生きる

この命 何をあくせく…遊庵随想記

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生きる…命

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年末恒例の今年一年を象徴する漢字一字は「命」に決まり、これも例年通り清水寺管主が墨痕淋漓と見事に巨筆で描き上げた。その解説には秋篠宮家男子誕生の慶事が筆頭に上げられてはいるものの、総体には一年を振り返り、「命」にかかる印象としては殺人、自殺の暗い事件が、重々しく連想される。特に親殺し子殺しの陰惨な事件の続発や、これ又苛めから来る子供達の相次ぐ自殺等、あたかも伝染病の如く全国的に蔓延し、新聞紙上やTV報道では、一件消えぬ間に次の一件が発生する、過去に例のない多発続発の一年だった。

有識者や批評家はその都度「命の重さ」を説き、社会や教育に対する批判を繰り返した。「陛下の為我が身を鴻毛の軽きに致す」鳥の羽根より軽いと教えられた我々の時代の「命」。その世代の人達は今や人生の晩年を迎え、社会の中心はその子から更に孫の時代に移りつつある。それに関わらず更に命軽視の風潮が益々激しくなる。これは指摘される様に戦後教育にその因がある事は否定出来ないだろうが、やはりその源を遡れば人間の尊厳すら極端に軽視された、戦中世代のツケが今になって現れてきた思いもして自身忸怩の念を持つ。

戦中何よりも陛下の為そうして皇国の為、戦後は会社の為そうして与えられた仕事の為、何れも滅私奉公一筋に遮二無二頑張り続け、そこに己個人も家庭生活も殆ど犠牲にし顧みる間もあらばこそ、それこそ男の生き甲斐と、懸命に生き続けてきた五十余年の生き様。そうして未曾有の経済国家を築き上げた結果として、現在の家庭の、社会の、国家の歪みが、改めてここに問い直され、批判の矢面に立たされている。この直面した社会の品格的荒廃に対し、我々自身もその責任の一端を担う者として、免れない重さを痛感してしまう。

さて私個人としての今年一年も、今までになく「命」を益々身近に感じ続けた一年だったように思う。それは特に暮れに入り著名人の訃報が、連日のニュースとして書き立てられると共に、それら故人の没年齢の殆どが、私より若年である事実を見るにつけ、自分自身もやがて鬼籍に入る時期の、そう遠くないだろうとの思いがどうしても心中を過ぎる。況や昨年の発病ダウン以来、決してそれが完全回復は難しい病と、医師より指摘された事もあり、この年末を迎え「何とか越せたかこの一年」との思いすら、心の奥では秘かに感じている。

「人は天命に生きている」天が与えてくれた寿命、天寿である。幸か不幸か人は誰も己が天寿の尽きる日を知らない。明日かも知れないし、一ヶ月後或いは一年先かも知れない。それ以上だったとしても、片手の指数の年月は無理な様な気はする。先日或る若者と会話した。「北京五輪が楽しみだ」という。私は思わず「私にも見る事ができるかな?」と呟いた。「たった二年先ですよ」と呆れるように若者は言った。若者には命とは無限に感じるものだ。更に若者は「次は八十才のお祝いをしましょう」とも気軽に言ってくれた。これも二年先の話、やはり疑問符がつきまとう。

しかし年末結構な収穫もあった。私の心臓血管の不具合を調べる為の、カテーテル検査を決断の上実施した。中々踏み切れなかったのは、その検査を行う副作用として、腎機能のより悪化するのが懸念された為だった。始めてモニターの大画面に映し出された、我が心臓の周囲に伸びる夥しい血管は、その何れもが真に元気よく、活発な動きをリズミカルに続けている画像だった。医師は何ら問題の箇所はないという。私はややもすれば弱気な私の感情と関係なく、逞しく活動する我が心臓に対し、申し訳なさと大きな勇気を貰った思いがした。

自分の脳から発信される数々の思考と、ここに絶え間なく活発な動きを続ける心臓とは、共に自分の体中に内蔵しながら、自分の支配出来ない機能として、自由勝手に活動している事を改めて知らされた。やはりこれも仏教で言う「生かされている」と言う事なのか。幾ら自身寿命だと思っても、この心臓が動く限り死ぬ事はないだろうし、幾ら生きたいと願っても、この心臓が動かない以上、生きようがないという単純な事実を改めて認識した。人智何するものぞ。やはり人の命は天命に任せ、生かされている毎日を精一杯に生きる事。

