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			<title>生きる</title>
			<description>私の生の時代
１９２９年１０月京都洛中鴨涯にて生を受ける。その年その月、米ニューヨーク株の大暴落、世界恐慌始まり、日本も昭和大不況に陥る。翌々年満州事変起こる。以降国内徐々に戦時色強まる。小学校卒業の直前太平洋戦争勃発。中学時代は学校での勉学より、農村や工場での勤労動員の日々。十五歳の秋皇国の御盾たらんと、海軍予科練入隊。連日のしごきのもと一年で終戦除隊。
戦後一旦復学するも翌年会社就職。以後大阪、東京にて会社勤務、常に国内を飛び回り営業活動。その後四十八歳にしてささやかなマイ　カンパニー設立。
以後丸二十年、私のライフワークとなった、中国との繊維製品貿易業務に取り組む。その事業開始は１９７８年、その年の中国は小平が初めて経済開放を唱えた年だが、未だ文革の余韻は濃く残り、中国ビジネスは全く不透明な時代だった。ともかく悪戦苦闘の中で、その私の業務は始まった。それから山あり谷ありの二十年、１９９７年は春には小平死去。そうして夏には香港が中国に戻ったその年、私は私の会社をクローズした。思えばその間、中国大変革の一時代の中に身を置き、苦しみつつも真に貴重な人生の経験を得た幸運を、私は喜んでいる。
それ以降は縁あって、商売を離れ数度に亘りネパールを訪問、延べ半年近く彼の地に滞在し、これ又得難い体験を持った。それは私の信仰への扉をあけるきっかけとも言える経験となった。
以上がこれまでのマイ　ライフである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>生きる</title>
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			<description>私の生の時代
１９２９年１０月京都洛中鴨涯にて生を受ける。その年その月、米ニューヨーク株の大暴落、世界恐慌始まり、日本も昭和大不況に陥る。翌々年満州事変起こる。以降国内徐々に戦時色強まる。小学校卒業の直前太平洋戦争勃発。中学時代は学校での勉学より、農村や工場での勤労動員の日々。十五歳の秋皇国の御盾たらんと、海軍予科練入隊。連日のしごきのもと一年で終戦除隊。
戦後一旦復学するも翌年会社就職。以後大阪、東京にて会社勤務、常に国内を飛び回り営業活動。その後四十八歳にしてささやかなマイ　カンパニー設立。
以後丸二十年、私のライフワークとなった、中国との繊維製品貿易業務に取り組む。その事業開始は１９７８年、その年の中国は小平が初めて経済開放を唱えた年だが、未だ文革の余韻は濃く残り、中国ビジネスは全く不透明な時代だった。ともかく悪戦苦闘の中で、その私の業務は始まった。それから山あり谷ありの二十年、１９９７年は春には小平死去。そうして夏には香港が中国に戻ったその年、私は私の会社をクローズした。思えばその間、中国大変革の一時代の中に身を置き、苦しみつつも真に貴重な人生の経験を得た幸運を、私は喜んでいる。
それ以降は縁あって、商売を離れ数度に亘りネパールを訪問、延べ半年近く彼の地に滞在し、これ又得難い体験を持った。それは私の信仰への扉をあけるきっかけとも言える経験となった。
以上がこれまでのマイ　ライフである。</description>
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			<title>生きる…命</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/14/25957114/img_0?1167540046&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
年末恒例の今年一年を象徴する漢字一字は「命」に決まり、これも例年通り清水寺管主が墨痕淋漓と見事に巨筆で描き上げた。その解説には秋篠宮家男子誕生の慶事が筆頭に上げられてはいるものの、総体には一年を振り返り、「命」にかかる印象としては殺人、自殺の暗い事件が、重々しく連想される。特に親殺し子殺しの陰惨な事件の続発や、これ又苛めから来る子供達の相次ぐ自殺等、あたかも伝染病の如く全国的に蔓延し、新聞紙上やTV報道では、一件消えぬ間に次の一件が発生する、過去に例のない多発続発の一年だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
有識者や批評家はその都度「命の重さ」を説き、社会や教育に対する批判を繰り返した。「陛下の為我が身を鴻毛の軽きに致す」鳥の羽根より軽いと教えられた我々の時代の「命」。その世代の人達は今や人生の晩年を迎え、社会の中心はその子から更に孫の時代に移りつつある。それに関わらず更に命軽視の風潮が益々激しくなる。これは指摘される様に戦後教育にその因がある事は否定出来ないだろうが、やはりその源を遡れば人間の尊厳すら極端に軽視された、戦中世代のツケが今になって現れてきた思いもして自身忸怩の念を持つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦中何よりも陛下の為そうして皇国の為、戦後は会社の為そうして与えられた仕事の為、何れも滅私奉公一筋に遮二無二頑張り続け、そこに己個人も家庭生活も殆ど犠牲にし顧みる間もあらばこそ、それこそ男の生き甲斐と、懸命に生き続けてきた五十余年の生き様。そうして未曾有の経済国家を築き上げた結果として、現在の家庭の、社会の、国家の歪みが、改めてここに問い直され、批判の矢面に立たされている。この直面した社会の品格的荒廃に対し、我々自身もその責任の一端を担う者として、免れない重さを痛感してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて私個人としての今年一年も、今までになく「命」を益々身近に感じ続けた一年だったように思う。