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戦死した軍人、軍属・・・230万人。 空襲や原爆で亡くなった人々・・・80万人。 身元不明の無縁仏・・・・35万人。 天皇陛下は「歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共 に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の 一層の発展を祈ります」と述べた。 漆黒の闇の空に、まるい月が出ている。 死者は、なにを思っているのだろう。 風もないのに、窓のカーテンがゆれている。 |
平和の鐘。
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戦争が終わりかけた1945年の七夕の夜。 制空権を握った米国の爆撃機が、突如、盆地の街を襲った。 米国は、日本全土の都市を目標に、無差別爆撃を連日連夜、強行していた。 東京、大阪など主な大都市は壊滅していて、地方都市に攻撃の刃が向けられていた。 蒸し暑い夜だった。 窓を開け放し、家族全員が蚊帳を吊って寝入っていた夜11時54分。 空襲警報のサイレンでたたき起こされた。窓から見上げる東の空は赤く燃えていた。 「わたしはここに残る」と手こずる祖母を引きずるようにして、子供を背負った母親は家 を捨てた。防火用水も消火訓練も、何も役に立たなかった。 頭上で焼夷弾が炸裂し、火を噴きながらバラバラと音を立てて降ってくる。 飛び散った爆弾の破片が、ヒューヒューと空気を切り裂く。 辻々の家が、たちまち紅蓮の火柱となって燃え上がる。 柱が倒れるたびに火の粉が舞い上がり、空気は膨張し焼け爛れ、熱風が襲い掛かる。 わが子を見失った若い母親の絶叫が聞こえる。 無差別爆撃とは、「皆殺し」のことである。 970トンもの焼夷弾が一度に投下され、その夜、1、127人が焼け死んだ。 市街地は跡形もなく灰燼となり、焼け焦げた黒い死体が瓦礫のあちこちに転がっていた。 やがてヒロシマ、長崎にも原爆が投下され、人間も鳥獣も草も木も、生きとし生けるもの のすべてが、一瞬のうちに消滅した。 「皆殺し」 おじいさんの胸の底には、どんな修羅場の光景が映っているのだろう。 おじいさんは、なぜか多くを語ろうとしない。 今もなを、世界のあちこちで硝煙が上がり、銃弾が飛び交っている。 戦争は「殺し合い」である。 |
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国民の多くは、口にこそ出さないが、イラク戦線での航空自衛隊の空輸活動について「な んだか変だ」と思っている。 「人道的復興支援」といいながら、多国籍軍の武装兵士を戦闘地域のバクダットに空輸し ているからだ。実際の戦争では前線で銃器を撃ちあうまでもなく、戦闘態勢に組み込まれ る兵員輸送は明白な軍事行動に他ならない。 現実に、日本の自衛隊が輸送した兵士や武器で、たくさんの人の血が流されている。 名古屋高裁の今度の判断は、常識的にも当然のことだ。 もやもやした「胸のつかえ」がおりた気がしている。 派遣を可能にした「特措法」は、小泉内閣が衆議院の圧倒的多数の力で押し通したもの だ。今となっては、なんか子供騙しのようだが、もっもとイラク戦争は、独裁者の元フセ イン大統領が大量の破壊兵器を準備して、世界平和の破壊を目論んでいる。これを見逃せ ばたいへんなことになるいうのが言い分だった。 世界の平和を守るために・・・・・!。 「わが国だって、いつ、どうなるかわからない」 緊急事態に対処するために、強引な憲法解釈で押し通した。結果は見ての通り。 なんと明快で、格調高い判決だろう。 世界に誇る日本憲法が凛として輝いて見える。 前首相の小泉純一郎は、国会答弁で戦闘地域の定義について「どこが非戦闘地域で、どこ が非戦闘地域か、いま私に聞かれたってわかるはずがない」とトボケて見せた。 過ちを改めるのに、遠慮はいらない。 戦争はしてはいけない。 戦争に手を貸してはいけない。 たとえ、どんなことがあろうとも、 子供や、孫たちを戦場へ送ってはいけない。 不戦の誓いを忘れてはいけない。 戦争は、もう懲り懲りだ。 おさな児を背負い、夢中で戦火を逃れ、われにかえって気がつけば、 いつの間にか、負ぶい紐が焼き切れていた。どこに落としてしまったのか。 「ひろし!」。 |
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アメリカ人死者・・約4000人 負傷者 約3万人
イラク人死者・・・10万人〜100万人 難民 400万人 イラク戦費・・・・$1,000,000,000,000 =1兆ドル =100兆円 過ちは、繰り返してはいけない。 「殺し合い」は、もうたくさんだ。!
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昭和16年12月8日。日本は米英両国に宣戦を布告した。第二次世界大戦の始り である。その日は朝から軍艦マーチが鳴り響き、アメリカ海軍最大の極東軍事基地、パー ルハーバーでの大戦果のニュースに国中が沸きかえった。今から64年前のことである。 開戦から3年後の12月8日、2歳を過ぎたばかりの男の子が、ひっそりと死んだ。 敵機、B29の編隊は、昼夜を分かたず本土に来襲し、主要都市は灰燼の中にあった。 みんな食べ物に飢えていた。むろん薬など、あろうはずもなかった。 病室の真ん中に、ベッドが置かれていた。電灯は灯火管制のために黒い布切れで覆 われていた。 裸電球の明かりは、真っ暗な病室の中で、死んだ子供の上にだけ、丸く輪を描いていた。 そのために、子供の顔が、スポットライトを浴びているようにように見えた。木枯らし が、ごうごうと窓を叩き、母親が声を上げて泣いていた。子供に取りすがり揺すってい た。 生き返ってくれ。 母親は教師だった。若い男の先生は次々に出征し戦場へ行った。教師は聖職者と呼ばれて いた。心身ともに疲れていた。夜遅くまで学校に居残り、仕事をこなした。自分のことは 次の次だった。 子守の役目は、兄弟の役割だった。 小学校3年生の長男は、幼い弟を乳母車に乗せたまま、いつものように草原で友達と遊び ほうけた。たちまち冬の陽は落ち、広場には夕闇が忍び込んだ。寒風が吹き始めていた。 母親が帰ってくると、部屋中を駆け回り、絡み付いて大騒ぎして甘える子が、その晩に限 っておとなしかった。三日目に、あっけなく死んだ。医者は肺炎だといった。 土葬だった。墓穴に棺を落とすとき、「私が殺したんだ」と母親はいった。 「この子と一緒に埋めてください」。「こんなつめたい穴のなかに、この子を置き 去りにはできない」。 毎年、12月8日になると、このときのことを思い出す。 まるで映画のシーンのように。 鮮明に。 |

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