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東山高台寺の下の道を清水の方へ向かうとき、道は一旦左へ折れ二年坂三年坂へと続く。その左折する道の正面に、大きな門構えとその門内を、邸宅へ導く上がり勾配の道が外部からでも望まれる。そもそもその屋敷は明治から昭和にかけ、横山大観、川合玉堂等と並んで日本画画壇の頂点を極めた、竹内栖鳳画伯の旧居であることは、門の傍らに市が立てた石標にも刻まれている。内部は現在イタリーレストランに改装され、京都人の間では一寸した評判で、セレブの集いや屋敷を借り切っての結婚披露パーティーも盛んな様である。
私はかって若き日の約二十年間殆ど毎日の様に、この大きな門の小さな潜り戸を出入りした。この家こそ当時私の人生の師であり、勤務会社の社長邸宅そのものだったのである。社長がこの広大な邸宅を、当時未だご健在だった画伯のご子息から譲り受け、ここを住居とされたのは、昭和二十年代の中頃だったと思う。以降私が勤務する大阪の社屋二階の独身合宿で起居する日以外、この社長邸門前から二三分もかからぬ位置にある私の陋屋から、用事の有無に拘わらずほぼ連日社長邸に参上し、公私に亘る薫陶を受ける年月を過ごした。
戦時中少なからず荒れ状態だった栖鳳画伯丹精の庭園も社長が修復し、多くの門弟達が集った大広間から眺める庭園は東に面し、庭の奥の部分はやや高く、更にそこに植えられた多くの常緑の木々により、更に東側にある民家の姿を完全に遮蔽し、東山が見事に庭園の借景として眺められるという素晴らしい日本庭園であった。その上屋敷の裏側は八坂の塔と殆ど地続きで、これも庭に立って振り向けば、優美な塔の姿が邸宅の屋根と並んで眺められ、さすが日本画壇の重鎮栖鳳画伯の作庭と、我々は絶えずその優美な雰囲気を愛でた。
諸行無常。時代は変わり時は流れた。私がその社長の膝下を離れ、東京に職を求める為京都を離れ、既に四十年近い歳月が流れた。その間社長も彼岸の人となってからも、早三十有余年が流れ過ぎた。社長亡き後会社は代が移り、企業を新しい時代へ即応すべく、大きな転身を計った。一時はバブルに乗り飛躍したものの、結果はバブルに呑まれて消え去る運命となった。その間の詳しい経緯を私は勿論知る由もない。我々の懐かしい各地の社屋が消えるのは淋しいが、取り分け高台寺の本宅が人手に渡った事は、痛恨の思いがする。
私は今回の京都訪問で意を決し、今は「竹内栖鳳旧宅」として市が買い上げ、それを市が個人に貸し内部がレストランとして営業されている店に食事に出掛けた。邸宅の外観は大きく変わらないが、当然ながらレストラン化された、内部の構造は激しく改装され、以前の閑雅な和のイメージは丸でない。昔を偲ぶにも僅かに遺る片隅の欄間や戸棚に、在りし過去の残映を思い起こす外はない。広く伸びやかだった庭園も、更に多くの樹木が植えられ過去の面影はない。ただ昔ながらの庭の石仏や、石灯籠、蹲いに胸を打たれる思いだ。
屋敷の玄関は洋式化はされてはいるが、ほぼ昔のままだった。四十年近い昔のある秋の午後、この玄関の式台に、和服を着た偉丈夫な社長は立っていた。そうして下の敷石に佇立する私を見下ろして言った。「わしはお前の退社願いを許可した覚えはない!」私は黙って頭を下げてそこを辞去した。それが恩義ある社長との今生の別れとなった。私はその玄関に佇んでしばし深い感慨にふけった。門を出るとそこには多くの観光客が、昔ながら晴れやかに秋の京都を満喫しながら遊歩する姿があった。八坂の塔も昔ながらの姿で立っていた。
<写真:庭から見た故人旧居の一部と八坂の塔>
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