作業療法士のひとりごと。^^)

多忙な日々になるでしょう。たぶん。。。

忘れられない方

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私が病院や老人保健施設で働いていた時に出会った患者さんで、
今も記憶に残っている方々のことです。
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今も忘れられない方々の4

1.怪我とリハビリ(歩行練習)

 Aさん(当時38才)は、統合失調症でした。
 閉鎖病棟に入院しており、「尿や血が逆流している」とか陽性症状もかなり残っていました。

 ある日、患者さんどうしで喧嘩になり、頭を強く打撲して、硬膜下血種だったと思いますが・・
(うろ覚えですみません)寝たきりの状態でした。

 主治医のK先生より「歩けるようにして欲しい」というオーダーがあり、保護室のベットサイドから
 始めて・・・

 ”平行棒につかまっての歩行練習”・・”杖での歩行練習”と行っていき、最終的には、怪我を
 する前と同じように歩けるようになりました。

 頭を打ったことが、”ショック療法”的な効果があったのでしょう。。
 陽性症状は、すっかり消失してました。

2.社会復帰に向けて・作業療法〜援護寮へ

  マンツーマンの身体的な訓練の間に、私との信頼関係も築けていたので、他の作業療法を
 導入しました。

 グループでの調理実習を何回か行いました。(独身でもあったため)

 本人さんの希望もあったため個別の”ワープロ”の練習にも取り組みました。
 (確かPCが98で一太郎のVer4くらいの頃です)

 元々、大卒で証券会社で働いていたくらいの能力のある方でしたから、ワープロ検定の3級くらいは
 受かりそうなワープロ操作が出来るくらいになりました。

 詳しい経過は忘れてしまいましたが、陽性症状も陰性症状もなくなり、”ちょっと引っ込み思案”の
 お兄さんくらいの状態像になりました。

 主治医の判断で、隣接する生活訓練施設・援護寮に移りました。

(援護寮という所は、共同で食事を作ったり、軽作業などを行いながら社会復帰に必要な
 技能の再獲得をするような場所です)

 経過も良好で、ほどなく退所され首都圏の実家の方に戻って行かれました。

3.その後の経過(当初)

  首都圏に戻られてからは、外国人向けの日本語教師などをやられていたみたいでした。

 (これも経過がうろ覚えなのですが)

 何故か私の自宅の住所(茨城県の)や携帯の電話番号も教えてあったのです。

 年に何回か手紙や電話をかけてくる事がありましたが、”服薬の必要”もなくなり”病院とは縁”の
 切れた生活になったようでした。

 本人いわくすべて順調とのことでした。

 数年後、たまたま何かの用事で水戸にいくことがあるとのことで、東京に戻る途中に
「お会いできませんか?」というので、土浦駅の居酒屋で1杯飲んだ記憶があります。

4.その後の経過(至る現在)

 その飲んだ時に言われたのですが

Aさん:「K(先生)を裁判で訴えてます」
    「あの扱いは許せません」
    「ゆうたんさんにも、裁判所で証言して欲しい」と頼み困れました。

    本人の言っている内容は、妥当性があるように思えましたが・・・

 私:「確かにK先生にも、問題はあったかもしれないけど・・・」

   「自分を育ててくれた病院に足をむけるようなことはできないよお・・(正直に困った)」
   
   「Aさんも、もう40過ぎてるんだから、過去に捉われてほじくり返すことより
    前向きな行動を多くとったら・・どうなんだだろう?・・お父さんもいい歳なんだし・・」
 
   と可哀想だとも思いましたが、丁重にお断りしました。

  何年か後に、「裁判で勝訴できそうです」と電話をもらいましたが。。
  
  その後、現在に至るまで音信不通な状況です。
 (自宅電話番号にかけてもダメ、かかってくることもなくなりました)

※統合失調症の方を多く受け持ちましたが。

(多くの方は入退院を繰り返すことが多かったです)
 
 閉鎖病棟→開放病棟・作業療法→援護寮・福祉ホーム→退所→社会復帰

 という順調な流れで、社会復帰された方は、

 私の精神病院勤務時代の6年間で”この方1人”だけなのです。

 社会復帰されたことは非常にうれしいことなのですが・・・

 最後の結末が、少し残念でたまりません。

 普段は、忘れているのですが・・TVや新聞記事で”統合失調症”を耳にすると
 不思議と思い出す方なのです。

 裁判云々はともかく、今も元気でやっていて欲しい、と思う次第であります。(・・・合掌&祈り)
 

 忘れられない方のその3です

1.リストカットと自殺

 12年くらい前の話です。
 私の住む県の県北の洞窟で、Hさん(40歳)は自殺を図りました。
 ナイフで胸を刺し、左手首を切りました。
 県北の基幹病院で応急処置をされ、
 
 手首の手術のため、私の所属する法人の総合病院に搬送されてきました。
 左手首の手術をするためです。
(正式には左屈筋腱再建手術といいます。切れてしまった筋肉や神経を
 つなぎ合わせる手術です)
 