それは特に暮れに入り著名人の訃報が、連日のニュースとして書き立てられると共に、それら故人の没年齢の殆どが、私より若年である事実を見るにつけ、自分自身もやがて鬼籍に入る時期の、そう遠くないだろうとの思いがどうしても心中を過ぎる。況や昨年の発病ダウン以来、決してそれが完全回復は難しい病と、医師より指摘された事もあり、この年末を迎え「何とか越せたかこの一年」との思いすら、心の奥では秘かに感じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「人は天命に生きている」天が与えてくれた寿命、天寿である。幸か不幸か人は誰も己が天寿の尽きる日を知らない。明日かも知れないし、一ヶ月後或いは一年先かも知れない。それ以上だったとしても、片手の指数の年月は無理な様な気はする。先日或る若者と会話した。「北京五輪が楽しみだ」という。私は思わず「私にも見る事ができるかな？」と呟いた。「たった二年先ですよ」と呆れるように若者は言った。若者には命とは無限に感じるものだ。更に若者は「次は八十才のお祝いをしましょう」とも気軽に言ってくれた。これも二年先の話、やはり疑問符がつきまとう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし年末結構な収穫もあった。私の心臓血管の不具合を調べる為の、カテーテル検査を決断の上実施した。中々踏み切れなかったのは、その検査を行う副作用として、腎機能のより悪化するのが懸念された為だった。始めてモニターの大画面に映し出された、我が心臓の周囲に伸びる夥しい血管は、その何れもが真に元気よく、活発な動きをリズミカルに続けている画像だった。医師は何ら問題の箇所はないという。私はややもすれば弱気な私の感情と関係なく、逞しく活動する我が心臓に対し、申し訳なさと大きな勇気を貰った思いがした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の脳から発信される数々の思考と、ここに絶え間なく活発な動きを続ける心臓とは、共に自分の体中に内蔵しながら、自分の支配出来ない機能として、自由勝手に活動している事を改めて知らされた。やはりこれも仏教で言う「生かされている」と言う事なのか。幾ら自身寿命だと思っても、この心臓が動く限り死ぬ事はないだろうし、幾ら生きたいと願っても、この心臓が動かない以上、生きようがないという単純な事実を改めて認識した。人智何するものぞ。やはり人の命は天命に任せ、生かされている毎日を精一杯に生きる事。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともかくも　あなた任せの　年の暮れ　…　一茶&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともかく平成十八年も生き続けて今日で終わる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：千葉・泉自然公園＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/25957114.html</link>
			<pubDate>Sun, 31 Dec 2006 13:40:46 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（終）…ももとせも昨日のごとし</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/11/24110511/img_0?1164629172&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
「パープルサンガ」ご存知京都をフランチャイズとするサッカーJリーグのチーム名である。このネーミングの由来を私は聞いたわけではないが、我々には直ぐ察しがつく。「山紫水明」京都の自然の美しさを表現したこの言葉こそ、恐らくその出所であろうと思う。残念ながら今シーズンも成績振るわず、J１からの降格が決まった。スポーツ欄でどうしてもこのチームの成績が気になるのは、やはり郷土愛というものか。来シーズンは頑張って是非とも復活して欲しいものだ。しかしこのネーミングは実によく出来ていると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先日の新聞の第一面に「屋上看板あきまへん」の大きな活字が目についた。京都市が全国で初めての、屋上や点滅照明の看板を禁止する市条令の制定に乗り出すとの事である。高層建築の規制もより厳しくすると言う。随分画期的な制令だと思うが、勿論私は諸手を挙げて賛意を表する。風情ある古都の町並みを何時までも保存する為には、やはり徹底した施策が必要だ。ロンドン、パリ、ローマ等々欧州の街々の、街自体が深い歴史を物語っている様な風情は、幾世紀にも亘る厳しい規制と努力があって、今日の景観があると思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の一週間に亘る京都逍遙の旅は、改めて優雅な山紫水明の自然と、風雅溢れる古都の町並みの佇まいを、再認識する旅となった。殆ど昔と変わらない山河や家並みに、深い感動と喜びを覚えたり、その反面時代によって大きく変貌した夜の巷、特に私の出生地木屋町界隈は、過去の閑雅情誼の雰囲気は今や見る影もなく、猥雑喧騒の町へと激しく変化しているのを見るのは悲しくて辛い。破壊された環境の回復は、先ず不可能と考えるだけに、今回のような環境保全の市条例が、もっと早く発令されておればと、悔やまれてならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
