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14年前
私は34歳でした。神戸から離れて3年目のときでした。
神戸は私の『ふるさと』
このふるさとに 両親、兄弟、親戚、友人が、大切なひとがいっぱいいます。
神戸にこんな災害がくるとは・・・思いもしなかった 信じられない!
でも悪夢はおきていた。
私はこのころ 関東・千葉県市原市に住んでいました。
朝は5時起きで 主人5時半頃に仕事に送り出し その後子供たちを起こし学校に送り出し
その後自分もパート先に行く予定をしていた。いつものとおり・・・
この日主人を送り出して10分くらいして 会社主人からから電話がかかりました。
「車のラジオでへんなニュースしてた 東海地方で地震があったらしい!場所は特定されてへん!直ぐにおかあさんとこに連絡とれ!」と電話があり
電話をするけれど 繋がりません
テレビをつけると 見慣れた街が信じられない姿が目に入りました。
ふるえました。心臓がドキドキして・・・
みなさんもきっとご存知でしょう
TV画面はNHKの放送は、丁度私が通いなれた学校の直ぐ側がNHKの放送局でしたからとてもリアルな映像だったのです。
実家のおむかえの建物が何度も映るんです。倒壊し ぺっちゃんこです。
母に連絡が取れず頭の中を想像するのは 母の、父の、姉の、友人の悲しい姿でした。
当時主人は ゼネコンに勤務していました。
ですから 港 高速道路 橋 などの倒壊した姿もむなしい想いでみました。
「おとおうさんが 作った橋が 高速道路が 倒れた!そんなアホなこと!」と思いながらも
時間はたって 千葉はいつもの時間が流れているわけだから 子供を起こし学校に行かさねばならず
しかし子供たちも 私の泣く姿になにか感じたのか 静かに登校しました
当時姉だけは 携帯電話を持っていました。
通じたのは携帯電話でした。
姉は「 大丈夫よ! みんな無事やから! おかあちゃんも助け出したで!でももう実家はないで!帰ってきてもおとうちゃんとおかあちゃんの家ないねん!」と泣いていました。
母の声も聞けました。
そしてyukiちゃんにも連絡が取れました。新幹線の橋脚が落ちたと聞いてビックリしました。
従兄弟は怪我をし ヘリコプターで大阪の病院に搬送されましたが 足を骨折した程度で今は元気です。
主人の会社の上司の数名が奥様や家族と倒壊に見舞われ 命をおとされた方もいました。
私やyukiちゃん D-inoちゃん、テンコちゃんらと出逢い通った高校の校舎は火災に見舞われ倒壊しました。
私は 直ぐにもみんなの元へ行きたくて なんとか神戸に行けないかと地図を視なおしました。
東からがだめなら西からか 北側から車でか 舟はどう動いてるのか
しかし姉が 「あんたが来ても あんたの分の食料も確保せなあかんし 寝るとこもないしお風呂も入られへんよ!なんもないんよ!余震で又いつ大きいのが来るかわからへんからあんたは子供置いてここへきたらあかん!顔はみたいけど無理して来んといて!」
と言われて ちょっと冷静になりました。
姉の子供たちもその頃短大の姪っ子と高校生の甥っ子でした。
せめてと思い私は「なんとか 千葉に来させて!しばらく預かる!」と言いましたが
子供たちが「余震は恐いけど お父さんやお母さんと一緒がいい!」と言うのでその気持ちを尊重しました。
義兄のお父さん兄弟夫婦や 我が母 叔父等がどうにか半壊で住める状態の姉の家に集まり3LDKの家は満杯状態です。当然仕事がないから毎日男の方たちも家にいる
姉はヒステリー状態でした・・・無理もないね!