ともかくも あなた任せの 年の暮れ … 一茶

ともかく平成十八年も生き続けて今日で終わる。

<写真:千葉・泉自然公園>

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「パープルサンガ」ご存知京都をフランチャイズとするサッカーJリーグのチーム名である。このネーミングの由来を私は聞いたわけではないが、我々には直ぐ察しがつく。「山紫水明」京都の自然の美しさを表現したこの言葉こそ、恐らくその出所であろうと思う。残念ながら今シーズンも成績振るわず、J1からの降格が決まった。スポーツ欄でどうしてもこのチームの成績が気になるのは、やはり郷土愛というものか。来シーズンは頑張って是非とも復活して欲しいものだ。しかしこのネーミングは実によく出来ていると思う。

先日の新聞の第一面に「屋上看板あきまへん」の大きな活字が目についた。京都市が全国で初めての、屋上や点滅照明の看板を禁止する市条令の制定に乗り出すとの事である。高層建築の規制もより厳しくすると言う。随分画期的な制令だと思うが、勿論私は諸手を挙げて賛意を表する。風情ある古都の町並みを何時までも保存する為には、やはり徹底した施策が必要だ。ロンドン、パリ、ローマ等々欧州の街々の、街自体が深い歴史を物語っている様な風情は、幾世紀にも亘る厳しい規制と努力があって、今日の景観があると思う。

私の一週間に亘る京都逍遙の旅は、改めて優雅な山紫水明の自然と、風雅溢れる古都の町並みの佇まいを、再認識する旅となった。殆ど昔と変わらない山河や家並みに、深い感動と喜びを覚えたり、その反面時代によって大きく変貌した夜の巷、特に私の出生地木屋町界隈は、過去の閑雅情誼の雰囲気は今や見る影もなく、猥雑喧騒の町へと激しく変化しているのを見るのは悲しくて辛い。破壊された環境の回復は、先ず不可能と考えるだけに、今回のような環境保全の市条例が、もっと早く発令されておればと、悔やまれてならない。

墓参とお寺巡を目的に考えていた今回の帰郷も、その行き先の全てがやはり過去の思い出に深くつながり、あらゆる場面で京都在住四十余年に亘る、私の半生の過去の一駒一駒をフィードバックさせる、まさにセンチメンタルジャーニーと言える旅になった。「京都逍遙」と題して、私の一週間の帰郷の思い出を10編のエッセィにまとめた。この記録以外訪問した清水寺や東福寺などの記録は割愛したが、丁度今頃盛りを迎えたそれら寺々の鮮やかな紅葉シーンが、テレビの旅特番を賑わしている。再び後ろ髪を引かれる思いである。

それは懐かしい風物だけに留まらず、思い出多い人達とのめぐり合う機会がもてた事が、更に旅の喜びを深くした。小学校の頃より絶える事なく、温かい心使いを示してくれる心優しい友との出会い、四十年間図らずも不通だった懐かしい縁者との再会、それに遙か昔天国へ逝った母を知る、唯一の身内から聞く母の思い出は、何れも代え難い喜びだった。その他大阪勤務時代の知人友人との久々の懐旧談や、ネパールで子供達への奉仕活動に励む、敬愛する僧侶との歓談など、やはり改めてこれら人達とのご縁の大切さを認識した。

仕事では殆どその後半生を旅に過ごした様な私の生活だっただけに、この歳に至って改めて故郷への思い入れは、その地に変わらず住み続ける人より、一入激しいのかもしれない。関東へ移住してからも三十年以上は過ぎた。しかし未だ本籍は京都のままで移籍しないのは、今生が終わるまで京都人でありたいという、私の京都への執着の思いでもある。更に今生だけにとどまらず、昨年私が京都の菩提寺に申請した生前戒名の字句の中にも、京都を表現する最も適当な「雅」の一文字を思いつき、来世までの思いを託し書き留めた。

ただ過ぎに過ぐるもの、帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。
                                   清少納言 枕草子

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東山高台寺の下の道を清水の方へ向かうとき、道は一旦左へ折れ二年坂三年坂へと続く。その左折する道の正面に、大きな門構えとその門内を、邸宅へ導く上がり勾配の道が外部からでも望まれる。そもそもその屋敷は明治から昭和にかけ、横山大観、川合玉堂等と並んで日本画画壇の頂点を極めた、竹内栖鳳画伯の旧居であることは、門の傍らに市が立てた石標にも刻まれている。内部は現在イタリーレストランに改装され、京都人の間では一寸した評判で、セレブの集いや屋敷を借り切っての結婚披露パーティーも盛んな様である。