墓参とお寺巡を目的に考えていた今回の帰郷も、その行き先の全てがやはり過去の思い出に深くつながり、あらゆる場面で京都在住四十余年に亘る、私の半生の過去の一駒一駒をフィードバックさせる、まさにセンチメンタルジャーニーと言える旅になった。「京都逍遙」と題して、私の一週間の帰郷の思い出を10編のエッセィにまとめた。この記録以外訪問した清水寺や東福寺などの記録は割愛したが、丁度今頃盛りを迎えたそれら寺々の鮮やかな紅葉シーンが、テレビの旅特番を賑わしている。再び後ろ髪を引かれる思いである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは懐かしい風物だけに留まらず、思い出多い人達とのめぐり合う機会がもてた事が、更に旅の喜びを深くした。小学校の頃より絶える事なく、温かい心使いを示してくれる心優しい友との出会い、四十年間図らずも不通だった懐かしい縁者との再会、それに遙か昔天国へ逝った母を知る、唯一の身内から聞く母の思い出は、何れも代え難い喜びだった。その他大阪勤務時代の知人友人との久々の懐旧談や、ネパールで子供達への奉仕活動に励む、敬愛する僧侶との歓談など、やはり改めてこれら人達とのご縁の大切さを認識した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仕事では殆どその後半生を旅に過ごした様な私の生活だっただけに、この歳に至って改めて故郷への思い入れは、その地に変わらず住み続ける人より、一入激しいのかもしれない。関東へ移住してからも三十年以上は過ぎた。しかし未だ本籍は京都のままで移籍しないのは、今生が終わるまで京都人でありたいという、私の京都への執着の思いでもある。更に今生だけにとどまらず、昨年私が京都の菩提寺に申請した生前戒名の字句の中にも、京都を表現する最も適当な「雅」の一文字を思いつき、来世までの思いを託し書き留めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ過ぎに過ぐるもの、帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。&lt;br /&gt;
                                                                　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　清少納言　枕草子</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/24110511.html</link>
			<pubDate>Mon, 27 Nov 2006 21:06:12 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（9）…忘れ得ぬ故人とその旧居</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/30/23872630/img_0?1164261384&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
東山高台寺の下の道を清水の方へ向かうとき、道は一旦左へ折れ二年坂三年坂へと続く。その左折する道の正面に、大きな門構えとその門内を、邸宅へ導く上がり勾配の道が外部からでも望まれる。そもそもその屋敷は明治から昭和にかけ、横山大観、川合玉堂等と並んで日本画画壇の頂点を極めた、竹内栖鳳画伯の旧居であることは、門の傍らに市が立てた石標にも刻まれている。内部は現在イタリーレストランに改装され、京都人の間では一寸した評判で、セレブの集いや屋敷を借り切っての結婚披露パーティーも盛んな様である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私はかって若き日の約二十年間殆ど毎日の様に、この大きな門の小さな潜り戸を出入りした。この家こそ当時私の人生の師であり、勤務会社の社長邸宅そのものだったのである。社長がこの広大な邸宅を、当時未だご健在だった画伯のご子息から譲り受け、ここを住居とされたのは、昭和二十年代の中頃だったと思う。以降私が勤務する大阪の社屋二階の独身合宿で起居する日以外、この社長邸門前から二三分もかからぬ位置にある私の陋屋から、用事の有無に拘わらずほぼ連日社長邸に参上し、公私に亘る薫陶を受ける年月を過ごした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦時中少なからず荒れ状態だった栖鳳画伯丹精の庭園も社長が修復し、多くの門弟達が集った大広間から眺める庭園は東に面し、庭の奥の部分はやや高く、更にそこに植えられた多くの常緑の木々により、更に東側にある民家の姿を完全に遮蔽し、東山が見事に庭園の借景として眺められるという素晴らしい日本庭園であった。その上屋敷の裏側は八坂の塔と殆ど地続きで、これも庭に立って振り向けば、優美な塔の姿が邸宅の屋根と並んで眺められ、さすが日本画壇の重鎮栖鳳画伯の作庭と、我々は絶えずその優美な雰囲気を愛でた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
諸行無常。時代は変わり時は流れた。私がその社長の膝下を離れ、東京に職を求める為京都を離れ、既に四十年近い歳月が流れた。その間社長も彼岸の人となってからも、早三十有余年が流れ過ぎた。社長亡き後会社は代が移り、企業を新しい時代へ即応すべく、大きな転身を計った。一時はバブルに乗り飛躍したものの、結果はバブルに呑まれて消え去る運命となった。その間の詳しい経緯を私は勿論知る由もない。我々の懐かしい各地の社屋が消えるのは淋しいが、取り分け高台寺の本宅が人手に渡った事は、痛恨の思いがする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は今回の京都訪問で意を決し、今は「竹内栖鳳旧宅」として市が買い上げ、それを市が個人に貸し内部がレストランとして営業されている店に食事に出掛けた。邸宅の外観は大きく変わらないが、当然ながらレストラン化された、内部の構造は激しく改装され、以前の閑雅な和のイメージは丸でない。昔を偲ぶにも僅かに遺る片隅の欄間や戸棚に、在りし過去の残映を思い起こす外はない。広く伸びやかだった庭園も、更に多くの樹木が植えられ過去の面影はない。ただ昔ながらの庭の石仏や、石灯籠、蹲いに胸を打たれる思いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
