いちご畑よ永遠に

山とロックを愛する自由人・・旅・歴史・音楽

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三次市畠敷町の比叡尾(ひえび)山城跡。中央の山。平成25年11月1日(金)。10月18日に比熊山城へ登ったが、中世三次地方を領した国人領主三吉氏の本拠は400年の長きにわたり畠敷町の比叡尾山城だったこと、安芸高田の資料館で大規模な山城であったとの記事を読んだこと、備北のワニ料理が三次市の「むらたけ」で食べられることもあり、午後遅くからの見学を敢行した。
比叡尾山城は比熊山城の東約4劼曚匹飽銘屬垢襦

当日は東広島市の鷹ノ巣山に登り、世羅町の香遊温泉で入浴、世羅町甲山の今高野山などを見学して、15時30分頃甲山を出て、一路北進。吉舎を通過するときに歴民の道標を見たが、先の行程を見て寄り道は諦めた。吉舎は有力国人和智氏の本拠で、最後の当主和智誠春は毛利隆元毒殺の疑いをかけられて毛利元就に宮島で謀殺されてしまった。
16時25分頃、比叡尾山城の麓に到着。帰路は暗くなることを予想して、城跡周辺の写真を撮ることにした。

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岩屋寺山公園展望所から、南西の三次インター方面を眺める。古代郡衙跡の下本谷遺跡が正面の低い丘陵地の中にある。右端には馬洗川の屈曲部が輝く。
比叡尾山城跡の大体の位置は把握していたが、実際のアクセスはよく分からない。ナビでは岩屋寺付近に車道があり、道路にも岩屋寺山公園への案内があったので、山の中へ進んでみる。舗装道だが狭い。感心したのは、離合中間点Xmとの表示があり、珍しく親切。数か所もあるので、実際に対向車が来たら困惑するが、私の車のほかに走っている車は往復なかった。
結果的には、この道が比叡尾山城跡へのアクセス道路であった。途中、岩屋寺へと左に分岐する道があるが、実際にはこの道が比叡尾山城跡へ直進する道路であった。私は右の道路を進んで、終点らしき岩屋寺山公園展望所に到着。のちに、右の道でも比叡尾山城跡には着くと分かる。16時40分頃になり、日没も近く、城跡へは諦めかけたが、上段の平地に何やら碑がある。

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粟屋隆信公之墓の石碑。石碑には「比叡尾山城主十五世三吉廣高は、叔父である粟屋村勝山城主、三吉隆信(粟屋隆述)を天正年中、比叡尾城にて誘殺す。隆信、死に臨みて吾が魂魄ながくこの土に留まりて汝を滅ぼさんとの一念の為に、天正19年(1591)三吉氏、比叡尾城を廃して比熊山城に移りし後、僅か10年にして亡ぶという。南無観世音菩薩」とある。
粟屋隆信は高田郡粟屋町勝山城主。三吉致高の次男であったが叔父の粟屋(三吉)久高の養子となり粟屋姓を継いだ。兄の三吉隆亮から、息子三吉広高の後見人を任されていた。武術は素より硬骨練直な武人であった為、甥、広高に厳格な指導をし、
家臣の武士に対しても厳重な態度をとっていた。故に、周りの家臣に専横な態度だと思われ、城中でもいろいろ取沙汰されてします。その為隆信は、その不満により最後には註殺されてしまうのである。
系図では三吉隆亮の息子とされているが、事実は不明。この石碑の趣旨は粟屋隆信が祟って、三吉氏を没落させたということか。

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粟屋隆信公之墓。石碑の裏に自然石の墓がある。墓域へ上った時に、比叡尾山城跡への標識を見つけた。近そうな感じがしたので、歩いて先に進むと、舗装道路が見え、比叡尾山城主の墓所という標識地点に出た。

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比叡尾山城主の墓所への標識。左の丘上が光源寺跡で、三吉氏一族の墓がある。城跡を優先したので、結局見学しなかった。
日没が近く、登城口まで距離があると判断し、展望所まで徒歩で帰り、車でさきほどの道を進み、しばらくすると、左へ登城口に向かう分岐に出た。

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比叡尾山城跡の登城口。分岐から坂道を下ると僅かな距離で、車止めがあり、横に駐車スペースがあった。紛れもなく比叡尾山城跡に辿り着き、取りあえず感動した。右下には、濠のような池がある。近世の農業用ため池のようだ。


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車止めから遊歩道を下り、城跡の廓群取り付きにある案内図で概要を把握した。

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比叡尾山城探訪図。右下の麓から岩屋寺へ登る車道は二つに分かれるが、三吉氏一族の墓付近で合流、北上して、上の遊歩道入口に着く。遊歩道や城跡は整備されていて歩きやすい。展望も良いので、比熊山城よりも山城歩きに適している。それに、ここが三吉氏発祥の地であり、戦国時代末期まで400年の長きにわたり三次地方の中心地であったことになる。
本来の大手道は下の熊野神社から登ってくる。

三吉氏は鎌倉時代初め地頭職を得た佐々木秀綱が三吉氏と称したが、承久の変で敗れると代わりに藤原兼範が三吉に下向、その子兼宗が三吉大夫を称したという。「太平記」には 元弘3(1333)年の船上山合戦において後醍醐天皇に加勢したと記されている。室町時代備後の有力国人であった三吉氏は山名氏、大内氏、尼子氏の下を転々とした。所領は八万石に及んだという三吉隆亮のとき毛利氏と同盟・交戦を繰り返したが、天文22(1553)年、父致高とともに元就.隆元父子と参会して起誓文を提出し、以後毛利氏に属した。嫡子広高は天正19(1591)年、比熊山城を築いて移った。関ヶ原の戦いの敗戦後、毛利氏は防長へ移封されるが、広高は浪人し京都に上った。その後、広島藩主浅野氏に取り立てられ、子孫は広島藩士、長府藩士として続いた。

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北の丸から本丸へ至る。

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本丸。北端には物見台と思われる高台がある。

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本丸。主郭。

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本丸。東西40m、南北70m。この説明板では2550屐¬770坪とある。

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本丸から西の中国山地へ沈む落日がきれいであった。17時7分頃。

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二の丸と本丸の間には、門の跡が残り、石垣の痕跡も残っている。

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二の丸。900屐¬270坪とある。

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二の丸の南東端。熊野神社へ下る道の標識。下の三の丸との落差は7mある。

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堀切。遊歩道の途中にある。
17時20分頃、駐車場へ戻った。日没後の残照はあるが、暗い。車のライトを点けて麓へ下った。

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ワニ料理。ワニの刺身。三次市の「むらたけ総本家」にて。ワニといってもサメのことである。以前から知っていたが、食べるのは初めて。
三次・庄原など備北地方の伝統食で、秋から冬に食べられる。サメはアンモニア分が多く、日にちが経っても腐りにくく、色や下触りがビンチョウマグロに似ていることから、マグロの代用として島根県大田市辺りで漁獲されたものが、銀山街道を通じて運ばれたという。
たしかに、マグロ同様あっさりして触感がよかった。840円。

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ワニ料理。ワニ梅じそ巻き天ぷら。680円。ワニ料理はコースがあるほど多くの種類がある。天ぷらは刺身と同じく早く提供できるとのことで選択。値段も680円と安い。但し、刺身の方が美味い。
「むらたけ」ではワニ料理を冬だけでなく、年中提供している。場所が高架道路下の交差点にあり、駐車するのにも、出るのにもとまどった。店の雰囲気は高級店だった。

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