 2.転院の手のリハビリ

 このHさん、もともと精神分裂病(今は統合失調症です)の既往があったため
 精神科のある法人系列の私の勤める病院の閉鎖病棟に転院してきました。

  ある日突然、私、当時の医長によばれまして「おーい、ゆうたん、お前OTだろ!
 手の外科のリハできるよな、頼むわ。任せるわ」
 (ちょっと待ってよ!手の外科のリハなんてもったことないのに勝手に気分できめるなよ・
 と思いましたが・・チャランポランなY医長でも上司ですので仕方ありません)

  幸いにも、系列病院のリハ勉強会で接点のあった整形外科のI先生に電話で相談しましたところ、
 詳しい術式や今後のリハ訓練のメニュウを丁寧に書いて送ってくれました。
 同じ医者でも、こういう先生は、非常にありがたいものです。
 
  閉鎖病棟のベットサイドでリハビリを開始しました。
  内容的には、簡単に説明しますと、ギブス固定して短縮してしまった手首や指を曲げる筋肉を
  引っ張って伸ばしてゆく方法です。

 Hさんのマンツーマンで訓練開始です。
 指を伸ばしながら雑談をするわけです。(夏場でしたので・・)

 私:「高校野球見てる?」
 H:「ああいう電波ものだめなんですよ」
 私:「なんで?」
 H:「頭の中の自分の考えが取られてしまうんですよ」
 私:「そうか。それじゃあ。困るよね。見ない方がいいよ」
 なんて会話をしながら訓練をしておりました。(笑)
(こういう場合は、妄想とかの陽性症状は否定しては、よくないのです)

3.悪性症候群と回復

 手や手首の動く範囲が6割くらいに回復したころでしょうか。
 Hさんが、運悪く「悪性症候群」になってしまい保護室に転室になってしまいました。

※悪性症候群とは
 抗精神病薬治療中に原因不明の発熱、意識障害、筋硬直や振戦などの錐体外路症状及び発汗、尿閉などの自律神経症状を呈し、適切な治療が行なわれないと死に至る重篤な疾患である。1960年フランスのDelayなどにより"syndrome maline"として報告され、英語圏においては"neuroleptic malignant syndrome"と呼ばれる(以下NMS)。わが国では1974年に最初の報告がある。 当初、抗精神病薬の重篤な副作用として議論を呼んだが、最近では抗精神病薬だけでなく、抗 うつ薬による症例、 L-dopaなどの抗パーキンソン 病薬の中断による症例、リチウムによる症例、抗ドパミン剤投与による症例なども報告されている。(文献より抜粋)

 幸いにも悪性症候群は治りました。
 そして、不思議なことに、今まであった陽性症状(妄想など)も消えてしまったのです。
 そして、訓練が再開されます。

 以前の会話と違って現実的な会話になってるんですね。不思議と。
 H:「ゆうたん先生は、タイとかいったことあります?」
 私:「いやあ、海外は佐渡島と小笠原諸島くらいしか行ったことないけど(笑)」
 H:「いいよお。10万円もあれば、半年くらい滞在できるんですよ。食い物もいいし」
 私:「そうなの」
 H:「何年前だったか忘れたけどね。物価が日本の10分の1くらいだったよ」
 私:「そうなんだあ。いってみたいなあ」
 なんて会話をしながら訓練をするわけですね。

 その後、退院が決まり、リハビリは系列病院の整形外科のリハで継続することになりました。
 Hさんのことをすっかり忘れて日々の業務を行っていた時ばったり開放病棟の入り口で
 会いました。
 私:「どうしたの」
 H:「いやあ、弟が入院して、それで面会に来たの」
 私:「電車で来たの?」
 H:「車できましたよ」
 私:「車で?」(ちょっと手みせてくれる?)と聞いて、
   左手の状態を診ましたが後遺症が全くない状態になっていました。
 私:「今はどうしてるの?」
 H:「親父と一緒に不動産関係の仕事してるよ」
 私:「よかったね」

 そんな会話をして、その場を分かれました。
 私の在職中に再入院されることは、ありませんでした。
 きっと。今も元気にやってくれてることを祈るばかりです。

 個人的には、貴重な経験になってます。
 なにせ、「手の外科のリハ」は、現在までもこの方だけの経験しかないからです。
 ある意味で”チャランポランY医長”に感謝!!なのです。

忘れられない方の2

やはり10年以上前のことになります。当時の私は病院のスタッフでした。

1.ある日、精神分裂病(現・統合失調症)の疑いで、16歳の男性の方が入院
 されてきました。さほど、深い関わりのなかった患者さんでしたが、
 ある日突然、病院の近くを通るJRの特急電車に飛び込んで、残念なことに
 亡くなってしまったことが、ありました。