屋敷の玄関は洋式化はされてはいるが、ほぼ昔のままだった。四十年近い昔のある秋の午後、この玄関の式台に、和服を着た偉丈夫な社長は立っていた。そうして下の敷石に佇立する私を見下ろして言った。「わしはお前の退社願いを許可した覚えはない！」私は黙って頭を下げてそこを辞去した。それが恩義ある社長との今生の別れとなった。私はその玄関に佇んでしばし深い感慨にふけった。門を出るとそこには多くの観光客が、昔ながら晴れやかに秋の京都を満喫しながら遊歩する姿があった。八坂の塔も昔ながらの姿で立っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：庭から見た故人旧居の一部と八坂の塔＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/23872630.html</link>
			<pubDate>Thu, 23 Nov 2006 14:56:24 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（８）…広隆寺半跏思惟の弥勒さん</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/69/23444469/img_0?1163596461&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
日本国宝第一号と言われる広隆寺の弥勒さんをもう一度どうしても拝んでおきたかった。因みに私がビジネスで繰り返し中国を訪問し、永年そこで見続けてきた中国の国宝第一号は、北京故宮の天安門である。繊細と壮大日中二つのお国柄を象徴している様に思える。ただ私の全く個人的感覚から申せば、今は日本の秘蔵品（国宝）となっているが、中国南宋の陶磁器、建窯曜変天目茶碗三点の方が、天安門より遙かに美術的価値は高いと思う。勿論中国もこの門が、新生中国生誕の歴史的記念価値から、その様に指定したのだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広隆寺のある京都市内西郊太秦は、私にとって都合の良い事に、故地高雄へ向かう周山街道を少し迂回すれば達する。この辺り以前は完全な郊外地で、家の建ち並ぶその裏側には、京野菜を作る畑が広がっていた。然し今や完全に市街地に組み込まれた中で、双ヶ岡だけは美しく三つ並んだ丘陵は、兼行の住処があった平安朝の面影を、今に留めているのは嬉しい。太秦の観光スポットは広隆寺より、今は昔の撮影所をテーマーパーク化した「東映映画村」で、そのゲートの前には、出てくるスターを待ちかまえるファンの群れで賑わっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
広隆寺は境内も宝物庫も人の姿は疎らで、静寂な雰囲気で拝観出来たのは有り難かった。以前私がこの弥勒さんにお目に掛かってから、既に半世紀を超える歳月が流れている。当時はもっと間近で拝観出来た様に思うが、千年を遙かに越える長い間、何を黙って思惟されておられたのかと思いつつ、あの頬に添える右手の優美さに、心ときめかせた記憶はある。そうしてその後何時の頃だったが、不埒な拝観者がその指を破損させたというニュースに接して心痛めると共に、その指を触れたくなる心証も判る様な気がした思い出もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
太秦は更に私には忘れられぬ土地である。私の中学時代の昭和十八年、それまでも学校での授業の傍ら、絶えず勤労動員で時として農村で農作業に、時として市内作業場での使役に狩り出されていたのが、時局いよいよ逼迫を告げ、遂に我々は軍需工場へ毎日通勤し、工場での重労働を命じられた。勿論生まれて初めて旋盤やプレスに取り組む日々が続いた。慣れぬ作業にプレスで指を落とす仲間も出た。そんな毎日に嫌気がさし何とか現状打破を一人で考え、時代の熱に煽られた事もあり、私は海軍予科練への志願を申し出た。それは私にとって人生最初の決断だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その遙か遙か昔私の一つの運命を変えた工場が、太秦の広隆寺と遠からぬ所にあった。毎日嵐電「太秦」で下車し、嫌な工場へ通った私には思い出の地である。戦後始めて弥勒さんにお目に掛かり、そうして今回又お会いする迄の六十年間近く、それは殆ど私の一生と言える年月が流れた。釈尊没後56億7000万年後この世に現れ、衆生を救い給うと言われる未来仏の弥勒さんにとっては、全く一瞬にも過ぎないこの私の僅か80年にも満たない一人の人間の現世を、この静かで優しい眼差しでどうご覧になっていたのだろうか。私には「これでいいんだよ」とやさしく呟いて頂いている様な気がするのだが、どうだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：半跏思惟の弥勒像…拝観券よりコピー＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/23444469.html</link>
			<pubDate>Wed, 15 Nov 2006 22:14:21 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（７）…祇園情緒</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/17/23309917/img_0?1163409499&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
“かにかくに　祇園は恋し　寝るときも　枕の下を　水の流るる”&lt;br /&gt;