私はかって若き日の約二十年間殆ど毎日の様に、この大きな門の小さな潜り戸を出入りした。この家こそ当時私の人生の師であり、勤務会社の社長邸宅そのものだったのである。社長がこの広大な邸宅を、当時未だご健在だった画伯のご子息から譲り受け、ここを住居とされたのは、昭和二十年代の中頃だったと思う。以降私が勤務する大阪の社屋二階の独身合宿で起居する日以外、この社長邸門前から二三分もかからぬ位置にある私の陋屋から、用事の有無に拘わらずほぼ連日社長邸に参上し、公私に亘る薫陶を受ける年月を過ごした。

戦時中少なからず荒れ状態だった栖鳳画伯丹精の庭園も社長が修復し、多くの門弟達が集った大広間から眺める庭園は東に面し、庭の奥の部分はやや高く、更にそこに植えられた多くの常緑の木々により、更に東側にある民家の姿を完全に遮蔽し、東山が見事に庭園の借景として眺められるという素晴らしい日本庭園であった。その上屋敷の裏側は八坂の塔と殆ど地続きで、これも庭に立って振り向けば、優美な塔の姿が邸宅の屋根と並んで眺められ、さすが日本画壇の重鎮栖鳳画伯の作庭と、我々は絶えずその優美な雰囲気を愛でた。

諸行無常。時代は変わり時は流れた。私がその社長の膝下を離れ、東京に職を求める為京都を離れ、既に四十年近い歳月が流れた。その間社長も彼岸の人となってからも、早三十有余年が流れ過ぎた。社長亡き後会社は代が移り、企業を新しい時代へ即応すべく、大きな転身を計った。一時はバブルに乗り飛躍したものの、結果はバブルに呑まれて消え去る運命となった。その間の詳しい経緯を私は勿論知る由もない。我々の懐かしい各地の社屋が消えるのは淋しいが、取り分け高台寺の本宅が人手に渡った事は、痛恨の思いがする。

私は今回の京都訪問で意を決し、今は「竹内栖鳳旧宅」として市が買い上げ、それを市が個人に貸し内部がレストランとして営業されている店に食事に出掛けた。邸宅の外観は大きく変わらないが、当然ながらレストラン化された、内部の構造は激しく改装され、以前の閑雅な和のイメージは丸でない。昔を偲ぶにも僅かに遺る片隅の欄間や戸棚に、在りし過去の残映を思い起こす外はない。広く伸びやかだった庭園も、更に多くの樹木が植えられ過去の面影はない。ただ昔ながらの庭の石仏や、石灯籠、蹲いに胸を打たれる思いだ。

屋敷の玄関は洋式化はされてはいるが、ほぼ昔のままだった。四十年近い昔のある秋の午後、この玄関の式台に、和服を着た偉丈夫な社長は立っていた。そうして下の敷石に佇立する私を見下ろして言った。「わしはお前の退社願いを許可した覚えはない!」私は黙って頭を下げてそこを辞去した。それが恩義ある社長との今生の別れとなった。私はその玄関に佇んでしばし深い感慨にふけった。門を出るとそこには多くの観光客が、昔ながら晴れやかに秋の京都を満喫しながら遊歩する姿があった。八坂の塔も昔ながらの姿で立っていた。

<写真:庭から見た故人旧居の一部と八坂の塔>

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日本国宝第一号と言われる広隆寺の弥勒さんをもう一度どうしても拝んでおきたかった。因みに私がビジネスで繰り返し中国を訪問し、永年そこで見続けてきた中国の国宝第一号は、北京故宮の天安門である。繊細と壮大日中二つのお国柄を象徴している様に思える。ただ私の全く個人的感覚から申せば、今は日本の秘蔵品(国宝)となっているが、中国南宋の陶磁器、建窯曜変天目茶碗三点の方が、天安門より遙かに美術的価値は高いと思う。勿論中国もこの門が、新生中国生誕の歴史的記念価値から、その様に指定したのだろう。

広隆寺のある京都市内西郊太秦は、私にとって都合の良い事に、故地高雄へ向かう周山街道を少し迂回すれば達する。この辺り以前は完全な郊外地で、家の建ち並ぶその裏側には、京野菜を作る畑が広がっていた。然し今や完全に市街地に組み込まれた中で、双ヶ岡だけは美しく三つ並んだ丘陵は、兼行の住処があった平安朝の面影を、今に留めているのは嬉しい。太秦の観光スポットは広隆寺より、今は昔の撮影所をテーマーパーク化した「東映映画村」で、そのゲートの前には、出てくるスターを待ちかまえるファンの群れで賑わっていた。