 当時の担当医は、医長でもあり、実力もある先生だったので
 自信をもって治療されていたと思いますが。。。

 当日の夕方に医局に用事があり、声をかけましたが・・・
 反応が鈍く・・非常に落ち込んでいらっしゃったのを記憶しております。

(たぶん、高校生という若さで、この世を去ってしまった彼に自分の治療経過がどうだったのか
 回想しているように見えました)

2.それから、数ヶ月後たった時、その彼のお母さん(40代)が入院されてきました。

 診断名は「抑うつ状態」「心因反応」だったか忘れてしまいましたが
「うつ病」ではなかったと思います。

 当時の精神医療では、海外で行われていた「SST」という治療法が
 日本でも、脚光をあびていた時期で、徐々に各病院が取り入れ始めた
 ころでした。

注1:SST
  Social Skills Trainingの略称で「社会生活技能訓練」という日本語訳の
  ある認知行動療法の1つであります。対人関係を中心とする社会生活技能のほか、
服薬自己管理・症状自己管理などの疾病の自己管理技能、身辺自立(ADL)に関わる
日常生活技能を高める方法が開発されています。
 (詳しくは、http://www.jasst.net/ のHPをどうぞ)

注2:認知行動療法
  難しい言葉ですが、イメージとしては、自動車教習所で「学科講習」「実地教習」
  があるように、実際に行いながら自分の行動「ロールプレイング」をして修正
 (車でいえば、練習することで、運転する技能が向上する)
  していくものです。

 (本来は統合失調症の方々がメインなのですが) 主治医のすすめもあり、参加されることに
 なりました。

 その当時は、一週間に1回1時間程度行ってました。
 また、担当するスタッフ(看護師1名と看護助手1名)が不慣れであることもあり、
 私がサポートする形態でした。
(もっとも私もSST普及協会の正式な講習を受けた訳でなく文献や資料から手探りでやってましたが)

 主として対人関係の練習(人に物を頼むとか、当たり障りなく断るとかetc)を中心に進めるグループ
 活動でしたが、あまり抵抗なく参加・活動されていた記憶があります。

 数ヶ月の経過で退院されることになりました。
 たまたま、昼食時で私が、売店に買い物に行ったときだったとおもいます。

「先生(私のこと)」と呼び止められて、

 自分のことを以下のように話されました。

「私は入院するまでは、すごく近所のことや他人の目を気にして生きていたように思います。
 でも、今回入院して、グループに参加させて頂いて、少し自分が変わった気がします。
 退院したら、周りを気にしないで生きていけそうです。」

 その後、私の在職中は、再入院されることなかったと記憶しております。
 息子の自殺・自分の病を克服され今も元気でいられることを祈る次第で
 あります。(・・・合掌)

忘れられない方の1

今から10年以上前の話になりますが、当時の私は、病院の職員でした。

新卒で入って4年目の頃だったと思います。
「精神科作業療法」も始めてある程度の患者さんへのサービスが提供され、病院の収益的にも
ほぼ順調だったため、新たに「精神科デイケア」を作ることになりました。

精神科デイケアを始めてまもないこともあり、1日の利用者が10人程度であったため、
固定したプログラムを作ることなく、私を含めたスタッフ2人で

統合失調症の方、境界例の方、精神発達遅滞の方、そして当然うつ病の方々に
個別に対応して、カウンセリングを行ったり(ほとんどお悩み相談的でしたが・・)
スポーツ(卓球やバトミントン)をしたり、テーブルゲーム(ウノとか将棋・麻雀)を
行ってもらったりして、約半日を過ごしていただいて、家に帰ってもらっておりました。

そんなときAさんが利用開始し始めました。
うつ病でほぼ回復期にあり、主治医のすすめもあっての利用開始でした。

今でも忘れられない、その方の言葉なのですが、
「先生(私のこと)、うちの嫁さんが{病院のデイケアにいって少しでも、気持ちが楽になったり
症状がかるくなるんだったら、通えばいいよ}って言ってくれるんですよね」
というような会話がありました。
子供さんもいらして、旦那さんの収入がない中、暖かい目で見てくれる奥さんがいるんだなあと
感慨に耽ったものでした。

そんな家族の応援もあったためか、定期的に参加されるようになり
生活リズムも整い、工作作業あんでるせん(広告の紙を棒のように巻いてカゴなどを編むもの)にも
集中して取り組めるようになっていきました。

3ヶ月くらいの利用だったと思いますが、すっかり回復され某宅急便会社の就職も(パート)も決まり
ご自分の本来やりたがっていた「気孔整体士」の仕事(ご本人曰く{頼まれた方のご自宅に出張する形でマッサージするようなもの})もできるようになっていきました。
そして、デイケアを卒業されていきました。

その1年後に、自分がうつになるとは思いもよらずに、働いていたんだなあ。と今は思います。
その職場では、私は休職し、復帰することなく退職し、当時付き合っていた女性と結婚し県外に
転居しましたので。

Aさんいまも元気にやっていてくれるといんだけど・・・(合掌)

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