった。川沿いに続く道の傍に、ところどころ黄色いタンポポが咲いていた。
桜が散って青葉の季節になると、いつもその時のことを思い出す。
残雪が連なる西の山の稜線の空に向かって、「おかあさん」と呼んでみる。
いつかきっと会える日がくる。
もう少しのがまん。
|
|
駅の売店に新しい年の手帳が並んでいる。 一日一日、目の前に現れては消えていく「今日の出来事」に、思いを乗せて向き合ってきた。 使い古した今年の手帳の断片には、その日そのときの想いが滲んでいる。 日々に生まれて、去っていった幾つかの風景が幻燈写真のように思い出されてくる。 「すべては生まれ、消えていく」。 よろこびも悲しみも・・・・。まさに森羅万象、諸行無常である。 昨日は今日に移動し、明日は今日に連続していくと思うのは、錯覚なのではないかと云った人がいる。 過ぎ去ったものは、二度と取り返すことはできない。「日々に新たに」という言葉があるが、生きていく ということは、その一瞬一瞬を新しく生きていることに他ならない。苦しいことや辛いことがあると、い つもその言葉を思い出している。 明日から師走の日々が始まる。 今日の朝刊によれば、今年の国の税収は不況の波をモロにかぶった影響で、年初の見込みから9兆円の減 収となり、当てにしていた46兆円から37兆円まで落ち込むことになりそうだという。 新年度の国家予算は、概算で95兆円は必要と算定されているから、差し引き58兆円が足りない計算だ。 霞ヶ関の「埋蔵金」などの税外収入や行政の無駄無理を洗い出す「仕分け作業」で、どこまで圧縮できる のかが問われているが、いずれにしても年間収入の2倍以上に膨れ上がった原資は、すべて国債という借 金でまかなうことになる。民間企業の経営では遠くの昔に倒産だ。消費は大巾に落ち込んでデフレ不況が 進行し、新卒の就職戦線は一段と厳しさを増している。公務員のボーナスも今年は大幅に削減されるらしい。 今年はどんな暮れになるのか。 駅前の商店街にクリスマスツリーが点灯した。 悲観することも楽観することもなく、ありのままの風景の中を自分の足で歩いていく。幸せの物差しは自 分のこころが決めるものだと自分にいい聞かせている。生き甲斐は、暖かく迎えてくれる家族の団欒。金 もなく地位も名誉もないが、貧乏だとは思っていない。今日の糧があり、帰る家がある。 駅前の雑踏から吐き出されて、辿るわが家のビルの谷間の茜空に、街角のイチョウの老いたピエロが、お どけた仕草で、黄金のカードを撒き散らしているよ。 朝日を浴びた庭先の水場で小雀が遊んでいる。世はすべて事もなし。 <object width="480" height="385"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/Wv16ZSpM6OQ?fs=1&hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/Wv16ZSpM6OQ?fs=1&hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object>
|