膾炙した吉井勇の句碑のある、祇園白川沿いはやはり旧い風情が遺っていて嬉しい。京都を舞台にしたドラマでは、必ずと言って良い程登場する、この巽橋界隈はお馴染みの風景だが、夜になって醸し出される風情は、銀座や赤坂とは丸で異なった和の情緒を感じるのは祇園の魅力である。白川越しに覗かれる川向こうのお茶屋の宴席にも、日本の良き情緒を京都人である私は余計感じてしまうのかも知れない。私はやはり情感大好き人間である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は家族を京都東山の家に置いたまま、単身東京で仕事する数年を経験した。時折帰宅した際も自宅での入浴より、わざわざ歩いて銭湯を利用するのが好きだった。何故ならその銭湯は家から歩いて僅か五分、祇園のど真ん中にあった。その愉しみは風呂を出て、向かいの酒屋で缶ビールを買い、湯上がり気分でお茶屋が並び美妓が行き交う祇園の街中から、建仁寺の塀沿いの道を、風情を楽しみゆっくりビールを飲みながら、家に戻る気分の良さに惹かれたからだ。それは最も安上がりな、そしてささやかな祇園情緒の味わいだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
祇園は格式の世界である。「一見さんお断り」で敷居の高そうなお茶屋への登楼も、あくまで客と茶屋側お互いの信用を重んじる、不文律から成り立つもので、一旦その信頼関係が出来ると、祇園程気安く過ごし楽しめる場所は他にはない様に思う。この世界では女性が全て表に立ち、男は裏方でそれを支える。そこでは何よりも伝統が重んじられ、序列を大切なものとする。旧いしきたりによる年中行事も疎かにせず、ひたすら妓は芸事に打ち込む。その格式の高さは能を基本にした、祇園で主流の井上流の日舞に如実に表れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「祇園」の名は釈尊を尊崇するコーサラ国の長者が、釈尊に寄進した僧院「祇園精舎」に由来する。過去の良き伝統や秩序までが、次々変化し破壊されていくのが日本の現実である。しかし祇園精舎の鐘の音が、如何に諸行無常の響きを伝えようと、この祇園と言う風致地区の建造物だけにとどまらず、住む人の心までも貴重な文化遺産として、その遺伝子を後世までも変わる事なく、輪廻転生を繰り返す中でも、存続させて欲しいと心より願う。この街のこの界隈で、若い日の思い出を持ち得た幸いを、改めて感じる旅でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：祇園白川巽橋付近＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/23309917.html</link>
			<pubDate>Mon, 13 Nov 2006 18:18:19 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（６）…高瀬川の畔・私のベル エポック</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/24/23226024/img_0?1163289145&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
ベル　エポック。私はこの高瀬川の昔と変わらぬせせらぎを眺める度、この言葉が胸に広がる。これは第一次世界大戦の始まる直前のフランスが、先行き不安を覚えながらも、平和に過ごしたよき時代を表現した言葉である。良い時代と言う以上、その後の混乱した時代から振り返り、「古き良き時代」との思いを込めて言われたのだと私は思う。私がこの高瀬川の畔で過ごした、ほぼ中学に入学するまでの幼児期は、やはり更に年を経て知る事になるのだが、日本は国際的にも孤立への道を歩み、大陸での戦火は拡大を続けていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時折町内で出征兵士を見送る歓送会で、勇ましく万歳が叫ばれたり、大陸の戦地に赴く兵士の無事を祈り、街で婦人会が千人針を、道行く人に求めたりの風景は見られたものの、概して古都のど真ん中のこの高瀬川界隈は、至ってのんびりした平和の中に、町全体が包まれていた様に思う。森鴎外の「高瀬舟」で描かれている様な、重要な水運を担っていたこの川も、私の時代にはその役目を終え、そのつい先年まで川を舟が行き来していたとは考えられぬ浅瀬のせせらぎに、今と同じように川縁の柳並木が川面にその影を映していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学校に一人の同級生が居た。彼は学校より家に戻り、鞄を投げ捨てると直ぐ表へ飛び出した。その先は高瀬川。浅い川に入ると小魚すくいに熱中し、一人で黙々と日が暮れるまで興じた。戦後少し経って町で彼と会ったとき、彼は既に結婚しており、奥さんとささやかなおでん屋をひらいた事、更に彼は笛を吹き奥さんは琴を弾き、仕事の余暇を楽しんでいると、羨ましい小市民の幸せを嬉しそうに私に告げた。しかし生徒の頃駆けっこの早かった彼は、クラスのトップを切り、若くして彼岸へ駆け上った。高瀬川を見ると彼を想う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この川は木屋町の通りに沿って流れている。この辺り一帯が古都の中でも、取り分け閑雅な雰囲気を持っていたのは、その木屋町と賀茂川の間を走る、道幅一間半程の遊郭先斗町の存在が無縁ではない。この祇園と並ぶ日本有数の花柳の巷では、驚く程古風な伝統やしきたりが厳しく守られ、格式ある独特の色町情緒がつくられていた。「居続けの先斗町」と遊客から言われたこの町では、あくまで客の秘密は守られ、客も安心して連泊を重ねたという。敢えて言えばこの界隈一帯は、素人の立ち入りを遠慮さす雰囲気を持っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その地帯が今や一変してネオン立ち並ぶ、京都第一の歓楽街に変貌した。そうして深夜まで若い男女の群れのざわめきが、何時終わるともなく続いている。