広隆寺は境内も宝物庫も人の姿は疎らで、静寂な雰囲気で拝観出来たのは有り難かった。以前私がこの弥勒さんにお目に掛かってから、既に半世紀を超える歳月が流れている。当時はもっと間近で拝観出来た様に思うが、千年を遙かに越える長い間、何を黙って思惟されておられたのかと思いつつ、あの頬に添える右手の優美さに、心ときめかせた記憶はある。そうしてその後何時の頃だったが、不埒な拝観者がその指を破損させたというニュースに接して心痛めると共に、その指を触れたくなる心証も判る様な気がした思い出もある。

太秦は更に私には忘れられぬ土地である。私の中学時代の昭和十八年、それまでも学校での授業の傍ら、絶えず勤労動員で時として農村で農作業に、時として市内作業場での使役に狩り出されていたのが、時局いよいよ逼迫を告げ、遂に我々は軍需工場へ毎日通勤し、工場での重労働を命じられた。勿論生まれて初めて旋盤やプレスに取り組む日々が続いた。慣れぬ作業にプレスで指を落とす仲間も出た。そんな毎日に嫌気がさし何とか現状打破を一人で考え、時代の熱に煽られた事もあり、私は海軍予科練への志願を申し出た。それは私にとって人生最初の決断だった。

その遙か遙か昔私の一つの運命を変えた工場が、太秦の広隆寺と遠からぬ所にあった。毎日嵐電「太秦」で下車し、嫌な工場へ通った私には思い出の地である。戦後始めて弥勒さんにお目に掛かり、そうして今回又お会いする迄の六十年間近く、それは殆ど私の一生と言える年月が流れた。釈尊没後56億7000万年後この世に現れ、衆生を救い給うと言われる未来仏の弥勒さんにとっては、全く一瞬にも過ぎないこの私の僅か80年にも満たない一人の人間の現世を、この静かで優しい眼差しでどうご覧になっていたのだろうか。私には「これでいいんだよ」とやさしく呟いて頂いている様な気がするのだが、どうだろうか。

<写真:半跏思惟の弥勒像…拝観券よりコピー>

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“かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕の下を 水の流るる”
膾炙した吉井勇の句碑のある、祇園白川沿いはやはり旧い風情が遺っていて嬉しい。京都を舞台にしたドラマでは、必ずと言って良い程登場する、この巽橋界隈はお馴染みの風景だが、夜になって醸し出される風情は、銀座や赤坂とは丸で異なった和の情緒を感じるのは祇園の魅力である。白川越しに覗かれる川向こうのお茶屋の宴席にも、日本の良き情緒を京都人である私は余計感じてしまうのかも知れない。私はやはり情感大好き人間である。

私は家族を京都東山の家に置いたまま、単身東京で仕事する数年を経験した。時折帰宅した際も自宅での入浴より、わざわざ歩いて銭湯を利用するのが好きだった。何故ならその銭湯は家から歩いて僅か五分、祇園のど真ん中にあった。その愉しみは風呂を出て、向かいの酒屋で缶ビールを買い、湯上がり気分でお茶屋が並び美妓が行き交う祇園の街中から、建仁寺の塀沿いの道を、風情を楽しみゆっくりビールを飲みながら、家に戻る気分の良さに惹かれたからだ。それは最も安上がりな、そしてささやかな祇園情緒の味わいだった。

祇園は格式の世界である。「一見さんお断り」で敷居の高そうなお茶屋への登楼も、あくまで客と茶屋側お互いの信用を重んじる、不文律から成り立つもので、一旦その信頼関係が出来ると、祇園程気安く過ごし楽しめる場所は他にはない様に思う。この世界では女性が全て表に立ち、男は裏方でそれを支える。そこでは何よりも伝統が重んじられ、序列を大切なものとする。旧いしきたりによる年中行事も疎かにせず、ひたすら妓は芸事に打ち込む。その格式の高さは能を基本にした、祇園で主流の井上流の日舞に如実に表れている。

「祇園」の名は釈尊を尊崇するコーサラ国の長者が、釈尊に寄進した僧院「祇園精舎」に由来する。過去の良き伝統や秩序までが、次々変化し破壊されていくのが日本の現実である。しかし祇園精舎の鐘の音が、如何に諸行無常の響きを伝えようと、この祇園と言う風致地区の建造物だけにとどまらず、住む人の心までも貴重な文化遺産として、その遺伝子を後世までも変わる事なく、輪廻転生を繰り返す中でも、存続させて欲しいと心より願う。この街のこの界隈で、若い日の思い出を持ち得た幸いを、改めて感じる旅でもあった。

<写真:祇園白川巽橋付近>

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