その後雨が降ったりでブルーシートがいる!洗濯ができないから着替えがない!反射板のストーブしか使えないなど
そこで主人が 会社にお願いしてくれて 私が買い揃えた物資を神戸支店のどなたかが(誰かわかれへん)届けてくれました。
姉が「S君と同じ作業服着た人がきたから 夢見てんのかと思った!嬉しかったわ!」と歓迎してくれまいした。
震災から2週間してようやく私も神戸に行けようになりました。
新大阪から天保山へ 港から舟で神戸港へ
物資をいいっぱい抱えた私はいかにも神戸に向うといった扮装に 新幹線では隣の席を開けて荷物をおかせてもらいました。親切なお兄さんでした。
神戸港に近づくと 港の大きな幾つもあるクレーンがあめのように折れ曲がり 防波堤はぐちゃぐちゃで
大きな船がいかりを降ろすことなんて出来ないのは素人の目にも解りました。
舟の窓から近づく神戸を見て涙が止まりませんでした。
姉と母と神戸の(モザイク)防波堤で抱き合って泣いたこと忘れません
モザイクから実家の近くまで車で普通なら30分以内ところが二時間はかかったかな?
私が運転しましたが 勝手知ったるわが町北野をぬけて灘区まで!
小さい声でしか言えない 逆走してん!だってあのままじゃ明日になっても着けへんしおトイレもいかれへんし・・・!時効にしてね
その頃父は 灘区の病院に入院中でした。喉頭がんで余命一ヶ月と言う頃でした。歳は64才
わがままな父は 「この病院おにぎりしか食べさせへんのや!」とぼやいていました。
事態が事態!仕方がないのだけど 自分の余命を解っていたのでせめて食べたいものを食べさせてやりたかったと今は思いますね!
モルヒネを使って痛みを取ることだけの処置で生きていました。
しかし私は震災が起きたことで 余命ひと月の父と1週間側にいることが出来ました。
臨終には間に合いませんでしたが 震災がなければ帰っていなかった時間でしたから私は結局父の病院に泊めていただき ひと時親子の時間が出来ました。
父は神戸の復興するする姿は見ずに 2月27日亡くなりました。
父はカメラが趣味でした。父のベットサイドの引き出しに入っていた写真は・・・
最後に撮った写真 “神戸”の震災直後の写真でした。
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個人的な震災当時の話題ではずかしいですが
今でも神戸に帰って震災を語らないときはないです。
実家の家は、一階部分が店で200キロある印刷機が店の外に飛び出していました。資材が全て落下し使い物になりませんでした。
母はそれでも毎日店に通い復元させました。
父の病院に泊っていた間 パジャマは着ずに靴下も洋服着たまま毎晩眠り リュックを枕元においてときおりくる余震感じていました。
姉たちと炊き出しをいただきに区役所まえに並びました。
物資が足らず北区まで買い出しにいきました。
いろんな人に助けてもらいました。
ありがとうございました。
2009/1/16(金) 午前 11:12 [ キュウ ]
親切な人に巡り逢えて良かったね
が止まっていたので、
で4駅を瓦礫の間をぬって、西宮北口まで行くので、食料を届けて欲しいと、主人の母にお願いしたら、「自分で買いに来い
」と
を切られた事がありました



私は
他人は、親切にしてくれるのに…って思った記憶があります
どんな状況でも、甘えてはイケなかったんですね
震災の事を思い出すと、今でも泣けてしまうんです
2009/1/16(金) 午後 0:45 [ やらともyuki ]
いつもは笑わせてくれるキュウちゃんに泣かされてしまいました。
まだ休憩中やのに泣き顔で仕事せなあかん。
あの体験は風化させてはいけないね。
お互い様の気持ちで優しい人になりたいです
ありがとう
2009/1/16(金) 午後 1:14 [ マリー ]
こんにちは。まったけと申します。阪神大震災の記事を修正投稿(本年、加わった犠牲者数の追加)を行ったところ、「こんな記事もあります。みんながどういう記事を書いているか見てみよう!」で紹介されましたのでトラックバックをさせていただきました。
2009/1/16(金) 午後 7:40
ランダムでお邪魔します<(_ _)>
キュウさんが昔お住まいだったところが文章からだいたい分かりました。近くに当時の仕事のお得意さんがあり、よく行っていたので強い印象があります。
市内がようやく落ち着いてくるのに3年くらいかかったと思いますが、みんな必死でしたよ、ほんと。
2009/1/17(土) 午前 10:15 [ ちゃろふ ]