あの戦前の閑雅情誼の雰囲気は今何処。これが時代の流れ文明の進化というものだろうか。もう昔の住民は殆どこの街を離れ、人口減少により土佐屋敷跡の高瀬川沿いに建つ我が母校も、数年前廃校の憂き目を見た。木屋町を郊外の農家が京野菜を、大原女が積み立ての花を売り歩く姿や、高瀬川縁に出した床几での夕涼み風景が、つい先日の様に川面を見ていると浮かんでくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和十六年十二月八日は寒い朝だった。私は高瀬川沿いの小道で、近くの小父さん達と焚き火をしながら、ラジオから流れる開戦の報道を聞いた。その翌年春小学校を卒業する未だ幼かった私でも、この先の予想出来ぬ大きな不安に、胸騒ぎを覚えた記憶が残っている。木屋町を勇ましい軍歌を、ボリューム一杯に流しながら、何台もの車が通りすぎて行った。それは私のベル　エポック…旧きよき時代に別れを告げるフユネラルマーチでもあった。それから三年を経たずして私は海軍に入った。そうして始めて生まれ育った京都を離れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：昔と変わらぬ高瀬川のせせらぎ＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/23226024.html</link>
			<pubDate>Sun, 12 Nov 2006 08:52:25 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
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			<title>生きる…京都逍遙（５）…高台寺ねねさんと観音さん</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/39/23184539/img_0?1163223716&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
私が京都に住んでいた時、タクシーで帰宅する場合、運転手に告げる行き先は「高台寺」だった。車は東山通りを走り、やがて高台寺に向かって東進した場所で「ストップ」をかける。そこに約三十年以上暮らした我が家があった。家の斜め前方八坂の塔は目前である。この我が家から真っ直ぐ東への坂道を登れば、十分足らずで東山山中の殆ど人気無い深山的雰囲気が味わえる。逆に西へ祇園の花街を通り抜け、賀茂川に掛かる四条大橋を渡れば、やはり十分程で京都随一の繁華街四条河原町に至る。我が住まいは幽邃も殷賑も指呼の間の絶好地であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高台寺へはゆっくり歩いても五分とは掛からない。だから北政所豊臣のねねさんとは隣組の誼みである。不思議な縁でそれ以前木屋町三条に住んでいたときの隣組には、その太閤により切腹させられた関白秀次一門の菩提寺があった。勿論京都に住んでいる人は、何処で住もうと何らかの歴史を身近に感じて生きているものである。平安京千年の歴史を、京都人は殆どビジュアル感覚で、理解する事が出来るのは有り難い。日本歴史に現れる方々の京都の地名は、殆どそのまま現在も使われており、それを頭にイメージして歴史を学ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は三十余年高台寺の近くに住みながら、今回初めて寺内庭園を歩いた。そもそもこのお寺は観光寺院でもなかったし、訪う人とて殆ど無かったと思う。それがTVドラマの影響だろう、ねねさんブームに火がついた。想像以上の優雅な庭園に太閤未亡人の権勢と、時代を見通した彼女の心を見る思いがした。しかし庭園内各所で観光客をガイドする三人の女性アルバイトが、何れも中国人留学生であるのは、ねねさんもさぞ驚きだろう。京大や同志社大へ留学中の彼女らと、まさか高台寺の中で中国語の会話が出来るとは思わなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高台寺の前は以前一面の野原で、そこには群生した萩が咲き乱れ、秋の月見の名所であった事を知る人はもういない。今は紅葉時夜間寺内の庭園をライトアップし、観光客を集めているそうだ。昔虫の音を聞き萩を月光の下で愛でるのと、さてどちらが風流か。今はあの地帯は整備され、巨大な観音像が建立されたのは、戦後暫く経っての事だった。私は業務現役の頃、新幹線で大阪へ向かう車中から、又京都市中のビル屋上から鴨東を見るとき、東山の優しい山並みの麓に見える、八坂の塔と白亜の観音像に、私は旧居の面影を偲んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
観音さんの背後は東山三十六峰の一つ霊山（リョウゼン）である。ほぼ東山連山の中央に位置し、その名に相応しく明治に入り、山の中腹に招魂社として国に殉じた死者が祀られ、やがてそれが京都護国神社と改名された。大戦中は東山通りを走る市電が、この下を通る際車掌の合図で乗客は一斉に神社に向かって頭を下げた。神社を未だ少し上がった所に、やはり維新で散った志士達の墓所があり坂本龍馬達もここに眠る。この辺りから振り返って見下ろす京都市内の景色は抜群である。私は秘かに死後この周辺への散骨を望んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：東山をバックにした霊山観音像＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/23184539.html</link>
			<pubDate>Sat, 11 Nov 2006 14:41:56 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（４）…東山浄土道</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/64/23080264/img_0?1163067292&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
私の何時もの東山逍遥コースは、銀閣寺のひとつ手前のバス停「浄土寺」で降りる所から始まる。銀閣寺訪問は割愛しそのまま東へ道を取ると、通称「哲学の道」と称される小川沿いの桜並木道は直ぐである。桜満開の時期はその見事さで、整備された土手道も観光客で溢れんばかり、折角の風情がやや損なわれるのもやむをえないだろう。私にはむしろ半ば散り去った桜が、更に残花を散らしつつ、小川の水面を覆うばかりのピンクの花びらが、ゆっくり流れていくのを、たまらなく美しく感じた思い出がある。もう三十年も前の事か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川にかかる小橋を渡り竹薮の小道を入ると、「法然院」の可愛い茅葺門が奥床しい姿を見せ、それをくぐった途端、目の前左右に見事な掃き目で、砂絵を描いた盛り砂の山を目にした時、私は又ここへ帰ってきたという安堵感を覚えるから不思議である。谷崎潤一郎もやはりこの場所に心の安らぎを感じたからこそ、ここを永眠の墓所に決めたのだろう。自然石に「寂」とだけ彫られた彼の墓石は、私にとって嵯峨野落柿舎裏の竹薮に、これも小さな自然石に「去来」とだけ刻んだ俳人の墓とともに、私が最も愛し好きな墓石である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
川べりの並木道を更に南へ歩く。その道から西へ一筋入った所に、広大な敷地の「泉屋博古館」‥我々が通称「住友美術館」と呼んでいた住友コレクションも私には思い出深い。その美術館の白眉は中国殷周時代青銅器の世界的大コレクションである。私は二十年の中国ビジネスの間、各地の博物館を見たが、古代青銅器に関する限りこの住友コレクションに匹敵するものはなかった。私は青年期初めてこれを見たときBC2000年前後に作成されたこの精緻で驚くべき逸品の数々を見て、中国文明の奥深い歴史に強烈な印象を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「哲学の道」はやがて若王子で疎水と別れ永観堂に至る。ここも洛東屈指の紅葉の名所だが、私にとっては広大な寺の境内にある、幼稚園の出身者という思い出が深い。親も私の為良くぞこんな素晴らしい環境の場を選んでくれたものと、感謝の思いを強くする。その幼稚園は今では市内のセレブの子弟が通う、有名幼稚園になっているそうだが、昔はそうでもなかった事は、私でも入園できた事や、卒園後小学校で同窓になった園児仲間をみても推定できる。今は園の場所こそ同じだが、園舎は立派に改築されていたのは当然だろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時折園児は先生に引率され、お寺の本堂に参詣し、お坊さんの説教も聞かされた筈だが、余りその記憶はない。ご本尊で有名な「見返り阿弥陀仏」も当時拝観している筈だが、これも残念ながら覚えていない。今回始めてしっかりとお目にかかったが、「よぅ戻ってきたのか」と振り返られた思いがして、阿弥陀の慈悲を肌に感じた。広大な庭園の美しさは園児の頃の思い出と重なる。 特に弁天池の周辺は昔のままで、その辺には既に色づいた紅葉が、秋の全山錦秋を予感させると共に、七十年昔の大先輩を優しく歓迎してくれている様な気がした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永観堂を出て通常バス道へ戻り、そこから坂を上り黒谷さん「金戒光明寺」に詣でるのが私の自称「東山浄土道」である。私の旦那寺は黒谷さんの末寺であり、言わば大本山でもあるのだ。しかし少し歩き過ぎの体調を考慮し、更に昨年も詣った事を勝手な言い訳に、永観堂の一段高い奥の院から、直ぐそこに見える黒谷さんの、大きな伽藍に向かい念仏合掌した。そうしてそのまま南禅寺に向かった頃は、つるべ落としと言われる秋の日は西に傾き、巨大な山門も暮れかけた夕景の中に浮かんでいた。私の浄福漫歩の半日は終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：既に紅葉しだした永観堂弁天池＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/23080264.html</link>
			<pubDate>Thu, 09 Nov 2006 19:14:52 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（３）…加茂の河原に秋たけて</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/92/23023392/img_0?1162984155&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
東京と隅田川・大阪と淀川、この都会とそこを貫流する河川の景観を、京都と賀茂川の持つそれと対比すれば、自ずからその風情の差は誰の目にも歴然とするだろう。東京も最近日本橋界隈の掘り割りや橋の風情を、昔に戻そうとの機運が起こっている。隅田川も淀川も昔はそれなりの情緒を持っていた事は、江戸浮世絵などでも偲ばれる。それが都会の近代化と共に、河も都市機能の一環として大きく変化し昔の面影は今はない。京都賀茂川の川岸には昔ながらの柳桜の並木も見られ、川のせせらぎが川辺に憩う人の耳にやさしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東海道五十三次のターミナルポイント三条大橋。私の子供の頃この橋の改修作業中、豊臣慶長年銘入りの橋の礎石が発掘された。子供心にも私はその石に歴史の重さを感じた。現在舗石で整備された川岸も昔は文字通りの土手だったし、雑草が生い茂り子供達には格好のプレイグランドだった。我々はそこで大人に連れられて見た時代劇映画の影響で、専らチャンバラゴッコに興じた。鞍馬天狗、近藤勇が何時も子供達のヒーローだった。事実勤王と佐幕で彼等がその三条河原を血で染めた頃より、当時未だ六十年位しか経っていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
賀茂川には夏がよく似合う。七月に入り街に稽古する祇園囃子の音が流れる頃、鴨川西畔はお茶屋の床が組み立てられ賑わいを見せる。川から吹く天然冷房を頬に受けながら、気のおけない友と共に、時に妓らを交え盃を乾し歓談する一時は、正に人生至福の一刻と言えるだろう。川面に大文字の送り火を映し、過ぎゆく夏を惜しんだ夜の風情も、昔は京都人だけが味わう心の贅沢だった。川の東畔を走る京阪電車にも、現在は便利性を考え地下を走るのもやむを得ないが、今の川岸を輝かすネオンの灯より、趣があった様に思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和初期の風水害時、四条大橋も冠水する程、増水した賀茂川を目撃した。又橋の畔に建つ南座が火災を起こし、屋根部分の櫓から、盛んに火炎が吹き出していたのも、幼児の頃の記憶として今も遺っている。色々あった賀茂川の水は、今日もそうしてこれからも、変わることなく流れ続けていく。時代時代の人々の哀歓と歴史を映しながら…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。&lt;br /&gt;
　　　よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例しなし。&lt;br /&gt;
                                                                  　　　　　　　鴨長明　方丈記&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：河原の柳と三条大橋＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/23023392.html</link>
			<pubDate>Wed, 08 Nov 2006 20:09:15 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生きる…京都逍遙（２）…祖父と弘法さんと立体曼荼羅</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ad-7c/yuuan_nn/folder/743512/76/22961676/img_0?1162895756&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
「二十一日は天神さん、二十五日は弘法さん」京都人なら誰もが知っている縁日の日である。その日市民はぞろぞろ北野天満宮へ、九条東寺へと出かけて行き、ガラクタ市をあさったり、植木市をのぞいて廻る。テキ屋の顔だったと聞かされている私の祖父も、両日は決まって朝から出かけて行った。若い頃の祖父は血気盛んで、台所には常に樽酒を置き、朝から冷酒を呷っていたそうだが、その為四十歳台で中風になった。それでも七十過ぎで天寿を全うするまで、晩酌は続け不自由な体で杖を突きながら外出する人生を過ごした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その縁日には幼児だった私も何度か連れていかれた。その道すがら祖父は私に言った「わしは昔サーカスの興行を組んで、鴨緑江まで行った」今の中朝国境である。何故そんな事を私に言ったのか知る由もない。ただその言葉が人並みはずれて偉丈夫だった、祖父の面影と共に、私の記憶には鮮明に残っている。私が十五歳で海軍に入隊する日、家の前で町内の盛大な見送りを受け、私が元気に精一杯の挨拶を述べている時、家の奥から聞く事のなかった、祖父の激しい嗚咽の声を私ははっきり聞いた。祖父は終戦後まもなく死んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東寺といえば祖父と弘法さんの縁日が、連鎖のように浮かんでくるのだが、私の空海とのつながりは天台の開祖と教科書のみで知る所であった。その私が空海に対し目を見張る思いをさせたのは、司馬遼太郎著「空海の風景」である。日本歴史上最高の天才の名をあげるとすれば、それは空海であるという事も私ははじめて認識できた。そうして彼によりもたらされ、完成された日本密教が、そのルーツにおいてチベット仏教、更にヒンドゥーからバラモンの思想まで様々な深い因縁をもちながら、今日に及んでいる流れも私は知った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
空海が招来した密教仏具と同じ金剛杵の巨大な鋳造物が、ネパール首都カトマンズ最古の寺院スワヤンブナートにも置かれている。やはりその寺の本尊も大日如来である事も、東寺と同じである。その東寺の講堂は本尊を中心に、五如来五菩薩五王六天の計二十一体の仏像が、立体曼荼羅風に配置され、密教世界の宇宙空間を表現しているのは、正に壮観の一語に尽きる。私はその中の毘沙門天の逞しい立像に、昔の祖父の俤を思い浮かべた。講堂の外に出ると秋空に、日本一を誇り京都のシンボルでもある五重塔が輝いていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;i&gt;＜写真：東寺南門と五重塔＞&lt;/i&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/yuuan_nn/22961676.html</link>
			<pubDate>Tue, 07 Nov 2006 19:35:56 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
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